nous letter
2008年9月 4日 11:45

きょうは、最近のある一日を日記風に書いてみよう(内輪向けなので、関心ない人はとばしてください)。

先月の29日(金)は、忙しなくはあったが、ちょっとプラトーな(ハイな)おもしろい一日だった。

午前中は、事務所でデスクワーク。企画書など資料作り、ネットでいくつか調べもの。

午後イチから大久保で、来年春に予定されている「恐竜展」のためのミーティング。
展示や図録の構成案などで意見を出し合う。その場で見せてもらった恐竜のラフスケッチ(線画)にいささか興奮。これは、ここ10年くらいの間に南半球で発掘された骨(骨格)に基づき「肉付け」された恐竜たちで、数匹は本邦初! つまり、ほとんど既存のイメージがないため、断片的な化石資料と論文から、学者とイラストレーター、そして編集者やデザイナーなどが議論しながら「絵」にしていく作業工程の一段階である。日本における恐竜学の第一人者T先生の情熱と気配りに、たびたびの感動。
しかし、展覧会の具体的全貌はまだまだ見えない。困難多く、道遠し、といった感じ。

16時ころ途中退席し、本郷へ向かう。アリストテレスと現代研究会(通称アリ研)のアラキトテレスこと荒木先生を迎えに行くためだ。

この日、荒木先生は翌日の早稲田大学でのシンポジウム出席のため、岡山から上京。投宿される本郷のホテルで落ちあい、夜のアリ研の親睦会(ノミ会)会場へお連れしなければならない。しかし、大雨の影響で新幹線に遅れが出ているらしい。携帯に参加者のひとりから「だいじょうぶだろうか、心配」と連絡がはいる。荒木先生は携帯を持っておらずこちらから連絡がとれないので、とにかく、待ち合わせ場所であるホテルまで行ってみるしかない。
昼食をとる時間がなかったので腹がへり、本郷三丁目駅そばのマックで120円のチーズバーガーを買って、パクつきながら徒歩でホテルへ向かう。
荒木先生は予定より遅れはしたが、なんとか会に間に合いそうな時間には到着。先生チェックイン後、急ぎタクシーで会場のある馬喰町へ向かう。秋葉原を通過したとき、どのあたりで「あの事件」が起きたのか?と、アラキトテレスが運転手さんに問いかける。

待ち合わせ場所である食とアートの空間「馬喰町ART+EAT(アートイート)」に出席者がほぼ集合した18時半ころ、近くの「佐原屋」という昭和のなつかしい風情をとどめた居酒屋へ移動。ちょうど「アートイート」では19時から、ピーター・ブルックの劇などで「知る人ぞ知る」音楽家・打楽器奏者の土取利行さんのセミナーがあり、気持ちは半分そっちにひかれはしたが、時間がかさなっていたのでしかたない。廊主であり友人の武さんとあいさつを交わし、8月の間ここで開催中の「ブナ帯文化」の展示に関して、林のり子さんご本人から簡単に解説をいただいて、そこそこに「アートイート」を失礼した次第。

佐原屋2階の広間に集ったのは、アリ研メンバー以外の出席者を含め男女9名。荒木座長、委員長ほか、アーティスト、出版人、編集者、ライター、舞台俳優、社会福祉活動家…、という顔ぶれ。はじめて顏を合わせた方々もいる。それぞれ職業、立場、年齢、性別は多様でありながら、ひとつのテーブルを囲むということでは、多すぎない人数。
話題はギリシャ悲劇からはじまり、『アンティゴネー』の政治学における重要性や、『バッカスの信女』等における「女の狂気」、マニアックとエンスージアスムのちがい、アリストテレスによるポイエーシスとミメーシスをどう理解するか、キューバという地の「小さな国の大きな奇跡」、自然とコミュニティ、民藝における実作者とコレクターの関係、地域活性化と芸能イベント、企画力とプロデュース力、来るべきインフレ社会等々、話はつきもせずブリコラージュして、どれもが興味深く、意義深いものだった。

