nous letter
2008年7月29日 20:46

 前回のアール・ブリュットに多少関連もするのですが、最近ちょっとわけあって、ブリコラージュに関心が向いています。レヴィ=ストロースの『野生の思考』などを読み直したりしていますが、“原点”を再確認しつつも、改めてレヴィ=ストロース論をやろうというのではなく、やはり何か、このブリコラージュには現代を読み解き「なんとかする」ための、きっかけとなる視点があるように感じたりもするわけです。むろん、行き詰まってばかりいる自分をまず先に、なんとかしなければならないのですが。そのためにも……。

 そんな予感(?)に導かれるかのように、何人かのブリコルールを自称・他称する友人たちと「アリ研」ならぬ「ブリ研」をやってみようかという話が持ち上がっております。われわれには、文字通り「ありあわせ」のもの/ことから始めるしかないわけですが、それがまた、できあがりを事前に設定しない、プロセスのなかでその都度多様なかたちを作っていくみたいな、でも、けっして「なんでもあり」じゃないみたいな、“もうひとつ”の目で仕分け・分類してみようみたいな、そんなスリルがあって面白いんじゃないか。

 そのへんの感覚はまさに「具体の科学」といってもいいわけで、現代における具体の科学=ブリコラージュの知恵・方法をわれわれなりに再構成して、「現代人」であるわれわれの暮らし/人生に“意識的”に適用できないか(つまり、演繹できないか)。
 ブリコラージュを鍵にして、いま、無数にあるけどどれもが閉じてしまっている観のある未来へとつづく扉のなかから、その鍵に合う鍵穴のある扉をみつけ出したい。内田樹さん式にいえば、「あれはこれだったのか!」、じゃあ「これはそれなんだ!」みたいに、それぞれの生き方や仕事、創作活動における発見がそこに生まれることを願っているわけであります。

 と、まあ、とりとめもなく、きょうはこんなところですが、折りに触れ、またこのブログで具体的に報告、または何らかの展開ができることがあるかもしれません。期待しないで(?)お待ちください。あえてブリコラージュのレッテルを貼らずとも、それとなしに本サイトで実践されているかもしれませんよ。

 …ところで、いま、俄に雨が降り始め、稲妻が光りカミナリが轟いています。「神鳴り」と書きたくなるほど物凄い! あの人やこの人も、この音に脅えているのだろうか。「神話」がブリコラージュの思考形態であることに思いがいきますが、やはり、とりとめがなくなりそうなので。

2008年7月11日 10:35

080711.jpg 先日、「アール・ブリュット/交差する魂」展を見てきました。
 いま、この展覧会および個々の“作品”について論じる時間も力も私にはありません。しかし、「見た」ということだけはだれかにいっておきたい。うまくいえませんが、そんな気持ちにさせるなにかが、「アール・ブリュット」にはある気がします。芸術とは、そして表現とはなにか、また、それを展示し、私たちが見る、関係するとはどういうことか、多様でありながら根源的な問い/応えをひとつの物証としてつきつけられた展覧会だった、とのみ“とりあえず”記しておきます。
 仏語のアール・ブリュットとは「生(き)の芸術」とも訳され、英語ではアウトサイダー・アートと呼ばれますが、かといって私たちは簡単にアウトサイドに出ることなどできはしない。アウトサイドとインサイドがつながった、広大であいまいな境界線上に裸(生)で宙づりにされたまま、ある種の「震え」に身をゆだねつづけていくしかありません。(汐留ミュージアムで、7月20日まで)

2008年7月 1日 11:03

 現在、不定期ではありますが、時間をみつけては本カフェ・ヌースの「カンガエドコロ」というコーナーに『幸福の行方』(荒木勝講演録)の連載をしています。人間にとってなにが幸福なのかといったことがなんとも見えづらいこの時代、幸福について語ろうとすることにはひじょうな困難と、ある種のむなしさがともないます。

 しかし、だからこそ、ときには真っ正面から幸福について語る試みが必要なのではないか。先日も秋葉原の「動機なき」無差別殺傷事件が起こり、さまざまなメディアをにぎわせていますが、TVや新聞などの報道を見ても、この事件をどう理解したらよいのか扱いに苦慮しているように感じられます。つまり従来のように誰が悪いのか、その犯人探しがうまくいかないからです。むろん犯行におよんだ本人が悪いことはいうまでもないことですが、なにが彼を犯行に駆り立てたのか一言で説明がつかない。加害者も別の面では被害者のひとりである、といった行き着く先のない堂々巡り。

 単純に、イライラがつのったあげく、暴力という手段でそれを発散したんだし、そのイライラは閉塞した社会が原因しているのだから社会が悪いといってみたところで、なにも変わらない。かえって同じ社会に生きる私たちのイライラがたまる一方です。
 犯行の動機となる理由はさまざまなことが複雑にもつれあっていて、そのもつれがうまくほどけず、丹念に配線し直すことに絶望し、一気にショートさせてしまう。それは根本的に、容疑者側も報道側も、そして私たちにも、認識と行動のあいだをつなぐ哲学(思考)、準拠すべき「幸福論」が欠落していることに根源的な理由があるような気がします。幸福「論」とまではいわずも、なにが幸福なのかといった幸福「観」の霧散。せいぜいが「お金」といった拠り所しか見出せない、幸福という価値観の貧困化。価値観の多様化どころか、価値という概念の喪失。

 むろん、答えはそう簡単にみつかるものではありません。焦りは短絡にむすびつく。『幸福の行方』は、アリストテレスの哲学を通して幸福とはなにか、その問いの立て方と、考え方の道筋といったものを、できるだけ平易に私たち自身の言葉で探ろうとするささやかな試みの一端です。
 アリストテレスと現代研究会のメンバーからの投稿もいくつかあります。上のメニュー・バーの「カンガエドコロ」をクリックのうえ、1人でも2人でも多くの方に読んでいただければうれしいです。

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石井 泉/いしい いずみ
東京出身。明治学院大学文学部フランス文学科卒。長きにわたり、出版社、編集プロダクションに在籍、主に科学・芸術関係の雑誌、書籍編集およびデザイン、公共施設の展示プランニング等を手がける。2006年に独立し、「エディション・ヌース」として事務所を開設。科学・芸術・哲学の領域を、横断的な視点で編集・表現していく感性と技を模索しつづけている。最近は依頼に応じてエッセイの執筆なども行う。