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    <title>アリストテレスと現代研究会</title>
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    <title>サンデルの正義論講義をめぐって</title>
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    <published>2010-10-04T07:45:16Z</published>
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    <summary>──現代西洋社会正義理論と批判荒木勝（岡山大学教授） ［1］正義をめぐる現代的状...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">──現代西洋社会正義理論と批判<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">［1］正義をめぐる現代的状況</div><div style="float: right; background-color: #eeeeee; padding: 10px 5px 10px 10px; margin:3px 0px 5px 10px; font-size: 12px; line-height: 22px; color:#000000; border-top:5px solid #666666; border-right:1px solid #666666; border-bottom:5px solid #666666; border-left:1px solid #666666; text-align:left; width:280px;"><div style="font-size: 13px; text-align:center; padding: 7px 0px 10px 0px;"><strong>サンデルの正義論講義をめぐって<br />──現代西洋社会正義理論と批判──</strong></div><span style="font-size: 13px; ">CONTENTS</span><br /><span style="color: #666666;">［1］正義をめぐる現代的状況</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_2.html">［2］正義についての西洋の大きな伝統</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_3.html">［3］サンデルの問題提起</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_4.html">［4］新たな正義論の構築へ<br />
　［4-1］アリストテレスの目的論、善論</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_5.html">　［4-2］サンデルの問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_6.html">　［4-3］意志の二重性、知性の二重性</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_7.html">　［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_8.html">　［4-5］ロールズの善理解</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_9.html">　［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論<br />　　──共同体と個人</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_10.html">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</a><br /><br /><span style="margin:0px 0px 0px 0px;">＊アリ研メンバー小川氏による<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/docs/aken_ogawa20100921.pdf">本稿概念図（PDF）</a></span></div>
<p>　最近、日本では、ハーバード大学教授マイケル・サンデルの『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4152091312?ie=UTF8&tag=cafeface-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4152091312">これからの「正義」の話をしよう──いまを生き延びるための哲学</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=as2&o=9&a=4152091312" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』（JUSTICE── What's The Right Thing to Do ?［2010］）が出版され、また同時に「ハーバード白熱教室」と題してNHKで講義の模様が大々的に放映され、大きな反響を呼んでいる。</p>

<p>　抽象的な政治哲学のこの本がなぜ一般の人々に多くの影響をおよぼしたのだろうか。サンデル教授の講義がハーバードでもっとも人気のある講義であり、ペンギンブックスで出版されていることを考えれば、この正義をめぐる関心はアメリカ本国でも狭いアカデミズムの世界を超えた広がりを見せているのであろう。おそらく、サンデルの講義技術の卓抜さもその要因の一つであろうが、正義をめぐる一般人の関心の高さこそが主要な要因である、と思われる。</p>

<p>　サンデルが紹介している正義に関わる現実問題は実に衝撃的である。世界の富の途方もない格差がまず衝撃的である。アメリカの普通のサラリーマンの年収と一流企業のCEOの年収が近年ますます拡大しているが、それが世界全体ともなれば、途方もないほどの格差となる。サンデルの挙げている数字では、2007年のアメリカの大企業のCEOは平均的な労働者の344倍の報酬を手にしている。これは単に経済の格差にとどまらない影響をおよぼしている。</p>

<p>　高い壁に囲まれた高級住宅街、高級マンション団地は、アメリカだけでなく北京をはじめとする中国の大都市でも珍しくないが、この生活空間の区分けは、市民の教育や娯楽、趣味、消費生活に大きな差異をもたらす。こうした状況が続けば、市民間の連帯意識が急速に解体することは火をみるよりも明らかであろう。</p>

<p>　エイズ治療薬の価格問題もしかり。先進国では、研究開発費をカバーするために高い薬価が設定されているが、この価格では感染者数の多いアフリカ諸国の人々は薬を手に入れることができない。発展途上国では、最低限の医療水準が保証されないまま、自らの臓器を販売せざるをえない状況が広がっている一方で、一部の富裕層による海外医療ツーリズムが広がっている。そして、富裕層が高度の医療を享受できるのに、貧困層は自分の生命維持すらおぼつかないという現実は、アメリカや日本においても出現してきている。</p>

<p>　衝撃的な事実は、国防の根幹部分にも表れている。共和国の防衛は、市民の徴兵制によるべきか、傭兵によるべきか、はアリストテレスやマキャヴェリ以来大きな問題であった。それは国防の仕事が、平等性と市民的徳としての勇気と正義の涵養に深く関連しているからであるが、今日の共和制国家、たとえばその代表であるアメリカにおいては、軍制は、志願制という名の傭兵制に移行し、そこでは、金銭的対価が重要視されているばかりか、身分的対価や、教育のチャンスまでが対価の対象となり、国防の本来の任務に矛盾する事態が進行している。アメリカ軍は、短期滞在ビザでアメリカに住んでいる移民を募集し始め、「高給とアメリカ市民になれる近道」という売り文句で、約3万人を入隊させたといわれている。いまや富裕層は国防の義務をまぬがれ、貧困層や移民が国防の根幹を担う事態が出現している。また、最近のイラク、アフガニスタン戦争では戦争を大規模に請け負う民間企業も登場している。2007年のイラク戦争における民間企業の派遣者数は十八万人。これはアメリカ軍駐留部隊十六万人を上回っている。</p>

<p>　日本では、国防義務の地域的偏りという問題が生じている。沖縄における米軍軍事基地の巨大な存在は、沖縄県民のなかで日本本土との連帯感を喪失させている。</p>

<p>　さらに衝撃的な問題として、生命倫理をめぐる新しい事態がある。生命工学の進歩によって、高額な資金で代理母を獲得するビジネスが登場し、インドでは先進国の富裕層夫婦のための代理母提供村まである。これは正しい出来事といえるだろうか、という声が出されている。</p>

<p>　また、同性婚や幹細胞、堕胎・妊娠中絶をめぐる議論も、アメリカをはじめ世界の秩序の根幹を揺るがす大きな問題になっている。いまや「自由な選択意志だけが正しい行為を決定する要因である」とは言えない事態が広がっている、とサンデルはいう。</p>

<p>　このようなサンデルの問題提起は、今日の他の諸国においても基本的に有効であると思われる。途方もない貧富の格差、傭兵的軍事制度と徴兵制の矛盾、生命倫理の問題はいまや全世界において、その正当性の根拠を問われている、といっていいだろう。</p>

<p>　それでは、このような正義をめぐる議論に、現代西洋はどのように対処してきたのだろうか。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_2.html">［2］正義についての西洋の大きな伝統</a>へ続く</p>]]>
        
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    <title>サンデルの正義論講義をめぐって2</title>
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    <published>2010-10-04T04:35:19Z</published>
    <updated>2010-10-05T06:31:44Z</updated>

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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">──現代西洋社会正義理論と批判<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">［2］正義についての西洋の大きな伝統</div><div style="float: right; background-color: #eeeeee; padding: 10px 5px 10px 10px; margin:3px 0px 5px 10px; font-size: 12px; line-height: 22px; color:#000000; border-top:5px solid #666666; border-right:1px solid #666666; border-bottom:5px solid #666666; border-left:1px solid #666666; text-align:left; width:280px;"><div style="font-size: 13px; text-align:center; padding: 7px 0px 10px 0px;"><strong>サンデルの正義論講義をめぐって<br />──現代西洋社会正義理論と批判──</strong></div><span style="font-size: 13px; ">CONTENTS</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index.html">［1］正義をめぐる現代的状況</a><br /><span style="color: #666666;">［2］正義についての西洋の大きな伝統</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_3.html">［3］サンデルの問題提起</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_4.html">［4］新たな正義論の構築へ<br />
　［4-1］アリストテレスの目的論、善論</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_5.html">　［4-2］サンデルの問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_6.html">　［4-3］意志の二重性、知性の二重性</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_7.html">　［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_8.html">　［4-5］ロールズの善理解</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_9.html">　［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論<br />　　──共同体と個人</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_10.html">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</a><br /><br /><span style="margin:0px 0px 0px 0px;">＊アリ研メンバー小川氏による<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/docs/aken_ogawa20100921.pdf">本稿概念図（PDF）</a></span></div>
<p>　西洋の伝統的な正義理解は、プラトンの『国家』（Politeia）以来、「各人にそれにふさわしいものを返すこと」といわれ、またユスチニアヌスの『法学提要』（Institutes of Justinian）においては、次のように定式化されてきた。</p>

<div class="emp2">「各人に各人のものを与えんとする永続的、持続的意志」</div><br />

<p>　このような正義観はアリストテレスにおいては、比例的な配分という言い方で継承されているが、問題は、「各人」とは、平等者なのか、不平等者なのか、という疑問が生じる。古来、コミュニズムが提唱されてきた背景は、この人間の平等観が根底にあったことは明らかなことであろう。</p>

<p>　また、「各人のもの」とは、各人に帰属すべきものとして理解されるが、それでは各人に帰属するものとはなにか、がまた問題とされている。「帰属する」とはなにか、は所有論の問題に直結する。そこから正義論が私的所有をめぐって展開されることになる。社会主義が自由主義の私有財産の正当化に批判を向けてきたのも、所有の正当化をめぐる正義論であった。また「帰属するもの」は等質のものか、異質のものか、異質のものならばどのような基準で配分するのか、が問題とされる。これは経済学のレヴェルでは商品の価値論という形で論じられてきたし、人間にとっての価値を、効率や快楽や苦痛に還元できるとする功利主義の思想の根源的発想に関わる問題である。また、「与える」という場合、それはだれがどのようにして与えるのか、たとえば自由な意志を介してなのか、それとも第一人者が、たとえば神や哲人王が、自分の意志通りに配分するのか、あるいは、問題に関与するすべての人の合議や合意を通じて配分するのか、が問題とされる。</p>

<p>　「正義が神や君主の意志に忠実・忠誠である」こととする思考を、いわば縦の正義論とすれば、これは、ヘブライ思想の伝統やプラトンの政治思想に濃厚に表れているし、他方で、「民衆の合議こそ正義である」とする思想を、いわば横の正義論とすれば、これまた古来、民主主義、共和主義の正義論として継承されてきたといえるであろう。近代の絶対王政の理論的支柱を提供したとされ、いかなる法であれ法を順守することが正義であると主張したホッブスは、上述のラテン語の正義の定式を引用しつつ、正義の定義は、有効な信約（covenant）を守ることにあるとしている。正義の基底に、合意をふくむ信約を置いているところに注意すべきであろう。ホッブスもまた古代以来の正義論を継承しているのである。</p>

