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    <title>アリストテレスと現代研究会</title>
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    <updated>2010-06-08T07:18:02Z</updated>
    
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    <title>戦略的思考を超えて［3-1］</title>
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    <published>2008-08-05T08:12:05Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:18:02Z</updated>

    <summary>再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
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        <category term="戦略的思考を超えて3" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="araki080805.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/a-ken/images/araki080805.jpg" width="429" height="381" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span>

<div class="sub2">--　アリストテレスと現代　--</div>
　この研究会（アリストテレスと現代研究会、通称アリ研）も、はじめてから3年ほどがたちます。何度か講義や勉強会を行ってきましたが、私としては毎回が驚きの連続だったというのが率直な気持です。

<p>　欧米諸国では、社会で指導的立場にある人たちは、プラトンやアリストテレスの基本的な著作は読んでいて、だいたいの知識はもっている。また、専門家ではない一般の人々のなかにも、ギリシャ哲学に対する関心をもち、基礎的素養を備えている人々は多い。<br />
　しかし、日本においては、これまでにお話したように翻訳文のとっつきにくさなど諸々の事情があることはあるのですが、ほとんどといっていいほど、その哲学になじみがない。とくにアリストテレスはそうです。</p>

<p>　だから何が驚きだったかというと、このアリ研、そしてアリ研の個々のメンバーを通じて伝わってくる自分自身や社会に対する問題意識がじつに切実なものであり、しかもアリストテレスが言わんとしていた哲学的思考と根本のところでつながっている。そういう思いが回を追うごとに強まり、大袈裟ですがある種の衝撃さえ感じるのです。</p>

<p>　世間知らずでとおっている私ですが（苦笑）、じつは現在、私の所属している大学で、企業でいうところの管理職めいたことをやっていて、「学問」研究とはまた別次元の忙しない状況がつづいています。本音をいうとひとりでどこかにひきこもりたい（笑）気持でいっぱいなのですが、そうもいかないし、逆にいうと社会の情勢がかなり具体的に"身にしみて"わかってくる面があります。この管理職のあいまに、その悩みとこういう会やメールでやりとりされる問題がリンクして、みなさんの問題提起にどう応えたらいいのかということを、いつもどこにいても、考えざるをえないはめに陥っているというのが実情なのです。</p>

<p>　さて、きょうは「幸福論」がテーマです。勉強会のための合宿とは別に、これまで2回講演という形で話をしてきましたが、メンバーの人からの提案もあり、ひとつの締めくくりとして今回は幸福とは何かといったことを主題に話してみたいと思います。</p>

<p>　先に結論めいたことを言いますと、この講演の準備をしている過程でだんだん自分の考えもふくらみ発展してきまして、結局のところ幸福というのは「宗教」の問題と深く関わってくるものであるとの思いが強くなりました。ただ急いで付け加えますが、この場合の宗教とは、なにか具体的な教団、たとえばかつてのオウム真理教の社会的問題とかをここでまた取り上げるということではなくて、もっと広く一般的な意味での「宗教性」あるいは「聖なる次元」といった範疇でこの言葉を使いますので、その旨をご了解いただきたい。</p>

<p>　まず大きく言って、いまなぜ幸福論が問題となるのかというあたりから簡単に話していきたいと思います。</p>

<p>　日本の社会に欧米流の経営方式がはいってきて、また、いわゆるグローバル資本主義・市場経済に席捲される世の中になって、もう十年以上がたちます。勝ち組・負け組などという言葉が流行り、あれよあれよという間に、格差社会などといわれるようになった。閉塞感といった言葉も同様です。いつの時代でも社会はさまざまな問題を抱えているわけですが、このような言葉は、たしかにこれまで一般ではあまり使われることはなかった。</p>

<p>　ただ言葉として使われることが多くなったというだけでなく、じっさいに、日本の社会はこの十数年くらいの間に、じつに大きな問題を抱えるようになったということを私も実感しております。しかも、過去に類例をみない、今後の予測もできないような問題や課題が日々表面化しているようにも感じます。<br />
　人口1億2千万、成熟して豊かになったというこの国で、毎年3万人もの人が自殺に追い込まれている。交通事故死よりも多いし、自殺者のなかには、働き盛りの人が多くの数をしめている。端的にいって、問題解決の糸口を見出すことができず、あるいは問題の元になる責任の所在さえ明確にできずに、絶望の淵に追いやられた結果の死が増えているのです。<br />
　「自分で死ぬのが悪い、自己責任だ」といって済ませられることではないはずです。こういう社会でなければ防ぐことのできた自殺は、想像以上に多いのではないでしょうか。<br />
　<br />
　以前に、このアリ研メンバーになった友人とも深刻に議論したことがあります。その友人は中小企業の経営者を相手に、さまざまな相談に応じ、解決策をいっしょになって考えるコンサルタントのお仕事をしている人です。<br />
　いろいろな話題が出て同感することが多かったのですが、そのなかでもとくに、日本の銀行は怠慢であるということでは、まったく意見が一致しました。まともに相手を調査せずに担保だけとって、あとは知らん顔をきめこむ「左ウチワ」の金融機関は許し難いということです。<br />
　そればかりではなく、ひじょうに大きな、たとえば一方に莫大な収益をあげている巨大企業があって、他方には小さな町工場や商店のような零細企業がある。その零細な企業に、まったくもって理不尽な要求をつきつけてくる大会社があるわけです。かなり単純化していっていますが、そういう状況のなかで誠実に汗水たらして働いたあげく、自ら命を絶つ人があとをたたない。</p>

<p>　私自身も管理職になってみて、その辛さを日々しみじみと味わっている現状があるので、企業の管理職の立場にある人の苦悩はある程度推測がつきます。たとえばある会社の部長が理不尽とわかってはいても、部下に会社の命令を指示しなければならないという状況はよくあります。部下である相手がどんなに弱い立場にある場合でも、「やれ！」という命令をしなければならず、なんとも嫌な気分になるわけです。"上"からの命令は、管理職だろうがその部下だろうが、いわれたらやらざるをえない。まじめな人ほど心の葛藤にさいなまれ、しかも報われることが少ない。<br />
　その結果、日本の社会のなかに「鬱病」が蔓延している状況が生じている。</p>

<p>　こういう企業社会における鬱病は、日本だけではなくアメリカなどにも相当に広がっているようです。鬱から自殺にいたる現象が、大きな波のようにアメリカの社会を襲っているのです。<br />
　そういうなかで、日本でも対処療法的に鬱病やそれにまつわる自殺を防ごうという社会の自己防衛がはじまっている。自殺防止法が制定されたり、NPOなどが自殺を未然に防ぐための活動を行うようになった。精神医学界にも、さまざまな対応策が問われている。</p>

<div class="sub2">--　「美しさ」と差別　--</div>

<p>　別の似たような社会現象として「いじめ」の問題はどうでしょう。こどもたちの自殺も増えている。これもその原因をひとつのことだけに限定できない、複雑な要因がもつれあって起こることですが、些細なことながら私が最近とくに気になっていることからアプローチしてみましょう。</p>

<p>　それは大学の学生たちと話をしていて気づいたことなのですが、いじめというか差別の問題としての「美醜」といったことなのです。人が美醜のことを気にするのはあたりまえのことです。誰だって自分の"見た目"が醜いよりは美しいと言われたい。しかし、ことに若い人たちにとっては、自分が美しいか醜いかが、いまきわめて切実な関心事となっている。他人が自分をどのように見るかは誰だって気になることですが、醜いといわれることが劣等感の範囲にとどまっているならまだしも、差別やいじめにつながるから美しくなりたいという一種の強迫観念と化しているような気がする。しかも、その「美しさ」は皆と同じ美しさでなければならないような均一的な表面のみの美しさなわけです。なにが真の美しさかという観点は、まったく抜け落ちている。</p>

<p>　そこに企業が目をつける。先日もテレビで報道されていましたが、「美の世界の争奪戦」というようなタイトルで、日本の大手化粧品会社が中国や東南アジアという巨大マーケットに進出し、「美」の市場が急成長を遂げている。お金さえ出せば、誰でも簡単に美しくなれるというわけです。グローバル資本主義の流れといってしまえばそれまでですが、それは結局のところ、そこに群がっていくわれわれ人間の問題としてとらえたとき、美醜と幸福の関係、美しくないと幸せの切符を手に入れることができないのではないかという不安に関わってくる。<br />
　<br />
　些細なことといいましたが、これは考えてみると人間存在の根源的な部分に、ひじょうに深く関わってくる重要な問題です。ご承知だと思いますが、仏教には阿弥陀仏の48願というのがある。法蔵菩薩が仏になるために48の願をかけるのだけど、そのひとつに、この世の中に生きているありとあらゆる人から醜さがなくなるようにという祈願がある。それが叶ったときにこそ、悟りを得て仏になることができる----。そういう話ですが、人類にとっては大昔から美醜をめぐる問題が人間の幸福にとって大きな要素になっているのがよくわかると思います。</p>

<p>　日本やアジアばかりでなく、もちろん古くからヨーロッパでもそうでして、現代のわれわれが見ることのできるギリシャ的彫刻の美の裏に、美しくないとされていた人たちの悩みが隠されている。そういう人々はなにかにつけ発言権を奪われていたり、差別されたりで、「生きにくさ」という問題にかかわってくる。じっさい、美しい（とされる）人は貴族的な処遇を受け、身分を保障されるなどの実情があったし、現にいまでも似たようなことはあるわけです。つまり、そういう美醜をめぐる問題が幸、不幸を分ける大きな要因になるだろうということが一方ではたしかに考えられるのです。</p>

<p>　ですから、いま私たちが直面している幸、不幸の諸相は、ある意味で現代特有の問題でもあるけど、人類はじまって以来の基本問題に立ち返ってみることで、ある程度の整理と理解ができるのではないかとも感じています。幸福とは何かということがひじょうに見えづらい時代に、大昔にアリストテレスの考えたことが、私たちの生き方になんらかのヒントをあたえてくれるのではないか。そんな期待もこめて、こうやってお話をさせてもらっているわけです。</p>

<div class="sub2">--　スピリチュアルなものと倫理　--</div>

<p>　現代にかぎらず、不幸な時代には、不幸な状態から抜け出して幸福になりたいという人たちのなかに「癒し」とかスピリチュアルなものに憧れるという傾向が強まります。つまり、いうまでもなく幸福には貧富や美醜の問題など物質的・肉体的な面が大きく影響しますが、しかし、その物質面での「豊かさ」と心の平安とは必ずしも一致しない。幸福にはその両面が欠かせない。</p>

<p>　たとえば仏教にも幸福の反対の苦しみ、不幸な状態からの脱却を仏の救いにもとめ、悟りの境地にいたることができれば幸福になることができるという考え方がある。<br />
　また、キリスト教では「心の貧しき者に幸あれ」という言葉がマタイ伝などに見られるように、人々に幸福をあたえるのが本当の宗教であるという呼びかけがある。だから世の中の不幸が拡大すればするほど、当然のように幸福をあたえると呼びかける宗教に多くの人が頼るようになってきます。「幸福の科学」という名称が象徴するように、それを当て込んだ勧誘が盛んになり入信する人たちも増えることになる。だから、そのことの是非は別にしても、やはり幸福論はどこかで宗教的な救いといった問題と深く関わってくるといえるだろうと思うのです。<br />
　この場合の科学という単語は、宗教と同義につかわれている。科学も、人間を幸福に導くマジカルな宗教的救いをもたらすものとして、現代人の願望が投影されているのですね。</p>

<p>　そんなことをなんとはなしに考えていたら、ある日、偶然に映画『天国と地獄』をリメイクしたTVドラマを見たんです。これは幸福論を考える意味でもとってもおもしろかったのですが、黒澤明の本編を思い出すと同時に、あわててエド・マクベインの原作『キングの身代金』も読んでみました。</p>

<p>　この作品と幸福論にどんな関係があるのか。それは、簡単にいうと、いついかなる災難がわれわれに降りかかってくるか予想はできない。偶然に左右される人間の生活のなかで、ある日突然、思いもしなかった事態が起き、未来の明暗をわける重要な岐路に立たされたとき、どっちをとるかは誰しも"自分の問題"として考えざるをえないということなのです。</p>

<p>　『天国と地獄』では、ある裕福な会社社長の息子が誘拐されたという事件が発端になるのだけど、それがじつは社長の子ではなく、その社長のおかかえ運転手の息子だったということが明らかになる。それでその子どもの命と引き替えに身代金が要求されるのですが、社長は自分が社運をかけ苦労して得たカネを、雇い人である運転手とその息子のためにはたいてしまうことができるか。自分の幸福を犠牲にして、他者のためにつくせるかといった究極的な問いが、そこに問われているわけです。</p>

<p>　そのとき私が思ったのは、幸福とか不幸とかにむすびつく問題を考えたときに、たとえばお釈迦さんとかキリストに"すべて"をゆだねて、救いのために自己判断を放棄してしまうというかたちで、私たちの生活を処理していいのかということです。いかなる事態になった場合でもなにをどういうふうに選択していったらよいかという人間自身のある種倫理的な問題として、幸福の問題を考えていく必要があるのではないかと痛感しました。</p>

<p>　まあ、このようなことは改めて言うまでもないことではあるのですが、ひとつの問題の立て方として、確認の意味で述べておきたいところです。みんな誰だって幸福になりたい。しかし、いや、だからといったほうがよいか、神仏にすがるということだけですぐさま幸福が到来するわけじゃない。<br />
　幸福になるために、人間のもっているあらゆる力を行使して"自分で"選択していくにはどうすればよいかを考えていくということが、まずは重要な幸福論の切り口だと思います。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat5/index_2.html">[3-2]へ続く</a></p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［3-2］</title>
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    <published>2008-08-05T07:27:04Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:18:41Z</updated>

    <summary>再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>
<div class="sub2">--　「幸福」という言葉をめぐって　--</div>

<p>　では、何をどのように選択するか。そのためには、そもそも幸福とはなにかということから考えていかねばならないでしょう。</p>

<p>　幸福というのは万人万様で、主観的なものだし、人によって幸福の感じ方は違うのではないかという考え方はたしかに一面では正しいでしょう。私とあなたの幸福にたいする価値観は同一ではないし、みながそれぞれ各自の幸福を追求しているのだから、幸福について論じることに意味はないのではないかというわけです。<br />
　ところが、ある意味では不思議なことなのですが、万人が万様に幸福を追求しているのだけど、そこに万人に共通する、なにかしら普遍的な、幸福の根拠といったものがあり、「私とあなた」の間で幸福をめぐるコミュニケーションがちゃんと成り立つことも事実なのです。もし、私の幸福とあなたの幸福がまったく異なるものでなんの共通性ももたないものであれば、互いの話を理解することすらできない。<br />
　<br />
　われわれは日ごろから、ちょっとした会話の節々に「あなたはいま幸福ですか？」とか「幸せになってね」などという言葉をはさみ、互いに気持ちや情報の交換をしあっているわけです。そしてそこに、幸福とは何かということがおぼろげながらにしろ、一定の共通理解がなされている。そうでなければ幸福という言葉で会話は成り立たなくなってしまう。</p>

<p>　たしかに現代社会はこの幸福の意味、何が幸福かといったことがひじょうにわかりにくくなっていることは事実でしょう。個人の嗜好や主観を超えた幸福はあるはずなのですが、共通して語れる幸福の像（イメージ）がどんどんぼやけてきていて、幸福を語り合うことが困難な状況になってきている。<br />
　だから、幸福なんて個々の価値観が決めることで、幸福と感じるかどうかは主観の問題なのだから、そんなことは意味がないという思考に陥りがちなのですね。でも、いまいったように、そんなことはないのです。むしろ、いまの世の中では「幸福論」そのものが成りたちにくいという、そのことを問題にすべきでしょう。ですから、まず、私たちが幸福というものを思い描くとき、一般的なあり方として幸福とはなんであるかを考えていきたいと思っているわけです。</p>

<p>　「幸福」という言葉からはいってみましょう。<br />
　幸福の「幸」という漢字は、『説文解字』という中国の漢代にできた字典によりますと、吉にして凶をまぬがれる、とか、夭死（わかじに）をまぬがれる、という基本的理解があるのですが、もともと人偏のつく「倖」と同じ意味合いがあったとされています。僥倖といいますね。僥とは人の累々たる様を示していますので、幸＝倖とは人々が群れ集い、活発な集団生活がそこにあること、そしてその一員であることが前提になっているのです。ちょっと拡大解釈しますと、他者とともにあることが幸福の根拠のひとつであることになります。</p>

<p>　また幸福の「幸」は、和語として「しあわせ」とも読みます（「幸福」と2文字で書いても「しあわせ」と音読みすることがあります）。しかし「しあわせ」というのは、もともと「幸」の読み方ではなく、「し（仕）」「あわす（合わす）」、つまり「仕合わせ」からきた言葉です。<br />
　仕合わせとは、「仕」「合わす」ですから、出合いとかめぐり合いといったニュアンスをもっていて、事の成り行きがうまくいくという意味合いでつかわれるのです。つまり、原因はよくわからずとも、なにか事柄がうまく組み合わさって、よいかたちで事がはこぶことが「仕合わせ」です。仕合わせよし、仕合わせ悪し、といった用法もある。<br />
　なお、松尾芭蕉の『奥の細道』に、「この道必ず不用（不都合）のことあり、恙のう送り参らせて仕合わせしたり」という文があるのはご存知かと思います。</p>

<p>　英語のhappyという単語にも似たような意味合いがあります。happyのhapには、そもそも運とか運命という語義がある。ドイツ語のgluckも同様で、幸運とか幸福を指す言葉には、洋の東西を問わず似たような意味が含まれています。このような言葉で私たちが思い浮かべることには、ひじょうに重なる部分が多く、万国共通に通じ合うものがあるということですね。</p>

<p>　もう少しヨーロッパ人のものの考え方の骨格をつくってきたギリシャ語、ラテン語の世界をのぞいてみましょう。<br />
　ラテン語には幸福を指す言葉のひとつにベアティチュド（beatitudo）というのがあります。これには、祝福されたとか恵まれたという意味合いがあります。誰かから祝福を受けることが幸福の大きな要素なんですね。<br />
　ギリシャ語でいえば、幸福を表す言葉にふたつあります。エウダイモーニア（eudaimonia）とマカリオン（makarion）。さきほど少し触れたマタイ伝の「心の貧しき者に幸いなれ」とか「義に飢え渇く者よ幸いなれ」とかの「幸い」というのは、マカリオンです。</p>

<p>　マカリオンの意味は、喜びが満ちあふれる「幸せいっぱい」というイメージに近い状態の幸福です。マカリオンのマ（ma）は接頭語で、カリオン（karion）はカリウス（xarius）からきた言葉でしょう。カリウスは快楽の「快」、要するに心の奥底から湧き出るような喜びを指していて、アリストテレスも『ニコマコス倫理学』のある部分で、それが幸福のひとつの現れであると言っています。</p>

<p>　ではエウダイモーニアとはどんな幸福の様態を指しているのか。ギリシャの人々は自分たちにとっていちばんの幸福を指すときにエウダイモーニアという言葉をつかうのですが、この言葉はきょうのこの幸福論のキーワードのひとつでもあります。<br />
　エウダイモーニアのエウ（eu）とは英語でいうウェル（well）、つまり「よい（良い、善い）」という意味です。ダイモーニアはダイモーン（daimon）、すなわち神霊ですね。要するにエウダイモーニアには、「神霊のよき導き」という意味合いがあるのです。<br />
　ダイモーン（神霊）とは何かとなるとひじょうにむずかしい話になるのだけど、このさいは取りあえず、万物の背後にあり万物を動かしている目にみえない力とでもとらえておいてください。そういう力によく導かれた状態が真の幸福なんだということを言っているわけです。</p>

<div class="sub2">--　幸福のふたつの相　--</div>

<p>　きわめて長い時間、数千年といっていいと思いますけど、人類の長い暮らしのなかで、幸福とかhappyという言葉で呼ぶようになった人間が追いもとめるある状態は、大きくいってふたとおりの見方ができるのではないでしょうか。</p>

<p>　ひとつは、幸福とは自分の力を超えた何か神的なものと触れ合うこと。<br />
　その神的なものというのは、ヨーロッパや日本、あるいは中国といった国や民族を超え、また、固有の宗教を超えた、人間の力がおよばぬ力である、と。それが神的なものでして、たとえばこの場合、神（シン、カミ）とは中国最古の辞書『説文解字』にもあるように雷（カミナリ、神鳴り）の稲妻からきているという考え方があります。つまり、目には見えないけれど、あるとき、あるものを発動する超自然的な力。<br />
　それは日本語（和語）のカミという、万葉集とか古事記とかに出てくる言葉についての本居宣長の説も同様であって、人間個人の思惑や力を超えた不思議なパワーのことをカミ（神）という言葉で表していたのでしょう。<br />
　そういう点では、古代ギリシャのダイモーンにも通じるところがある。自己という人間個人を超えた何か神的なものの導きと関連している事柄であることが、幸福という言葉のなかに大きな要素として含まれているのです。</p>

<p>　もうひとつは、説明するまでもなく、その神的なものの導きとは別に、人間の生活のなかでなんらかの快適で喜びにあふれるような状態を、長い人類の歴史をとおして「幸福」として呼んできたといえるでしょう。<br />
　しかし、このふたつの面だけが幸福のすべてなのだろうか。もちろん、ともに欠くことのできない幸福の要素だけど、どうもこれだけでは幸福の全体像というか、真の姿を取り逃がしてしまうのではないかと、いまの社会とアリストテレスの考え方を両目で同時に見ながら最近よく考えるんです。</p>

<p>　わかりやすくいうと、たとえば日本国憲法13条の基本的人権の項目。これによると誰でもその個人の生命の安全と、自由、幸福を追求する権利があり、保証されていると記されている。つまり、幸福は個人の欲求に基づいて追求できる事柄であるということが、はっきりと述べられているんですね。このことからもいえるように、ことに近代以降は、幸福は個人である自分の力によって獲得できるものとする考え方が共通の理解として大勢をしめている。<br />
　それはそれで私としても異存はありませんが、しかし肝心な問題は、ではそのように考えられている幸福を私たちはどうやったらものにすることができるのかということですよね。方法論の問題だけではありません。何が真の幸福なのか、そしてそれをどうやってつかむのか、おそらくその両方が"同時に"必要なのです。アリストテレスに則して考えてみましょう。</p>

<p>　アリストテレスはいろいろなところで幸福について書いていますが、いちばん力をいれて述べていると思われるのは『ニコマコス倫理学』という倫理に関する本です。日本語訳の問題もあって、簡単にさっと読めるような代物でないのが悩ましいところですが、できるだけ多くに人に読んでもらいたい、たいへんすばらしい論究がなされている書物です。私自身、あと20年くらいのうちには、なんとか読みやすいものにしたいと思っているもののひとつです。一見してイメージがとらえにくい消化しづらい文ですが、私が試みに訳したところを読んでみましょう。第1巻第9章からです。ちょっと長いですが、まず、全文を。</p>

<p>　「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福（エウダイモーニア）こそ神与のもの（テオスドートン）とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間の持つあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。しかし、こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう。しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性（アレテー＝徳）とかなんらかの学習（マセーシス）や訓練（アスケーシス）によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる。まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福（マカリオン）のものであると思われる。<br />
　さて、幸福は、広く人々に共通に行き渡るものである。事実、卓越性にたいして不具合ではない全ての人は、何らかの学習と心遣いによって幸福を獲得することができるであろう。またこのような仕方で幸福であるのは、運（テュケー）によって幸福であるのにまさるものだとするならば、やはりそのような仕方で人は幸福になりうるものであるとするのが至当であろう。というのは、自然に即してある物は、可能なかぎり美しくあるものとして、そのような本性をもっており、技芸に基づくものも、その他いかなる因に基づくものも、これと同様なものである以上、最善の因によるものはいっそう美しいものであろうからである。もっとも重大でもっとも美しいものを運に委ねることはあまりにも不当であろう。<br />
　　この問題にたいしては、われわれの議論からも明白になるだろう。すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動（エネルゲイア）である。」《1099b11-27》</p>