2008年8月22日 11:34

 久方ぶりに、映画の話題。

 夏の休暇を一日しかとれず、旅行にも行けなくて(ここ何年も!)、なんやかんやの欲求不満がたまるきょうこのごろ。少し時間ができたのでせめて映画でも見たいと思い、夕方事務所を早めに出て銀座に向かった。
 出がけにネットで調べたら『ホウ・シャオシェンのレッドバルーン』の情報が出ていて、「これこれ!」とシネ・シャンテに参上した次第。タイミングよく、開映30分前。目の端に赤い風船が写ったポスターがちらつく。早めにいい席を確保し、自販機で買ったアクエリアスを飲みながら、予告編がはじまるまで本(池澤夏樹『光の指で触れよ』)を読んで時間をうめた。

 最初に同時上映の『白い馬』。すばらしい構図のモノクロ映像にひきこまれ、ラスト、波の彼方に消えていく馬と少年に涙しそうになったら、休憩をはさまずすぐに『赤い風船』がはじまった。ファーストシーンの階段の向こうに俯瞰した早朝のパリが見え、少年が猫と出会うカットからしてやはり見事で、しかもこれはカラー作品なのだけど、すぐにでてくる風船の赤がなんともいえず美しい赤で、これだけでも見に来た甲斐があったとうれしくなったのだけど、…だけどなのである。

 同じ「赤い風船=レッドバルーン」ではあるが、『ホウ・シャオシェンのレッドバルーン』は50年代のフランス映画をリメイクした作品であることだけ(それだけ)は知っていた。それで、ホウ・シャオシェンの新作!というだけでわきめもふらず映画館に飛び込んだのはよかったけど、スクリーンに映し出されているのは、リメイクというにはあまりに「昔のパリ」そのまんまなのである。あれっ…!?

 もうおわかりかと思うが、私が目にしているのは、ホウ・シャオシェンのリメイク版ではなくオリジナルの『赤い風船』だったのである。
 タイトルがいかにも昔風にデザインされたフランス語だし変だなとは思いつつも、そのことにはっきりと気づいたのははじまってから10分以上はたっていただろうか。じつは『ホウ・シャオシェンのレッドバルーン』は、同じ館ですでに何日か前に終映していたのである(帰りがけに売店の人に確かめて、やっとわかった)。

 この勘違いは、たんなる私のおっちょこちょいが原因だが、別に後悔はしていない。逆に、リメイク版よりも本編のほうを自分の意図を超えて先に見ることのできた幸運に感謝すべきだろう。そして、これを異種なものと感じさせず、むしろ一瞬にしろホウ・シャオシェンの映画と勘違いさせてしまう、これまでの彼の詩的な映像の力のすごさに感嘆を新たにする、といったらうがち過ぎだろうか。
 なんだか狐につままれたような気分だったけど、勘違いがなければこの『赤い風船』を見ることはなかったかもしれないし、これも不思議な映画的出会いだったような気もする。

 もちろんアルベール・ラモリス監督のこの『白い馬』(1954年)と『赤い風船』(1956年)は、映画であることだけを目的とした、永遠に回帰すべく映画の時間を生きる、ステキな贈り物のような映画作品だった(白い馬と赤い風船。これはひとつのエスプリが姿を変えただけの同じものだ)。私の記憶に永く残り続けるにちがいない。だからこそ、映画の精霊(そんなものがいればだけど)に感謝したい気持ちで、こんなことを記しておきたくもなったわけだ。時を超え、私のもとへ漂ってきた風船…。精霊からの贈り物は、誰かに引き継ぎ、手渡していくものなのだろう。

 オリジナルかリメイクかという区別はこの際不要だ。『ホウ・シャオシェンのレッドバルーン』を、見ることのできる日が楽しみである。“もう一度“、彼の映像に漂ってくる赤い風船を追いかけてみたい。