<p>　現代でも、正義理解には、この多義性という問題がつきまとっている。こうした種種の正義論のなかにあって、今日の西洋の正義論には、大きな3つの潮流があるといっていいだろう。1つ目は功利主義的思考であり、2つ目はカント、ロールズ的な、自由意志と合理的理性に基づく社会契約論的正義観であり、3つ目はマッキンタイヤー、サンデル等の、いわゆるコミュニタリアン的正義観である。</p>

<p>　本稿はこれらの正義観の概要の説明は、すでに周知のことでもあり省略するが、サンデル等の立場からする前二者への批判の論理に絞って、三者の異同を整理してみることとする。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_3.html">［3］サンデルの問題提起</a>へ続く</p>]]>
        
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    <title>サンデルの正義論講義をめぐって3</title>
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    <published>2010-10-04T04:34:28Z</published>
    <updated>2010-10-05T06:31:05Z</updated>

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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">──現代西洋社会正義理論と批判<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">［3］サンデルの問題提起</div><div style="float: right; background-color: #eeeeee; padding: 10px 5px 10px 10px; margin:3px 0px 5px 10px; font-size: 12px; line-height: 22px; color:#000000; border-top:5px solid #666666; border-right:1px solid #666666; border-bottom:5px solid #666666; border-left:1px solid #666666; text-align:left; width:280px;"><div style="font-size: 13px; text-align:center; padding: 7px 0px 10px 0px;"><strong>サンデルの正義論講義をめぐって<br />──現代西洋社会正義理論と批判──</strong></div><span style="font-size: 13px; ">CONTENTS</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index.html">［1］正義をめぐる現代的状況</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_2.html">［2］正義についての西洋の大きな伝統</a><br /><span style="color: #666666;">［3］サンデルの問題提起</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_4.html">［4］新たな正義論の構築へ<br />
　［4-1］アリストテレスの目的論、善論</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_5.html">　［4-2］サンデルの問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_6.html">　［4-3］意志の二重性、知性の二重性</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_7.html">　［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_8.html">　［4-5］ロールズの善理解</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_9.html">　［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論<br />　　──共同体と個人</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_10.html">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</a><br /><br /><span style="margin:0px 0px 0px 0px;">＊アリ研メンバー小川氏による<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/docs/aken_ogawa20100921.pdf">本稿概念図（PDF）</a></span></div>
<p>　サンデルによれば、今日の危機は、家族、地域、国家の連帯の喪失、またそこから引き出される成員間の名誉感の喪失という点に集中的に表れている、とされる。富の途方もない格差は、市民間の経済格差のみならず（この点への是正を論じることがロールズ正義論の基本テーマである）、むしろ市民間の連帯的意識の喪失に決定的な影響を及ぼす。そして、この格差を克服すべく構想された功利主義、ロールズの正義論も、この事態を根本的に改善する思想的力を持っていないとされるのだ。功利主義は市民間の格差を、快楽と苦痛の量的還元によって最大多数の最大幸福を追求しようとするが、市民間の格差の質的側面を覆い隠し、市民の個別的な固有権利を無視する論理を内包している。ロールズの正義論は、抽象的な個人の自由意志による合理的選択に重きを置くため、各種の共同体の、自己犠牲的精神を含む名誉や連帯意識の涵養に貢献しない、と。</p>

<p>　サンデルやマッキンタイヤーたちの主張の中心は、個人を抽象的に措定するのではなく、特定の共同体において形成されてきた具体的歴史的な物語との連関で個人をとらえようとする見解。いわば負荷された個人（encumbered self）という視点である。さらに各種の共同体がもつ固有の目的を重視する目的論的視点から個人の役割を規定しようとする論点である。この点から、サンデルは自らの立脚点を、個人の自由で合理的な選択意志を決定的に重視するカント、ロールズ的な主意主義ではなく、アリストテレスの目的論的社会理解に置くべきだと主張する。今日の正義論の核心はまさにこのアリストテレス的目的論的正義論の復権である、というのである。</p>

<p>　しかしながら、このサンデル、マッキンタイヤーたちのアリストテレス復興の意志は、カント、ロールズたちの提起した、個人の自由意志に基づく社会契約論に立つ正義論に対して、充分な説得力を有しているだろうか。</p>

<p>　各種の共同体の本質的な目的を重視することは重要な指摘だとしても、もしこの目的が、個人の自由意志に基づく選択と矛盾する事態となったとき、この共同体の目的は個人を抑圧する価値体系に転嫁するのではなかろうか。ロールズが常に批判する包括的社会理論の支配する共同体は、個人の自由意志を抑圧する社会であるという議論がふたたび持ちだされるのではないだろうか。あるいはまた、コミュニタリアニズムは、連帯と名誉の再興を強調するが、新しい社会的事態のなかで正義の在り方を提示する意志の可能性を無視することになるのではなかろうか。アリストテレスの目的論的社会論がこれまで浴びてきた基本的難点が、この理論の全体主義的傾向にあるという主張も、この論点に深く関わっている。多元的国家理論の提唱者であるＥ・バーカーが、自らアリストテレス主義者であることを標榜しつつも、このアリストテレスの目的論的社会論は全体主義的だと断じるのもこの点と関っている。</p>

<p>　サンデル、マッキンタイヤーたちコミュニタリアニズムへのリベラリズムからの批判の核心も、まさに共同体の全体的な目的が個人の自由意志と両立するかどうか、という論点をめぐって展開されてきたのであるが、サンデルの論理はいまだこの点に対する説得的見解を表明していないように思われる。</p>

<p>　そこで、本稿では、サンデル、マッキンタイヤーが依拠するアリストテレスの正義論について、彼らの読み方とは違う解釈を提示し、アリストテレスの目的論的正義論が、カント、ロールズの理論に機械的に対立するものではなく、むしろ一部を包摂しつつ、あらたな、いわば主意主義的ヴォランタリスティックな目的論的正義論を提示していることを示そうとするものである。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_4.html">［4］新たな正義論の構築へ</a>へ続く</p>]]>
        
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    <title>サンデルの正義論講義をめぐって4</title>
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    <published>2010-10-04T04:33:25Z</published>
    <updated>2010-10-05T07:23:04Z</updated>

    <summary>──現代西洋社会正義理論と批判荒木勝（岡山大学教授） ［4］新たな正義論の構築へ...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">──現代西洋社会正義理論と批判<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">［4］新たな正義論の構築へ</div>
<div class="sub2">［4-1］アリストテレスの目的論、善論</div><div style="float: right; background-color: #eeeeee; padding: 10px 5px 10px 10px; margin:3px 0px 5px 10px; font-size: 12px; line-height: 22px; color:#000000; border-top:5px solid #666666; border-right:1px solid #666666; border-bottom:5px solid #666666; border-left:1px solid #666666; text-align:left; width:280px;"><div style="font-size: 13px; text-align:center; padding: 7px 0px 10px 0px;"><strong>サンデルの正義論講義をめぐって<br />──現代西洋社会正義理論と批判──</strong></div><span style="font-size: 13px; ">CONTENTS</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index.html">［1］正義をめぐる現代的状況</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_2.html">［2］正義についての西洋の大きな伝統</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_3.html">［3］サンデルの問題提起</a><br /><span style="color: #666666;">［4］新たな正義論の構築へ<br />
　［4-1］アリストテレスの目的論、善論</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_5.html">　［4-2］サンデルの問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_6.html">　［4-3］意志の二重性、知性の二重性</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_7.html">　［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_8.html">　［4-5］ロールズの善理解</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_9.html">　［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論<br />　　──共同体と個人</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_10.html">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</a><br /><br /><span style="margin:0px 0px 0px 0px;">＊アリ研メンバー小川氏による<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/docs/aken_ogawa20100921.pdf">本稿概念図（PDF）</a></span></div>
<p>　さて、アリストテレスの目的論を検討する際、もっとも注意すべき点は、この目的自体がある種の重層性を帯びていることである。</p>

<p>　アリストテレスの理解するところによれば、「万物は、つねに運動しており、それ固有の形相にしたがってその形相の完成を達成するべき固有の目的をもっている」とされる。その万物がもつ目的には、そのもの自体の完成目的という意味での内在的目的という側面と、世界全体の一定の秩序への完成への関与という意味での外的目的との2種類があるが、いずれにしても万物は自ら固有の目的を志向している。この点からみれば確かにアリストテレスの目的論は、ものの本質に内在的な目的論ということができる。</p>

<p>　アリストテレスの善の定義がそれを端的に表現している。「善とは、正しくも、万物の志向する（エフィエスタイ）ものと言われている」とされるが、この「志向」する対象たるもの、善を、運動する物という視点から見たとき、それは目的（テロス）とされる。</p>

<div class="emp2">「さらに形相（エイドス）や実有（ウーシア）も自然本性的なものである。ところでこれは生成の終わり、すなわち目的（テロス）である」（『形而上学』1015a10-11）</div><br />

<div class="emp2">「（原因の中でも）残るところ、他の物事の目的とし、善としての原因がある。というのは、他の物事がそれのためにそうあるところのそれ（ト・フー・ヘネカ）は、善なるものであり、他の物事の目的であるのが通例だからである」（『形而上学』1013b25-27）。</div><br />

<p>　注意すべきは、この万物による善への志向には、事物の自然本性によって種種の層が存在することであり、人間における善志向は意志、すなわち理性的欲求（rational desire）という志向になる点である。人間における目的＝善とは、人間の意志を通じて希求され実践される。それゆえ、当該社会の目的である共通善もまた基本的には、人間の共通する意志、共同的意志によって希求されるものであり、人間の意志から離れた超越的な善ではない、ということになるであろう。それゆえ、人間にとって善なるものが人間の意志を通じて追求されるものである、という点において、カント、ロールズの自由意志論重視の行為論はある意味で正当な側面を持っているということができる。</p>

<p>　ただしカント、ロールズにあっては、とくにロールズの原初状態における善は、あくまで個人の自己の便益追求のレヴェルにとどまるものであり、そのままでは社会全体の善、共通善に昇華しえないものとされる。カントにあっては、善は、個人が普遍的で形式的な当為命題を為さんとする意志にしか存在せず、共通善はあったとしても、形式的理念的な社会契約という形でしか存在しない。ロールズにあっても善は、個人の意志の対象であり、共通善は、ベールに覆われた個人の合理的で形式的な選択の枠組みの合意、すなわち正義の準則の確立を経て、始めて現実的なものになる。この意味において、正は善に優越性を持つとされる。</p>