<div class="sub2">--　運と卓越性　--</div>

<p>　もう一度、今度はいくつか文節を区切って読んでみます。</p>

<p>　「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福（エウダイモーニア）こそ神与のもの（テオスドートン）とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間のもつあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。しかし、こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう」</p>

<p>　アリストテレスにおいても、幸福というものは人間ひとりの力によって獲得できるものではない、といっているのですね。だけど、幸福が人間のもつもののなかで最善のものだ、と。<br />
　しかし、人間に最高の贈り物を与えるのがなぜ神なのか。「こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう」。別の考察の機会というのは、アリストテレスが書いた超難解な『形而上学』という書を指していると思われます。</p>

<p>　「しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性（アレテー＝徳）とか、なんらかの学習（マセーシス）や訓練（アスケーシス）によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる」</p>

<p>　これは少し難しいですね。たとえ幸福が神様によって与えられるものではなくて、卓越性とか徳と訳されることが多い人間がもっているアレテーとか、あるいは学習したり訓練して自分自身で一生懸命に努力して幸福が獲得できたとしても、それは神的なものに属するとされている。ここでまた、神的とはどういうことかという問題がでてくる。矛盾したような言い方だから、下手な洒落だけど、「アレー？」って誰もが思いますよね（笑）。<br />
　自分自身が個人である人間としての努力のすえに獲得するのであれば、それは人間的なものであって神的なものにはならないんじゃないか、と。ところが、それはもっとも神的なものに属すると彼はいっている。ここではその理由を述べていないけど、はっきりと言い切っています。つづけましょう。　</p>

<p>　「まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福（マカリオン）のものであると思われる」</p>

<p>　人間が必死になって身につけた卓越性（徳）の力によって得たものは、自分自身の努力によって得たものだから人間のものであるということを否定しているわけではない。人間的なものであるという"だけでなく"、神的なものでもあるといっているのです。だからこそそれはマカリオン、すなわち至福のものである、ということになる。</p>

<p>　「さて、幸福は、広く人々に共通に行き渡るものである。事実、卓越性にたいして不具合ではない全ての人は、何らかの学習と心遣いによって幸福を獲得することができるであろう」</p>

<p>　幸福は万人が追求しているものです。じっさい、努力の結果、自分が幸福であると感じている人も多くいるでしょう。「卓越性にたいして不具合ではない」というのは、ちょっと固い言い方で申し訳ないけど、要するに、どんな人間であっても、どこかに秀でた面をもち、なにか優れた力をもっているはずです。だから、人間であれば誰でも自分の力を発揮できさえすれば、なにかしらの幸福感を得ることができるのは確かです。先にも述べてある学習とか訓練、あるいは心遣いによって、幸福を獲得することができるわけです。学習とは自分が身につけた能力と広くとらえていいし、心遣いというのは、あとでもう少し説明しますが、人々を愛するときに感じる歓びです。そういう心のはたらきによっても幸福を得ることができる。</p>

<p>　「またこのような仕方で幸福であるのは、運（テュケー）によって幸福であるのにまさるものだとするならば、やはりそのような仕方で人は幸福になりうるものであるとするのが至当であろう」</p>

<p>　ちょっと持って回った言い方ですが、肝心要なことをいっている。つまり運にまかせた幸福より、自分の懸命な努力とか、あるいは他者にたいする心遣いによって得た幸福のほうがまさっている。それこそが真の幸福だと述べているのです。</p>

<p>　「というのは、自然に即してある物は、可能なかぎり美しくあるものとして、そのような本性をもっており、技芸に基づくものも、その他いかなる因に基づくものも、これと同様なものである以上、最善の因によるものはいっそう美しいものであろうからである。もっとも重大でもっとも美しいものを運に委ねることはあまりにも不当であろう」</p>

<p>　これはなかなかにわかりにくい言い方ですが、アリストテレスの考えている世界は万物が運動している。運動をもたらすものは自然の力です。自然力によって万物は運動し、自然力によって運動している万物はそれ自体で美しいと彼はいっているわけです。<br />
　で、それ自体で自然は美しいのだけど、人間は技芸----技芸というのはテクニック（技術）ととらえてもいいのですが、自然にたいして技術をもってはたらきかけ、いろいろなものをつくる存在です。しかもそれによって美しいものをつくろうとする。自然によって創造されるものでも、人間の技によってつくられるものでも、最善の原因によって生じるものは一層のこと美しいとアリストテレスは言うのです。<br />
　最善の原因によってつくられる「美」は幸福にむすびついてくるのですが、それは運、すなわち偶然だけに頼っていては取り逃がしてしまうことになるだろうと訴えている。そんなことでは「もったいない！」と言いたいのかどうか、わかりませんが（笑）。</p>

<p>　アリストテレスは幸福と幸運とは異なるものであり、人間の内発的な卓越性（アレテー）、つまり徳というものは単なる偶然の運よりも一層すぐれたものだと考えている。徳によってつくりだされる幸福は、運によってもたらされる幸福よりもよりすぐれた幸福であると主張しているのです。<br />
　そして次の一言で結ばれる。</p>

<p>　「この問題にたいしては、われわれの議論からも明白になるだろう。すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動（エネルゲイア）である」</p>

<p>　この2行はアリストテレスの幸福論のなかでも、もっともよく知られた命題です。<br />
　これまでの読解である程度理解されてきたと思いますが、端的にいいますと、人間は卓越性＝徳によってのみ幸福になることができる、と結論づけているのです。そして幸福とは、魂の一種の活動状態のことである、と。<br />
　この最後の言葉は「神与」ということにも関わる、これまたひじょうに難しい事柄なので、あとでまた関連したお話をします。</p>

<p>　以上のように、幸福とは徳を磨くことによってはじめて手にすることができるものだということ。だから欧米の知識層のなかでは、このアレテーをいかにして磨いていくかということが、いつも議論の底流を流れている。はじめに言ったように、アリストテレスをちゃんと読んでいるからですね（苦笑）。</p>

<p>　もちろん中国や日本においても、徳というのは人間性を形成するうえで昔から重要な言葉としてつかわれてきました。しかし、このアレテーは儒教的な意味でいわれる徳よりも、もっと広い概念としてあります。たとえば儒教的な徳は、親切心とか義の行い、惻隠の情とかを示す道義的な面を強くもっているものですが、ヨーロッパにおけるアレテーでなにがいちばん重要かというと、知性つまり知的な徳なのです。アレテーを磨くということは、知的な徳を磨くということ。たくさん勉強して知性を身につけることが人間を幸福にするんだという方向にヨーロッパの人々の思考は向かっていくわけです。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat5/index_3.html">[3-3]へ続く</a></p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［3-3］</title>
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    <published>2008-08-05T06:28:44Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:19:38Z</updated>

    <summary>再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">--　知性的な力量と実践的な力量　--</div>

<p>　幸福と幸運は異なると先ほど申し上げましたが、しかしもちろん、運も幸福の一要素であることを無視はできません。結局、どんなに奮闘努力した結果得た幸福でも、たいていは運がそこにはたらいている。アリストテレスは幸運といったものを度外視しているわけではない。<br />
　たとえば幸運のなかには、夫婦関係やお金や仕事に関して運に恵まれるかどうかということが大きな要素としてある。<br />
　アリストテレスはなかでもよき夫、よき妻に恵まれることが人生で最高の幸運だといっているのですが、お金だって一生懸命働いただけではなかなか儲からない。タイミングをうまくつかむとか、人との出会いとかのさまざまな偶然のはたらきがあってお金も儲かったり儲からなかったりする。仕事がうまくいくか、事業が成功するかといったことだって同様ですよね。<br />
　子どもだって、優れた親から優れた子が生まれるとは限らない。その逆もあるわけです。それから男でも女でも美貌に恵まれることはかなり運ですし、会社の上司にとっては優秀な部下に恵まれるかどうかも運に左右される。友人や恋人もそうでしょう。</p>

<p>　アリストテレスにしても東洋思想にしても、やっぱりそれは人間の力を超えたなんらかの神的なもののはたらきによると考えているのであって、ある意味で幸運はその恵みであり贈与であるととらえておいた方がよい。</p>

<p>　私自身が専門にしている政治学にしても、あるいは経済学にしても完全には人の思うようには社会は動かないということを、いつも目の前につきつけられているんです。そのことは冷厳に見つめておく必要がある。経済学にしても、限られた部分的なことをピックアップして、その因果関係をアーキテクチャーとして数学的に分析はできても、全体的長期的な予測ということではほとんど説明できた験しがないわけです。政治に関しては、みなさんよくおわかりのように、「一寸先は闇」の世界です。そういう意味では、政治も経済も運というものに大いに左右されてくる。</p>

<p>　しかし、ここが肝心ですが、先ほどからお話しているように、幸福は幸運だけでは得ることができないというのも事実でしょう。運に恵まれるだけでは、人間はけっして満ち足りることはない。運には幸運もあれば、当然不運もある。そんな運に翻弄されながらも、自分の力で幸福を獲得したいという欲求が万人のなかに必ずみられる。<br />
　ですから逆にいえば、どんな逆境にあってもその逆境に折り合いをつけ、そこに幸せを見いだしていくように私たち人間の誰もが努力することも事実なのです。そういう意味で、幸福は幸運に還元できないというふうにアリストテレスはいっているのです。</p>

<p>　そうすると、では幸福とは、詰まるところいったいなにかということになりますが、彼は幸福とは、われわれのなかのもっともよい事柄を追求することにあるとしているのです。聞き慣れない言い方で「最高善」といいますけど、もっとも善いものを私たちが追求しようとするときに幸福は訪れるだろう、多くの人々もそういうふうに考えるだろうといっているんですね。運も努力のうちだ、という言葉を思い出してもらってもいいでしょう。</p>

<p>　だから問題は、では最高に善きものとはなにかということになる。もっとも善いもの、卓越的なものとはなにかということが、『ニコマコス倫理学』の最重要テーマになってくるのです。<br />
　これまでにも他の場で少しお話しましたが、アリストテレスはそれをふたつに分けて、知性的な力量と実践的な力量というふうにいっている。それらを獲得し発揮したときに、ほんとうの歓びすなわち幸福が訪れるだろうと彼は考えている。</p>

<p>　ひとつは知的な力量による、知ることの歓び。なんの役に立つのかという以前の、純粋に知ることの歓び。科学などの発明・発見などでも、真に優れた研究者はそういう純粋な動機から大きな成果をあげる場合が多い。宗教的な面で、悟りを得ることとか神を見る体験とかも、そういう知性による幸せにほかならないでしょう。<br />
　それからたとえば美術や音楽。美的なものを見たり聴いたりしたときの歓び。それも美にたいする卓越した知性のはたらきとして幸福の範疇に入ってくるだろう。</p>

<p>　実践的な力量は自分と自分の隣人、隣近所というだけでなく、たとえば夫や妻、子どもなどを含めた家庭でもそうですが、自分と"他者"によい事柄をもたらすための力量。これもまた幸福とは切れない関係がある。大勢の人たちに喜びをもたらすという場合、企業でいえば経営者の実践的力量が問われることになるのです。</p>

<p>　さらに自分の国や世界全体に、幸せをもたらすといったかたちで実践的力量を発揮しなければならないのが政治家です。いうまでもなく、知的、実践的力量は互いに関連しあっているものなのですが、わかりやすくいうとこういうことになるでしょう。要は、卓越的力量（アレテー）とは知的、実践的力量を指しており、これらを発揮したときに得られる喜び（歓び）が幸福であるという考え方は、多くの人が納得し共有できる考え方だろうということです。</p>

<div class="sub2">--　愛こそが幸福の最高の条件　--</div>

<p>　ここで、アリ研のこれまでの講義に参加していない人のために少し補足しておきますと、アリストテレスは実践的力量をもう少し細かく分けておりまして、そこにはいわゆる戦略的な思考や行動も含まれてきます。これまで「戦略的思考を超えて」ということでお話をしてきましたが、「反戦略」でない以上、そこに戦略的な思考をいっさい認めないということではないのです。</p>

<p>　これはわかりやすい例を出しますと、公認会計士などをはじめとするような、経理的、会計的な功利性、合理性の世界です。つまり、目的・手段を功利的に選択していくという戦略的な思考がないと、家庭も企業も政治もうまくいかない。世俗的な成功もその可能性が保証されないということになります。目的・手段の効率的な選択には当然、数字をふまえたうえでの的確な判断力が必要なわけで、そこではIQ（知能）を重視した思考が評価されるのです。</p>

<p>　ただ、この戦略的思考だけを極限的に追求していくとどうなるかということを考えてみていただきたい。結局それは目的にたいして、より功利的な手段を選択することばかりに思考が集中することになる。手段の合理的選択が目的に先行してしまう。そして、自分だけの、あるいは自社だけの、自分の家族だけの、自分の階層だけの利益になればよい、そのために成功すればよいということに帰着していくことになるでしょう。</p>

<p>　そうなると当然、当人以外の人や集団から、その成功は共有しえないから許しがたいという評価を下されるはめに陥る。利益を自分の会社だけにはいってくるようにして、その周りの外注先や諸々の関係者などが死にたえることになったら、それはやはり何のための企業かという大義や理念が問われることになる。また家族においても、自分だけが計算づくで楽しくいい思いをしても、妻や子どもたちとその思いを共有できなければ、真の楽しさを味わうことはできない。どこか充足しきれない空しさが心の底に残るでしょう。身近なことでいいましたが、そういう意味で戦略的な思考は"それだけでは"一時の幸福感に空しさがつきまとい、周りにも虚無的な気持ちを引き起こすであろうことは、やはりしっかりと自覚しておく必要があります。世の中、戦略ばかりになったら、こんな息苦しいことはありません。</p>

<p>　では戦略的思考を超えるものはなにかという本題に戻りますが、それはアレテー、卓越的力量とか徳と呼んでいるものの発揮と強く関わってくる。端的にいって、アレテーとは自分と他者との善、この場合利益といってもいいと思いますが、そのバランスをとることです。パブリック・グッズという言葉がありますが、このグッズ（goods）が善＝財の両方の意味をもっていることを想起するとわかりやすいかもしれません。また、バランスは「正義」における比例的配分と言い換えてもいいかもしれないけど、要は正義というのは、自分と他者との善＝利益のバランスをとるというかたちでしか発揮できないことなのです。</p>

<p>　自社と他社の繁栄のバランスを保つ。夫と妻の愛情のバランスを配慮する。さらにいえば日本と世界との経済のバランスをとるといったような、そういう思考と行動が正義ということです。このバランスは同一ということではないし、必ずしも「私有」を否定しているのでないことは、前にお話したとおりですが。</p>

<p>　そこで、正義には知慮の徳が求められる。現実に則していえば、正義は当面する自分と他者との利益のバランスです。それはあくまで「当面する」バランスであって、人間社会は時の経過にともなって大きく動き、変化しているわけです。ですから過去を調べ反省し、未来を透かし見て現在の正義の行使をしていかなければならない。<br />
　「全体」をぼんやりとでもいいから掴みとる予見能力。予知能力といってもいい、けっして数字からだけではわからないような直観的な能力が求められてくる。過去の人類が蓄積してきた経験と智恵の遺産を現在の目でとらえ直し、未来に役立てるというかたちで発揮される善＝バランスが知慮の徳であるといっていい。</p>

<p>　たとえば、ある人の顏を見ることによって、その人が経験してきた過去のさまざまな事柄、苦労や歓びなどを推察する能力。よく顏の表情やシワを読み取るというようなことがいわれますが、そういう過去への賢察力、あるいは過去に基づいた未来への洞察力が知慮のなかに含まれている。</p>

<p>　また、たとえば身体に障害をもつ人々への配慮といったこと。つまり自分と他者との利益のバランスをとることにおいて、うまく公平に力を発揮しえなかったり、発言の場が少ない人たちとの関係をどのように築くかといった問題。正義というのは多くの場合、相手と自分が互いに競争あるいは闘争することを通じて実現されていく。議論したり論争したりしながら、正義というものが築かれていく。<br />
　ところが問題なのは、発言する力のない人や、その場をあたえられることのない人、あるいは発言することが本来的にできない自然（環境）やそこに生きるものたちが、結果を省みない粗暴な力の行使によって被害をこうむることがないようにバランスをとろうとする知恵、それが知慮の徳でもあるのです。</p>

<p>　ですから知慮というのは、そういう正義のあり方を常に問いかける知性の能力です。それを人間はちゃんと習得していく必要がある。そのことによって、幸福は自分の力によって追求できるものとなりうる。</p>

<p>　ただし、アリストテレスの場合、それだけで徳の習得は終わらない。私たちが正義を追求するときに、またそのための知慮を発揮するときに、さらにうんと深いところで、信義、信頼、希望、愛といった幸福にとって根源的な能力が要求されると彼はいっている。<br />
　正義のバランスをとろうとしたときに、自分を信頼もしない、それどころか敵対意識をむき出しにするような人に対しては、利益のバランスだってとる気にはならないわけですよ。あるいは男女の関係だって、男か女のどちらか一方のみの愛情や行動が突出していて偏っていたら、そこにバランスのとれた正義というものはない。</p>

<p>　ということは、正義とか知慮といったものが発揮されるための前提として、お互いに愛し愛されるという関係がないと、そもそもからして正義や知慮を追求しようという意欲さえ湧いてこない。そういう意味で、人間の徳すなわちアレテーを発揮させる究極的な力は、やはり愛の力だとアリストテレスは訴えているのです。<br />
　しかもその愛には、大雑把にいうと、愛の二面性、いうなれば横の愛と縦の愛がある。つまり自分自身を愛する愛と他者を愛する愛。そして平等な関係の愛と親子や師弟関係などの"上下"の愛。愛というもののなかにも多様な愛のかたちがあるのだけど、重要なのは、愛するという徳にはひじょうに特徴的なことがら、すなわち喜びを引き出す力があるとアリストテレスはいっているわけです。</p>

<p>　今回私は、幸福というのは無上の喜びをともなう精神の状態であるということを強調していますが、愛のアレテー＝徳というものこそ幸福の最高の条件であるということを強くいっておきたいのです。つまり喜びは愛を語るさいに欠かせぬものだとか、あるいは愛を補完するものだとかいわれますが、アリストテレスによれば愛という徳こそが、人間の力によって獲得できる幸福のなかで最高のものだといえるのです。愛も知性の一種だとすると、それが人間の知の卓越的な力によって獲得が可能な幸福なのです。</p>

<p>　いわゆる運命、運の偶然のはたらきや転変に耐える知慮の力といってもいい。すなわち、（1）合理的理性を含んだ知性と理性の結合である知慮、そして（2）その知慮と結合した宜の徳、愛と正義のアレテーの発揮のなかに幸福があるということ。このことを肝に命じておいてください。</p>

<p>　ここまでのところは、多くの研究者のうちでもだいたい一致したアリストテレス理解だと思います。ただ、この2つのことだけで幸福になるための条件がすべて満たされることになるのでしょうか。私がみなさんに私の理解としてぜひとも述べておきたいのは、幸福にとって3番目の問題です。それは最前からでてきている「神与」ということに関連する事柄です。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat5/index_4.html">[3-4]へ続く</a></p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［3-4］</title>
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    <published>2008-08-05T04:32:06Z</published>
    <updated>2010-04-30T09:10:15Z</updated>

    <summary>再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">--　利害や打算を超えた「熱狂」　--</div>

<p>　知慮によって獲得される幸福、そして愛の力によって行き渡る幸福。しかしそれだけではなくて、幸福にはもうひとつ別の視点から見ることのできる幸福がある。神的なものに出会うことによってもたらされる幸福がそれです。<br />
　先の引用文をもう一度見てみましょう。</p>

<p>　「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福（エウダイモーニア）こそ神与のもの（テオスドートン）とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間の持つあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。<br />
　......<br />
　しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性（アレテー＝徳）とかなんらかの学習（マセーシス）や訓練（アスケーシス）によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる。まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福（マカリオン）のものであると思われる。<br />
　......<br />
　すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動（エネルゲイア）である」</p>

<p>　この「神的なものに属する幸福」というものをどう考えればよいか、正直いって私にも長い間よくわからなかった。ところがあるとき、『政治学』の最後の第8巻でアリストテレスがひじょうに重要なことをいっていることに気づいたのです。そこにエンシュージャスムス（enthusiasmus）という言葉（ギリシャ語）が出てくる。英語でエンスージアスム（enthusiasm）。日本でも一種の俗語として「エンスー」なんて言い方で使うこともある。</p>

<p>　8巻の内容にはここでは立ち入りませんが、要するにこのエンシュージャスムスという言葉がそこに出てきて、はっと思ったのです。<br />
　これは日本語では「熱狂」と訳される。「狂」という文字が含まれているから、そのイメージに引っぱられてなかなか本当の意味が伝わりにくいのですが、この言葉は「狂」ではなくじつは「神」を指しているんです。エンは英語でいうイン（in）、エンシュージャスムスはもともとエンテオスからきた言葉で、テオスというのは神ですから、エンシュージャスムスは「神の中にいる（in the god）」状態を示しているわけです。</p>

<p>　つまり、運によってある状況があたえられ、そのなかで一生懸命努力して正義や知慮や愛を追求したとしましょう。そのときに人間に訪れる状態がエンシュージャスムスだとアリストテレスは述べている。いうなれば忘我入神。「神的なものに属する幸福」とは、そんな状態にあるときの幸福のことなのではないでしょうか。幸福の最中にいるとき、人間は我を忘れている。我を忘れる、自己を超える、神の中に入る、それらは少なくとも、幸福な状態としては同じ状態であると思います。</p>

<p>　アメリカのいわゆるエリート教育制度のなかに、世界のリーダーを育てるための中高一貫のボーディング・スクールというのがあります。この学校の入学試験は、もちろん書類審査もあるけど、興味深いことに面接試験をしっかりとやるんです。その面接で、あなたが熱狂できるものはなんですかときかれる。あなたはなににエンスーできますか、ということを質問されるんですね。<br />
　要するに、利害や打算を度外視して、自分がなにかに熱狂できる能力があるかどうかをきいてくるわけです。語学にしても数学や科学にしても、あるいはスポーツにしてもなんでもいい。そのことを通じて純粋に知る喜びとか、あるいは他人に奉仕する喜びとかを得ることができますかと問いかけてくるのです。<br />
　<br />
　エンシュージャスムスを「熱狂」といってしまうと、じゃっかん意味がずれてしまいますが、まあ、人間生活のある局面で、利害関係や打算的思惑をスルーして自分が没頭できる対象をもっているのかどうかということです。その質問の発案者がどこまで考えていたかわかりませんが、そのような対象があり、「戦略」を超えておのれの能力・技量を発揮できる人こそが幸福を獲得できるのではないかという発想がここにはあります。</p>

<div class="sub2">--　再び結び合わせるもの　--</div>

<p>　ボーディングスクールの話は単にひとつの例にすぎません。しかし、ヨーロッパ世界の言語の系譜を考えたときに、エンシュージャスムスという言葉から「幸福」にアプローチする方法があることに、アリストテレスを読んでいて私は気づいたわけです。エンシュージャスムスとは日本語でいうと「熱狂」よりは、「忘我入神」という言葉に近く、それが幸福のあり方（ヘクシス）を解き明かす、ひとつのキーワードではないかということです。</p>