2008年7月29日 20:46

 前回のアール・ブリュットに多少関連もするのですが、最近ちょっとわけあって、ブリコラージュに関心が向いています。レヴィ=ストロースの『野生の思考』などを読み直したりしていますが、“原点”を再確認しつつも、改めてレヴィ=ストロース論をやろうというのではなく、やはり何か、このブリコラージュには現代を読み解き「なんとかする」ための、きっかけとなる視点があるように感じたりもするわけです。むろん、行き詰まってばかりいる自分をまず先に、なんとかしなければならないのですが。そのためにも……。

 そんな予感(?)に導かれるかのように、何人かのブリコルールを自称・他称する友人たちと「アリ研」ならぬ「ブリ研」をやってみようかという話が持ち上がっております。われわれには、文字通り「ありあわせ」のもの/ことから始めるしかないわけですが、それがまた、できあがりを事前に設定しない、プロセスのなかでその都度多様なかたちを作っていくみたいな、でも、けっして「なんでもあり」じゃないみたいな、“もうひとつ”の目で仕分け・分類してみようみたいな、そんなスリルがあって面白いんじゃないか。

 そのへんの感覚はまさに「具体の科学」といってもいいわけで、現代における具体の科学=ブリコラージュの知恵・方法をわれわれなりに再構成して、「現代人」であるわれわれの暮らし/人生に“意識的”に適用できないか(つまり、演繹できないか)。
 ブリコラージュを鍵にして、いま、無数にあるけどどれもが閉じてしまっている観のある未来へとつづく扉のなかから、その鍵に合う鍵穴のある扉をみつけ出したい。内田樹さん式にいえば、「あれはこれだったのか!」、じゃあ「これはそれなんだ!」みたいに、それぞれの生き方や仕事、創作活動における発見がそこに生まれることを願っているわけであります。

 と、まあ、とりとめもなく、きょうはこんなところですが、折りに触れ、またこのブログで具体的に報告、または何らかの展開ができることがあるかもしれません。期待しないで(?)お待ちください。あえてブリコラージュのレッテルを貼らずとも、それとなしに本サイトで実践されているかもしれませんよ。

 …ところで、いま、俄に雨が降り始め、稲妻が光りカミナリが轟いています。「神鳴り」と書きたくなるほど物凄い! あの人やこの人も、この音に脅えているのだろうか。「神話」がブリコラージュの思考形態であることに思いがいきますが、やはり、とりとめがなくなりそうなので。

2008年7月11日 10:35

080711.jpg 先日、「アール・ブリュット/交差する魂」展を見てきました。
 いま、この展覧会および個々の“作品”について論じる時間も力も私にはありません。しかし、「見た」ということだけはだれかにいっておきたい。うまくいえませんが、そんな気持ちにさせるなにかが、「アール・ブリュット」にはある気がします。芸術とは、そして表現とはなにか、また、それを展示し、私たちが見る、関係するとはどういうことか、多様でありながら根源的な問い/応えをひとつの物証としてつきつけられた展覧会だった、とのみ“とりあえず”記しておきます。
 仏語のアール・ブリュットとは「生(き)の芸術」とも訳され、英語ではアウトサイダー・アートと呼ばれますが、かといって私たちは簡単にアウトサイドに出ることなどできはしない。アウトサイドとインサイドがつながった、広大であいまいな境界線上に裸(生)で宙づりにされたまま、ある種の「震え」に身をゆだねつづけていくしかありません。(汐留ミュージアムで、7月20日まで)

NOUS Flash
戦略的思考を超えて
なんとも息苦しい、鬱々とした社会。いまの世の中を生きるうえで必要なのは、「幸福」について原点から考え直してみることではないか。2300年も前のアリストテレスの思考を、現代社会を視野に入れたうえで、平易に語り直す試みがこの「講演録」である。
nous_flash 戦略的思考を超えて【3】
NOUS Gallery
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