<p>　しかしながら、アリストテレスにおいては、個人は個人的な善指向の延長線上に共通善を指向するとされる。個々人の意志に即しつつ、同時にそれが共同の意志にまで転化したとき、共通善、共同善が表れる。しかし、なぜアリストテレスにおいてはこの個人的善が共通善へとつながっているのだろうか。</p>

<p>　その点を理解する鍵は、アリストテレスの人間理解に求めなければならない。アリストテレスによれば、人間の意志は、個人的な自己の固有便益を求める善の追求と同時に他者の善を求める。人間は個人の善志向と同時並行的に、正と友愛を指向する。ここで注目すべきは、善指向それ自体が重層的であることである。具体的にアリストテレスはそれを以下のように描いている。</p>

<div class="emp2">（1）「相互の援助をなにも必要としない人々でさえ、やはり人とともに生きることを欲する。しかし各人が美しく生きることを分かち合うかぎり、共通の善が人々を集める」（『政治学』第3巻第8章1278b19-23）</div>
<div class="emp2">（2）「各人が品位ある生を分かち合う限り、共同に益となるものが人々を集める。こうした生は、公共の観点からも、各人の個人的観点からも、究極的目的である」</div>
<div class="emp2">（3）「生きることそれ自体に関しても、人々は集まり、市民的政治的な共同的結合体を維持する。というのは、生きることそれ自体においても、品位の若干の部分が含まれているから」</div><br />

<p>　それゆえ、アリストテレスの共通善は、自己と他者との利益のバランスを指向する正義と、他者の善を指向する友愛を求める善であり、この善の追求自体がまた追求者の人間的力量を前提することになる。この共通善の志向とそれを担いうる人間の陶冶の生こそが、アリストテレスにおける「品位ある生　エウ・ゾーン（good life）」であった。ロールズに倣って言うならば、ベールに覆われた原初状態の人間は、アリストテレスにおいては、自己の個人的便益の合理的選択のみならず、他者と自己の便益のバランスを指向し、さらに他者の便益を指向する存在であった、といってもいいであろう。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_5.html">［4-2］サンデルの問題点</a>へ続く</p>]]>
        
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    <title>サンデルの正義論講義をめぐって4-2</title>
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    <published>2010-10-04T04:32:50Z</published>
    <updated>2010-10-05T06:56:49Z</updated>

    <summary>──現代西洋社会正義理論と批判荒木勝（岡山大学教授） ［4-2］サンデルの問題点...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">──現代西洋社会正義理論と批判<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">［4-2］サンデルの問題点</div><div style="float: right; background-color: #eeeeee; padding: 10px 5px 10px 10px; margin:3px 0px 5px 10px; font-size: 12px; line-height: 22px; color:#000000; border-top:5px solid #666666; border-right:1px solid #666666; border-bottom:5px solid #666666; border-left:1px solid #666666; text-align:left; width:280px;"><div style="font-size: 13px; text-align:center; padding: 7px 0px 10px 0px;"><strong>サンデルの正義論講義をめぐって<br />──現代西洋社会正義理論と批判──</strong></div><span style="font-size: 13px; ">CONTENTS</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index.html">［1］正義をめぐる現代的状況</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_2.html">［2］正義についての西洋の大きな伝統</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_3.html">［3］サンデルの問題提起</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_4.html">［4］新たな正義論の構築へ<br />
　［4-1］アリストテレスの目的論、善論</a><br /><span style="color: #666666;">　［4-2］サンデルの問題点</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_6.html">　［4-3］意志の二重性、知性の二重性</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_7.html">　［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_8.html">　［4-5］ロールズの善理解</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_9.html">　［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論<br />　　──共同体と個人</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_10.html">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</a><br /><br /><span style="margin:0px 0px 0px 0px;">＊アリ研メンバー小川氏による<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/docs/aken_ogawa20100921.pdf">本稿概念図（PDF）</a></span></div>
<p>　もちろん、サンデルの見解も基本的にはこのような理解の線上にあるといっていいだろう。サンデルはこの共通善の政治の復権こそが、アメリカの正義の実現にとって決定的であると述べ、具体的には、経済的富の効用や個人的自由の賛美ではなく、全体への配慮、愛国心のような献身的犠牲、兵役志願、公共道徳、市民道徳、正しい結婚、等を政治の課題としなければならないという。しかしながらサンデルにおいては、こうした共通善の呼びかけは、個人の内在的意志の展開と結びついていない。</p>

<p>　サンデルもこうした批判を自覚して、それへの応答をマッキンタイヤーの、物語的存在（narrative being）としての人間理解に求めている。この見解によれば、人間は特定の社会において確かに行為を選択する。この点ではマッキンタイヤーやサンデルも人間の選択意志を重要視する。しかしこの場合の選択は、無前提の選択ではない。特定の個人は自分の置かれた社会的位置や社会的伝統のなかで形成されてきた物語のなかで、その物語の解釈における選択的行為を行うのである。</p>

<div class="emp2">「人生を生きるのは、ある程度のまとまりと首尾一貫性を指向する物語的探求（narrative quest）を演じることだ。分かれ道に差しかかれば、どちらの道が自分の人生全体と自分の関心事にとって意味があるか見極めようとする。道徳的熟考とは、自らの意志を実現することではなく、人生の物語を解釈することだ。それは選択を含むものであるが、選択は解釈から生まれるものであり、意志の主権的行為（sovereign act of will）ではない。目の前の道のどれが私の人生のヤマ場にもっとも適しているか、私自身より他人の目にはっきりと見えることも、ときにはあるかもしれない」（Justice ;What's the Right Thing to Do? Penguin Books.2009.221-222）</div><br />

<p>　確かに、人間存在を物語的存在とする理解には、一定程度選択的意志の働く余地が含まれている。しかしながらサンデル自身も指摘するように、家族や国家における連帯的な道徳的義務は、究極的には個人の合意（consent）に基づかないものとされる。</p>

<div class="emp2">「したがって、人格について主意主義的な（voluntarist）考え方をとるか物語的な（narrative）考え方をとるかを決める1つの方法は、第3のカテゴリーの責務──すなわち連帯（solidarity）や同胞主義（membership）──は、契約主義的用語では説明できない、ということである。自然的義務とは異なり、連帯の責務は個別的であり、普遍的でない、そこには我々が負う道徳的責任も含まれているのだが、この責任は理性的な人間（rational being）そのものではなく、一定の歴史を共有する人間にたいする責任である。だがこれらは、自発的責務とは異なり、合意（consent）の行為に基づいていない。その道徳的重みは道徳的な考察の状況づけられた側面、すなわち、私の人生の物語は、他者の物語のなかに組み込まれたから出てくるのである」（前掲書、ibid.,225）</div><br />

<p>　物語的存在である人間は、その物語を解釈していく選択的自由を持っているのではあるが、この物語の根本的前提は、所与のものとして前提されるということであろう。この前提が、ある場合には、歴史的伝統という事柄であり、ある場合には基本的な道徳的命題として当該共同体の本質的目的として前提されるということなのであろう。いずれにしても、基本的な共同体の存続に関わる連帯は、合意や契約の関与することのない所与ということになる。</p>

<p>　サンデルは、上記の最後に、自らの政治哲学的理念の開陳に、共通善の政治（Politics of the Common Good）、特定の道徳的信念、美徳の政治（virtue of politics）を呼びかけているが、もし共通善が、当該の共同体の成員に内在的に合意されないものであったら、それを善と呼ぶことはできないのではないだろうか。これはアリストテレスの善規定、目的規定に反するであろう。サンデルはアリストテレスを再興しようとするのか、批判の対象にするのであろうか。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_6.html">［4-3］意志の二重性、知性の二重性</a>へ続く</p>]]>
        
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    <title>サンデルの正義論講義をめぐって4-3</title>
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    <published>2010-10-04T04:31:40Z</published>
    <updated>2010-10-05T07:16:59Z</updated>

    <summary>──現代西洋社会正義理論と批判荒木勝（岡山大学教授） ［4-3］意志の二重性、知...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">──現代西洋社会正義理論と批判<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">［4-3］意志の二重性、知性の二重性</div><div style="float: right; background-color: #eeeeee; padding: 10px 5px 10px 10px; margin:3px 0px 5px 10px; font-size: 12px; line-height: 22px; color:#000000; border-top:5px solid #666666; border-right:1px solid #666666; border-bottom:5px solid #666666; border-left:1px solid #666666; text-align:left; width:280px;"><div style="font-size: 13px; text-align:center; padding: 7px 0px 10px 0px;"><strong>サンデルの正義論講義をめぐって<br />──現代西洋社会正義理論と批判──</strong></div><span style="font-size: 13px; ">CONTENTS</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index.html">［1］正義をめぐる現代的状況</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_2.html">［2］正義についての西洋の大きな伝統</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_3.html">［3］サンデルの問題提起</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_4.html">［4］新たな正義論の構築へ<br />
　［4-1］アリストテレスの目的論、善論</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_5.html">　［4-2］サンデルの問題点</a><br /><span style="color: #666666;">　［4-3］意志の二重性、知性の二重性</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_7.html">　［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_8.html">　［4-5］ロールズの善理解</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_9.html">　［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論<br />　　──共同体と個人</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_10.html">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</a><br /><br /><span style="margin:0px 0px 0px 0px;">＊アリ研メンバー小川氏による<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/docs/aken_ogawa20100921.pdf">本稿概念図（PDF）</a></span></div>
<p>　こうしてサンデルの議論は、カント、ロールズの契約論的、主意主義論的正義論を批判して目的論的正義論を展開するのであるが、この目的論的正義論の拠り所となっているアリストテレスの目的論、善論それ自体の理解と背馳する見解となっているのである。</p>

<p>　ではこの難点をどう突破すればいいのだろうか。</p>

<p>　この問題において決定的に重要な点は、アリストテレスにおける、人間の知性と意志の二重性の理解である。その点から見て、決定的な箇所を提示しよう。</p>

<div class="emp2">「私が法といっているのは、1つは特有な法のことであり、今1つは共通の法のことである。特有な法とは、それぞれの国家が自分たちの生活との関連で制定した法で、これには書かれていないものと書かれたものとがある。これに対して、共通な法とは、自然本性的な法である。人々がお互いに共同生活を営むとか、契約を交わすということがない場合でも、自然における共通の正しさというとか不正といったものが存在していて、すべての人々はそれがあることを予感知（presageful-sensitive-intellect）している（マンテウオンタイ　パンテス）」（『修辞学』第1巻13章1373b7）</div><br />