<p>　だけどまた、そのことに気づくと同時に、そこから別の重要な問題が私たちの前に立ちあらわれてくる。忘我入神というと、ある意味で「外」がなくなるわけだから、ひとつの状態に囚われていることになる。忘我、すなわち無我夢中になるということは、やはり熱狂の「狂」の面も無視できなくなるわけです。</p>

<p>　狂というのはマニア、マニアックという意味のマニアです。<br />
　たとえば端的に身近な例でいえば、オウム真理教にはいった青年たちは、忘我入神（入信）の生活をおくる。自分たちは救われると思い、「狂」的に教祖を信じて自分たちだけの"閉じた"世界に生きるわけで、精神状態としてはマニアとエンシュージャスムスがひじょうに接近した状態にあるわけです。最高の幸福と最低の不幸が、表裏一体になった問題としてそこに浮上してくる。<br />
　はじめに、幸福というのは宗教、あるいは信仰と大いに関わってくるといったのは、そういう幸福のあり方をちゃんと視界にいれておかねばならないと思うからです。この幸福と不幸の境界線に、宗教あるいは宗教性の問題が一気に吹き出してくる。</p>

<p>　じつはいま私たちが論じている宗教という言葉は、オウム真理教の名をあげはしましたが、仏教とかキリスト教などの特定の宗派や教団を指す意味でつかっているのではありません。もっと一般的な次元での宗教、英語のレリジョン（religion）として理解してください。<br />
　religionのreとは「再び」「アゲイン」という意味なのはおわかりと思いますが、ligionはラテン語の「リゴー」からきた言葉で、結び合わせるという意味です。だれがreligionを「宗教」としたのか知りませんが、むしろ先にお話した「仕合わす（しあわせ）」という言葉に religionは近い感じもします。</p>

<p>　それはさておき、語義として、分かたれていたものを再び結び合わせるものがreligion（宗教）です。わかりやすくいえば、人は死ぬと死者になり、生者から分離される。しかし亡くなった人を愛していた者は、再び相まみえることを願います。死者と生者が結ばれ合うことを望む気持ちが、宗教心の根幹にはあるのではないでしょうか。それはまさに幸福の問題でもあります。</p>

<p>　いや、それこそが、幸福とはなにかの最大のポイントだと思います。生者と死者だけではない、人と人、人と自然、そして人と神的なものが結ばれ合うことこそが、幸福にほかならないのです。エンシュージャスム、忘我入神、我を忘れるという「魂のある種の活動」は、分離された自分が再びなにかと結び合う、もしくは結び付ける活動であるといっていいのではないでしょうか。融合するといってもよいかもしれない。それが幸福というものなのです。</p>

<div class="sub2">--　つながり合う正義、知慮、そして愛　--</div>

<p>　どうやら、やっとひとつの結論にたどりつきましたが、これで終わらないのが人生というもの（笑）。<br />
　では、どうやったらその「魂のある種の活動」を行うことができるのか。忘我入神というけれど、「狂」に陥らないための、"正しい"忘我入神の方法をどのようにして見出し、身につけるのかといった困難でやっかいな問題が残ります。それはヨーロッパや東洋の長い知的伝統のなかでも議論されつづけている「見神」の問題、あるいは「狂信」と正しく信じる「正信」という、ふたつの「信」がぶつかるむずかしい問題です。<br />
　さらに、そこにまたアレテーの問題も循環してくる。</p>

<p>　これまで洋の東西を問わず、数々の「幸福論」が出版されていますが、有名なものではたとえばカール・ヒルティの『幸福論』があります。あれなんかを見ても、究極的な幸福とは神を見ることだという結論になりますよね。仏教にも「見神」ならぬ「観仏」という言葉がある。</p>

<p>　しかし、そういう教えだけでは、私たちの人生における、日常のひじょうに細々とした「選択」になかなか結びついてこない。先にもいいましたように、私たちの生活は、日々「あれかこれか」といった細かな選択の積み重ねによって営まれている。だから、思考と行動をよいかたちで結び付ける技量、アレテーという徳を身につけることが、幸福にとって欠かせぬものとして問われてくるのです。しかも、くりかえしますが、目先の戦略的思考だけではダメ。戦略的思考を超えた知慮と、それにつながるアレテーがないところに真の幸福もない。</p>

<p>　話は戻りますが、みなさんは『天国と地獄』を見たことありますか。あるいは本は？　私は友人から原作本の『キングの身代金（原題：King's Ransom）』を借りて、それも読みましたけど、あれは『王の贈り物』と題名を訳したほうがいいんじゃないかな〜。著者のエド・マクベインがどういう思いで書いたのかくわしいことはわかりませんが、原題にあるransomという単語には身代金とか賠償のほかに、辞書で確かめたのですが、贖罪とか神からの贈り物という意味もふくまれているんです。</p>

<p>　それからキングというのにも私はひっかかっていまして、king of kings、要するに神を「王」と呼ぶ知的な伝統がヨーロッパにはある。つまりマクベインの真意は別にしても、人間が本当の幸福をつかむには、神もしくは神的なものからの贈与が不可欠なのではないか。そういう問いかけをこの作品から読み解くことができると思うんです。<br />
　黒澤明やTVドラマの製作者たちがどれだけ意識しているかはこれまたわかりませんが、"現実の"会社経営者である社長として、企業を、社員をあずかり、そして子どもをさずかって育てている親として、極限的な状況に追い込まれ選択を迫られたときにしめすひとつの判断が、登場人物たちそれぞれに幸福をもたらすかどうかの分かれ目になる。</p>

<p>　マクベインの原作では札束の代わりに新聞紙をバッグにつめるのだけど、ＴＶや映画ではちゃんと本物のお札をいれて犯人の要求を受け入れようとする。社長にとっては経済的な破滅につながる。しかし、その破滅をひとつの運命として覚悟したとき、社長に「夫婦の愛」が再来する。これはTV版の方で強調して描かれるのですが、黒澤映画では犯罪者側の呵責や恐怖がクローズアップされる。<br />
　それぞれ強調するポイントが少しずつちがうのですが、共通していえるのは幸福とそのための選択、そしてその「報酬」といったことが主要なテーマになっていて、じつにいろいろなことを考えさせられました。多かれ少なかれ、誰もが日々、当人にとってはそれこそ天国か地獄かといった選択を実践的に迫られているわけですからね。</p>

<p>　そこには大きな迷いと悩みがともないます。「人生いかに生きるべきか」という哲学的問いだって否応なしに生じるでしょう。幸福、そして幸福の追求という問題を、正義と知慮と愛がつながり合ったものとして、また神的なものとの関係、あるいは自然からの贈与の問題として考え、行動していかなければならない。その過程抜きに幸福はないし、戦略的思考を超えたプロセスを経てこそ、迷いや悩みも「力」となり、幸福がその真の姿を垣間見せてくれるともいえるのです。</p>

<p>　ということで、これで「正義論」「知慮論」、今回の「幸福論」と3回にわたった私のお話の、ひとまずの結びといたします。（おわり）</p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［2-1］</title>
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    <published>2008-04-10T09:01:27Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:21:01Z</updated>

    <summary>......そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">......そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="a004_01.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/a-ken/images/a004_01.jpg" width="460" height="345" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 0px;" /></span>

<div class="sub2">--　力の正義、正義の力　--</div>
　前回のおさらいからはじめましょう。前回の「<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat2/">戦略的思考を超えて（1）</a>」では、アリストテレスの正義論をめぐっていろいろお話しましたが、要は、いまの日本の社会においていちばんの問題は、正義とは何かがきちんと定義されていないということでした。じっさい、現在の社会全体を見ると、正義とは力であると一義的にとらえられる傾向が強い。勝てば官軍であって、官軍というのはいうなれば法律を独占できるのですから、勝った方が正義であるとなってしまうわけです。

<p>　この、力がすなわち正義である、勝者の方に正義はあるという考え方は、それこそ人類の歴史はじまって以来からの古い考え方としてあります。ところが、その正義のとらえ方もわからないではないけど、どうもそれだけでは困るという感覚を多くの人々が抱いてきたわけです。プラトンも『国家』のなかで、批判の対象として「力＝正義」という考え方を取り上げています。</p>

<p>　正義を大上段に振りかざす人間がいたら、まず、その人を疑えということがよくいわれます。そういいたくなるのも、よくわかります。その場合の正義というのは、大方は、力のうえに成り立つ、権力と結びついた強引な正義だからです。現実にそのような力の正義にだまされ、被害をこうむったという思いを抱いている人は多いでしょう。正義を語ることの困難さ、語りづらさもその点にあるのですが、しかし、だからといって、それで正義の問題を等閑視していいということにはならない。正義がそのように一面的なものとしてしか捉えられず、ちゃんと理解されていなことが、そもそもの憂慮すべき重大な問題なのです。</p>

<p>　では、どういうふうに正義を定義したらよいか。それもまた、これまでに延々と議論されてきたわけで、多様な考え方、アプローチの仕方があります。</p>

<p>　たとえば、とくにいまの日本の状況からいうと、法令を遵守することが正義だという考え方が根強い。法に従うことが正しいのだ、と。法令遵守が正しいことで、正義だということですね。</p>

<p>　しかし、法令や条例を遵守することだけが、ほんとうに正義なのか？　それだけでは、社会の実情に合わず、多くの人たちの気持ちにもそぐわない面が当然出てくるでしょう。法にしたがっていれば何をやってもいいのかという話にもなってくるわけで、これもまあ困るわけです。</p>

<p>　弱い者が生き残るために、相互に約束をしあって決めごとをする。それを正義としようというような議論もいままでにあったわけですよね。むちゃくちゃ理不尽なことをやる王様に対抗するために人民が「連合」し、「契約」して、自分たちにとって正しいことを行おうというのもそうです。</p>

<p>　いずれにしても、いままでお話したようなことは、正義とは何か、その核心部分の周辺をグルグルとまわっているだけの状態で、正義というものをどう規定したらよいのかがよく見えてこない。そこで、アリストテレスの遺した言葉、概念を基準にして、正義という「理念」の真の姿をつかまえてみたい、というのが前回のお話の趣意だったわけです。</p>

<p>　そのさいに述べたように、アリストテレスは自己と他者とで「善いこと」を比例的に配分することが正義であると、ひとつの定義をしました。この定義自体は、かなり具体的な事柄にあてはまります。たとえば、比例的正義のなかに、配分的正義、矯正的正義、交換的正義という三つの正義の考え方がある。アリ研メンバーのメールのなかにもちょっと出てきましたが、水戸黄門の例なんかにもあるように、悪い代官や悪い商人をとりあげると、たとえば悪い商人なら「正しい」価格で販売しないということだから、これは交換的正義に反している。それから代官が悪い商人と結託するという場合、良民にあたえるべき取り分を代官がくすねると配分的正義に反するということになる。あるいは代官がほんとうの犯人ではない人をつかまえてきて罰するのは、あきらかに矯正的正義に反するわけです。</p>

<p>　そういう感覚はだれでももっているものだから、テレビで「水戸黄門」なんかを見て黄門さんの裁きに共感したりできるわけです。</p>

<p>　それから古代ユダヤの王ソロモンの知恵というものが伝えられています。わかりやすい例でいうと、ここに二人の女性と一人の赤子がいるとしましょう。二人の女はその赤ん坊が自分の子どもであると主張して、取り合いになる。そこで赤ん坊を両方で引っぱり合うことになるのだけど、当然、強く引っぱった方の手に泣きわめいている赤ちゃんはいく。それで強引な方の女は自分の主張どおりになったと喜ぶのだけど、そこにソロモンが出てきて、真にわが子を思い、気遣うのが母親であるから、引っぱり合いに負けたもうひとりの女こそが赤子の母であると判定し裁くわけです。</p>

<p>　私たちはこのような話を聞くと、なるほどと納得するのですが、なんの価値観も判断基準もなければ、こういうことに共感もなにもできないはずです。要するに、力（腕力）ではない正義というものが存在し、それがどこかで別の力としてはたらいているというふうに、われわれ人間は心のある部分で感じとることができる。力の正義ではなく、正義の力といったものがあるのではないか、と。</p>

<p>　そういう意味でいうと、正義とは何かということを根本から考え直すには、直観的な理解ということが、まずは大事なことなのです。</p>

<div class="sub2">--　返報的正義と贈与　--</div>
　返報的正義についても前回の説明不足を少し補っておきます。

<p>　交換的正義といのはギブ・アント・テイクですよね。返報的正義も、たしかに交換ではあるのだけど、「ギブ」のほうが、つまり、あたえることのほうがもらうことより重要視される。しかしながら、相手はあたえられたことに対して、そのお返しをしなければならないというのが返報的正義の考え方。等価物を "同時に"交換するのでも、また、もらいっぱなしでもない、人類学における「贈与」に近い行為といってもよいでしょう。</p>

<p>　これは、親と子の関係で考えるとわかりやすい。親は基本的に、子育てというかたちでさまざまなものをギブする（あたえる）わけですが、子どもに対してその分の見返りを目的にしているわけではない。いうなれば、無償の愛情です。しかし、いや、だからこそ子どもは大人になったら、親に「返す」ことをしなければならないというのが返報的な正義感なのです。親と子という範囲だけでなく、先祖から子孫へとあたえられてきたもの、伝えられてきたものがある。つまり自分の肉体そのものも先祖がいなければ存在しなかったわけですから、なんらかのかたちで先祖に返報しなければならない。それが、先祖崇拝といったようなことでもあり、また、自分の子への贈与にもつながっていく。</p>

<p>　あるいはもっと広くとらえて、村落とかの共同体、あるいは「国」とかに対しても同様で、私が「共同的結合体」と訳しているコイノーニア（国）に対しての返報をひとつの正義の問題として考えていかなければならない。つまり、家族から国家にいたるまで、あまねく共通したこととしてそのことはいえるのです。法があって我々は安全・安心な生活を営むことができる。しかし、法は国家が決めたもの。というよりも、国家は法的なコイノーニアだから、我々はこの国家に、返報的正義を抱く。このようにアリストテレスは考えています。祖国愛・愛国心の根底には、正しい国家に対する返報的正義の観念が生じるわけです。</p>

<p>　もっというならば、自然そのものと人間の関係としての「贈与」の問題がある。自然からの贈与である「恵み」に対して、人間はどのように報いるか。返礼するのか。現代の環境問題とも関連してきますが、これも自然と人間との間の正義の問題として考えていく必要がある。</p>

<p>　返報的正義というのは、このように非常に大きな射程範囲と距離を持っている。いわゆる「未開社会」から現代にまで通じる宗教的儀礼なども、それ自体としてはなんとも非合理なものだけど、自然からの贈与に対する人間の側の正義の姿勢として理解できるわけです。</p>

<p>　アリストテレスのいう正義論のなかには、このような多種多様な正義のあり方が含まれている。しかしもっとも重要なことは、彼によれば、人間それ自身、あるいは人間社会には、「正」と「正しい事柄」、つまり正義を判別し、実現しようとする人間に共通した態度・指向、そういうものが厳然として存在しているだろうというふうに考えられるのです。</p>

<p>　となると、人間にそのような「正」に対する姿勢・構えがなぜ生じてくるのか。そのことを哲学的に深く考えていく必要がある。正義を単純化した口当たりのよいワンフレーズで定義するということではなくて、正義を規定するためのさまざまな要素や条件といったもの全体を包括的に考えていかなければ、正義の真の姿を取り逃がしてしまうことになりかねない。そして、そのように「考える（哲学する）」ことと並行して、"もう一度"現実の正義の問題に立ち返ってみる必要があるだろうと思うのです。</p>

<p>　包括的にといっても、アリストテレスの哲学を細部にわたって探求しようとしたら、これはもう大変なことになってしまうし、忙しい人が多いなかで時間がいくらあっても足りません。それに「生きた哲学」としては、専門的に細かく字義に拘泥するようなことは、少なくともいまここでは、あまり意味のあることではありません。とにかくまずは、全体の輪郭とエッセンスの概要をざっと描いてみることが大事なことでしょう。そこから善く生きていくための考え方、ものごとを考えるための「枠組み」といったもののヒントをみなさんにつかみ取っていただければ、私としてもたいへんにうれしいことです。これからお話することも、既存の哲学的理解とは大きくズレているところがあります。これまでの学界のアリストテレス研究と私の考え方の相違については、2008年の1月か3 月に発表される『思想』や、これまでの私の学術論文を見てください。</p>

<div class="sub2">--　「霊魂論」における三つの柱　--</div>
　それではこれから、力や法によったものでない正義、というより、むしろその根本にある正義、つまり"戦略的な"正義を超えた正義のあり方について考えてみたいと思います。「知性」が主題のひとつになります。

<p>　知性について考える場合、どうしても避けて通れないものとして「霊魂論」があります。たいへんむずかしい話ですが、手短な解説を試みてみましょう。</p>

<p>　アリストテレスの霊魂論は大きく分けて三つの柱から成っています。</p>

<p>（1）霊魂とは、生命の根源であり、人間も他の動物も生きていることの根源的な力は霊魂にあるということ。では、肉体と霊魂はどういう関係にあるのかという問題になるわけですが、ちょっと難解な言葉を使うと、霊魂とは肉体の「現実態」であるという言い方がある。現実態はギリシア語でエネルゲイアといいます。</p>

<p>　肉体といっても"生きている"肉体ということで、死体は含みません。つまり生きている肉体は、動き、なんらかのはたらきをしているもので、その力の根源が霊魂である。だから、現実態というのは「はたらき」と言い換えてもいいわけですけど、肉体のはたらきをつくっているもの、その因となっているものが霊魂であると、アリストテレスはいっているわけです。</p>

<p>（2）霊魂というと日本では「死者の霊魂」というふうに、生きているということから分離されやすいので、ここでは「魂」といっておきましょう。その魂には、固有のはたらきといったものがある。たしかに魂は肉体を動かしている根源なのだけれども、それだけが人間の魂のはたらきではない。人間の魂自体がある別のパワーと機能を持っている。</p>

<p>　それは何かというと、欲求的能力と知性的能力であるとされる。このふたつの能力のうち、とくに、知性的能力は、魂の根幹にある固有のはたらきです。欲求的能力、つまり欲すること、何かを得ようとすることも魂がもつ大きな力なのだけど、アリストテレスは知性を発揮するということが魂の根本にある最高のはたらきであると強調しているのです。</p>

<p>（3）その場合の知性がヌース、日本語に訳すと「直知」、つまり直観的知性というものなんです。アリストテレスは、ヌース＝直観的知性が人間の魂の根幹にある力なのだと述べている。つまり、モノを得たいという欲求もたしかにひとつの魂の力なのですが、モノを得るために、あるいはモノを得る前にモノを知りたいという力がつくる欲求的能力も、人間の場合は知的能力と結びついている。さらにアリストテレス哲学の根幹には、「幸福」とはその人が持っている力量の発揮という有名な規定がありますが、この力量の中に直知＝ヌースの力が入り込んでいます。これが大事な三つ目の柱です。</p>

<p>　そして、この三つの柱をよく理解するために、アリストテレスの決定的に重要な三つの書物があります。すなわち『形而上学』『ニコマコス倫理学』『政治学』の三著で、三つの柱を咀嚼するには、これを三位一体にして読み込んでいかなければならない。</p>

<p>　それぞれの書から、要点となる言葉をひとつずつあげておきましょう。<br />
『形而上学』には「ひとはすべて知ることを欲する」<br />
『ニコマコス倫理学』には「善とは万物が希求するもの」<br />
『政治学』には「我々が見るところによれば、国家とは最高の共同的結合体である。国家の根幹は正義である」</p>

<p>　と書かれている。</p>

<p>　つまりアリストテレスは、人間の能力をはかるとき、まず「知る」ということに重きをおいている。ギリシア語では、この「知る」ということは「見る」ということと同じ単語「エイデーナイ」です。見ること・知ることが人間の霊魂というものの第一の機能であるといっていい。それが知性的能力にあたります。</p>

<p>　また、さきほど欲求的能力といいましたが、人は何を欲求するのかといえば「善」なんです。善いものを欲求する。では善いものとは何か。それをまず知らなければならない。つまり、知りつつ欲求していくことになります。アリストテレスにおいて、霊魂の能力にはこのふたつ、知性的能力と欲求的能力があるということを念頭に置いておいてください。</p>

<p>　そのうえで『政治学』の第一巻で述べられている「国家とは最高の共同的結合体である。国家の根幹は正義である」ということを考察していく必要がある。正義が人間社会を幸福に成り立たせていくための基本だからです。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat1/index_2.html">[2-2]へ続く</a></p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［2-2］</title>
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    <published>2008-04-09T02:38:27Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:21:29Z</updated>

    <summary>......そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">......そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">--　受動的な知性と能動的な知性　--</div>
　さてそれでは、これらの言葉（生命＝霊魂、善、欲求、知性）のなかで、知性というものの説明をくわえていきたいと思います。話があっちこっちに飛ぶかもしれませんが、がまんして聴いてください。

<p>　第一に、「知性（ヌース）」と「理性（ロゴス）」は、ある部分は重なりながらも根本的に違うということを申し上げておきたい。日本語では知性と理性はほぼ同じ意味合いで使われることが多く、また、ともに区別しづらいかたちでアリストテレスは訳されていることが多いものだから、知性と理性のどこが違うのかひじょうにわかりにくいことになっています。</p>

<p>　知性と理性はどういうふうに異なるかというと、厳密な意味での理性（ロゴス、英語でリーズン）というのは推理、計算、比例（比べる）能力を指しています。平たくいえば、入学試験や入社試験などで問われるような能力ですね。この推理、計算、比例能力がないと人間社会は統制がとれずゴチャゴチャになって混乱してしまうので、社会のなかで私たちが生きていくのに必要な能力であることは了解しておきたい。しかし、アリストテレスはその理性とは"別に"、知性と呼ぶべき能力があるといっている。理性と対比すると、端的にいって、知性は直観的に事象を知る能力です。この知性は直知とも訳すことができますが、さきほどから申し上げているヌースを指しています。厳密にいえばヌース（直知）は知性の感性的・直観的はたらきを示しているものですが、混乱を避けるために、「知性」と一括して話をすすめましょう。</p>

<p>　知性には大きく分けるとふたつの性質がある。知性の特徴は二面性というか、二方向性を持っていることにあるのです。アリストテレスもふたつに分けて論じている。すなわち、受動知性と能動知性というふうに。</p>

<p>　受動知性というのは、感覚的知性を指していて、ちょっとむずかしくいえば「個別に即した究極的個の認識能力」といっていい。つまり、たとえば、人間の顔にはひとつとして同じ顔はないのですが、AさんならＡさんであることが、視覚をとおして顏を見た瞬間にわかる、といったような能力。感覚的・直観的に個別的なものを認識することのできる知性です。</p>

<p>　もう一方の能動知性とはなにかというと、「規範的な普遍命題や理論的な普遍命題への直観的理解能力」のことです。これまた相当むずかしい言い方ですので解説しましょう。</p>

<p>　たとえば「殺すな」というわれわれの社会を維持するための大原則、普遍命題がある。これは数年前にも「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者からの問題提起があり、マスコミでも話題になりました。さまざまな人たちがそれなりの答え方を試みているけど、なかなか明解には論証のできない命題です。「人は一人では生きていけない」とか、「人間愛に反する」からとかの「答え」がいくつか出ましたが、でもそれ以上つっこんで万人が納得できるような論証にはならない。</p>

<p>　あるいは「盗むな」という命題。状況によってはある程度許容する社会があるとしても、根本的にはどんな社会でも他人のものは盗んではいかんという決まりがあるわけですよね。でも、なぜいけないかの理由を、あるところまで以上に遡って論証できないような命題。こういうのを規範的普遍命題というのです。</p>