<p>　ここで使われている「予感知する（マンテウエスタイ［manteuesthai］。make presageful -sensitive intellect［Princetonn versionの英訳ではdivine］）」とは、共同生活（association）に入る前に、また契約（covenant）を交わすことがない場合でも、お互いに何が正であるか、を人々が知る知的能力として言及されている。しかもその際に知られた正の本質について互いに了解しあっていることが含意されている。正とは自己と他者との比例的関係であるからである。これをもって予感知的合意とするならば、アリストテレスにおいては、合意は二重に存在していたということになろう。具体的な約束を相互に取り決める契約における合意と、予感知（マンテイア）としての合意である。</p>

<p>　ところでこの「予感知する」という動詞は、原義として、占う・予見する（prophesy, presage）、神託を受ける・下す（consult an oracle）という含意と、匂いを嗅ぎつける（get scent of）、という含意の双方を含んでいる。すなわちある種の嗅覚的な感覚的要素を持ちながら、同時に、通常の人間の論理的理性を超えていく知性を意味している言葉である。</p>

<p>　それでは、こうした予感知という知性の存在は、アリストテレスの知性理解においてどのような位置に置かれているのだろうか。そもそも、アリストテレスにおいて、人間の知性（ロゴス［logos-reason］）は厳密には二重に把握されていた。物事を直観的に把握する知性を直知（ヌース［nous-intellect］）とし、これはまた倫理の根本命題（アルケー［arche］）を直観的に把握するとされる。他方、直知によって把握された基本命題に基づいて論理力、推理力を用いて展開する知性を狭義の理性とするならば、予感知は、この直知に親和的であるといってもいいであろう。直知は、何らの論理力ももちいずに、感性と一体になった知性であるとされるからである。</p>

<div class="emp2">「直知にいたっては両様の方向において究極的なものに関わっている。それは、すなわち最初にくる諸定義（ホロイ）にも関わるし、また最終的な個にも関わるのであり、これらについての認識はいずれもロゴスの関知しないところに属する。直知は、すなわち、それが論証に携わる場合にあっては、もろもろの不動な最初にくる諸定義に関わるのであるし、またそれが実践的なそれに携わる場合にあっては、最終的な、他の仕方であることも可能な個別に関わり、したがってまた小前提にも関わる。・・・それゆえこうしたもろもろの個別的なるものを認識する感性知（アイステーシス［aisthesis］）を持たなくてはならない。このような感性知を行うのがすなわち直知の働きにほかならない」（『ニコマコス倫理学』第6巻第11章1143a35-b5）</div><br />

<p>　それゆえ、アリストテレスの人間知性論において重要な点は、広義の意味において理解される理性（ロゴス）には、狭義における、感性知ともいうべき直知と、論理力・推理力としての理性が区別されたうえで包含されていることであり、この観点からみれば、予感知は、感性知であるとされる直知と親和性のある知性である、ということである。この点で予感知は直知と同様に究極の個的存在に関わる知性であるとされる。</p>

<p>　また、さきに言及されているように直知は、最初に来る定義に関わるとされているが、この定義ホリスモス（horismos）とは、「何であるか（ト・ティ・エーン・エイナイ［to ti en einai］）」＝実有（ousia）を言い表す説明方式であるといわれている以上（『形而上学第8巻第1章』）、直知は対象の実有に分け入る洞察知という性格をもっている。</p>

<p>　他方、先に予感知に関する引用で紹介した箇所は、この予感知が、自然本性的で共通に妥当する法の存在を知る知性として紹介されている。それゆえ、対象の何らかの本性を洞察する知性として、直知と予感知とは共通の性質をもっているということができるであろう。アリストテレスによれば、この予感知が働くことによって、人間は、共同社会に入る前に、共通の正義の理解に到達する、とされる。こうした予感知の働きは、アリストテレスによれば、人間における善の認識にも作用している、とされる。</p>

<div class="emp2">「我々の予感知するところによれば、善とは何らか本人に固有な、取り去ることの難しいものでなくてはならない」（『ニコマコス倫理学』第1巻第5章1095b26）</div><br />

<p>　世間の一般的見解（ドクサ）とは別に、そのいわば基層として、予感知による善理解が存在するのである。もしそうであれば、共通善もまた、世間一般に抱かれ、明示的に了解され、制度化された共通の善とは別に、その基層として、共同の予感知からする共通善の世界が存在することになるだろう。そしてこの予感知が、互の正についての直観的合意を含むならば、共通善もまたある種の直観的合意に支えられていることになる。</p>

<p>　こうした理解は意志論にも当てはまる。アリストテレスにおいては、意志は、根源的意志（ブーレーシス［radical will］。願望。Princeton versionではwishと訳される。ラテン語ではvoluntas）と選択意志（プロアイレシス。Princetonversionではchoice。ラテン語ではelectioと訳される）とに区別され、根源的意志こそが、究極目的（テロス）に関わり、それへの達成手段に選択意志が関わるとされる。先の例によれば、殺人禁止が正であるという合意を予感知あるいは直知が獲得するとすれば、殺人禁止を意志することはこの根源的意志にとって達成される。こうした根源的な合意があり、そのうえで具体的状況下での殺人回避の選択的意志が働く。この二重の意志こそが、一般的な実定的な法の基礎になっているというのがアリストテレスの理解であろう。</p>

<p>　こうした観点から見ると、今日の代表的な政治哲学者ハンナ・アレントのアリストテレス意志論理解には大きな問題点が含まれており、それを指摘しておくことは、アリストテレス意志論理解をより正確ならしめる一助となるであろう。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_7.html">［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</a>へ続く</p>]]>
        
    </content>
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    <title>サンデルの正義論講義をめぐって4-4</title>
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    <published>2010-10-04T04:30:59Z</published>
    <updated>2010-10-05T07:21:21Z</updated>

    <summary>──現代西洋社会正義理論と批判荒木勝（岡山大学教授） ［4-4］アレントのアリス...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">──現代西洋社会正義理論と批判<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</div><div style="float: right; background-color: #eeeeee; padding: 10px 5px 10px 10px; margin:3px 0px 5px 10px; font-size: 12px; line-height: 22px; color:#000000; border-top:5px solid #666666; border-right:1px solid #666666; border-bottom:5px solid #666666; border-left:1px solid #666666; text-align:left; width:280px;"><div style="font-size: 13px; text-align:center; padding: 7px 0px 10px 0px;"><strong>サンデルの正義論講義をめぐって<br />──現代西洋社会正義理論と批判──</strong></div><span style="font-size: 13px; ">CONTENTS</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index.html">［1］正義をめぐる現代的状況</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_2.html">［2］正義についての西洋の大きな伝統</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_3.html">［3］サンデルの問題提起</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_4.html">［4］新たな正義論の構築へ<br />
　［4-1］アリストテレスの目的論、善論</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_5.html">　［4-2］サンデルの問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_6.html">　［4-3］意志の二重性、知性の二重性</a><br /><span style="color: #666666;">　［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_8.html">　［4-5］ロールズの善理解</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_9.html">　［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論<br />　　──共同体と個人</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_10.html">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</a><br /><br /><span style="margin:0px 0px 0px 0px;">＊アリ研メンバー小川氏による<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/docs/aken_ogawa20100921.pdf">本稿概念図（PDF）</a></span></div>
<p>　ハンナ・アレントは、『精神の生活』（The Life of The Mind［1971.Vol.1.2.U.S.A］）において、アリストテレスの意志について考察しているが、そこでは、「アリストテレスは意志の実在については認識する必要がなかった」（Vol.2.p.1.）とされ、行為の選択的自由を意味するとされるプロアイレシス（proairesis）は、眼前にある手段の選択的自由だけを意味しており、真に内面的な、目的そのものを選択する自律的な意志についてはまったく論及されることがなかった、という。</p>

<div class="emp2">「プロアイレシスという選択の能力は、意志の先駆けである、というように結論づけたくなりがちである。・・・我々は、目的に至るための手段についてのみ熟考するのであって、目的については自明のことと思っており、選択することはできない。我々は、健康あるいは幸福について考えはするであろうが、だれも、それらを熟考したり選択したりしない。目的は、人間の本性に生得的なものであり、すべての人にとって同一である。・・・こうして目標のみならず手段も与えられることになり、我々の自由な選択は、たんに、諸手段を合理的に選び出すということになる。プロアイレシスは、幾つかの可能性を調停するものである」（ibid., p.62）</div><br />

<p>　アレントによれば、意志の自由というものに近い概念として理解されてきたこのプロアイレシスは中世でリベルム・アルビトリウム（liberum arbitrium）と訳されて普及したが、それは、あくまでも目的・手段の合理的選択意志にすぎず、「何か新しいことを始める自発的力や、それ自身の本性によって規定され自らの法則に従うような自律的能力」を扱うわけではない、とされる。</p>

<p>　しかしアリストテレスにおいては、さきに見たように、目的は、確かに人間にとって自然本性的なものであるが、各人にとって自明であり、選択できないもの、というようなものではない。目的は人間にとって、根源的意志（ブーレーシス［radical will］）の対象であり、またそれが意志の対象である限り、意志が理性的欲求であることを考えれば、この目的が何であるか、という問いの対象になるのである。確かに幸福は万人にとり究極の目的ではあるが、幸福の内実については多様であり、そのなかでいかなる幸福を目的とするかは、ある意味で選択の問題となる。目的は、アリストテレスにおいて、人間社会における善としては、意志の選択的な対象であった、といってもいいであろう。これを、目的手段間の選択と区別する意味で、目的間選択の理論としておこう。根源的意志は予感知（マンテイア）によって知られた目的から出発して、自己内の内面的対話や他者との対話を通じて、目的間の選択を行い、そのなかから適正な目的を選択するのである。</p>

<div class="emp2">「根源的意志は、目的に関わる。このことはすでに述べたことである。だが、一部の人々においては、根源的意志は善であるところのものに関わると考え、また他の一部の人においては、根源的意志は善に見えるところのものに関わると考えている。今もし、前者のように、根源的に意志されるもの、とは善くあるところのものを意味すると主張するならば、目的を正しく選ばない人の根源的意志するところのものは、根源的に意志されたのではないことになるし、また後者のごとく、根源的に意志されたもの、とは、善に見えるところのものに他ならないと主張するならば、本性的に根源的意志されるものは存在せず、各人に善と考えられるところのものがそのまま根源的に意志されるものであることとなる。しかし、善に見えるところのものはそれぞれ異なるのであって、場合によっては、互いに反対のものであることさえある」（『ニコマコス倫理学』第3巻第4章1113a15-22）</div><br />

<p>　アレントの誤読は、このアリストテレスのブーレスタイ（根源的に意志する）を「あるものを、より望ましいものとして観ること」（ibid.,p.15）と理解し、その言葉が根源的意志であることを看過したことによるのであろうし、また目的──善の重層的な把握、目的間選択の構造を把握し損なったことに起因しているのであろう。</p>

<p>　アリストテレスにおいては、人間の行為の目的は、それがその行為の主体者によって意志される時に善きものとされ、目的に関する選択の対象となるのであり、この目的を選択したのち、それを特定の行為の場で実現しようとするとき、目的──手段の選択的意志（プロアイレシス）が発動される、と解されるのである。その意味において、アリストテレスにおいては選択もまた二重に行われているのである。ただし行為の究極目的に関わる際、この根源的意志が発動されるが、その際、この根源的意志は、人間の予感知、直知と共同して人間や自然の自然本性を、また人間社会の自然本性的秩序を把握しようとする。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_8.html">［4-5］ロールズの善理解</a>へ続く</p>]]>
        
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    <title>サンデルの正義論講義をめぐって4-5</title>
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    <published>2010-10-04T04:29:53Z</published>
    <updated>2010-10-05T06:34:20Z</updated>

    <summary>──現代西洋社会正義理論と批判荒木勝（岡山大学教授） ［4-5］ロールズの善理解...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">──現代西洋社会正義理論と批判<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">［4-5］ロールズの善理解</div><div style="float: right; background-color: #eeeeee; padding: 10px 5px 10px 10px; margin:3px 0px 5px 10px; font-size: 12px; line-height: 22px; color:#000000; border-top:5px solid #666666; border-right:1px solid #666666; border-bottom:5px solid #666666; border-left:1px solid #666666; text-align:left; width:280px;"><div style="font-size: 13px; text-align:center; padding: 7px 0px 10px 0px;"><strong>サンデルの正義論講義をめぐって<br />──現代西洋社会正義理論と批判──</strong></div><span style="font-size: 13px; ">CONTENTS</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index.html">［1］正義をめぐる現代的状況</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_2.html">［2］正義についての西洋の大きな伝統</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_3.html">［3］サンデルの問題提起</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_4.html">［4］新たな正義論の構築へ<br />
　［4-1］アリストテレスの目的論、善論</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_5.html">　［4-2］サンデルの問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_6.html">　［4-3］意志の二重性、知性の二重性</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_7.html">　［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</a><br /><span style="color: #666666;">　［4-5］ロールズの善理解</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_9.html">　［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論<br />　　──共同体と個人</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_10.html">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</a><br /><br /><span style="margin:0px 0px 0px 0px;">＊アリ研メンバー小川氏による<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/docs/aken_ogawa20100921.pdf">本稿概念図（PDF）</a></span></div>
<p>　こうした、アレントによるアリストテレスの曲解は、ロールズも共有していており、それがまたロールズの正義論に致命的問題性を生み出していると思われる。なお、ここで論じるのは、ロールズの『正義論』のみであることを断っておく。ロールズ自身は、その後、初期のこの『正義論』から大きく展開しているからであり、しかし他方では『正義論』自体が一個のリベラリズムの政治哲学の体系書であることは否定しえない事実であるから。</p>

<p>　さて、ロールズの『正義論』（The Theory of Justice［1971］）は、彼自身も述べているように、アリストテレスの正義論の根幹である配分的な正義の議論を継承したものということができる。</p>

<div class="emp2">「アリストテレスの定義は、明らかに、固有にある人に属するものと、ある人に当然帰属すべきものとの説明を前提にしている。さて、そのような資格は多くの場合、社会制度とそれらが生み出す合法的な期待から導きだされる、と私は信じる。アリストテレスがこのことに同意しないと思われる理由はなにもない」（ibid.,p.10）</div><br />

<p>　しかしながら周知のように、ロールズは自らの理論の根幹、原初状態における正義の二原則の理論的前提をロック、カント以来の社会契約論の発想のうえに構築された原初社会における合意理論に求め、アリストテレスの正義論を全体としては、目的論的理論として拒否している。</p>

<p>　その理由を、目的論的理論は、善と正義を直接的に連続させ、社会を全体主義的に傾斜させるという点に求めている。</p>

<p>　ロールズによれば善は、第一次的には、狭義には、個人の人生の個人的便益の自由で合理的な選択意志の発動の対象物であり、原初状態における正義の合意ののち、この正義の原則に照らされてようやく、完全な意味において、公共的な善となる。この善の二重の性格をアリストテレスは理解しておらず、アリストテレスにおいては、当該社会の是認された徳の達成が善とされ、それの直接的な拡大が正義の達成ということになる、と。</p>

<div class="emp2">「目的論的理論では、善は正から独立に定義されるということを心に止めておくことが重要である。このことは二つのことを意味する。第一に、その理論は、常識によって直観的に区別できる独自の一連の判断によって、どれが善（我々の価値判断）かについての慎重な判断を説明し、そしてこれから正はすでに明確に定められているものとしての善を最大化するという仮説を提案する。・・・諸々の目的論的教義は、善の概念がどのように明確に定められるかによって、かなり明らかに異なる。もし、善が様々な文化の形態における人間の卓越性の実現として考えられるならば、我々は完成主義と呼ばれるものを持つ。この考えは、とりわけアリストテレスとニーチェに見出される。善が快楽として定義されるならば、快楽主義であるし、幸福として定義されるならば、それは幸福主義である等々」（ibid.,p.22）</div><br />

<p>　ロールズが強調する、善に対する正の先行という議論は、よく秩序化された社会では（in a well-ordered society）、個人の善も、それ自体では、まだ狭義の意味(皮相な意味)において（in the thin account）個人的便益の合理的な最大化であるにすぎないが、社会的な正義の準則によって是認された時、始めて完全な善になる、という理解を前提にしており、また、その意味において正の中立性を主張することになり、自由で平等な個人の善をバランスよく保障しようとする思考である。しかしこの理論の原点である原初状態（the original position）における個人の善が追求する目的は、ロールズにおいてはあくまで、他者に対する配慮を持たない個人の自由で合理的な選択意志の発動の対象であった。意志はここでは、あくまでも個人の個人的便益の拡大を図る目的──手段の合理的選択ということに固定化されており、アリストテレスにおける、目的間の選択に発動される根源的意志の選択可能性を忘却しているのである。</p>

<p>　こうしたロールズの見解の背後には、個人の目的は、あくまで個人の個人的な便益の拡大であり、この目的を達成しようとする、自由な個人的な意志の発動を、適正な社会的制度の中で生かしていこうとする、近代欧米社会が蓄積してきた人間観が前提的与件として横たわっている。しかし他方で、それは、古典古代思想、とりわけアリストテレスの政治哲学への誤解のうえに立つものであり、またそれゆえにロールズの人間理解、とくに意志理解の狭隘化を引き起こすことになった。</p>

<p>　他方、サンデルにおいては、ロールズの正義論の個人主義的傾向を批判するあまり、ロールズ批判の原理として依拠するアリストテレスの目的論への理解が、個人の自由な意志の発動を許さない理解をもたらすことになった。ロールズもサンデルも、アリストテレスの根源的意志論、予感知、直知、またそこから出発する目的間選択意志論を忘却した、ということができる。</p>


<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_9.html">［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論──共同体と個人</a>へ続く</p>]]>
        
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    <title>サンデルの正義論講義をめぐって4-6</title>
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    <published>2010-10-04T04:27:13Z</published>
    <updated>2010-10-05T06:35:02Z</updated>

    <summary>──現代西洋社会正義理論と批判荒木勝（岡山大学教授） ［4-6］アリストテレスの...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">──現代西洋社会正義理論と批判<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論──共同体と個人</div><div style="float: right; background-color: #eeeeee; padding: 10px 5px 10px 10px; margin:3px 0px 5px 10px; font-size: 12px; line-height: 22px; color:#000000; border-top:5px solid #666666; border-right:1px solid #666666; border-bottom:5px solid #666666; border-left:1px solid #666666; text-align:left; width:280px;"><div style="font-size: 13px; text-align:center; padding: 7px 0px 10px 0px;"><strong>サンデルの正義論講義をめぐって<br />──現代西洋社会正義理論と批判──</strong></div><span style="font-size: 13px; ">CONTENTS</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index.html">［1］正義をめぐる現代的状況</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_2.html">［2］正義についての西洋の大きな伝統</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_3.html">［3］サンデルの問題提起</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_4.html">［4］新たな正義論の構築へ<br />
　［4-1］アリストテレスの目的論、善論</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_5.html">　［4-2］サンデルの問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_6.html">　［4-3］意志の二重性、知性の二重性</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_7.html">　［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_8.html">　［4-5］ロールズの善理解</a><br /><span style="color: #666666;">　［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論<br />　　──共同体と個人</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_10.html">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</a><br /><br /><span style="margin:0px 0px 0px 0px;">＊アリ研メンバー小川氏による<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/docs/aken_ogawa20100921.pdf">本稿概念図（PDF）</a></span></div>
<p>　以上のような意志論、予感知（マンテイア）、直知（ヌース）の理解をふまえれば、アリストテレスにおいては、家族も国家にも、またこの世に存在するあらゆる共同社会にも、ある種の正が存在し、また同時にこの正へのある種の予感知的な、根源的意志（ブーレーシス）に支えられた合意が存在することになるであろう。</p>

<div class="emp2">「はじめに述べたように、愛は正の関わるのと同じ事柄に関わり、正の見出されるのと同じ人々の間において見出される。すなわちいかなる共同的結合体においても一定の正が存在するがそこにはまた一定の愛が存在すると考えられる」（『ニコマコス倫理学』第8巻第9章1159b25-27）</div><br />

<p>　ここでは、人間が作り上げた共同的な社会集団、それは家族からはじまって、地域共同社会から、各種の利益社会へ、そして究極的には国家に至るまで、いずれも正が存在すると言われている。ところが、正とはアリストテレスにおいては、比例的配分であったが、この比例が成立するためには、正の関係に入る人間によって、何らかの平等性が相互に認識されていなければならない。しかもこの相互の平等性は、ロゴスなしに了解されているというのである。</p>

<div class="emp2">「こうしてもし不正とは不均等ということだとするならば、正とは均等を意味する。このことはロゴスなしでも、万人の認めるところであろう」（『ニコマコス倫理学』第5巻第3章1131a13）</div><br />

<p>　もちろん、アリストテレスにおける均等制は、完全な平等性を意味しているわけではない。夫と妻、王と市民、寡頭制における政治指導者と一般市民は、当該社会の固有の価値に応じて配分されるものが相違する。しかし、どのような社会にあっても、比例的配分の基礎的単位として認定されるという意味において人間は均等性を有しているのである。しかし問題はそうした均等性の理解は、アリストテレスによればロゴスなしに万人に可能となる、とされる。こうした意味での均等性の認識は、固有の意味でのロゴスではなく、予感知、直知によってもたらされるということである。こうした観点からみれば、有名なアリストテレスの以下の文章も整合的に理解されるであろう。</p>