<p>　では、理論的普遍命題とは何か。たとえば、顏の例でいま、まったく同じものは存在しないといいましたが、でも、顏なら顏にも共通項はある。ＡさんとＢさんはまったく顔も人柄も違うけど、ともに同じ人間である、といったような事実における理論的な分析に関わる命題です。ユークリッド幾何学における前提命題のようなものもそれにあたるでしょう。</p>

<p>　しかし、改めてその「人間」というものを抽出して論証しようとしても、なかなかむずかしいわけです。簡単にはいかない。人間を人間たらしめている構成要素は何かといったようなことになると、とたんにいっぱい議論すべきことが出てくる。でも、感覚的にはどれひとつとして同じもののない個別なものに共通する"何か"を、瞬時につかむのが能動知性というものなんです。</p>

<p>　たとえば人は、別々の個別のコップでも、そこに共通するコップという概念をすぐに形成できるわけです。現実にはないけど、現実のなかから共通するものを引っぱりだしてくる。これを「抽象する」というのだけど、そういう抽象化する能力が能動知性にあたるものです。この能動知性が個人としてはたらくのか、共同としてはたらくのかという問題は残ります。</p>

<p>　ということで、知性には受動的な知性と能動的な知性のふたつの種類があるということになります。次に述べる実践知と観想知もふまえて、人間の知性のはたらきを以下のように区別します。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="a004_02.gif" src="http://www.cafe-nous.com/a-ken/images/a004_02.gif" width="460" height="150" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></p>

<div class="sub2">--　実践知と観想知（プラクシスとテオーリア）　--</div>
　さらに、知性を理解するのにもうひとつ別の観点があります。観想知と実践知という区別がそれで、前者は理論知とも呼ばれます。

<p>　この観想知とは何かというと、これはコップかビンか時計かというような、物事の何であるかを判別する場合などに発揮される知性です。それは、コップならコップを存在させているものは何かを問いかける知性であり、そこにも受動的な知性から能動的な知性までのはたらきがみられます（D → C）。</p>

<p>　それから先ほどいったように人間が生きていくうえで、「殺すな」とか「盗むな」といった規範的な、最も根源的な命題があるわけですね。それを直観的につかむのが実践知。それは「何々してはいけない」という、人間が生きていくうえでの"目的"にそった能動知性のひとつです（A）。言い換えると、実践的目的の観点から自分の目の前に起こっていることを見て、それに対する規範的な命令を出そうとする知性がある、それが、実践的な知性といわれているものです（B → A）。</p>

<p>　じっさい、われわれの生きている社会は、この「観想」と「実践」の両知性の非常に厳しい緊張関係のなかにあるといってよいのです。一見社会からかけ離れているかに見える学問だって、すべてそうなんです。たとえば私なんかがやっている政治学なんていうのは、本当に朝鮮からミサイルが飛んでくるのかどうか、これ自体の良い悪いは別にして（悪いに決まっていますが）、さまざまな政治的要因になりうる事柄を冷静に客観的に調べ尽くさなければいけない。そのうえで、では、どうやって防ぐのがよいか、というふうに問いを展開していくわけです。調べることは主に観想知、どうのようにして防ぐかは実践知のひとつの行使になるわけです。</p>

<p>　自動車業界からみた交通事故の場合なら、事故がどのくらいの頻度で起こるのか、原因として考えられることは何かというようなことを客観的に数字的に全部把握しなければいけない。できるかぎり個別な事例を多く集めて観察する（D）。そこから何らかの、その個別的事例の変化の原因とか、多くの事例の変化の方向を推理する。そして何が最大の原因であるかを考察する（C）。そのうえでこれからのことを把握し、それにどう対策を立て、対応しなければならないのかを判断していく。これが実践知です（A）。</p>

<p>　あるいは逆に、自分が事故にあって、自動車事故の問題性を痛感する（B）。そこから自動車事故全般をなくそうと考える（A）。しかしそのためには、自動車事故のデータを集めて客観的に観察しなければならない。事故の発生原因を可能なかぎり普遍的に追求していくことになる（C、D）。これはほんの一例ですが、ことほど左様に、われわれはつねに観想知・理論知と実践知の緊張関係のなかで"答え"を探り、追い求めているのです。</p>

<p>　受動知性と能動知性、観想知と実践知が自乗的に相互に関係し、さまざまな"現実の"局面でどうしてもぶつかってくるわけです。</p>

<div class="sub2">--　ヌースの不完全性　--</div>
　もう少し続けましょう。たとえば「知解を求める信仰」というのがあります。われわれが「神」を信仰するときに、よく「イワシの頭も信心から」なんていわれるけど、本当にイワシの頭を信心するバカ者はいないわけです。それが神様だから信じる。あるいは、神様が宿っていると思えるから信仰する。だけど、それじゃ、われわれは神を見たことがあるのか。神を知らずしてどうして信仰することができるのか。だからそこにも、神とは何かを知ることと実践として信仰することとが、どうしても問題となり、"折り重なるように"からんでくる。学問的議論のなかでは、この、神を知ることのみが観想知だとする見解が存在しているほどです。永遠の存在を知る、見ることが観想知であると。

<p>　信仰という"高尚"なことだけではなくて、たとえば恋愛という事柄ひとつとっても同様でしょう。愛する人を「見なければ」恋愛できないわけですよね。例外的に見なくても恋愛できる人がいるかもしれないけど（笑）。でもまあ、通常は「その人」に会い、顔や形姿を見てこの人はいい、素敵だと思って好意を抱きますよね。で、好意から恋愛に発展する。つまり「見る」ということでいうと、これはもう客観的・理論的な知性のはたらきなわけです。その女性（あるいは男性）はどういう者なのか、美しいのか均整がとれているのかどうかなどを「見る」わけです。そして、見ることで好意を抱き、好意を抱いたとたんに実践的知性の対象になってしまう。じっさいに何を実践するかは、人さまざまだとしても（笑）。つまり、好意を抱くと、さらに見たくなる、知りたくなるのです。そして、どのように言葉をかけて接近すればよいか......。恋愛と知性は別物のように思われがちですが、好意を抱くこと、すなわち愛するということにも、その愛がどのようなかたちであれ、知性が強くはたらいているのです。</p>

<p>　見ることは知ることであるという言葉を思い出してください。愛があって後に彼女（彼）を知るのか、知ってから彼女（彼）を愛するのか。信仰も同様です。信じてから知るのか、知ってから信じるのか。いつもわれわれはこの二律背反にさいなまれているのではないか。だから、人間の知性の両面性を別々のものとして理解してはいけないわけです。ひとつの知性に、ふたつのはたらき方あるのです。相手が何であるかを客観的に知るということと、その相手を愛するとか欲するとかなにかを為すとか、知性にはそういうふたつのかたちが"同時に"あるわけです。</p>

<p>　「善く為すとは、よく知ること、観想すること」とアリストテレスも述べている。善き行いと、知ること、観想することは窮極的には一体である、といっているわけです。部分的にはズレも生じていますが。</p>

<p>　誤解を防ぐためにいっておきますが、ここまで魂の重要なはたらきとしての「知性」を見てきましたが、善く為し、よく知るうえで「理性」は不要であるといっているのではありません。知性と理性は相補的な関係にあって、これもどちらか一方だけでは、ダメなのです。ヌース（直知、直観的知性）が根幹にあるけれども、ヌースの不完全性ということも考慮にいれておかねばならない。人間の直知の身体的限定、つまり多様で不確定な個別的な事柄に対しては、それを理性の確実性によって補っていかなければならないのです。</p>

<p>　直観がしばしば人をあざむくことがあるのもそうした事柄と関連してきます。恋愛でも一目ぼれが失望にかわることがあります。深刻なのは宗教的問題です。神を見たと称した人が、あるいは自ら神（または神の生まれ変わり。使者）と称した人が、弟子たちに、この世では許されていない命令を出す場合です。盲目的信仰といわれるものです。そういうわけで、宗教の世界に、「知解」を求める欲求が出てくるのです。可能なかぎり論理的に理性的認知ができる神理解が生じます。それが「神学」というものでしょう。</p>

<div class="sub2">--　夢と責任、そして愛　--</div>
　さて、ちょっと脇道に逸れますが、つい数日前にアリ研のメンバーの一人から、村上春樹の小説『海辺のカフカ』に「夢に責任を持つ」という言葉が出ており、これはどのように考えればよいかというメールがありました。また、別の会員から、小野二郎の『ウィリアム・モリス　ラディカル・デザインの思想』に「夢の責任」という数ページがあり、ちょうど読んでいたところだけど、そこに「夢の責任は『教育』がとらねばならない」という一文があると教えてくれました。まさに夢のようなこの偶然の一致に少し驚きましたが、驚いたついでに（笑）、この「夢の責任」という言葉から、知性と愛の話を進めてみましょう。

<p>　この言葉がどのように使われているか、両著の文脈はいまは無視させていただきますが、一見なんの関連もないように思える、この夢と責任という言葉にはどんな関係があるのか。</p>

<p>　ここまでのお話である程度おわかりかとも思いますが、責任というのは実践的・選択的行為で発生することです。選択する場合には選択する対象（人やモノ）を知らなければならない。選択とは人間の自由な知性的要求の行為です。だから、選択的行為には責任が生じる。知ったことを自由に選択したわけですから、そこから生じた問題に責任が出てくるのです。</p>

<p>　他方、夢というのは魂の一種のはたらきで、直知を含むものと、アリストテレスは考えている。身体の機能は休んでいるのだけれども、知性のはたらきが残存している。アリストテレスは夢に関して、歴史上はじめて理論的に語った人であるともいわれていますが、彼によれば夢にも知性がはたらいているのです。フロイト以降、近代においては無意識というものの存在が重視されるようになっていますが、要するに無意識のなかでも知性はちゃんと活動している。簡単にいうと、知性が実践的行為と切り離せない以上、やはり知性のはたらきである夢にも責任が生じます。当然といえば当然のことなのです。ですから、この場合の責任とは、行為と夢とが密接に結びついていることを、しっかりと認識しておかねばならないという「責任」が知性にはあると理解しておくことができる......。そして、そのことを教えるのが教育の本来の役目なのです。それは夢だけでなく、祈りとか、希望とか、つまり欲求するという魂のはたらきともつながってきます。</p>

<div class="sub2">--　欲求と三つの愛のかたち　--</div>
　先に、魂には知性の力とは別に欲求する力とがあるといいました。では、欲求とは何か。こんどは、そのことを考えてみましょう。それは、他者を捉えようとする魂の固有の力であると、とりあえず定義しておきます。ちょっとややこしくなりますが、その欲求のなかにも知性的欲求と感覚的欲求とがある。つまり、人間の「知りたい」という知性的欲求と、感覚・五感が欲する欲求とは根本的に違うはずです。

<p>　知性的に知りたいというのは哲学の言葉でいうと「意志」ということになる。意志という言葉は日常でも使いますが、意志は単純に生存本能にもとづいた生理的欲求ではなく、知性が関与している欲求を示す言葉なのです。「意志がある」とは、知ったうえで、知りつつ欲求することであるといってもよい。</p>

<p>　だから、そこには何を欲求するかという選択が生じてくる。その選択の能力のことを自由意志と呼ぶのです。要するに、人間には自由意志がある、だからこそ、前にも述べましたが責任という問題も出てくるわけです。繰り返しになりますが、責任ということを厳密に追求すると「知性」が大きく関わってこざるをえないのです。身心耗弱者には責任を問えない、というあの刑法原則もそこから出てくる。だからヌース（直知）の場合と反対に、選択意志のはたらきが、近代的な意味での理性的、合理的理解だけに留まってしまうと、夢と知性と責任のリンクが切れてしまい、夢の責任を理性的に考えることはできないとなって、「何をいっているのか、さっぱりわからない」ということになってしまうのです。</p>

<p>　夢を眠っている身体のなかに残存する知性的欲求と捉えれば、夢を構成するものとは何かが重要なファクターになってきます。夢の内容として、われわれは何を本源的に知的に欲求しているのか。他方、「教育」は欲求するその知性的な「何か」を人々のなかに形成する機能と役割をもっています。だからこそ、夢は教育とも密接に関わってくるわけです......。</p>

<p>　欲求をさらに突き詰めていくと、その根源には「愛（アモール）」がある。恋愛についてはいまちょっと触れましたが、この場合の愛は、恋愛を含む広い意味でのエロス的なものと考えてもらってよいでしょう。つまり相手と合一しようと願う非常に強い欲求の展開形態と考えておいていただきたい。</p>

<p>　愛に関しては、またあとでも触れたいと思いますが、愛のかたちを取りあえず三つに分類しておきましょう。それは、<br />
<div class="emp2">（1）最広義の愛：本源的、合一的愛。性愛も含まれます。<br />
（2）愛情：選択的に快楽を求める利己的愛。<br />
（3）友愛：相手を見る、つまり知ることの愛で、理性的な愛、他者の善を思考する愛。</div></p>

<p>となります。もちろんこれらは、正義や知性の分類同様、まったく別々に分離されてあるものではなく、複雑に重なり、混じり合って存在しています。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat1/index_3.html">[2-3]へ続く</a></p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［2-3］</title>
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    <published>2008-04-08T05:06:22Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:21:55Z</updated>

    <summary>......そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">......そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">--　正義における欲求、秩序、権利　--</div>
　知性と愛について述べたところで、それと関連してきますので、再度正義の問題にもどってみましょう。配分的正義を取り上げるとわかりやすいでしょう。

<p>　配分的正義というのはA,B,C...という複数の人たちにモノを分ける、各人に各人のモノを等しく分配することですね。ということはA, B,C...といった個別の人たちが基本的に等しい存在であるという前提がないと、配分的正義というのは成り立たないわけです。つまり、基本的に、モノを受け取る人間、配分を受ける人間が人間として等しく、万人が平等であるという直観的知性がそこにはたらいているということです。もし、奴隷は人間ではないと判断したら、人間でないのだから配分しませんよね。人間だからこそ分ける。</p>

<p>　家族の場合だってそうです。父、母、子どもたち、すべてが家族の成員だという直観的な認識がそこにあるのです。だからみんなに、役割に応じて配分しましょうとなる。貢献の度合いにおいて配分の割合は異なるけど、基本的にはそれぞれが配分にあずかれる平等な主体であるということ。</p>

<p>　正義が成り立つ前提には、人間が基本的に平等であるという直観的理解がある。これが第一。</p>

<p>　第二には、人間が自由な判断主体であることへの直観、いい換えれば、人格の尊厳性への直知がある。</p>

<p>　配分的正義には、いまいった貢献度の違いによる配分差の問題が当然出てきます。ですから配分の割合が間違っていると感じたら、受け取る側には不満が出てきます。たとえば、父親の分け方がおかしいと思ったら、子どもたちはブーブーと文句をいう。つまり文句をいうということは、貢献度に対する主観的な認識が父と子とではずれているわけですよね。ずれが生じたときには自由に抗議することができる。配分された主体が異議申し立てをでき、配分するほうもそれを考慮するということ。その際、重要な意味をもってくるのが、この自分の意志を相手に伝えることを可能にする「言葉」です。</p>

<p>　言葉が大事になってきます。人間だけでなく、家で飼っている犬や猫などにも食べ物などを分けあたえることはあるけど、犬や猫は言葉で異議申し立てができない（笑）。だから、言葉を持った人間が正義の主体であると、アリストテレスもいっているのです。</p>

<p>　三番目は、質的差異を量的差異に還元することの可能性を直知すること。家族でいえば、父親は外で仕事をし、母親は家で家事を行う場合、これは質的にまったく異なる内容なのだから、量的に文句が出ないように"公正に"配分するなんて、本来はおかしなことなわけですよ。端から無理がある。</p>

<p>　しかし、貢献度が質的に違っているのに、分けるときは量的に分けてしまうし、人はそれを納得してしまう。ということは、結局、質的差異を量的差異に還元することを"それなりに"認めているのです。交換的正義も同様です。まったく違う異質な物事を、人間は貨幣という抽象的なもので量に還元することができる。どのような手段で、どのような比率で交換するかは別にしても、質を量に還元できる可能性があることを、人間は直観的に"わかって"いるのです。</p>

<p>　市場価格というものも、こうした個々の人間の還元的知性の、ぼうだいな集積を前提として、市場に表現された結果をもとに成立するものなのでしょう。</p>

<p>　そこで四番目に、闘争と合意形成のなかで還元比率を決定するということが出てきます。だから正義を実現するということのうちには、必ず論争や闘争などの諍いが含まれているということです。久しぶりに聴く言葉かもしれないけど、賃上闘争なんかもそうでしょう（笑）。</p>

<p>　だから今度は客観的秩序、整序（アレンジメント）、法形成をいかに行うかが五番目の正義の構成要素になる。文句をいい合いながらも、社会は概ね「正」の方向に秩序が形成されていくわけです。そうでなければ安定した社会はありえない、と皆が合意する。しかし一方で、受け取る側の人間からいわせると、この正しい秩序形成は権利というかたちであらわれる。権利とは何かというと、正当な要求資格のことです。自分への配分を喪失した場合には、不正と思われる現状を法や権威に訴えて、喪失分を取り戻すことのできる資格のことを権利というわけですね。正義があるときには、必ず権利もある。正義と権利は相即不離の関係にあるものなのです。英語の the rightは、そのあたりの論理をうまく表現しています。正であると同時に権利。the right を客観的秩序の面からみれば"正"、主観的関りの面からみれば"権利"になります。</p>

<p>　このように考えてみると、正義における欲求、秩序、権利というものは、人間のみに固有な、つまり知性の発揮と結びついた本源的な偉大なはたらきです。そしてその正を合意しようとするときに法とか国家というものが形成される。</p>

<p>　繰り返すと、正とは比例的に整序（アレンジメント）された客観的な秩序であるということができます。この正を実現しようとする心的傾き（ヘクシス）が正義であり、徳（アレテー）としての正義です。正しい社会関係・権利を実現しようとする持続的な知性の構え、すなわち徳が人における正義なのです。</p>

<p>　アレテーというアリストテレスの言葉も、日本語に非常に変換しにくい単語で、「卓越的力量」という訳語もありますが、いまは「徳」としておきます。徳が人における正義であるとした場合、徳を身につけるための場・方法として、さきほどからいうように、教育のあり方がきわめて重要になってきます。それはいうまでもなく、政治のあり方とも深く関連してきます。</p>

<div class="sub2">--　国家論と教育の重要性　--</div>
　アリストテレスの政治学全般からうかがえる特質は、教育とは正義と友愛を養うことであると主張されている点です。『政治学』の第八巻が教育論で終わっていることを見ても、それはわかります。

<p>　昨今の日本社会に見られる教育への根本的疑念は、正義というものが、教育のなかで「徳」として子どもたちに形成されているかどうかにあるのではないでしょうか。あるいは教師と生徒たちの間に正義に基づく関係が実現しているかどうか。そこがもっとも本質的な問題であって、それをどういうふうに形成しなければならないかに、われわれは知恵をしぼらなければならない。そのための本質的な議論がないがしろにされているような気がしてなりません。道徳教育や「徳学」の奨励などという形だけの方法論ではなく、その目的、本質に踏み込んだ議論をしなければならない。そこには、「国」とは何かといった論議が当然あっていい。</p>

<p>　私は正合意論としての国家論こそ現実世界に対するアリストテレスの思考の根幹であり、最大の遺産であると思っています。つまり、現代のわれわれにとって彼の哲学が真に有効な意味を持つのは国家論を内包した正義論なのです。善き国家、すなわち正義の国家を建設しようとする行為と学問こそが、人にとってのもっとも高貴な行いであり、活動であるということをいっておきたい。</p>

<p>　最近、お国のために死ぬことの重要さ、美しさが取沙汰されていますが、人が自らの命を捧げる国家自体が何かを把握せずに一方的に国への奉仕が説かれるならば、それはやはり大いに問題です。正義を担う国家だからこそ、人は自らの命まで捧げる。ということは、いま大切なことは、国家とは何か、正義と国家とはどのような関係にあるかを明確にすることではないでしょうか。欧米の議論の根幹もそこにあるのであって、日本にはこうした視点が弱いように思われます。</p>

<p>　その正義・正が日本ではどこの教育現場でも、まったく教えられていないのではないでしょうか。いつもきまって統治機構論だとか政策論だとか、また、手段の合理的あり方（合理的選択理論）だとかね、そういうことばかりで、正義とは何かということをきちっと考えて教えていない。だからいつも問題が露呈すると、目先の合理的解決に走り、問題の本質を先送りにしていくことになる。もちろん、早急な合理的解決の必要な局面も現実世界にはあり、その手腕をとわれることもあります。しかし、本質的な議論を踏まえて、考え、行動していかないと同じ場当たり的な対応が繰り返されるばかりで、けっして世の中全体がよくなることはない。だから、国家論に関してはまた別の主題になりますのでこれ以上立ち入りませんが、こと教育に関しても、私にいわせれば「アリストテレスに還れ！」ということになるんです。</p>

<div class="sub2">--　宜しき人へ　--</div>
　ということで、ここからは「愛」についてもう少し考えてみましょう。しかし、アリストテレスにおける愛論は、これもまた非常に奥の深い"こみいった"話になりますので、ここでは正義論に関連する重要なポイントを抑えておくだけにとどめます。

<p>　正義に関連する愛とは友愛、すなわち知性のはたらきが強い愛のことですが、アリストテレスにおいて愛は「他者の善を希求することである」と、規定されます。同様に正義も善を希求することですから、愛と正義は重なっており、友愛がなければ正義もないということになります。ある意味で他者とは未知の存在ですから、未知なものに対する好意がなければ正・正義もありえません。したがって、友愛の徳と正義の徳とは内在的関係にあるという言い方もできます。</p>

<p>　これまでの話から理解しておいていただきたいのは、●敵とは正義をともにしえない、●家族が正・正義の起点である、●現在の教育現場でも問題になっている「いじめ」とは正義の対極、奴隷主的統治のことであり、いじめの克服は正義の徳の養成以外にない、という三点です。</p>

<p>　ここで新しく、アリストテレスの重要な言葉を提示しておきましょう。愛と正義の接点にあるエピエイケイア「宜（よろ）しさ」という言葉です。これはアリストテレスのなかでも独特な言葉ですが、一般にはあまり知られていないようですので、彼の書物のなかから二，三引用させてもらいます。エピエイケイアとは法的正義と友愛の中間であると考えるとわかりやすいのですが、私はこのエピエイケイアの喪失こそが現代社会の諸問題の要因にもなっているのではないかと思っています。「戦略的人間から知慮的人間へ」ということを前回お話しましたが、さらにいえば「宜しき人間（エピエーケース）」を目指すことが、正義の実現にとっては欠くことのできないことであると、私は強く指摘しておきたいからです。<br />
宜しき人とは、「正」であっても法に則してのそれではなく、かえって法的 正義の補完、......杓子定規的ではなく、むしろ法が自分に有利であっても過小に取るというたちの人である。（『ニコマコス倫理学』第五巻第十章）</p>

<p>　わかりやすいように、前にいった例をもう一度あげると、お餅を家族で分ける場合、きまった割合で公正に分けるのは配分的な正義ですよね。それに対して、父親が自分の感じたところで、たとえば一番下の子の取り分が少ないと思ったとき、自分の餅をその子に少し"余分に"分けてあげる、といったようなことがエピエイケイアです。つまり杓子定規ではないかたちで正義を実現しようという姿勢です。</p>