<div class="emp2">「人間だけがロゴスを持つ。なるほど音声は快と苦を伝える信号ではある。それゆえ他の動物にも音声は備わる。というのはかれらの自然本性は快と苦を知覚し、それらを互いに伝え合うところにまで進んできているからである。しかし人間に独自なロゴスは、利と不利を、したがってまた正と不正を表示するためにある。なぜなら人間だけが善と悪、正と不正をその他を知覚できるということ、これが他の動物と対比される人間の特性にほかならないからである。そして人間がそれらを共有することが家や国家を作る」（『政治学』第1巻第2章1253a9-18）</div><br />

<p>　『政治学』第1巻第2章で、アリストテレスはロゴスを持つことによって正と不正、利と不利を弁別する人間の固有性を強調しているが、そこではこのロゴス（言）の力の共有こそが家と国家を作る、とまで述べている。</p>

<p>　ロゴス（言）が、直知と固有の意味での理性（ロゴス）とを二つながら含んでいるとすれば、人間社会は、直知、予感知として共同の善について合意しているのであり、さらにその合意をより安定的、より明確化するために法的な合意形式としての契約を結ぶということになる。アリストテレスによれば、家族や地域の共同体や国家は、単に歴史的に自然に形成された地縁的、血縁的な共同社会であるだけでなく、また強制的な法的共同体であるだけでなく、何らかの予感知による合意によって維持された共同性を、またこの合意によって共有された共同善としても目的を保持しているのである。もちろんこのような予感知に基づく共同善は、それだけでは安定したものにならず、社会契約という形をとるか否かは別として、ただちに法的な制度化の道を取ることになる。</p>

<p>　サンデルの問題意識は、21世紀の社会に必要なことは、この社会的絆自体の崩壊を食い止めとめることであり、成員間の連帯の再構築が必要である、というものであるが、その際忘れられてならないのは、この連帯への呼びかけの前に、予感知として確認されてきた共同の合意の存在を再確認、再定義することであろう。また予感知の中で把握された市民間の目的理解の重なりを再度選択するという行為が必要である、ということである。</p>


<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_10.html">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</a>へ続く</p>]]>
        
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    <title>サンデルの正義論講義をめぐって5</title>
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    <published>2010-10-04T04:10:54Z</published>
    <updated>2010-10-05T08:51:45Z</updated>

    <summary>──現代西洋社会正義理論と批判荒木勝（岡山大学教授） ［5］結びに替えて　アリス...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">──現代西洋社会正義理論と批判<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</div><div style="float: right; background-color: #eeeeee; padding: 10px 5px 10px 10px; margin:3px 0px 5px 10px; font-size: 12px; line-height: 22px; color:#000000; border-top:5px solid #666666; border-right:1px solid #666666; border-bottom:5px solid #666666; border-left:1px solid #666666; text-align:left; width:280px;"><div style="font-size: 13px; text-align:center; padding: 7px 0px 10px 0px;"><strong>サンデルの正義論講義をめぐって<br />──現代西洋社会正義理論と批判──</strong></div><span style="font-size: 13px; ">CONTENTS</span><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index.html">［1］正義をめぐる現代的状況</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_2.html">［2］正義についての西洋の大きな伝統</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_3.html">［3］サンデルの問題提起</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_4.html">［4］新たな正義論の構築へ<br />
　［4-1］アリストテレスの目的論、善論</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_5.html">　［4-2］サンデルの問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_6.html">　［4-3］意志の二重性、知性の二重性</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_7.html">　［4-4］アレントのアリストテレス理解の問題点</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_8.html">　［4-5］ロールズの善理解</a><br /><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat103/index_9.html">　［4-6］アリストテレスの共同体（コイノーニア）論<br />　　──共同体と個人</a><br /><span style="color: #666666;">［5］結びに替えて　アリストテレス正義論の実践的意義</span><br /><br /><span style="margin:0px 0px 0px 0px;">＊アリ研メンバー小川氏による<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/docs/aken_ogawa20100921.pdf">本稿概念図（PDF）</a></span></div>
<p>　以上述べてきたことは、実践的にはどうような含意をもたらすだろうか。端的にいえば、我々が直面している難題は、この予感知（マンテイア）としての合意を再度明確な自覚的認識に高めていくことであろう。</p>

<p>　しかし、その際、重要な留保がいる。確かに家族、地域、国家の存立は、ある種の予感知による合意に支えられているとしても、一端合意形成され、なんらかの法的な形式によって構築された共同社会は、この根源的な予感知の合意から乖離しているということである。上記で紹介したサンデルの現代社会への告発は、この乖離が途方もない規模に膨れ上がったことを物語っている。</p>

<p>　富の途方もない規模での格差、家族内的別居、家族の崩壊、地域内の紛争、国家の共通善理解の乖離、国家的連帯の解体、これらの分裂を克服する道は、予感知、直知（ヌース）が、何らかの直観的な知性、感性と協力する知性が、再度の合意の確認への意志が発動されねばならない、という線上にあると思われる。もしそうであるとすれば、この予感知の合意の再形成のためには、伝統への呼びかけ以上に、面と向かっての議論、ヴャーチャル空間でない対面的空間、肌の触れ合う空間のなかでの議論の積み重ねが必要とされる、ということである。</p>
<p>　予感知が、神的知性であると同時にある種の嗅覚的感覚知でもあったことを想起しよう。嗅覚は、アリストテレスにおいては、触角や味覚といった触覚的能力と、視覚や聴覚のような他のものを媒介とする感覚能力の中間的感覚とされている。触覚が存在物と直接触れ合うことで感覚される機能だとすれば、視覚は、媒介物(光、空気)を介して間接的に存在物を知る機能とされる。しかし嗅覚は、存在物に直接に触れるわけではなく、空気という媒介物を通じて触れる。その意味において視覚とも共通するところを持っている。しかし視覚とは決定的に異なっていて、嗅覚は存在物の生々しい存在性を感知する──その原因についてアリストテレスは不明とし、蒸発説と流出説とを否定している──、のである。その意味において嗅覚は、存在物の存在性、現前性を確実に捉えているといっていいであろう。予感知がある種の嗅覚性を持つということは、予感知は、相互の現前性を前提としているということを意味する。ここで言いたいことは、インターネット上での熟議の限界性を自覚しておく必要がある、ということである。</p>

<p>　他方、議論の空間の場、規模の適正化という問題が浮上することとなるであろう。最近の欧米の地域主権の提唱、不均等連邦制の提唱はこの文脈から見て極めて示唆的である。地域に根差した言葉や慣行、価値観に再度立ち返って、予感知を再認識することが世界的規模で広がっている。この方向は、これまで是認されてきた国家の規模を細分化するかもしれないし、拡大するかもしれない。いづれにしても制度化された国家体制そのものを根底から問い直すかもしれないであろう。</p>

<p>　また、人間の予感知、直知は、一方でサンデル、マッキンタイヤーたちの主張するように、継承されてきた伝統的な物語の解釈を喚起し、伝統的価値の再興のなかで連帯、名誉といった価値に、あらたな生命力を吹き込むかもしれない。しかし他方では、予感知、その再確認と目的間の選択的意志の発動は、悪しき伝統、悪しき物語を根本から作りかえる力、自由と平等を新しく提起する力を持っているともいえる。眼前にある分かれ道の選択だけではなく、道そのものを作り変える可能性も存在するということもできるのである。</p>

<div class="emp2">「一般的にいえば、万人は、父祖伝来のもの（ト・パトリオン）よりも善きもの（ガトン）を求める」（『政治学』第2巻第8章1269a3-4）</div><br />


<div style="font-size: 12px; ">【Bibliography】<br />
Aristotelis, Ars Rhetorica. Oxford Classical Texts.<br />
Ethica Nicomachea,Oxford Classical Texts.<br />
           Metaphysica. Oxford Classical Texts.<br />
           Politica. Oxford Classical Texts.<br />
           The Complete Works of Aristotle.Edit.J.Barnes.Princeton 1985/<br />
Plato, Platonis Opera.Tomus IV.Scriptorum Classicorum Bibliotheca Oxoniensis<br />
Complete Works（Edt.J.M.Cooper,Indianapolis/Cambridge 1997.<br />

H.Arendt, The Life of Mind, San Diego/New York/London 1971.<br />
A.MacIntyre, After Virtue.Notre Dame 1981.<br />
J. Rawls, A Theory of Justice. Oxford 1971.<br />
        Political Liberalism.New York 1993.<br />
C．Kukathas,P.Pettit,Rawls:A Theory of Justice and its Critics.Stanford,Calif.1990.<br />
M.J.Sandel , Liberalism and the Limits of Justice（second Edit.Cambridge 1998. <br />
         ,Justice,What's the Right Thing to Do?Penguin Books2010. </div>


<div class="quo2">＊ 本稿は2010年8月に、中国の吉林大学・中山大学主催で行われた国際シンポジウムの報告原稿を元に、web版として若干の修整を施し編集したものです。エディション・ヌース</div>]]>
        
    </content>
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    <title>戦略的思考を超えて［3-1］</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/08/31.html" />
    <id>tag:www.cafe-nous.com,2008:/a-ken//5.22</id>

    <published>2008-08-05T08:12:05Z</published>
    <updated>2011-08-22T01:31:15Z</updated>

    <summary>再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
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        <name>nous_s</name>
        
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        <category term="戦略的思考を超えて3" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/a-ken/">
        <![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="araki080805.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/a-ken/images/araki080805.jpg" width="429" height="381" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span>

<div class="sub2">--　アリストテレスと現代　--</div>
　この研究会（アリストテレスと現代研究会、通称アリ研）も、はじめてから3年ほどがたちます。何度か講義や勉強会を行ってきましたが、私としては毎回が驚きの連続だったというのが率直な気持です。

<p>　欧米諸国では、社会で指導的立場にある人たちは、プラトンやアリストテレスの基本的な著作は読んでいて、だいたいの知識はもっている。また、専門家ではない一般の人々のなかにも、ギリシャ哲学に対する関心をもち、基礎的素養を備えている人々は多い。<br />
　しかし、日本においては、これまでにお話したように翻訳文のとっつきにくさなど諸々の事情があることはあるのですが、ほとんどといっていいほど、その哲学になじみがない。とくにアリストテレスはそうです。</p>