<p>　それゆえ宜しき人は誰よりも自己を愛する人であるといってよいが、しかし非難される類の自己愛者とは別の人であり、両者の異なりの程度は、理性に基づいて生きることと、情念に基づいて生きることとの相違、あるいは美しいものを欲求することと、利益になると思われるものを欲求することとの相違に対応している。......宜しき人は知性に従う。立派な人に関して、彼が友や祖国のために多くのことをなし、必要な場合には友や祖国のために死ぬこともある、というのは真実である。なぜなら、立派な人はお金や名誉や、その他一般に争いの的となるもろもろのよきものを投げ出し、自分自身に美しいものを確保しようとするからである。（『ニコマコス倫理学』第九巻第八章）</p>

<p>　父親が子どもに自分の分をあたえるのは、配分的正義に対抗しようとしてそうしているわけではなく、自分自身に父親像として「美しいもの」を確保しようとして行うわけです。彼の取り分は父親としての美なんだ、と。美でもって正義を実現していこうとする態度（ヘクシス）を具えている人。それが宜しき人ということです。</p>

<p>　人間の弱さに寛大さをもって臨むこと、法にではなく立法者に、法の条文にではなく制定した人の立法の精神に注目すること、......蒙った被害よりも受けた恩恵のほうを、自分が与えた恩恵よりも自分が受けた恩恵のほうを思い出すこと、不正を受けてもこれに耐えること、直接行動に訴えるよりも言論によって黒白をつける、法廷の判決を仰ぐよりも調停にもっていくこと。（『弁論術』第一巻）</p>

<p>　以上のように「宜しさ」というのは、愛と法的正義の中間にあるということです。アリストテレスが正義論のなかでこのように論じているのは非常に重要なことで、彼の正義論ならではの大きな特徴になっているということを強調しておきます。</p>

<p>　「宜しさ」というのは現代の日本では、なじみの薄い、あまり使われることのない言葉です。しかし、この言葉をもとにして、現代社会の「いじめ」など、身近なさまざまな問題を考えてみてはいかがでしょう。世の中の不正、あるいは社会の窮屈さとか息苦しさといったものは、「宜しさ」の喪失と関連している場合が多いと、心に思いあたることがあるはずです。</p>

<p>　宜しさの中間的性格に関連して、全体的正義と部分的正義についても、少し補足しておきましょう。</p>

<p>　家族の例でいいますと、それぞれの取り分を権利として主張・要求することができるというのは正義ですよね。父親は父親の、母親は母親の、子どもは子どもの取り分を要求する。しかし、みんなが要求するとき、それぞれの要求がうまく合致すればいいのだけれども、要求が食い違ったときに、たとえば父親なら父親が全体を見る観点から、母親はこう、子どもはこうといったかたちで調停することがあって、家庭の正義が保たれる。父親だとか政治家などは、自分"個人の"正義から取り分を要求し配分するというよりは、全体的な観点から正義を実現する必要が出てくるわけです。そのように正義を部分的正義と全体的正義として分け、その部分の「間」で全体的に調停していくことにも「宜」、つまり「宜しさ」が問われてくるケースがあるということです。</p>

<p>　それで、全体的正義の立場から当該の家族とか村や町とかを正義に基づいた秩序ある集まりにしようというときに、とくに要請されるのが、前回のテーマである「知慮（プルーデンス）」です。もうおわかりかと思いますが、知慮とは、正義を現実世界において実現するための知的徳、より正確にいえば、正の目的を知的に宜しく直観し、それをさらに具体的状態において正しく手段化する心の傾き、別の言葉でいえば正にかなった宜しい知性と理性の結合、それが知慮です。いままで述べてきたことは主に直知のはたらきでしたが、現実の社会にそれを適用しようとする、そうした宜しき目的を適切な目的-手段の関係のなかに入れて、より具体化しなければなりません。家でケーキを配分する際にも、適切な計量の機器とかケーキをきれいに切るナイフとかの道具が必要であるように、企業でも国家でも具体化のためのぼうだいな手段が必要となります。知慮とは、従って宜しき目的を宜しき手段を用いて実現する力量であり、そこで計算理性も必要となってきます。頭のキレが要請されます。今回の知性と理性の議論をふまえて。少しくわしく知慮を分類してみましょう。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat1/index_4.html">[2-4]へ続く</a></p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［2-4］</title>
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    <published>2008-04-07T05:15:08Z</published>
    <updated>2010-04-30T02:42:08Z</updated>

    <summary>……そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ荒木勝（岡山大学教授） —　愛と勇気...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">……そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">—　愛と勇気なきところに正義はない　—</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 8px 0px 0px 0px; color:#8b0000;">　1.　先見性 providentia</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 0px 0px 5px 14px; color:#333333;">遠くにあるもの、つまり未来を現に生起しているものへと、目的-手段関係を合理的にとらえて秩序づけること。これには規範的先見性と理論的先見性が含まれる。</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 8px 0px 0px 0px; color:#8b0000;">　2.　鋭敏 solertia</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 0px 0px 5px 14px; color:#333333;">頭の回転、勘のよさ。直観的に目的-手段関係の推理を行うこと。</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 8px 0px 0px 0px; color:#8b0000;">　3.　順応 docilitas</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 0px 0px 5px 14px; color:#333333;">よき耳を持つこと。つまり他人の話をよく聞き、学ぶことのできる能力。個別には無限の多様性があるなかで、他者、とくに経験者、権威者に教えをこう姿勢。精励が必要とされる。</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 8px 0px 0px 0px; color:#8b0000;">　4.　計算・推理的理性 ratio</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 0px 0px 5px 14px; color:#333333;">計算合理性の徳。全体的正義を実践するうえで、とくに会社経営者などには、なくてはならぬ能力。</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 8px 0px 0px 0px; color:#8b0000;">　5.　洞察力としての知性 intellectus</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 0px 0px 5px 14px; color:#333333;">究極的な基本命題への直観的な正しい判断力。感覚的知性的判断力であり、超感覚的知性も含まれる。もっと細かく分けると、熟慮euburia（よく思量する）、聡明synesis（個別的例外的偶然的事象への理解力）、明察syngnomeなどもこの知性の一部で、例外的な事象といえども、相手とともに考えること、相手の身になって考えることともいえる。「引きこもり」や障害者への理解・配慮にはこの知性がとくに必要。「現場」を知ることの重要性がここから生じます。</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 8px 0px 0px 0px; color:#8b0000;">　6.　熟考（目配り）circumspectio</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 0px 0px 5px 14px; color:#333333;">個別的事象は、多くの事柄が同時に生起するので、ある事柄を目的へと適合させるためには、周囲の状況への目配りが必要。</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 8px 0px 0px 0px; color:#8b0000;">　7.　慎慮 cautio</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 0px 0px 5px 14px; color:#333333;">個別的事象には、真と偽、善と悪とが混ざり合っている。悪しきものは、往々にして善の外見をまとうので、それを慎重に見極めるための知性。</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 8px 0px 0px 0px; color:#8b0000;">　8.　記憶 memoria</div>
<div style="font-size: 13px; padding: 0px 0px 5px 14px; color:#333333;">多くの蓋然的なものを経験し、知として蓄積すること。過去の事柄から未来を推論する力。</div>

<p>　これらの知慮が発揮される場として、自己（魂の諸力の整序）、家、地域、企業・諸団体、国家、国際機関などがあります。</p>

<p>　知慮のそれぞれの面は別個に存在するものではなく、互いに結びついているものですが、いまの社会はそれが狭い範囲のなかで、部分的にしか検討されていない。また、知慮の多様性は、自己のなかでも魂の諸力としてアレンジメントしていく必要がある。全体をとらえる広い視野と、個別の状況に応じた明確な決断力が同時に問われます。ありきたりな言葉ですが、そのためには、愛と勇気が欠かせないことはいうまでもありません。</p>

<p>　愛と勇気なきところに正義もない、ということを肝に命じておいていただきたい。</p>

<div class="sub2">—　「正」のための実践的三段論法　—</div>
　ここに挙げた以外にも、知慮には、前にも少し述べたように、怜悧とか、ネガティブにいうと邪知というような側面があります。どういうことかというと、たしかに正義というのは比例的配分を実現しようとする徳なのですが、怜悧とか邪知というこれらの知慮の側面は個人的・部分的「欲求」ということに着目した心のあり方なのです。しかし、全体的正義を実現しようとするときには、欲求よりも知性と理性による人間と世界（共同体全体）への理解が求められる。そのため、この知慮の分類のなかには、このような欲求的知慮は含めていません。

<p>　さてそこで、知慮の実践ということに移ります。正義を行うには、平等（“均一”ということではない）に配分されるべき対象と資源に対して正しい認識がないといけない。重要なのは、善悪・正邪の事柄を正しく判断し実践しようとする心的傾き（ヘクシス）に加えて、実践的三段論法、目的-手段の合理的選択といったことが必要になってきます。つまり全体的正義を実現するためには、まず、目的と手段を正しく認識し、正確に“計算”して遺漏のないように配分しなければならないからです。そういう点では、きわめて合理的な理性がないと正しい配分ができない。冷静に判断をして持てる資源を適切に配分することがもとめられているわけですから。そういう意味で、実践的三段論法を駆使した推理の力を養う必要がある。</p>

<p>　しかし推理力だけでは、いまいった怜悧だとか邪知と訳される狭い意味での正義の範囲を出ることができない。知慮がほんとうに正しく発揮されるには、先に直知という言葉でいった感性的な知性認識が「現場」で必要になってくる。配分にあずかる市民とか子どもたちがいま、現にどういう状態におかれているのかを頭のなかだけの資源配分で考えるのではなく、現場に身を置いたうえでの直観的理解がどうしても欠かせないのです。つまり、現場において個別をとらえる感性、共感的知性がないところで、机上で考えた合理的配分をしたってダメなんです。中間管理職の悩みもその辺りにあるのではないでしょうか。上司の命令を現場で実践しようとすると部下の眼が気になる。あまりに理不尽な命令は、たとえ上司の命令であっても言い出せない、といった葛藤が生じるからです。</p>

<p>　それから、もうひとつの知性の力はなにかというと「観想」、要するに全体を眺めることです。実践的普遍的命題への直知、間主観的合意。これはどういうことかというと、長い歴史的な経験のなかで蓄積されてきた社会的通念はよく知っておかないといけない。しかし、社会的通念、慣習的判断基準に合わせることだけを考えて、合理的な配分、処理をするだけではやっぱりダメなんです。それを超えた直知のはたらきがなければならない。社会的な通念などは絶対的なものではなく、間違えであることがよくある<span style="vertical-align: super; font-size: 11px;">★1</span>。つねに社会の現状を批評する目を持っていなければならない。その目を、いまここでは“神的”直知と理解しておいていただきたい。くどいようですが、知性と理性の両方を、知慮の持っている力、はたらきとして腑に落としておく必要があるのです。</p>

<div class="quo2">★1：私自身、2007年9月の岡山県牛窓のアリ研合宿のなかで、そのような直知の実例を知って大変びっくりしました。アリ研のメンバーの方の会社の歴史を聞きましたが、祖父の方で大本家制という独特の家—会社制度を作り出した、というのです。その際、祖父は「この制度は 100年をひとつの節目とし、現行の国家制度にあわなくとも、天理にもとづく家則は行われるだろう」といったというのです。祖父の方の観想知が表現されています。興味のある方は『近代日本における地主経営の展開—岡山県牛窓町西服部家の研究』（御茶の水書房 1985）を読んでください。</div>

<p>　さて、アリストテレスの実践的三段論法の例証をあげてみましょう。<br />
<div style="font-size: 13px; padding: 0px 0px 15px 0px; color:#8b0000;">　A　軽い肉は健康によい。＜基本命題＞<br />
　B　鶏肉は軽い肉である。＜個別命題＞　したがって<br />
　C　鶏肉は健康によい。だから豚肉より鶏肉を食べるべき。＜結論＞</div></p>

<p>　Aの基本命題は、一般的通念としてある時代ある社会が共有していた理解です。その次には何が軽い肉かということを発見しなければならない。それが Bの個別命題の「鶏肉」です。これは些細なひとつの事例にすぎないけど、このような個別の発見を無数におこなって実践的なある決定に結びつけなければならない。それによってCの結論が導きだされるわけです。</p>

<p>　もうひとつ。<br />
<div style="font-size: 13px; padding: 0px 0px 15px 0px; color:#8b0000;">　A　人間を奴隷にしてはいけない。<br />
　B　黒人は人間である。<br />
　C　黒人を奴隷的にあつかってはいけない。</div></p>

<p>　上と同様にAは基本命題。この例でも問題は、Bの「黒人は人間である」という個別命題。つまり、いまでいえば当たり前のことだけど、少し前の時代には、黒人を人間として認めず売買してもよいという社会通念があったのです。黒人は人間であるということを判定する基準はどこにあるかというと、やはり「現場」における触れ合いのなかで直観的知性によって気付くことから形成されるわけです。先ほど直知は批評であると述べましたが、個別命題の設定次第で、基本命題や結論にも変化が生じることは理解できると思います。</p>

<p>　みなさんも、たとえば家庭や、学校、企業のなかで女性や子ども、経営者や従業員などに置き換えて、身近な問題をこの三段論法で実践的に考えてみていただきたい。社会通念（常識）と現場における個別的な実感の往還のなかで問題をとらえ直してみてほしいのです。</p>

<div class="sub2">—　「幸福」は計算できない！？　—</div>
　さて、長々とお話しましたが、きょうの講義をトルストイの『イワンのばか』を紹介することで終わりたいと思います。これはトルストイ晩年の傑作だと思いますし、本講義のテーマ「戦略的思考を超えて」のひとつのまとめとしてもふさわしい。つまり「個別的な目的-手段関係の合理的計算」を超えて知慮的人間へ、さらに宜しき人へといたるために、政治と宗教の相克からいかに脱皮するかが、いま、この社会に生きる私たちに強く求められているからです。

<p>　ご存知の方も多いと思いますが、本日の話をふまえて、もう一度このロシアの民話をもとにしたトルストイの小噺を読んでみていただきたいと思います。『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003261925?ie=UTF8&tag=cafeface-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4003261925">イワンのばか</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=as2&o=9&a=4003261925" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』は岩波文庫版に九編収められたトルストイ民話集の総タイトルで、「イワンのばかとそのふたりの兄弟」というのがそれです。</p>

<p>　三人の兄弟が三つの力として象徴的に表現されています。</p>

<p>　軍事的力（暴力による統治、併合）を象徴する長男（セミョーン）、経済力、貨幣、「頭ではたらく」合理的知性による富の獲得を表す次男（タラース）、それと「宗教的無知」の知の力、自然の贈与、「額に汗する」自己労働、共有、無抵抗平和主義を示す三男（イワン）がいます。</p>

<p>　その三兄弟に、親分格である老悪魔と、やはり三人の小悪魔が絡み、協力するように見せかけながら、この兄弟たちを亡き者にしようと、いろいろな悪さを仕掛けてくる。末っ子のイワンをのぞく二人の兄弟はまんまと小悪魔たちの思うつぼにはまるのですが、「ばか」なイワンだけは、なかなか意のままにはならない。</p>

<p>　いくつかの経緯を経たのち、三人の兄弟は三人とも自分の国を持つことになる。その国に敵が攻めてきたり、悪行がはびこったりする。もちろん悪魔たちが仕組んだ仕業なのですが、それによって「ふたりの兄弟」の国は滅んでしまう。しかし、イワンと彼の国の民たちは、他国のように泣いて逃げ回るどころか、悪魔やふたりの兄弟の要求をなんでも受け入れてしまい、彼らが予想もしない方法で無理難題を解決してしまう。攻めても攻めても抵抗しないものだから、しまいには攻撃する側が気味悪がって、撤退してしまうというようなお話。</p>

<p>　たとえば、経済的に金持ちになる方法（簡単にいえば、金が金を生むといったような、現代でいえばデリヴァティブを使って「市場経済」において金持ちになる技術）を悪魔が教えようとする。でも、イワンや農民たちはそんな「頭」ではたらくことはしたくない、畑で汗を流しながらはたらくのが一番の幸福、それだけで十分だと「ばか」の一点張り。つまり、理屈で抽象的に金儲けする話にぜんぜん耳を貸そうとしないものだから、けっきょく悪魔は説得に疲れ、逆に痛い目に遭って退散してしまう。イワンたちにとって金貨はキラキラしていてきれいだから、子どものおもちゃとしてはいいけど、遊具としてある程度あればそれ以上多くはいらないというわけです。</p>

<p>　ここでは軍事的力よりも、また経済的力よりも、宗教は無知の方が勝利する、とされています。トルストイが到達した地点がいかにもあざやかに示されています。だが、現実の世界は、宗教的な無知の知・共有・無抵抗的平和主義だけでほんとうに救われるのかという問題が残ります。この世界では、政治はつまるところ軍事的暴力であり、経済は投機的な、計算合理的な富の獲得でしかないのか —— 。トルストイの思考に私自身強くひかれると同時に、そのトルストイの世界に、正義の論理の欠如、知慮論の欠落を見てしまうのです。現実の政治が暴力的な力ではなく、正義の力によって解決されるものでもあること。経済もまた、正義にもとづく富の獲得でもあること、こうした思考の弱さをトルストイに感じてしまうのです。</p>

<p>　そして、こうした思考傾向、現実の政治や経済の変革ではなく、疲れはてて窮乏的に宗教的世界に救いを求めてしまうことは、私たちにも無縁ではないことを痛感します。この、トルストイの限界を越えること —— ここにアリストテレスを学ぶ重要な意義のひとつがあるのではないでしょうか。宗教それ自身の意味はまた、幸福論の問題として別に論じる予定ですが。</p>

<p>　アリストテレスからそのような「考え方」、知慮のヒントを学びとることにこそ、彼の哲学をいまに甦らせる意義があり、そういう意味でアリストテレス哲学の射程は、まだまだこれからの未来へと延び広がっているのです。</p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［1-1］</title>
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    <published>2006-08-17T05:39:03Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:22:40Z</updated>

    <summary>ストラテジックな人間からプルーデントな人間へ荒木勝（岡山大学教授） --　哲学は...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">ストラテジックな人間からプルーデントな人間へ<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="a003_01.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/a-ken/images/a003_01.jpg" width="460" height="345" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span>
<div class="sub2">--　哲学はなぜむずかしいか　--</div>
　きょうはアリストテレスと現代との関わりということでお話をしようと思っていますが、その前に、なぜ「講演」というかたちで話をすることにしたのか、簡単に述べておきたいことがあります。

<p>　アリストテレスが書き、あるいは講議したものは、日本語でも岩波文庫、それから『全集版』などで一応読めるようになっています。しかし、みなさんも多分感じているとおり、非常にむずかしく訳されていて読みづらいことこのうえない。これはもう、ある意味で日本における「哲学」の宿命みたいなもので、明治の時代に西周（にしあまね）という人が中心になって訳したと思われますが、日本の日常語のなかに西洋哲学の用語にあてはまる適当な言葉がないからです。うまく該当する言葉がないものだからどうしたかというと、結局、主として仏教の言葉を借りてきて、苦労のすえに造語をしたわけです。そのため、日常語と哲学用語がそこで乖離を起こしてしまった。それ以来、われわれ日本人の日常生活のなかに西洋哲学は根付かず、遠ざかったままの状況になってしまっているのです。</p>

<p>　ですから、アリストテレス哲学の、特に『形而上学』なんかは最初から読めたものじゃないような日本語の文章になってしまっているのです。これはある意味で仕方のない面もあるのだけれど、ギリシャ語で彼の本を読みますと、それはすべて当時のギリシャ人の日常用語から借りてきた言葉で書かれている。日常的にギリシャ人たちが普通に使っているような言葉で世界とか自然とか人間とかというものを分析しているわけですから、たいていのところは普通のギリシャ人でもわかるのです。ところが日本語になってしまうと、どうしても、抽象用語がいきなり出てきて、きわめてわかりにくい、像を結ばないような文章が連続してしまう。そのことに非常に大きなギャップを感じています。私自身、自分で翻訳を試みていますが、やっぱりむずかしいといわれることが多い（苦笑）。そこで、なんとか日常用語を使いながら、みなさんにもできるだけわかりやすくアリストテレスの世界を示してみたいということが、いまの私の問題意識であり、 "話言葉"での「講演」というスタイルをとった理由のひとつです。</p>

<p>　それからもうひとつ、これまでの西洋哲学のなかの伝統でいきますと、どうしても、たとえばアリストテレスだとか、カントだとか、もちろん近代の哲学者といわれる人も、だいたいが論理だけで世界を構築しているというふうに、専門、一般に限らず考えられているわけです。しかし、そういう論理的な思考だけでは、どうしても人間や世界の本質に迫れないのではないか。あるいは、むしろ「本質」などといったとたんに、意思疎通ができなくなるんじゃないか、という疑念も感じています。そういうような問題提起が、「アリストテレスと現代研究会」（通称「アリ研」）にも出されています。</p>

<p>　私には、ヨーロッパ近代のギリシャ哲学理解自体に、そもそも根本的な問題があるんじゃないかという感じがものすごくあるのです。たとえば、ヘーゲルのアリストテレス理解を見ますと、ヘーゲル独自の体系があるものだから、ずいぶん乱暴にアリストテレスやギリシャ哲学の世界をばさばさと切り分けてしまう。それでは本当に理解したことにはならないのではないか、というのが率直な私の印象なんです。もちろんヘーゲルだけじゃなくてカントもそうですし、それからあとでちょっとお話するホッブスなんかでもそうなんですけど、ヨーロッパの近代の人たちというのは本当にちゃんとアリストテレスを読んでいたのかというような感じを受けるほど、ガチガチの論理の世界で切ってしまっている。ですから、もういっぺんアリストテレス哲学の原典に戻って、しかも現代の日本社会と照らしながら、われわれにとって身近で切実なところで、みなさんの"顔"を見ながら、みなさんの感性とのやり取りのなかで哲学を見直してみたいというのが私のひとつの動機としてあります。</p>

<div class="sub2">--　大企業トップの発言から　--</div>
　さて「戦略的思考を超えて」というテーマですが、これはここ数年、日本という国や日本に住むわれわれが直面しているさまざまな問題を考えていくと、やっぱり、モノに対する、あるいは人に対する接し方の所で根本的な問題が起きているんじゃないかなという強い印象から、このテーマが浮かんできました。企業にとっても、個人としての人間にとっても、なによりもまず、自分というものが中心にあって、自分自身のために経済的な利益だとかそういう欲求を実現したい、という思いが先に立ってしまっているような気がします。

<p>　このような欲求は多かれ少なかれ、誰しも抱くことだし当然のことだと思うのですが、それを中心的な第一の目的にしてしまうと、「他者」を自分の利益を実現していくための手段としてしか見れなくなるわけです。そういう傾向が引き起こすさまざまな問題が一気に、もう、どうしようもない形でいまの社会に露呈しているのではないか。逼迫した切実な問題として、いろいろな局面で噴出している。もしそうであれば、この現状を何とか超え、突破していくための"共通理解"を作っていく必要があるというのが、いま社会全体が問われている一番大きな緊急の課題だと感じています。</p>

<p>　そのことを私に具体的に痛感させるきっかけになったひとつの事柄は、アリ研の会員のひとりからメールで紹介をしてもらった大手自動車会社の社長の発言です。これには２種類ありまして、その人が社長に就任したときの話と、それからこの４月の話とあるのですけれども、この２つの演説を対比して非常に印象深かったのは、とくに２回目の話のなかで「正義」という言葉が出てくることです。企業の社長から正義という言葉が出てくるってこと自体が、私にとっては非常な驚きであって、なぜ彼が正義ということに触れたのかなということを中心に、ちょっと考えてみようということにしたのです。</p>