<p>　だから何が驚きだったかというと、このアリ研、そしてアリ研の個々のメンバーを通じて伝わってくる自分自身や社会に対する問題意識がじつに切実なものであり、しかもアリストテレスが言わんとしていた哲学的思考と根本のところでつながっている。そういう思いが回を追うごとに強まり、大袈裟ですがある種の衝撃さえ感じるのです。</p>

<p>　世間知らずでとおっている私ですが（苦笑）、じつは現在、私の所属している大学で、企業でいうところの管理職めいたことをやっていて、「学問」研究とはまた別次元の忙しない状況がつづいています。本音をいうとひとりでどこかにひきこもりたい（笑）気持でいっぱいなのですが、そうもいかないし、逆にいうと社会の情勢がかなり具体的に"身にしみて"わかってくる面があります。この管理職のあいまに、その悩みとこういう会やメールでやりとりされる問題がリンクして、みなさんの問題提起にどう応えたらいいのかということを、いつもどこにいても、考えざるをえないはめに陥っているというのが実情なのです。</p>

<p>　さて、きょうは「幸福論」がテーマです。勉強会のための合宿とは別に、これまで2回講演という形で話をしてきましたが、メンバーの人からの提案もあり、ひとつの締めくくりとして今回は幸福とは何かといったことを主題に話してみたいと思います。</p>

<p>　先に結論めいたことを言いますと、この講演の準備をしている過程でだんだん自分の考えもふくらみ発展してきまして、結局のところ幸福というのは「宗教」の問題と深く関わってくるものであるとの思いが強くなりました。ただ急いで付け加えますが、この場合の宗教とは、なにか具体的な教団、たとえばかつてのオウム真理教の社会的問題とかをここでまた取り上げるということではなくて、もっと広く一般的な意味での「宗教性」あるいは「聖なる次元」といった範疇でこの言葉を使いますので、その旨をご了解いただきたい。</p>

<p>　まず大きく言って、いまなぜ幸福論が問題となるのかというあたりから簡単に話していきたいと思います。</p>

<p>　日本の社会に欧米流の経営方式がはいってきて、また、いわゆるグローバル資本主義・市場経済に席捲される世の中になって、もう十年以上がたちます。勝ち組・負け組などという言葉が流行り、あれよあれよという間に、格差社会などといわれるようになった。閉塞感といった言葉も同様です。いつの時代でも社会はさまざまな問題を抱えているわけですが、このような言葉は、たしかにこれまで一般ではあまり使われることはなかった。</p>

<p>　ただ言葉として使われることが多くなったというだけでなく、じっさいに、日本の社会はこの十数年くらいの間に、じつに大きな問題を抱えるようになったということを私も実感しております。しかも、過去に類例をみない、今後の予測もできないような問題や課題が日々表面化しているようにも感じます。<br />
　人口1億2千万、成熟して豊かになったというこの国で、毎年3万人もの人が自殺に追い込まれている。交通事故死よりも多いし、自殺者のなかには、働き盛りの人が多くの数をしめている。端的にいって、問題解決の糸口を見出すことができず、あるいは問題の元になる責任の所在さえ明確にできずに、絶望の淵に追いやられた結果の死が増えているのです。<br />
　「自分で死ぬのが悪い、自己責任だ」といって済ませられることではないはずです。こういう社会でなければ防ぐことのできた自殺は、想像以上に多いのではないでしょうか。<br />
　<br />
　以前に、このアリ研メンバーになった友人とも深刻に議論したことがあります。その友人は中小企業の経営者を相手に、さまざまな相談に応じ、解決策をいっしょになって考えるコンサルタントのお仕事をしている人です。<br />
　いろいろな話題が出て同感することが多かったのですが、そのなかでもとくに、日本の銀行は怠慢であるということでは、まったく意見が一致しました。まともに相手を調査せずに担保だけとって、あとは知らん顔をきめこむ「左ウチワ」の金融機関は許し難いということです。<br />
　そればかりではなく、ひじょうに大きな、たとえば一方に莫大な収益をあげている巨大企業があって、他方には小さな町工場や商店のような零細企業がある。その零細な企業に、まったくもって理不尽な要求をつきつけてくる大会社があるわけです。かなり単純化していっていますが、そういう状況のなかで誠実に汗水たらして働いたあげく、自ら命を絶つ人があとをたたない。</p>

<p>　私自身も管理職になってみて、その辛さを日々しみじみと味わっている現状があるので、企業の管理職の立場にある人の苦悩はある程度推測がつきます。たとえばある会社の部長が理不尽とわかってはいても、部下に会社の命令を指示しなければならないという状況はよくあります。部下である相手がどんなに弱い立場にある場合でも、「やれ！」という命令をしなければならず、なんとも嫌な気分になるわけです。"上"からの命令は、管理職だろうがその部下だろうが、いわれたらやらざるをえない。まじめな人ほど心の葛藤にさいなまれ、しかも報われることが少ない。<br />
　その結果、日本の社会のなかに「鬱病」が蔓延している状況が生じている。</p>

<p>　こういう企業社会における鬱病は、日本だけではなくアメリカなどにも相当に広がっているようです。鬱から自殺にいたる現象が、大きな波のようにアメリカの社会を襲っているのです。<br />
　そういうなかで、日本でも対処療法的に鬱病やそれにまつわる自殺を防ごうという社会の自己防衛がはじまっている。自殺防止法が制定されたり、NPOなどが自殺を未然に防ぐための活動を行うようになった。精神医学界にも、さまざまな対応策が問われている。</p>

<div class="sub2">--　「美しさ」と差別　--</div>

<p>　別の似たような社会現象として「いじめ」の問題はどうでしょう。こどもたちの自殺も増えている。これもその原因をひとつのことだけに限定できない、複雑な要因がもつれあって起こることですが、些細なことながら私が最近とくに気になっていることからアプローチしてみましょう。</p>

<p>　それは大学の学生たちと話をしていて気づいたことなのですが、いじめというか差別の問題としての「美醜」といったことなのです。人が美醜のことを気にするのはあたりまえのことです。誰だって自分の"見た目"が醜いよりは美しいと言われたい。しかし、ことに若い人たちにとっては、自分が美しいか醜いかが、いまきわめて切実な関心事となっている。他人が自分をどのように見るかは誰だって気になることですが、醜いといわれることが劣等感の範囲にとどまっているならまだしも、差別やいじめにつながるから美しくなりたいという一種の強迫観念と化しているような気がする。しかも、その「美しさ」は皆と同じ美しさでなければならないような均一的な表面のみの美しさなわけです。なにが真の美しさかという観点は、まったく抜け落ちている。</p>

<p>　そこに企業が目をつける。先日もテレビで報道されていましたが、「美の世界の争奪戦」というようなタイトルで、日本の大手化粧品会社が中国や東南アジアという巨大マーケットに進出し、「美」の市場が急成長を遂げている。お金さえ出せば、誰でも簡単に美しくなれるというわけです。グローバル資本主義の流れといってしまえばそれまでですが、それは結局のところ、そこに群がっていくわれわれ人間の問題としてとらえたとき、美醜と幸福の関係、美しくないと幸せの切符を手に入れることができないのではないかという不安に関わってくる。<br />
　<br />
　些細なことといいましたが、これは考えてみると人間存在の根源的な部分に、ひじょうに深く関わってくる重要な問題です。ご承知だと思いますが、仏教には阿弥陀仏の48願というのがある。法蔵菩薩が仏になるために48の願をかけるのだけど、そのひとつに、この世の中に生きているありとあらゆる人から醜さがなくなるようにという祈願がある。それが叶ったときにこそ、悟りを得て仏になることができる----。そういう話ですが、人類にとっては大昔から美醜をめぐる問題が人間の幸福にとって大きな要素になっているのがよくわかると思います。</p>

<p>　日本やアジアばかりでなく、もちろん古くからヨーロッパでもそうでして、現代のわれわれが見ることのできるギリシャ的彫刻の美の裏に、美しくないとされていた人たちの悩みが隠されている。そういう人々はなにかにつけ発言権を奪われていたり、差別されたりで、「生きにくさ」という問題にかかわってくる。じっさい、美しい（とされる）人は貴族的な処遇を受け、身分を保障されるなどの実情があったし、現にいまでも似たようなことはあるわけです。つまり、そういう美醜をめぐる問題が幸、不幸を分ける大きな要因になるだろうということが一方ではたしかに考えられるのです。</p>

<p>　ですから、いま私たちが直面している幸、不幸の諸相は、ある意味で現代特有の問題でもあるけど、人類はじまって以来の基本問題に立ち返ってみることで、ある程度の整理と理解ができるのではないかとも感じています。幸福とは何かということがひじょうに見えづらい時代に、大昔にアリストテレスの考えたことが、私たちの生き方になんらかのヒントをあたえてくれるのではないか。そんな期待もこめて、こうやってお話をさせてもらっているわけです。</p>

<div class="sub2">--　スピリチュアルなものと倫理　--</div>

<p>　現代にかぎらず、不幸な時代には、不幸な状態から抜け出して幸福になりたいという人たちのなかに「癒し」とかスピリチュアルなものに憧れるという傾向が強まります。つまり、いうまでもなく幸福には貧富や美醜の問題など物質的・肉体的な面が大きく影響しますが、しかし、その物質面での「豊かさ」と心の平安とは必ずしも一致しない。幸福にはその両面が欠かせない。</p>

<p>　たとえば仏教にも幸福の反対の苦しみ、不幸な状態からの脱却を仏の救いにもとめ、悟りの境地にいたることができれば幸福になることができるという考え方がある。<br />
　また、キリスト教では「心の貧しき者に幸あれ」という言葉がマタイ伝などに見られるように、人々に幸福をあたえるのが本当の宗教であるという呼びかけがある。だから世の中の不幸が拡大すればするほど、当然のように幸福をあたえると呼びかける宗教に多くの人が頼るようになってきます。だから、そのことの是非は別にしても、やはり幸福論はどこかで宗教的な救いといった問題と深く関わってくるといえるだろうと思うのです。<br />
　また、近代社会では科学という単語だって、宗教と同義につかわれる場合がある。科学も、人間を幸福に導くマジカルな救いをもたらすものとして、現代人の願望が投影されることが多いんですね。</p>

<p>　そんなことをなんとはなしに考えていたら、ある日、偶然に映画『天国と地獄』をリメイクしたTVドラマを見たんです。これは幸福論を考える意味でもとってもおもしろかったのですが、黒澤明の本編を思い出すと同時に、あわててエド・マクベインの原作『キングの身代金』も読んでみました。</p>