<p>　みなさんのなかにはご存知ない方もいらっしゃると思うので、私なりにちょっと整理をしておきますと、その社長は３つの柱を立てて問題を提起されています。この会社は世界企業として突っ走ってきて、その規模や収益からいっても日本企業のなかでダントツで、ここ数年で世界のトップを窺おうというようなところまで達した。しかし、その企業の原点はあくまで「ものづくり」にあり、その会社が目指さなければならないことは利潤の追求よりも「夢の車づくり」だ、と述べているのがまず第一点。ひとことで夢の車づくりといっても、現実にはそれに関わるいろんな複雑な問題が出てくるわけで、夢の車づくりという以上、「人間にとってふさわしい車とは何か」ということが当然そのなかに入ってくる。そうなると「人間とは何か」「人間にとって夢とは何か」という根本的・哲学的問題を、企業の人も真剣に考えないとこれからのものづくり、車づくりはできないという段階に達したのではないかという思いが強くしたわけです。</p>

<p>　第二点は、「高い倫理性」ということを大きく採り上げていたという点です。そこに「品格」という言葉が用いられているんですが、これもアリ研のメールで一時よく出てきた「国家の品格」とか「武士道」だとかとも関連します。20〜30年前に日本がバブル期にあったことを考えるとまさに隔世の感がします。「武士道」は前からあったので別にしても、「品位」とか「品格」とかね、そういう言葉を現在非常に多くの人が、特に社会のリーダーと目されている人がいい出すというのはいったいどういうことなのか。私にとっては大きな衝撃でもありました。そして、品格という言葉の関連で、この社長の口から「正義」とか「信義」という言葉が出てくるのです。ですから、ものづくりへの情熱を原点にして「高い倫理性」「正義」「信義」に則った会社をつくるという、これが彼の話の柱になっているのです。</p>

<p>　第三点は、以上のことを踏まえての具体的展開ということで、いろいろとお話になっています。たとえば、ものづくりに関連しては品質管理の問題だとか、それから倫理性だとか品格という問題でいえば社会貢献活動だとかコンプライアンスだとかの重要性を述べておられます。両方に関わっているんだろうと思うのですけれども、他社を凌駕し他社を圧倒する企業をつくるとか、そのための人材育成の必要性だとかいうことも強調されています。それから、その具体化のための課題として、政治的、通商的リスクをこれからはしっかりと考えていかねばならない、と。世界的に戦略を考えていったら、たとえばアメリカと日本のいろんな政治的なリスクも出てくるでしょうし、アジアと日本とのむずかしい関係も出てくるわけですけど、それらの障害を乗り超えていくような販売活動とか広報活動とか、そういうものを戦略的に展開していかなければならないといっているのです。</p>

<p>　その話のなかで、これもまた非常に重要な問題を提起されていると思いますが、「良き企業市民とは何か」ということを考えなければならないといっているんです。企業人にとっては当たり前のことかもしれませんが、「企業」と「市民」という言葉が結び付いて使われているわけで、私の専門である政治学の観点からみますと、これはいったいどういうことなのか。企業と市民というのは本来、まったく別のもののはずなのですが、これを結び付けるというのは、何を意味しているのか、と。</p>

<p>　また片方で、「他社を凌駕し圧倒する」あるいは「品質管理を徹底しなければならない」というような発言が出てくる。つまり、この大企業は一方ではやはり当然のこととして、企業として他の競合会社との競争に勝たなくちゃいけない。競争する主体として考えていったら、戦略的に相手を圧倒する戦略戦術というものをきちっと立てて、とにかく相手に勝たなければいけないという、いわば企業人が当然持つべき戦略的思考というのが、原則として浸透しているわけですね。</p>

<p>　ところが、戦略的思考をどんどん追求していくとどうなるか。とくにこの会社のようにこれから世界の頂点に立つというほどの企業を考えたときに、今度は、全体を統治するという問題、車社会全体に対して責任を負わなきゃいけないというような話になってくることは避けられない。さらに車社会だけのことではなく、これだけ企業組織が大きくなると当然、国家とか社会とか文化とかというものと関わり合っていかねばならないということになってくるわけです。つまり、勝ち負けでの論理、これを「戦略的思考」と呼ぶとしますと、もうそのような論理だけに自足している状況ではない。勝ち負けの論理を基軸にした戦略的思考というものを超えていかなくてはならないという段階まで来てしまっている、というふうに私はこの話を読みました。</p>

<p>　それでは、勝ち負けの世界を超えて何を考えなくてはならないかというと、そこにこの社長がいった「正義」の問題が出てくる。ということで、この日本の大企業そのものが正義論、すなわち正義とは何かという問題を根本的に考えていく段階が到来したんじゃないか。そういう意味でいうと、いまは、一企業のみならず日本の会社社会全体が、大きな転機に来ているんじゃないかという気が、私にはしています。</p>

<p>　あまり認識されていないかもしれませんが、一般的に「会社」を示す「カンパニー」という言葉自体がじつはその問題を本来的に含んでいるのです。「カンパニー（company）」という単語には、ご承知のとおり「com」という接頭語が付いています。これは「together（共に、一緒に）」という意味ですが、その後にくる「pany」は何かというと「パニス」というラテン語から来た言葉です。あの、食べる「パン」のことです。まさに、「一緒にパンを食べる仲間」というのがカンパニーの本来的な意味で、「一緒に乳を飲む仲間」だとか「一緒に櫃（ひつ）を共にする仲間」だとかというような形でアリストテレスの『政治学』の第一巻のなかにも登場してくるものです。要するにカンパニーというのはもともとそういうものだったのです。だからどの会社も企業も、みんな最初は家族的、同族的な形で始めざるをえない。これはどこの国の社会でも同じようなものです。</p>

<p>　だから当然のことながら、この大手自動車会社も同族会社的な所からどんどん成長、発展してきた。同族会社的な結集力をもって敵とも戦ってきたわけです。ところがものすごく大きくなって、自分の存在自体が相手を殲滅してしまうのではないかというほどの強大なパワーまで持ってしまった。しかし、本当に相手を殲滅していいのかとか、あるいはその影響力の大きさからいって、真剣に社会とどう向き合うべきなのかというような問題になったときに、これまでの発展の仕方、考え方で本当にやっていけるのかどうか、やっていっていいのかどうかという問題が問われてきた、といえます。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat2/index_2.html">[1-2]へ続く</a></p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［1-2］</title>
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    <published>2006-08-16T05:50:52Z</published>
    <updated>2010-08-26T08:43:28Z</updated>

    <summary>ストラテジックな人間からプルーデントな人間へ荒木勝（岡山大学教授） --　「東北...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">ストラテジックな人間からプルーデントな人間へ<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">--　「東北学」と「贈与」という問題提起　--</div>
　それから、戦略的思考を再検討しなければならないと思ったことには、もうひとつ別の方向があります。これもまたアリ研のメーリングリストにのぼったテーマですが、別の会員が参考情報として、あるホームページを見るように示唆してくれました。何かというと、ある代議士が、国土の開発問題を考え直さなければいけないという提言を本人のホームページでしているのですけれども、それと関連しながらアメリカのイラク戦争の戦略の誤りだとか、それ以外にいろいろなことを指摘している。要するにアメリカに追随しない日本的なあり方を模索しなきゃいけないという話なのです。そのなかで彼が、自分としては中沢新一の「東北学」に注目していると述べていたのです。

<p>　「東北学」には前から私にも大きな関心がありまして、中沢新一の本を改めて開いてみました。その代議士のテーマからは少しはずれるかもしれないけど、何冊か読んでいくうちに、とくに中沢氏が力説しているある概念を中心に考えてみたくなりました。それは「贈与」という問題なのです。単純化していうと、要するに、これまで資本主義は贈与の問題を見落としていた。ところが実体経済の流れのどれひとつをとってみても、自然の無償の贈与（純粋な贈与）という側面を抜きに経済的な行為なんて成り立たない。近代ヨーロッパの哲学は、とくにマルクス主義をはじめとする経済学は、贈与という問題を無視してしまっているのではないか、と。</p>

<p>　みなさんのなかには中沢氏の『愛と経済のロゴス』などを読まれた方もいるかもしれませんけど、わかりやすい例でいいますと、たとえばクリスマスになるとジングルベルの音が聞こえてくる。なぜジングルベルの音が聞こえてくるかというと、要するにクリスマスのときは欧米では「愛」を交換するわけです。日本でもクリスマスは若者たちが愛を交換する場となっている。手っ取り早く愛を高め合おうということでみんな贈り物を買うだろうと（笑）。そうすると経済が活性するわけですね。その活性化した経済力のうえで商品交換というものが行われていくということになるだろう。ということは、経済を本当に動かすのは愛の動きじゃないか、というのが中沢氏のロジックです（中沢氏の分析はレヴィ＝ストロースのクリスマスに関する論文がもとになっていますが、ここでは本論からはずれるので、くわしくは触れません）。</p>

<p>　どうして人々に愛の衝動が高まってくるのかというと、それは結局のところ、相手を喜ばせたいという贈与の気持ちが働くからだというわけです。本来的に、人間そのもののなかに贈与したいという欲求があるからなんだ、と。もっと根源的にいったら、それはもう、自然あるいは宇宙そのものが人間に対して贈与を行っているということを、人間自身がインスピレーションによって知っている。そのうえで、お互いに贈与し合おうということになって、それが経済の活力になるのだと。これが中沢氏の端的な問題提起なわけです。</p>

<p>　それで彼にいわせれば、そういう自然が持つ根源的な贈与力、そしてそれを直感的に人間が知ったうえで出てくる人間自身の内発的な贈与力というものを、最も文学的に結実したものとして宮沢賢治があるという話にもなってくる。少し飛躍しますが、私にとっても宮沢賢治は重要な存在ですし、この問題をさらに突き詰めて考えていかないといけないということになるんです。そういう意味では中沢新一の思想的展開というのは、それはそれで言論界を突き動かしていく大きな起動力になっているわけで、そういう意味でいうと戦略的な思考に対するひとつの有力な"対抗"としてとらえておく必要がある。私の今回の報告は、自動車会社の社長の発言と、最近の中沢新一氏が提起している現代社会の根本的な問題を、アリストテレスとどのように切り結んで考えていくかというのが、重要な出発点になっていることが、おわかりになっていただけると思います。</p>

<p>　教育基本法だとか憲法の改正問題も根っこのところではいまいった問題とどこかで関連してくると思いますが、きょうは時間が足りませんので省かせていただきます。</p>

<div class="sub2">--　<strong>戦略的思考とアリストテレス正義論</strong>　--</div>
　では、日本のこれまでの伝統的な思考は、いま提起された問題に対してどういうふうに答えるのか。これ自体なかなかむずかしい問題であって----中沢氏と同様、僕と同年輩の佐伯啓思は、伝統的なエートス論という形で考えていかなければならないと指摘していますが（『倫理としてのナショナリズム』などを参照のこと）----たとえば中沢氏の問題提起からすれば、東北学という視角は純粋に日本だけの問題にとどまらないわけです。彼によれば、東北学はずっとアリューシャン列島からアジア全体、アメリカ大陸を覆うような環太平洋的な大きな広がりを持つといういい方もしています。

<p>　また正義論においては、これは日本だけで通用するような正義論では、まったくお話にならないわけです。いまいった一企業内部のことだけじゃなくて、世界的な企業になってきた日本企業が正義論を掲げたときに、日本国内だけの正義論であっては意味がない。世界に通用するような正義論でければならない。そういう意味では、日本的な「伝統」への回帰、日本古来のエートスへの回帰ということだけで片付くのかという問題です。これは「靖国問題」もそうですし、日本が直面するありとあらゆる問題が、普遍的な関連を持った形で提起されていかないとけっして解決されないだろうという意味で、じつは伝統的思考そのものにも大きな壁があるといいますか、問題を抱えているんじゃないかなというようなことを感じています。</p>

<p>　一方で、戦略的な思考を中心として構築されてきた経営学、経営的思考自身もまた、大きな壁と根源的な問題にぶつかっています。みなさんも読まれたことがあると思いますけど野中郁次郎の『戦略の本質』という有名な本があって、現代の企業戦略論のひとつの支柱になっているわけですけれども、その本を読みますと、じつは戦略論も根源的なところで正義論とぶつかってくることになります。なぜかというと、『戦争論』でクラウゼビッツという人もいっていますが、要するに「戦争」においては、どちらかが勝つか負けるかという話になるわけです。相手があるわけですから、相手をどういうふうに自分のほうへ取り込むかとか説得するかということを抜きに戦争は組み立てられない。その点では、「戦略」も同様です。</p>

<p>　なぜなら、もし戦略的思考を徹底して追求していくと、それはもう、相手を絶滅させることしかなくなるわけです。勝つか負けるかで決着をつけようとしたらね。だから、ジェノサイド（大量虐殺）みたいな悲惨なことも起こってくる。しかし、なんとしてでもそうならないように事態を収めなきゃいけない。そうすると相手、つまり「他者」というものをどう理解し、共存するかということが、根本的かつ最も重大な問題になってくる。だからこそ実践面で、戦略論のあり方自体を根源的に見直していく必要が出てくる。それでクラウゼビッツは、結局戦争というのは政治の延長線上だというわけです。だから、クラウゼビッツ以後の戦略論を野中氏はずっと研究、追求していって、最後に行き着いたのは何かといったら、なんとアリストテレスの『ニコマコス倫理学』を読め、となるんです！</p>

<p>　プルーデンスという単語にはいろんな訳し方がある。「賢慮」それから「慎慮」、あるいは「知慮」「智慮」とか。だから、訳し方によっていくつかの異なった「prudence」の理解の仕方がありえます。「慎慮」というのは「慎む・慮る」でしょう。それから「賢慮」は「賢く」、「知慮」は「知」でしょう。「慎慮」というのは慎んで他に迷惑にならないように慮るということですね。「賢慮」は「賢く」だから、もうちょっと知性がはいってくるんだけれども、ただその知性の入り方が現実的な賢さというか、まあ「小賢しさ」にも通じるところもあるわけです。だから、私がなぜこの「知慮」というのにこだわるかというと、これは現実に対して賢く振る舞うというだけでなく、それよりももっと、日本的にいえば「天地神明に恥じず」というか、そういう意味がこの「知慮」には含まれているからです。ですから、現実面で人間が実利的に賢く振る舞うというだけではない、天を見ながら自分自身をコントロールしていくという、そういう意味を私は「知慮」に含ませておきたい。</p>

<p>　なにをいいたいかというと、じつは戦略的思考自身も究極的なところでは、やっぱり、この「賢慮」「知慮」の問題に触れていかざるをえないということなんですが、これまでは、特に現実的な実業の世界、実生活のレベルではほとんど知慮とは何かについて深い考察がなされてこなかった。ところが、この知慮についてもっとも深い考察を加えている人が、じつはアリストテレスなのです。アリストテレスにおける知慮論については、次回にもっと突っ込んだ話をしたいと思いますが、ここでは、知慮とか賢慮の根本的な柱になるのは、じつは正義という概念なのだという指摘をしておきたい。アリストテレスにおいては、共同生活をしている人間が身につけるべき徳として、勇気、節制、正義、知慮の四つが挙げられていますが、そのなかで正義の徳と知慮の徳とはもっとも深い関係を持つものとされています。どちらの徳も、家や会社や国家に幸福をもたらすものとされているからです。たとえば、ギリシャのアテナイに民主主義的な正義の政治を実現しようとしたペリクレスは、もっとも知慮ある人物であるといわれているように。ですからきょうは、「正義とは何か」ということに絞ってお話をつづけます。</p>

<div class="sub2">--　一に止まるのが「正」　--</div>
　正義とは何か。日本の社会では正義という概念自体が、明確な正しい理解のうえで使われているのかどうかということを、まず問題にしなければならない。それはしかし、ある意味で、たとえばいまいった企業の経営者などにとっては非常に酷な話かもしれません。そもそも日本で、正義とは何かということをきっちり教えている大学などないわけですから（苦笑）。

<p>　わかりやすい言葉の例からはいってみましょう。日本で暮らす私たちは普通に「正義」という言葉、文字を使いますけれども、これはもちろん、もともとは中国にあった言葉ですね。ところが、中国にあった孟子正義だとか論語正義だとかというように使われる正義というのは「筋道」という意味なんです。特にこの「義」の意味は、感覚的にいえば「筋」とか「道」とかを指していて、日本語でいま私たちが使う正義とはちょっと違います。しかし、みなさんもよく使われていると思いますが、白川静の『字通』なんかを見ますと、「義」という文字は、「我」の上に「羊」と書く。つまり、この「義」というのは白川氏の説によると我（私）が羊を捧げるということになります。要するに「義」というのは天に対して羊として象徴した何かを犠牲にするという意味があるということなんです。ですから、天に対する自分との関係のことをいっているのが「義」なんだ、と。音読みでこれと同じ「宜」というのもあり、これはアリストテレスの「エピエイケイア」にあたる重要な概念ですが、ここでは置いておきましょう。</p>

<p>　それから「正」。この「正」という字は「一」の下に「止まる」と書きますね。また「正」には、「征服」の「征」の意味がもとにあったという音韻的な漢字理解というのがあって、これは征服者がもたらした秩序だという考え方ですが、この一に止まる「正」というのはどういうことかというと、要するに「秤で均衡をとる」という意味なんです。それでじっさいのてんびん秤の平衡棒のように、水平に「一」に「止まる」と書く。バランスをとるという考え方です。これに似た考え方が幸田露伴の『連環記』のなかに出てきます。「世法は慈仁のみでは成立たぬ。仁の向こう側といっては少しおかしいが、義というものが立てられていて、義は利の和なり」とある。正義とは、個々人の利害の調整という考え方ですね。</p>

<p>　まあ、もともとそういう考え方があったとしても、「正義」という言葉を日常生活のなかで私たちが口に出すと、なんとなくしゃちほこばって構えてしまう。だから、普通はあまり使わない。論文とか何か公式の文書であるとか以外に、表立って「お前は正義に反する」なんていったらえらいことになってしまう。そういう感じが一般には残っているわけですよ。だから「正義」という言葉を誰かが口にしたとたん、なんとなく居心地が悪くなってしまう。やはりそこに、日本では、正義とは何かということがきちっと定義され、体系付けられて使われてこなかったことの問題があるんだと思います。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat2/index_3.html">[1-3]へ続く</a></p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［1-3］</title>
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    <published>2006-08-15T05:53:18Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:23:39Z</updated>

    <summary>ストラテジックな人間からプルーデントな人間へ荒木勝（岡山大学教授） --　ヨーロ...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">ストラテジックな人間からプルーデントな人間へ<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">--　ヨーロッパ社会における「正」　--</div>
　しかし、たとえばヨーロッパ社会の文脈において正義とは何かといったら、大学へ行ってある程度の教養を備えている人たちのあいだでは、だいたいのところで共通した理解があります。もっとも有名なところでいうと、「各人に各人の物を与えんとする継続的永続的意思」という、ユスティニアヌスというローマの皇帝がローマの法学を体系化した際の正義の概念規定がある。英語でいえば「ジャスティスjustice」ですよね。ジャスティスとは何かというと、要するに人間の集団があると、人間は「物」がなければ生活できませんから、集団を構成する人間が物に対してどういうようなやり方で関係を取り結んだらいいのかというふうに問われたときに、各人が各人にふさわしい物を与える、これが正義だということになるんです。

<p>　でもこれは、別にヨーロッパに限ったことではなくて、どんな人間社会においても、この意味での正義の感覚抜きには、生活できないだろうという話なんです。わかりやすい例でいったら、お餅を家族で分けるときに、どうやって分けるのかというようなこと。たとえば、家には父親と母親と子供がいたとして、これをみんなに均等に分けるのを正しいとする家があるかもしれない。しかし、お父さんにはたくさん与えて、お母さんは残りの半分、さらに残ったものを子供たちが等分にするという発想が正しいという場合もありますよね。どっちの場合も、なぜそうするのかという客観的な根拠はない。</p>

<p>　みなさんもご承知のように、民法では夫が亡くなったとき、妻が遺産の半分を受け取るという決まりがあるわけでしょう。なぜ妻が半分で子供が残りを等分に分けなきゃならないのか、民法学者に訊いてもいろいろな学説があって、その根拠に一義的にはっきりとしたものはないとされています。ただ、人間の長い生活経験のなかで妻に半分やるのがいいというふうに、一般的に合意したということにすぎないんです。でも、合意しないと残された財産を分けることができないわけだから、みんなで話し合いをして物を分けるときに、一致して「こういう分け方をすれば正しいんじゃないか」というふうになったときに出てくるのが「正」という観念なんです。ラテン語に「ユースjus」という言葉があるんですけれども、要するにローマ人たちがローマ人自身の多くの慣行、それからローマ人が征服したヨーロッパ世界全体の人間の風俗習慣を全部総括して考えたときに、家や社会のなかで物を分ける場合は「これだ」いう感覚が生じてきたということ。それがもともとの「正」（ユース）なんです。</p>

<div class="sub2">--　ホッブスの登場　--</div>
　しかしその後、だんだんヨーロッパのなかで大きな誤解が生じてきたのです。長い間「正」というのはこういうことでいいんじゃないかというふうになっていたのが、17世紀にホッブスという人が出てきて「とんでもないことだ」といい出した。ホッブスという人は何を考えたかというと、なにか物（モノ）を見て、特別に惚れ込んだ物とか、人間だったらまあ男ないし女（笑）、そんな物ないし人にぞっこん惚れ込んだら全部自分のものにしたいと思うでしょう。そのときに個人とモノとの関係でもっとも大事なことは、自分がそのモノを完全に占有することだと考えたんです。つまり、モノを自分のものとすることによってはじめて自分自身が身体的に保存され、自分の快楽が安定的に満たされることが一番大事なんだ、と。だから正しいか正しくないかということよりも、まず優先するのは、もっとも自分が惚れ込んだモノを自分だけのものにするということです。ホッブスはこれを、人間の「正」のいちばん根源的な出発点だと考えたのです。

<p>　でも、これをみんなが主張しだしたら"えらいこと"になるわけですよね。ぞっこん惚れ込んだ物や人が一対一の関係だったらいいんだけれども（笑）、みんなが同時にそのひとつのモノを好きになっちゃったらどうするかという話になってしまうわけです。そこで、そういうことだけではやっぱり人間は生きていけませんよということで、ホッブスは考えた。人とモノとの関係で複数の人間がいがみ合うときに、それぞれこれは自分のものだといえるものがあるわけです。自分のものは自分のものとして確保することがまず前提ですよね。ところがそれをみんなが欲しがったら喧嘩になるから、お互いに自分のものを自分のものとして私的に所有するのを認めましょうよと（苦笑）。そのかわり他人のものには手を出すな、と。他人の物や他人の女に手を出すなということを、まず人間社会が生きていくための原理にしようと主張したんです。</p>

<p>　彼にとっては、とにかく個人の欲求の充実、個人の生存の確保が第一、それで第二に他人のモノに手を出さないという契約を結びましょうやということになるわけです。だからホッブスにおける正義とは何かというのは、結局「約束を守る」こと、これが正義なのです。すなわち「正義の本性は有効な信約を守ることにある。The nature of Justice consistent in keeping of valid Covenants」ということです。これ以後、近代社会における正義概念は変わってしまった。つまり、どう分けるのが正しいかということじゃなくて、約束を守るということだけが正義だ、と。それで、この約束が法として存立するわけです。そして、そこにコンプライアンス（法令遵守）という問題が出てきて、コンプライアンスすることが正義だという話につながってくるのです。コンプライアンスを「なぜ」実践しなければならないかは二の次で、コンプライアンスとして、法に従うことが正義だということになるわけです。</p>

<p>　だから、物を完全に独占し、どんなに富を所有しても法律体系のなかで許されるとすれば、ものすごい富を資本主義社会のなかで蓄積して私的に所有しても、法律を守っている限りは何をしてもいいということになるわけです。人にとって何が正義かと問われれば、自分や他人の所有への権利を侵害しないように法を守ること。実際に近代社会は法原理の上に成り立っているわけだから、結局ホッブス的な正義観、つまり法遵守こそが正義だという考え方になるのです。</p>

<div class="sub2">--　自由を確保したうえでの平等　--</div>
　ところが一方で、いくら法に従っていたって「お前それはやり過ぎじゃないか」みたいなことは、しょっちゅうある。「ホリエさんやムラカミさん、あなたたちは法に従っているというけれども、本当にそれでいいのか」とかね。ある銀行の総裁や企業のトップが「法令は遵守しています」といったって、あなたの立場で、そんなことでいいのかという発想を私たちは"自然に"持つものです。それはなぜかというと、じつは法とは別に根源的な正への欲求が、私たちのなかにあるからなのです。何か変だぞ、という気持ちって誰にもあるでしょう。じっさいに逮捕されるかされないかは別にしてもね。ところが近代的法体系のなかでは、法令遵守さえしていれば、それでいいという......。このギャップが、じつのところ私たちを日々突き動かしているのです。それが根っこにあるからこそ、いまの"おかしな"世界のなかで、正義を巡る言説だとかいろいろな行動が出てきているんじゃないかな、という感じがします。

<p>　さてそれで、ホッブス、ロックと来て、さすがにヨーロッパ社会のなかでも、ある種の行き詰まり感みたいなものが出てきた。あまり時間がないのでくわしくは論じませんけれども、特にいまから30年ほど前にジョン・ロールズというハーバード大学の法哲学の先生が出てきて、こういうホッブス的な正義概念はやっぱり直そう、あるいはもうちょっと別の正義概念を作らないと駄目なんじゃないかということをいい出した。つまり、ホッブスみたいに法遵守が正義の根幹で、それを守っていればあとは自由だという考え方自体をもうちょっと考え直そうじゃないか、というのがロールズなどの新しい正義論の根本的な発想になっていくわけです。自由を確保したうえでモノをもうちょっと平等に分けましょう、平等とは何かを考えましょう、というほうにスライドするような正義論をロールズは打ち出したわけです。それを巡っていま、ごちゃごちゃとした非常に複雑な問題が、また新たに発生してきている現状があるわけですけれども----。</p>

<div class="sub2">--　「無所有」と個のこだわり　--</div>
　繰り返しますが、私的占有や私的所有、それらへの個人の独占を"善し"とし、それらが安定的に保全されるために契約を取り結び、その契約を遵守することが正義だとする正義論と、根源的に人間が持っているだろう「正」の感覚とのずれというものが、昔も今もずっとわれわれ人間を突き動かしている。そういう状況のなかで、それでは反対に、「持たない」ということをもっと徹底的に考えていったほうがいいんじゃないかという人たちも出てくるわけです。要するに「無所有」です。無所有のほうがじつは人間にとって幸福なのではないか、と。直接的に主張してはいないけど、たとえば先に触れた中沢新一などはそういいたいんじゃないか。中沢氏のみならず、彼の叔父さんにあたる網野善彦という有名なすぐれた歴史学者がいましたが、その網野さんなんかもそう考えていたのではないでしょうか。

<p>　さっきの餅を例にした「正」にしても、餅を分けるわけですよね。餅を分けて、それぞれの専有物にしたのでは、かえって不自由なのではないか。奥さんが半分取って、残りを子供に等分されたとしても、子供が困ったときに奥さんのものを子供が自由に使えないというのはおかしい。だったらこれをやめて、自由にモノが行き来でき、やり取りできるような共同所有にしておいたほうがいいんじゃないか、と。実際、人間の太古の昔を考えていくと、確かにモノを分けても分けた後にみんなそれを自由に使ったじゃないか、必要な人が必要なだけ取ればいいのであって固定化する必要はないんじゃないか。そうなったときに人間は本当に解放されるんだということが、"もうひとつの"歴史学の、あるいは文化人類学の発想の根源にあるわけです。そういう点からも、所有論はわれわれを突き動かす非常に大きな問題なのです。</p>

<p>　たしかに、無所有の世界のほうが良い面もあります。たとえば、昔の日本の村落はふたつの原理によって成り立っていた面があるわけです。つまり、山地・放牧地という入会地と畑というふたつのもの。畑は農民が個別的に分け持つものだけれども、山地のような共同地というのがあって、共同地は公的な所有だというふうに、一応は別にしておきましょうという制度がありました。</p>

<p>　しかし本来、公的な所有にも二元性があります。この「公的な所有」というのは、通常ひとつの形として国家が召し上げて、普段は立ち入ってはならぬというふうになっている。ところが、公的な所有にも開放系というのがあるわけで、それはもともと日本のどこの村落も持っているもので、私的な所有を補完するような共同地といっていい。この場合は、公的な所有地といっても、出入り自由にしているわけです。これはこれで、一定のバランスがとれているわけですね。私的な所有があって公的な所有がある。</p>

<p>　ところがこれをもっと極限的に押し進めていくと、公私を取っ払っちゃって、全部出入り自由にしてもいいんじゃないかという話にもなってくる。そうなってくると非常に重要になってくるのは、やっぱり、人間における「個」という問題です。自分が働いて得たものを自分のものにしてどうして悪いのかと、ね（笑）。自分が大枚をはたいて買ったものを自分が所有しているんだから、それを共有のものにしていいのか、と。やっぱり、個というものへのこだわりというのは人間のなかになくならないんじゃないか。だったら人間の個へのこだわりというものをちゃんと尊重した形で、みんなが公平に生きていけるような仕組みを作らなければいけないんじゃないか、というふうな考え方も出てくる。こういう方向で徹底的に考えぬいていったのがアリストテレスではないかと思います。それが、現代の「無所有」を顕揚する人たちの共同的なものに対する考え方と、アリストテレス的なものの考え方の根本的な相違点なんだろうと私は思います。</p>

<p>　だから、中沢氏や網野氏、その他のすぐれた人たちの考えに私がいつも違和感を覚えるのは、やっぱり、そこに正義というものが正面切って出てこないことです。彼らのなかに出てくる正義というのは国家が全部吸収しちゃっている正義なんだけれども、そうではない、個と個が活きたかたちで存立できるような、ひとつの秩序としての「正」のあり方をきちんと考えていかないと、「持続可能な世界」というものはできないんじゃないか。そいうふうに、アリストテレスは考えていたのではないか。</p>

<p>　「個々人のもの」という事柄の重要性を、しっかりと捉え直し、もう一度原点から考え直していかなければならないと思います。私は人間が社会で生きていくためにはどうしても、この個と占有・所有の問題を前提とせざるを得ないだろうと考えているのです。これを否定してしまったら、それこそ原始共産制でありマルクス主義にも繋がっていくような非常に大きな問題を、また逆に、人間はかかえ込むことになってしまうのではないか。だからここは、非常に重要な点です。</p>

<p>　アリストテレスによれば、正義というのは共同の利益を考えながら個人と個人がいかにバランスをとるのかという問題なのです。だからちょっと唐突かもしれないけど、私は宮沢賢治がものすごく好きで、改めて読み直しています。たとえば『なめとこ山の熊』なんていうのは、彼の作品のなかで、筆の運び方といい、彼の哲学の最も優れた結晶じゃないかなと思っているのだけど、あれなんかは要するに自然のものは共同のものなわけですよね。山も熊もね。で、そこで主人公の小十郎が熊の皮とか肝をもって「市場」に行くのだけど、その市場というものがものすごく大きな権力を握っていて、小十郎をいじめるんですね。そこに市場社会というものの代表者として高利貸し商人が出てくるわけです。そこは非常に共感するし、よくわかるんだけれども、しかし市場を高利貸し商人に代表させていいのかという問題もじつはあるわけです。やっぱり、市場というものが持つ一種の正義機能というものが存在します。ですから、まさに市場原理が成り立つための私的所有の側面と、共同的な面とのバランスをどうとるのかということが正義論の根幹になるだろうと考えています。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat2/index_4.html">[1-4]へ続く</a></p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［1-4］</title>
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    <published>2006-08-14T05:55:43Z</published>
    <updated>2010-04-30T02:42:08Z</updated>

    <summary>ストラテジックな人間からプルーデントな人間へ荒木勝（岡山大学教授） —　量に還元...</summary>
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        <category term="戦略的思考を超えて1" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/a-ken/">
        <![CDATA[<div class="asset-name_b">ストラテジックな人間からプルーデントな人間へ<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">—　量に還元できるもの、できないもの　—</div>
　アリストテレスのなかでは、贈与（無所有）と所有が同じだけの比重をもった問題として登場してくるのです。これが非常に大切な点だろうと思います。友愛的な原理によるモノの共有を「無所有」のモーメント、自己愛的な原理による私的な占有を「所有」の根源的モーメントだとしますと、そのバランスをいかにとるかというのがアリストテレスの世界ではないかと私は思います。

<p>　では、そういう観点から見て正義とは何かということ。私からしてみれば、これこそアリストテレスにおける最も天才的な思考じゃないかというふうに思うのですが、彼は「正」というのは比例だという考え方をするのです。</p>

<p>　ひとつの例でいえば、これもアリ研のなかでいま大きな問題になっているのですが、「質」と「量」をどうやって比べられるんだという話がメールで展開されているんです。だいたい量的なものと質的なものは根本的に違うのにどうやってこれを比較するんだという、根本問題ですよね、哲学の。</p>

<p>　この根本問題のひとつの解はマルクスが示したわけです。どういうふうに解いたかといえば、Ａという商品とＢという商品は全く違うとする。たとえば、服と靴では全然違う。でも、これを日常的にわれわれは何の不思議もなく交換しているじゃないか、と。つまり、質的に違うものがなぜ交換されうるのかという話がマルクスの交換価値論のところで展開されているのです。ものすごく単純化していえば、両者の共通項は何かといえば、それはともに労働生産物であることだ、と。労働生産物という点ではＡもＢも変わらないじゃないか、だったらそれらのものを作るときに投下された労働力という量に還元できるんだから、これは比較、交換することができるんだというのがマルクスの解決の仕方なのです。</p>

<p>　とりあえず圧倒的に多くの物が商品として売買される場合、そこには労働が関わっているということにマルクスは着目するものだから説得力があります。つまり、質的に違うものでも「人間がつくり出した」という形で共通性を見出して、労働生産物だという共通項で括る。そして、それらの価値はそれらに投下された労働力の量によって決まるから、質の違うものでも労働時間によって量ることができる、というのが彼の経済学の根幹にあるのです。じつは、そういう発想を最初にしたのがまさにアリストテレスでして、アリストテレスは天才だとマルクスもいうわけです。</p>

<p>　ところが、アリストテレスをよく読むと、はっきりそうとはいっていないのです。たしかに、アリストテレスも商品交換というものがひとつの正義のあり方だとはいっている。彼の言葉でそれは「交換的正義」というものなんですが、ところが彼にさらにいわせると、それはある程度フィクションを含むものだということにもなるのです。それらのモノは、じっさいは労働生産物である場合とない場合があるわけですよね。労働生産物でないものがなぜ交換の対象になるのかという問題は、説明が難しいけれども、たとえばさっきの『なめとこ山の熊』でいえば、熊の肝と織物というふうに考えてみたら、熊の肝にどれだけの人間の労働力が込められているのか（笑）。そんなものはほとんどないわけですよ。ただ小十郎の“才能”によって撃ち殺されて、市場にそれを持ってきただけの話。</p>

<p>　つまりは、小十郎の捕った熊の肝と服というふうに、人々の需要と供給の関係によって「価値」が変わるわけですよ、当然。そして、需要と供給というのはみんなの主観なわけです。主観的なバランスによって需要と供給が決まってくるのだから、その場で主観的に「これはまあまあバランスのとれた取引なんじゃないか」というところで決めましょうということなんです。だけど、主観的なバランスといっても、これは個々人のなかで完結していることではない。圧倒的に多くの人間の慣行のなかで、それぞれが主観的に合意して「まあまあこの辺でいきましょうや」という話で決められた比率なのです。重要なのは、比を用いて思考するという点です。</p>

<p>　あらゆるものを共通のものに還元して、比例してこれはいくらの価値があるんだというふうにしておこうという、人間の一種の知性。それによって、本来は比較できないようなものまで比較してしまうというのが、人間の知性のひとつの大きな所産であるというのがアリストテレスの考え方なのです。しかし、日常生活必需品なんていうのは大量に取引されるのだから、労働力をひとつの基準にしましょうというのもアリストテレスのなかに当然入ってくるのだけど、それだけじゃないよ、と彼はいっているのです。つまり、交換的な正義という正義観念を打ち立てようということがアリストテレスにはあるのですが、それだけではなく、いろんな状況の違いや、嗜好、趣味の問題もそこにはあるだろう、と——。</p>

<p>　先の餅の話に戻すと、父、母、長男、弟がいるとします。すると、餅だって不均等に分ける場合も出てきますよね。なぜ不均等に分けるのかというと、不均等に分けることを、われわれは正しいというふうに“実感”するからです。父親は父親なりの力ないし功績、家族に対する努力、これを家族全員が評価するからこそ半分にしよう、と。で、母親もその半分にしよう、と。つまり、それぞれの人たちの共同体における貢献度というものへの“直感的”な合意というものが成立するはずで、そういう「配分的な正義」というものがあるとアリストテレスは考えたわけです。</p>

<div class="sub2">—　知慮に支えられる「全般的正義」　—</div>
　もうひとつ触れておきたい正義概念があります。それは何かというと、要するに「目には目を」の正義。自分の目を潰されたら相手の目を潰す、こういう一対一の比例的な賠償関係です。そういう思考がわれわれにとって正しいことのひとつだろう、と。このずっと延長線上に民事や刑事の賠償の話になってくるわけですけど、厳格に「目には目を」の原則でやったら秩序そのものが崩壊するから金銭的に可能な限りということで、100％の等価はもうやめましょうという合意が生じてくる。100％の合意じゃなくても、できるだけそれに近いような形で金銭的にバランスをとりましょうと、こういう考え方。これが「矯正的正義」。

<p>　このように、大きくいって三つのバランス感覚がわれわれの正義というものを構築するんじゃないだろうか、というのがアリストテレスの正義感の根幹にあるわけですね。</p>

<p>　つまり、アリストテレスが規定する正義には大きくいって「配分的正義」「交換的正義」「矯正的正義」という三つのパターンがあるのです——返報的正義というものもアリストテレスにおいて主張されていますが、これは彼において主として交換的正義という線で考えられているように思われます。ただし『ニコマコス倫理学』第八巻のところで、実質的に返報的正義と考えられる贈与−返報関係が論じられていますが——。ところが、さらに正義論を考えていくうえでもっと根本的な問題があって、たしかに比例的な原理というのはみんな共有するのだけれども、ただ問題は、当事者は一応合意をするわけですが、それはあくまでも人間の生身の合意なものだから、間違うことだってあるわけです。そのなかで話し合いをして多くの場合統一されるということになるんだけれども、合意という形で行われるだけに、弟が「いや、もうちょっとたくさんほしい」とかね、そういうことをいい出す可能性をいつも孕んでる側面があるのです。そういう意味で、この合意によってつくられた全体を、うまく守っていけるような形でちゃんと保護する必要が出てくるわけですね。その全体としての合意を保護するような正義へのあり方を、「全般的な正義」といいます。</p>

<p>　自分の持分として、たとえば長男が「お父さんに半分あげる。でも僕は１／４は貰ってもいいんだ」というのは長男の立場ですよね。それで弟もそういうことをいう。みんな自分のことを中心にしながら、でも一応バランスをとる思考をするんだけれども、でも全体をこういうふうにちゃんと守らなければいけませんよと統治する人がいないと、これは落ち着かないわけです。そのような、ある種の裁定を遂行する正義の立場というものを「全般的な正義」というふうにアリストテレスは考えた。そして、各個別的な観点から自分たちはこういう配分がいい、とするのを「個別的な正義」あるいは特殊的・部分的正義であるとアリストテレスはいっています。</p>

<p>　だから彼にいわせてみると、たしかに本来的にみんなそういうふうに合意しようという傾向はあるのだけど、この傾向自体が非常に不安定な側面を持っている。となると、これを全体として維持しなきゃいけない正義というものこそが、まさに正真正銘の大文字で書かれる正義なんだというふうに彼は論を組み立てていく。そして、この正義を担うものが彼にとっての「政治」なのです。ですから、ある面でアリストテレスにおける政治家というものの根源的なイメージというのは、個別的な正義を大事にするということを超えて、そうした原理を含みつつ全体の正義のバランスを図るというのが基本的な発想としてあるのだと思います。</p>

<p>　ただ、ここで補足しておきたいのは、父も母も長男も弟もみんな違う人間です。みんな違う人間なんだけれども、共に一定の価値に値する一定の量を持てるのだとする思考に支えられているわけですよ。つまり、父も母も長男も弟もある面で人間として共通する平等な人間だ、と。平等の分け前を持ち得る平等の人間なんだという、こういう根源的な理解というものがやっぱり前提となるわけです。これはなかなかに難しい問題で、いま家族のことだけをいいましたが、世界全体の問題として考えてみるといいと思います。</p>

<p>　世界全体のなかに、たとえば日本があってアフリカがある。日本とアフリカの正義の関係はどうなっているかという問題設定だって成り立つわけです。もしも「彼らは人間じゃないんだ」と思ったら、われわれは絶対にアフリカに援助なんてしないわけです。なぜ、われわれがアフリカに援助することに全般的に合意するのかといえば、アフリカの人も人間なんだという“あたりまえ”の思いがあるからです。だから、一定程度を配分するということにわれわれは合意するわけです。しかし、どの程度配分するのかという問題はまさにこの「配分的正義」の配分の割合に関わってくるわけですね。その、どう配分するかということが、いま世界の一番大きな政治的課題になっているのだけど、しかし世界は、このアフリカの人たちも人間として配分にあずかれるんだという合意を外せないわけです。なぜ外せないかというと、人間としてみんな平等であるという観念があるわけですから。なぜ、そうした考え方が成立しているのか。アリストテレス的な用語でいえば、人間は平等であるという“直感（観）的”な理解というものがほとんどの人々、ほとんどの世界に貫徹しているからなんです。それを私は人間に普遍的に与えられている知性能力であるというふうに思っているわけです。こういう感性的知性とでもいうべき知性のあり方をアリストテレスはヌース（直知）と呼んでいます。</p>

<p>　正義とは、そういう意味では、人間の合意というものに重層的に関わっているのです。でも、問題なのは、合意とは個を主体として尊重することである以上、自分の取り分をもっと増やそうと思って「あなたは父かもしれないけど家族に対して何もやってないじゃないか」と、妻や子がいい出すことだってあるわけです。そうすると「この合意をやめて、もっとあなたの分を少なくしてほしい」となるわけです。それで、父親が「いや、お前たちの知らないところで俺は一生懸命やっているんだ」という話になり、家庭内論争になる。つまり、「正義」といったとたんに人間社会は必ず「争い」という事態に巻き込まれていく。そういう意味でいえば、戦いや闘争という、そういう不安定な世界につながっていく要素を、正義という言葉は内的に持っているということです。</p>

<p>　ですから、こういう不安定な正義という問題を解決するためには、やはり誰かきちんと全体を統治できる人間がいなければならないのです。だからこそ、アリストテレスは全般的な正義ということをまさに強調するわけで、全般的な正義を踏まえた人間を彼は待望しているということになるのです。しかし、もちろん誰でもいいということではなく、そのためにはアレテー（卓越的能力）を具えた人間でなければならず、それが結局、アリストテレスにおける「プルーデンス（知慮）」という、現代に生きるわれわれ人間にとって、もっとも重要なテーマに繋がってくることになるのです。</p>

<p>　しかし、そろそろ時間がきました。きょうお話したのは、テーマ全体のおよそ半分程度です。戦略的思考を超えたところにある正義、知慮、とくにヌースという知性のことや、宗教の世界と現実の政治の世界との厳しい分別をどうつけるかといったことを、できれば次の機会にお話したいと思います。</p>

<div class="quo2">講演後、ディスカッションの時間があり、聴講者とのあいだで奔放かつ活発な議論が展開されましたが、ここでは割愛します。石井</div>]]>
        
    </content>
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    <title>アリストテレス政治学における「正」の位相1</title>
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    <published>2006-06-12T01:09:11Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:25:01Z</updated>

    <summary>タクシス（整序）とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より荒木勝（岡山大学教授）...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/a-ken/">
        <![CDATA[<div class="asset-name_b">タクシス（整序）とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<br /><p class="emp4">［1］問題の所在</p>
<p>　プラトン、アリストテレスに代表される古代ギリシャの政治学的思考には正義論はあっても権利論は無縁なものであるとする見解は、すでに20世紀中葉、政治思想史家セイバインや法学者M．ヴィレイの指摘以来一個の了解事項であったし、レオ・シュトラウス学派や、マッキンタイヤーによってもその見解が再確認されてきたといってもよいであろう。</p>

<p>　たとえばジャッファによれば、プラトン、アリストテレスによって代表される古典的政治学の自然的正natural rightは物事の客観的正しさrightnessを意味していたとされ、ホッブス、ロックが展開した近代的自然権、すなわち個々人が自己の生活を維持するために保持していた正観念や個々人の自己保存権から導き出された自然権とは根本的に異なるものである、とされる。またマッキンタイヤーにおいては、そもそも近代以前には個人に固有に内在するとされる権利観は存在しないもの、とされている。</p>
<p>　「ゲワースの議論にたいする私の論及において私がほのめかした事実に照らしてみると、端的に人間である限りの人間に帰属するような権利というものが存在するということは、いささか奇妙なものである。その事実とは、中世の終焉近くになるまでは、いかなる古代や中世の言語においても、『権利right』という我々の表現で正確に翻訳できる表現はない、という事実である。......つまりそのような権利など存在しないのであり、そのような権利を信じることは、魔女や一角獣を信じることと同じなのである」</p>
<p>　しかしながら、最近、といってももう10年ほど前になるが、アメリカのアリストテレス研究者F．ミラーによってその見解は大きく批判されるに至った。</p>
<p>　ミラーによれば、アリストテレスの政治的思考、とりわけ要求権ディカイオンdikaion、自由権エクスーシアexousia、権限キュリオスkurios、免除権アキュロスakurosおよびアデイアadeiaの諸観念においては、ホーヘルトの言うところの個人―行為―他者間に成立する権利概念が存在するばかりか、近代的な個人的自然権の思考と共通するある種の自然権的思考もみられるとされる。 もちろんこのアリストテレスの自然的権利概念は、ロック的な自然状態下での自然権ではなく、アリストテレス政治学に固有の自然的国家における自然権という組み立てにおいてではあるが。</p>
<p>　大胆ともいえるこのようなミラーの見解に対して、アメリカ・イギリスのアリストテレス研究者たちは、翌年の1996年『形而上学レヴュー』紙上でシンポジウウムを企画し、様々な批判を展開している。論者の多くは、アリストテレスにおける権利概念の一定の存在を認めつつも、ミラーの見解は、1．アリストテレスにおける義務と権利のバランスを軽視し、国家の実定的枠組みの一環としてのアリストテレスの権利観を過大視し（不安定な市民の政治的権利）、2．個人的権利と集団的（階層的）権利の差を見過ごし、3．古代的な政治参加の特権的権利＝義務と、近代的な公私の区分を前提とした、私的生活の権利要求としての権利論という区別を曖昧にしている、という批判を展開している。</p>
<p>　さて、こうしたアリストテレスの権利論をめぐる論争において、議論の出発点ともなり、論争の前提ともなった論点の1つが、アリストテレスにおける権利概念を表示する言葉の問題であり、ミラーの問題提起もまたこの点から出発している、といってよいであろう。ミラーによれば、とりわけ「正」「正しいもの」「正しさ」とも訳されている「ディカイオン」を権利と訳すことは、E・バーカー以来の翻訳上の事実であり、文脈上もそのように解することが可能である、とされる。こうした理解にたてば、『ニコマコス倫理学』第5巻に登場する「フュシコン・ディカイオン（自然的正）」も「自然的権利」と翻訳されることが可能になり、ミラーの主張するアリストテレスにおける自然的権利の主張もあながち無根拠な主張ということにはならないであろう。</p>

<p>　それゆえ本稿においても、アリストテレスにおける正義論と権利論の関連を解くために、まずもってこの「ディカイオン」の意味の確定から検討してみることにしよう。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat3/index_2.html">その2へ続く</a></p>]]>
        
    </content>
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    <title>アリストテレス政治学における「正」の位相2</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/2006/06/2.html" />
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    <published>2006-06-12T00:23:19Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:26:11Z</updated>

    <summary>タクシス（整序）とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より荒木勝（岡山大学教授）...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">タクシス（整序）とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<br /><p class="emp4">［2］訳語の問題</p>
<p>　第三巻第一章の冒頭でアリストテレスは市民の定義について検討しているが、その文脈に次のような文章が展開されている。</p>
<p>　「また市民という名前は、法廷において告訴したり、告訴されたりする資格を与えられている程度においてのみ市民的権利（シヴィック・ライト）に関与する人々に与えられるのではない。このようなものは、外人にも帰属する権利であって、かれらは条約によってそれを享受するのである」（1275a8-11）。</p>
<p>　この「シヴィック・ライト」と訳した「ライト」の部分はギリシャ語では「ディカイオン」の複数形であるが、欧米の訳語においても、「正義のシステム（ジャスティス・システム）」（レーヴ）、「正義の問題（マターズ・オブ・ジャスティス）」（ロード）、「法的訴訟へのアクセス（利用権）」（シンクレアー＝ソンダース）、「市民権（デゥルア・シヴィック）」（ペレグラン）、「政治的権利（デゥルア・ポリティク）」「権利（レヒト）」（ギゴン、シュトルンプ）と訳され、「正義」という訳と「権利」という訳とが入り混じっているが、バーカーのように「権利」と訳しても十分意味が通る箇所であろう。少なくともこの箇所の「ディカイオン」は、ホーフェルトの言う、正当な自由行使権、正当な請求権、正当な権能、正当な免除権を意味する語と理解しても差し支えないであろう。</p>
<p>　なぜならここでは、市民間を拘束する法すなわち実定法、また国家間の条約によって規定されている実定法的な関係が議論されているからである。アリストテレスにおける権利概念を否定するレオ・シュトラウス派に属するロードにおいても、「ディカイオン」は基本的には「正しいこと」とされながらも、実定法的な意味での「権利」の意味は否定されていないのである。</p>
<p>　しかしながら当のバーカー自身はこれによって直ちにアリストテレスにおける十全な意味における権利観念の存在を主張していないことに注意すべきであろう。バーカーによれば、古代ギリシャの思想においては、個人の観念は特別に際立ったものというのではなく、権利の観念にもほとんど到達していなかったとされ、プラトンもアリストテレスも正義の徳の教育は国家の使命と看做していた、とされる。したがってバーカーの見解においては、近代の権利は個人から出発し、国家の干渉を排する志向を持つが、プラトンやアリストテレスは、基本的には国家＝全体から出発し、個人は国家の目的を実現する手段として位置づけられるか（プラトン）、世界の目的論的秩序のなかに位置づけられる存在（アリストテレス）、とされる。</p>
<p>　こうしたバーカーのアリストテレス理解に立てば、上述のような箇所から、アリストテレスの「ディカイオン」の内容に、個人が固有に持つ権利という観念を読み取ることはいささか早計であるかもしれない。しかしながら、アリストテレス政治学の世界には、「ディカイオン」を個人に即して個人内在的に位置づける視点がまったく欠落しているのであろうか。今一度アリストテレスに即して「正」と市民個人の論理的関係を検討してみることにしよう。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat3/index_3.html">その3へ続く</a></p>]]>
        
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    <title>アリストテレス政治学における「正」の位相3</title>
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    <published>2006-06-11T23:25:12Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:26:43Z</updated>

    <summary>タクシス（整序）とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より荒木勝（岡山大学教授）...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">タクシス（整序）とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<br /><p class="emp4">［3］「正（ディカイオン）」の構造～タクシス（整序づけ）論の視角から～</p>
<p>　アリストテレス政治学における「ディカイオン」の考察にとって、決定的に重要な箇所は、やはり第三巻の第9章から第13章にいたる文章であることは、大方の一致しているところであり、先に挙げたミラーも自説の展開の最大のよりどころとしているところであった。</p>
<p>　さて、アリストテレスにとって、正（ディカオイン）は国家の本質であり、国家の維持存続の根幹的原理であったが、その内実がこの九章でまず言及されている。いまその論理展開を整理してみるとおよそ次のようである。</p>


<p class="emp3">―　1. 正（ディカイオン）の本源的規定　―</p>
<p>　まず正（ディカイオン）についての本源的規定が確認されている。</p>
<p>　「正（ディカイオン）とは、誰かにとっての正であり、また先に『倫理学』で述べたように、事物においても、人々においても、等しい方法で分けられること（ディエーレータイ・トン・アウトン・トローポン）であるが、事物の（分割の）平等性については意見が一致するが、（分与されるべき）人々における平等性については意見が分かれるのである」（『政治学』第3巻1280a16-19）。</p>
<p>　この引用文の前半では、正とは、人と人との関係性のあり方を示す語として登場しており、また「等しい仕方で分けられる」と言われていることから、正とは、「等しい仕方」で分けられることを指している。前者は人と人との関係のあり方を示す語であり、後者はこの関係のあり方から帰結される成果を示す語である。すなわちここでは正はこうした2つの意味を内包した言葉であったことをまず確認しておこう。</p>

<p>　さて、この引用文で言及されている『倫理学』とは、通例は『ニコマコス倫理学』第5巻第3章の箇所を指すとされているが、そこでは正は、端的に人と物の比例的配分を意味する、とされる。</p>
<p>　「正ということも、すくなくとも四項からなり、その比が同一なのである。すなわち人々の間、（配分さるべき）事物の間の配分の仕方が同様に行われること、である。」（『ニコマコス倫理学』第五巻第3章1131b4-5）。</p>
<p>　ここでは正は比例関係としての関係性のあり方として理解されている、といってもよいであろう。 しかもアリストテレスにおいては、この比例的関係が幾何学的比例なのか、算術的比例なのかに応じて、正の種類を2つに分けているが 、どちらにあっても、分与を受け取る者の一定の均等さ（イソン）が前提とされ、また分与される物のその人への帰属が前提とされるのである。</p>
<p>　「もし不正とは不均等ということだとすれば、正（ト・ディカイオン）とは均等（イソン）を意味する。このことは議論しなくとも万人に判明のことであるように思われる。......実際、正とは、かならずやすくなくとも4つの項を予想するものでなくてはならない。すなわち正が存在する場の当事者が二、当事者において正がかかわる物事（プラグマータ）が二だからである。そしてこれらの人々においても物事においても同一の均等性が存在するであろう。」（『ニコマコス倫理学』第5巻1131a18-21）すなわち均等な人々における均等な比例的関係性こそが、正の根源的意味であった、と理解してよいであろう。そこから、この正をもたらす行為が複数形で表示される「正しい行為・事柄（ディカイア）」であり、またこの関係が生み出す成果が同じ言葉で「正（ディカイオン）」と呼ばれているのであり、また先に言及したように、この関係が当事者間に分有される事態も想定されているのである。「正は等しい仕方で分けられるもの」。</p>
<p>　さらにこの正を作り出そうとする心的傾き（ハビトゥス）が「正義」（ディカイオシュネー）となるのである。それゆえ厳密にいえば、正＝ディカイオンと正義＝ディカイオシュネーとは意味する次元が異なっているのである。以下正義についてのアリストテレスの定義を掲げる。</p>
<p>　「われわれは、あらゆる人々が以下のような心的傾き（ヘクシス）が正義であると言おうとしているのを見るのである。すなわち人々を正しい事柄（タ・ディカイア）を行うような人に向かわせるような心的傾き、つまり人々をして正しきをおこなわしめ、正しい事柄（タ・ディカイア）を願望せしめるような心的傾き、である。」したがってアリストテレスにおいては、正義は正を獲得しようとする心的傾きを意味しているのである。</p>
<p>　いずれにしても正とは、その根源的意味においては、まず均等な者たちの間に成立する比例的関係を意味していたことを確認しておこう。</p>
<p>　さて、こうして正の一般的規定がなされたあとで、アリストテレスは、『政治学』第三巻第9章の以下の叙述で、国家における正を規定するために、第一巻でなされた国家論を念頭におきつつ、再度国家そのものの規定に立ち返っている。</p>
<p>　「従って、国家とは、場所（トポス）における共同的結合体（コイノーニア）ではなく、またかれら相互に不正を犯さないとことするための共同的結合でもなく、交易関係（メタドーシス）のための共同的結合でもないことは明らかである」（1281b29-31）。すなわち国家とは、単なる地縁的共同性に基づくものではなく、私人間の相互不可侵を約束する契約共同体でもなく、経済的共同性に基づくものでもない、とされる。では国家とはなんであるのか。</p>

<p>　「むしろ、もし国家が存在するとするならば、これらの事柄は必要条件として存在しなければならない。けれどもまたこれらの事柄がすべて備わったとしても、すでに国家が存在するということにならない。そうではなく、国家とは、家族や一族にとっての、善く生きるための共同的結合体、完全で独立自存の生のための共同的結合体である」(1280b31-35)。</p>
<p>　ここでは、国家は、「よく生きる」ための、「完全で独立自存の生」のための共同的結合体である、とされ、一個の固有の目的を持った存在として規定されている。この箇所では、「よく生きる」についての内容規定は与えられていないけれども、すぐ後に続く箇所では、それが「美しく品位ある生を生きる（ゼーン・カロース）」「市民的政治的力量（ポリティーケー・アレテー）」「人としての卓越的力量（アレテー）」と関係づけられており、「よく生きる」というこの国家存立の目的は、市民が徳ある生活を達成できることにおかれていた、といってもよいであろう。そこからアリストテレスは、この国家目的に貢献した市民に、国政参加へのより大きな資格を認めるという論理を引き出している。</p>
<p>　「したがって、市民的政治的な共同的結合体（ポリティーケー・コイノーニア）は美しく品位ある行為のために存在するのであって、単に共に生活するために存在するのではない、と考えるべきである。それゆえ、このような共同的結合体にもっとも多く寄与した人々こそ、自由と生まれにおいて同等かもしくはより高い位置にいるとしても市民的政治的力量(ポリティーケー・アレテー)において劣っている者よりも、より多く国家に関与する資格を有する（メテスティ・ポレイオン ）のであり、また同様にかれらこそ、富において凌駕していても人としての力量（アレテー）において劣っている人々よりも、よりおおく国家に関与する資格を有している」</p>
<p>　こうして国家は「よく生きるため」のもの、人としての卓越的力量を発揮させるものと規定された。しかしながらその国家目的に貢献した人に、単なる報償ではなく国政参与の資格が優先的に与えられるとされる論理は直ちに引き出されるわけではないであろう。国家と市民との関係、いやそもそも市民とはなにか、についての説明がなければ、このアリストテレスの論理は把握不可能であろう。国家の存立目的と国政参与の資格とのあいだには、その目的を現実化する国家のありかたー国家の本質規定の説明が必要とされるはずであろう。その点についてアリストテレスは、実はすでに第3巻の冒頭部分で一定の論理展開を果たしている。</p>
<p>　以下この点についてのアリストテレスの論理を整理してみよう。アリストテレスは『政治学』第三巻第一章の冒頭部分に次にように国家を規定している。「国家は市民の一定数からなる集合体である。」とされる。では「市民」とはなにか。</p>
<p>　市民とは、端的に無条件的には、「国政評議と裁判にかかわる権限（エクスーシア）を有する者」であるから、国家とは、結局、「端的に言って、生活の独立自存に十分なだけの、このような市民達の集合体である。」とされる。この規定は、国家が市民の人的集合体であるとすることによって、国家が、市民に国政評議と裁判に関与することを可能にする一定の政治制度を固有に持つことを不可欠の特質としていることをも意味している。したがってある一定の土地において同一の人的集合体が、歴史的時間的に連続的継承関係において存在していたとしても、市民の関与する政治制度が根本的に異なったものとなった場合は、そこに国家の同一性を想定することはできない、とされるのである。</p>
<p>　「もし国家というものが、一種の共同的結合体（コイノーニア）であるならば、すなわち、市民による国家体制（ポリテイア）への共同的関与（コイノーニア）であるならば、国家体制がその種類（エイドス）において異なり、また相違してくるならば、必然的に国家もまた同一のものではないと考えざるをえないからである。......それはあたかも、同じ音よりなるハーモニーも、ある時にはドーリス風に、またある時にフリーギア風になるならば、別のものであると言うようなものである。したがって、事柄はこのようなものであれば、明らかに、主としてその国家体制（ポリテイア）に着目して国家は同一の国家であるというべきであろう」（1276b1-10）。</p>
<p>　こうして、アリストテレス政治学においては、国家を規定するものは、一定数の市民数の存在（と彼らが住む土地）だけではなく、市民の存在様式としての国家体制（ポリテイア）のあり方であった、ということができる。それではそもそもこの国家のあり方を規定するポリテイアとよばれる国家体制をアリストテレスはどのように規定しているのであろうか。</p>
<p>　アリストテレスは、第3巻第6章の冒頭に次のようにポリテイアを規定している。</p>

<p>　「さて、国家体制（ポリテイア）とは、国家の諸々の統治職（アルコン）、なかんずく、あらゆる事柄について最高の権限を有する統治職を整序づけるもの（タクシス）である」(1278b8-10)。</p>
<p>　ここで言及されている「タクシス」とは、組織、秩序と訳される場合もあるが、本来「タッソー」すなわち「整序づける」「アレンジする」という動詞の名詞化されたものである。したがって、国家体制（ポリテイア）は、上は王の職や最高の統治職（アルコン）から下は民会員にいたるまで統治になんらか関わる職を、整序づけるもの、アレンジするもの、ということになるであろう。したがってまた国家体制にとって根幹をなすものは、この整序付け、アレンジメントの範囲と方法ということになる。そしてこの統治職の整序付け、アレンジメントの方法についての議論こそが、今まで論及してきた第三巻第9章以下で検討される正（ディカイオン）の議論であったのである。</p>
<p>　こうして、この統治職の整序、アレンジメントが市民間に正しく行き渡ることこそ、正しい国家体制を規定づけるものであることは議論の必然的帰結となった。「よく生きる」という国家の目的にもっとも貢献した人物によりおおくの国政参与の権利が与えられるとした先ほどの論理は、この「よく生きる」ことが国家の統治職の正しい配置、アレンジメントに懸かっているということを示しているのであり、「よく生きる」ことに貢献した市民はこの統治職体系のなかに正しく位置づけられることを結果したのである。しかしながら当面の文脈にとって興味深いことは、このような市民が配分を受ける統治職の市民の側の配分根拠そのものについても正（ディカイオン）の語が用いられていることである。</p>
<p>　「実際、おそらく人は次のように言うかもしれない。すなわち統治職は、それがなんであれ、人の長所の卓越に応じて、差をつけて配分されるべきであり、たとえ他のすべての点においてすこしも差はなく平等であったとしても、そうしなければならない、と。というのは、他人より優れた人にとっては、正（ト・ディカイオン）も、またその人の価値に応じたことも、他とは異なっているから、というのである。しかしもしこれが真実であるならば、皮膚の色や体の大きさや、また何であれ他の長所において優れている者には、ある一定の市民的政治的権利（ポリティコン・ディカイオン）のより多くの取り分が存在することになるであろう。しかしながらこうした見解は明らかに誤りではないだろうか。」(1282b23-29）。</p>
<p>　この「一定の市民的政治的権利のより多くの取り分（プレオネキシア・ティス・トーン・ポリティコン・ディカイオン）」の訳についてはバーカーは、"a claim for a greater share of political rights"と訳しており、またソンダースも"advantage in political rights"と訳し、仏訳のペレグランも独訳のシュトルンプもほぼ同様の訳を与えている。したがってここでの正（ディカイオン）は、国家の正を担う根拠としての、いわば正当な資格要求、別の言葉で言えば、構成員にこの要求を尊重させることを求め、他の成員に対して対抗できるものとする、能動的な法律上の地位、すなわち実定的権利としての意義を持っているのである。</p>
<p>　もちろん、この市民的政治的権利と訳されるポリティコン・ディカイオンはこの文脈においては、この権利を要求することができる根拠として、上述の皮膚の色や体の大きさではなく、以下第一二章末尾から十三章冒頭のところで言及されているように、生まれ、自由人たる資格、富、多数性に求められているが、それらは国家が存続していくためには不可欠の要素であるが、国家がよく統治されるためには、正義（ディカイオスネー）と市民的政治的徳性（ポリティケー・アレテー）がとりわけ必要不可欠なのであった、とされる。</p>
<p>　「統治職への関与の要求は、国家を成り立たせているところの構成要素に基づいてなされなければならない。まさにそれゆえに、生まれの良い者や自由人の資格ある者や富者が、名誉の公職を要求するのは理にかなったことなのである。なぜなら、国家には、自由人や一定の税金を納める納税者が存在しなければならないからである。......しかしながら、確かにもしこれらの人々（自由人と納税力ある富者）が必要であるとするならば、正義と市民的政治的徳性もまた必要となることも自明なことである。実際、これらがなければ、一国の統治もありえないからである。ただし前者（富者と自由人）がなければ、国家は存立しえないが、後者（正義と市民的政治的徳性）がなければ、国家が善く統治されるということもない。」(1283a15-22)</p>
<p>　しかしながら、先にも述べたように、アリストテレスにおいては、国家の存在はとりわけ「よく生きる生」の実現に懸っていたのであるから、統治職への関与を要求する根拠の中でも、とりわけ正義の徳が統治職要求の正当な配分根拠として重要視されることになるのは、まさに論理のおもむくところであった。</p>
<p>　「すでに述べたように、教養（パイデイア）と卓越的力量（アレテー）こそが統治職を要求するのに最も大きな正当性を持ちうるであろう。......同様に、我々はまた、人の卓越的力量（アレテー）というものは、正当な要求権を持つことができると主張する。なぜなら正義（ディカイオスネー）というものは、人間の共同的結合における卓越的力量であり、まさにこの正義に他のすべての卓越的力量は従うことにならざるをえないからである。」(1283a24-31)</p>

<p>　こうしてアリストテレスにおいては、国家の正（ディカイオン）は、統治職の整序づけ（タクシス）に与る市民たちの各種の要求根拠として措定されている。しかしこの正は個々の市民の個人的な特性にかかわることであったから、この正は共同関係としての正ではなく、個人の有する正ということになり、しかもそれが正当性を持っているとされるのであるから、この文脈での正＝ディカイオンはいわば分有的正といってもいいであろう。またこの分有的正は個人化されている以上、権利という側面も持つことになったといってもいいであろう。そして正義のアレテーは、こうした分有的正の要求根拠においてもとりわけ際立った正当性、権利をもつとされるのである。</p>
<p>　さてここで正＝ディカイオンについての議論を整理しておこう。正とは、なによりもまず、人と人、それに関与する物の、均等な比例的関係であった。この正を現実化しようとする当事者の心的傾き（ヘクシス）が正義（ディカイオシュネー）であった。だがそれだけではいかにそのヘクシスとしての正義が慣習化し、市民の間でエートスとして形成されたとしても、現実に正を実現することができないであろう。なぜなら正はそれに関与する物と人との比例関係であったが、それは正に関係する人にたいする評価を伴うものであり、その評価が相互に均等なものとして了解されなければならないのであるが、この了解は往々にして一致しないからである。正が実現されるためには、さらに正義を求める人間の関係が整序・アレンジ（タッソー）され、その整序（タクシス）・アレンジメントの結果、整序を安定化させる制度化・組織化が、さらにはその制度を一般的に普遍化するための法が制定されねばならないであろう。そしてこの整序が実現されるときのその整序の担い手を支える根拠、すなわち統治職要求の根拠が権利としてのディカイオンとされているのである。</p>
<p>　また正の不安定性を克服し、より安定的な正を確立するために、強制力を持った整序化としての法が形成される。またギリシャ語のタクシスは、この整序（付け）、組織（化）、を表現する言葉であった。すなわちエートスとしての正義からタクシスによって保障される正・権利への展開。これがアリストテレス政治学においては、国家体制（ポリテイア）の形成である、ということになるであろう。あるいはまた正に即して言えば、市民的政治的正（ポリティケー・ディカイオン）の成立といってもよいであろう。「市民的政治的正（ポリティコン・ディカイオン）とは、独立自存ということのために生の共同的結合関係に立っているところの、自由人の資格を有し、かつ比例的、算術的に均等である人々の間における正である。......正ということは、お互いの関係において法（ノモス）が存在している人々にとって存在する。」（『ニコマコス倫理学』第5巻1131a26-30）さらにこのタクシスとしての正は、また同時に正を受け取る当事者の観点からはタクシスとしての正の分有をも意味していたことに注意すべきであろう。それが各市民に分有される時、市民権という権利が生じる。バーカーもミラーも指摘する国家の法の下での市民権とはこのようなものであった。</p>
<p>　しかしながらこの権利としての分有的正（ディカイオン）それ自体は、いまだそれじたいでは、実定的な資格付与としての権利と呼ぶことはできても、市民個人に内在する固有な権利と呼ぶことはできないであろう。自由人としての資格は、市民の国家帰属によってもたらされるのであって、アテナイ市民であるからこそ、アテナイ市民としての各種の権利が生ずるということができるからである。たしかにここには権利は市民個人に付与されるのであるが、その前提に市民の国家帰属という前提的事実が横たわっているからである。アリストテレスの権利論をめぐる論争において、クーパーやクロート達がミラーを批判する論拠も市民権付与に先行する市民自体の国家帰属という事実、またそれによって生じる市民権の不安定性・脆弱性の主張に基づいている、ということができよう。</p>
<p>　しかしながらここで今一度、前述したアリストテレスの主張、すなわち、統治職を要求する根拠として市民の正義の徳性が挙げられ、しかもその徳性こそが、国家を真に国家たらしめるものとされたことを想起すべきであろう。すなわち市民の正義の徳性が統治職を要求する根拠とされる場合、もしこの正義の徳性が各個人に内在的にかつ個人の自由意志によって形成されるものであるならば、その場合には、この徳性の力は、統治職を要求する文字通りの内在的権利と理解してもよいのではないか、という問題が生じるのである。</p>
<p>　しかしまた別の可能性も想定されるかもしれない。すなわち、この個人の正義の徳性ですら、国家による教育陶冶によって外在的に市民のなかに移植育成されるものであると解することも可能であろう。そのような理解にたてば、正義の徳性がもつ一定の統治職要求権（ディカイオン）を市民に内在的な権利という名前で呼ぶことはできないであろう。バーカーやシュトラウスがアリストテレス政治学に権利論をよみとらないのもこの点にかかわるのである。こうした観点から見て、正義の徳性とは、真に個人に内在的な権利の担い手と呼ぶにふさわしいものであるのか、否か、またそれは国家の正（ディカイオン）とどのようにかかわるのであろうか。この点への見通しが必要となってくるであろう。そこで以下この論点について主として『ニコマコス倫理学』に展開される見解を取り上げて検討してみよう。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat3/index_4.html">その4へ続く</a></p>]]>
        
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