<p>　この作品と幸福論にどんな関係があるのか。それは、簡単にいうと、いついかなる災難がわれわれに降りかかってくるか予想はできない。偶然に左右される人間の生活のなかで、ある日突然、思いもしなかった事態が起き、未来の明暗をわける重要な岐路に立たされたとき、どっちをとるかは誰しも"自分の問題"として考えざるをえないということなのです。</p>

<p>　『天国と地獄』では、ある裕福な会社社長の息子が誘拐されたという事件が発端になるのだけど、それがじつは社長の子ではなく、その社長のおかかえ運転手の息子だったということが明らかになる。それでその子どもの命と引き替えに身代金が要求されるのですが、社長は自分が社運をかけ苦労して得たカネを、雇い人である運転手とその息子のためにはたいてしまうことができるか。自分の幸福を犠牲にして、他者のためにつくせるかといった究極的な問いが、そこに問われているわけです。</p>

<p>　そのとき私が思ったのは、幸福とか不幸とかにむすびつく問題を考えたときに、たとえばお釈迦さんとかキリストに"すべて"をゆだねて、救いのために自己判断を放棄してしまうというかたちで、私たちの生活を処理していいのかということです。いかなる事態になった場合でもなにをどういうふうに選択していったらよいかという人間自身のある種倫理的な問題として、幸福の問題を考えていく必要があるのではないかと痛感しました。</p>

<p>　まあ、このようなことは改めて言うまでもないことではあるのですが、ひとつの問題の立て方として、確認の意味で述べておきたいところです。みんな誰だって幸福になりたい。しかし、いや、だからといったほうがよいか、神仏にすがるということだけですぐさま幸福が到来するわけじゃない。<br />
　幸福になるために、人間のもっているあらゆる力を行使して"自分で"選択していくにはどうすればよいかを考えていくということが、まずは重要な幸福論の切り口だと思います。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat5/index_2.html">[3-2]へ続く</a></p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>戦略的思考を超えて［3-2］</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/08/32.html" />
    <id>tag:www.cafe-nous.com,2008:/a-ken//5.23</id>

    <published>2008-08-05T07:27:04Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:18:41Z</updated>

    <summary>再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
    <author>
        <name>nous_s</name>
        
    </author>
    
        <category term="戦略的思考を超えて3" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/a-ken/">
        <![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>
<div class="sub2">--　「幸福」という言葉をめぐって　--</div>

<p>　では、何をどのように選択するか。そのためには、そもそも幸福とはなにかということから考えていかねばならないでしょう。</p>

<p>　幸福というのは万人万様で、主観的なものだし、人によって幸福の感じ方は違うのではないかという考え方はたしかに一面では正しいでしょう。私とあなたの幸福にたいする価値観は同一ではないし、みながそれぞれ各自の幸福を追求しているのだから、幸福について論じることに意味はないのではないかというわけです。<br />
　ところが、ある意味では不思議なことなのですが、万人が万様に幸福を追求しているのだけど、そこに万人に共通する、なにかしら普遍的な、幸福の根拠といったものがあり、「私とあなた」の間で幸福をめぐるコミュニケーションがちゃんと成り立つことも事実なのです。もし、私の幸福とあなたの幸福がまったく異なるものでなんの共通性ももたないものであれば、互いの話を理解することすらできない。<br />
　<br />
　われわれは日ごろから、ちょっとした会話の節々に「あなたはいま幸福ですか？」とか「幸せになってね」などという言葉をはさみ、互いに気持ちや情報の交換をしあっているわけです。そしてそこに、幸福とは何かということがおぼろげながらにしろ、一定の共通理解がなされている。そうでなければ幸福という言葉で会話は成り立たなくなってしまう。</p>

<p>　たしかに現代社会はこの幸福の意味、何が幸福かといったことがひじょうにわかりにくくなっていることは事実でしょう。個人の嗜好や主観を超えた幸福はあるはずなのですが、共通して語れる幸福の像（イメージ）がどんどんぼやけてきていて、幸福を語り合うことが困難な状況になってきている。<br />
　だから、幸福なんて個々の価値観が決めることで、幸福と感じるかどうかは主観の問題なのだから、そんなことは意味がないという思考に陥りがちなのですね。でも、いまいったように、そんなことはないのです。むしろ、いまの世の中では「幸福論」そのものが成りたちにくいという、そのことを問題にすべきでしょう。ですから、まず、私たちが幸福というものを思い描くとき、一般的なあり方として幸福とはなんであるかを考えていきたいと思っているわけです。</p>

<p>　「幸福」という言葉からはいってみましょう。<br />
　幸福の「幸」という漢字は、『説文解字』という中国の漢代にできた字典によりますと、吉にして凶をまぬがれる、とか、夭死（わかじに）をまぬがれる、という基本的理解があるのですが、もともと人偏のつく「倖」と同じ意味合いがあったとされています。僥倖といいますね。僥とは人の累々たる様を示していますので、幸＝倖とは人々が群れ集い、活発な集団生活がそこにあること、そしてその一員であることが前提になっているのです。ちょっと拡大解釈しますと、他者とともにあることが幸福の根拠のひとつであることになります。</p>

<p>　また幸福の「幸」は、和語として「しあわせ」とも読みます（「幸福」と2文字で書いても「しあわせ」と音読みすることがあります）。しかし「しあわせ」というのは、もともと「幸」の読み方ではなく、「し（仕）」「あわす（合わす）」、つまり「仕合わせ」からきた言葉です。<br />
　仕合わせとは、「仕」「合わす」ですから、出合いとかめぐり合いといったニュアンスをもっていて、事の成り行きがうまくいくという意味合いでつかわれるのです。つまり、原因はよくわからずとも、なにか事柄がうまく組み合わさって、よいかたちで事がはこぶことが「仕合わせ」です。仕合わせよし、仕合わせ悪し、といった用法もある。<br />
　なお、松尾芭蕉の『奥の細道』に、「この道必ず不用（不都合）のことあり、恙のう送り参らせて仕合わせしたり」という文があるのはご存知かと思います。</p>

<p>　英語のhappyという単語にも似たような意味合いがあります。happyのhapには、そもそも運とか運命という語義がある。ドイツ語のgluckも同様で、幸運とか幸福を指す言葉には、洋の東西を問わず似たような意味が含まれています。このような言葉で私たちが思い浮かべることには、ひじょうに重なる部分が多く、万国共通に通じ合うものがあるということですね。</p>

<p>　もう少しヨーロッパ人のものの考え方の骨格をつくってきたギリシャ語、ラテン語の世界をのぞいてみましょう。<br />
　ラテン語には幸福を指す言葉のひとつにベアティチュド（beatitudo）というのがあります。これには、祝福されたとか恵まれたという意味合いがあります。誰かから祝福を受けることが幸福の大きな要素なんですね。<br />
　ギリシャ語でいえば、幸福を表す言葉にふたつあります。エウダイモーニア（eudaimonia）とマカリオン（makarion）。さきほど少し触れたマタイ伝の「心の貧しき者に幸いなれ」とか「義に飢え渇く者よ幸いなれ」とかの「幸い」というのは、マカリオンです。</p>

<p>　マカリオンの意味は、喜びが満ちあふれる「幸せいっぱい」というイメージに近い状態の幸福です。マカリオンのマ（ma）は接頭語で、カリオン（karion）はカリウス（xarius）からきた言葉でしょう。カリウスは快楽の「快」、要するに心の奥底から湧き出るような喜びを指していて、アリストテレスも『ニコマコス倫理学』のある部分で、それが幸福のひとつの現れであると言っています。</p>

<p>　ではエウダイモーニアとはどんな幸福の様態を指しているのか。ギリシャの人々は自分たちにとっていちばんの幸福を指すときにエウダイモーニアという言葉をつかうのですが、この言葉はきょうのこの幸福論のキーワードのひとつでもあります。<br />
　エウダイモーニアのエウ（eu）とは英語でいうウェル（well）、つまり「よい（良い、善い）」という意味です。ダイモーニアはダイモーン（daimon）、すなわち神霊ですね。要するにエウダイモーニアには、「神霊のよき導き」という意味合いがあるのです。<br />
　ダイモーン（神霊）とは何かとなるとひじょうにむずかしい話になるのだけど、このさいは取りあえず、万物の背後にあり万物を動かしている目にみえない力とでもとらえておいてください。そういう力によく導かれた状態が真の幸福なんだということを言っているわけです。</p>

<div class="sub2">--　幸福のふたつの相　--</div>

<p>　きわめて長い時間、数千年といっていいと思いますけど、人類の長い暮らしのなかで、幸福とかhappyという言葉で呼ぶようになった人間が追いもとめるある状態は、大きくいってふたとおりの見方ができるのではないでしょうか。</p>

<p>　ひとつは、幸福とは自分の力を超えた何か神的なものと触れ合うこと。<br />
　その神的なものというのは、ヨーロッパや日本、あるいは中国といった国や民族を超え、また、固有の宗教を超えた、人間の力がおよばぬ力である、と。それが神的なものでして、たとえばこの場合、神（シン、カミ）とは中国最古の辞書『説文解字』にもあるように雷（カミナリ、神鳴り）の稲妻からきているという考え方があります。つまり、目には見えないけれど、あるとき、あるものを発動する超自然的な力。<br />
　それは日本語（和語）のカミという、万葉集とか古事記とかに出てくる言葉についての本居宣長の説も同様であって、人間個人の思惑や力を超えた不思議なパワーのことをカミ（神）という言葉で表していたのでしょう。<br />
　そういう点では、古代ギリシャのダイモーンにも通じるところがある。自己という人間個人を超えた何か神的なものの導きと関連している事柄であることが、幸福という言葉のなかに大きな要素として含まれているのです。</p>

<p>　もうひとつは、説明するまでもなく、その神的なものの導きとは別に、人間の生活のなかでなんらかの快適で喜びにあふれるような状態を、長い人類の歴史をとおして「幸福」として呼んできたといえるでしょう。<br />
　しかし、このふたつの面だけが幸福のすべてなのだろうか。もちろん、ともに欠くことのできない幸福の要素だけど、どうもこれだけでは幸福の全体像というか、真の姿を取り逃がしてしまうのではないかと、いまの社会とアリストテレスの考え方を両目で同時に見ながら最近よく考えるんです。</p>

<p>　わかりやすくいうと、たとえば日本国憲法13条の基本的人権の項目。これによると誰でもその個人の生命の安全と、自由、幸福を追求する権利があり、保証されていると記されている。つまり、幸福は個人の欲求に基づいて追求できる事柄であるということが、はっきりと述べられているんですね。このことからもいえるように、ことに近代以降は、幸福は個人である自分の力によって獲得できるものとする考え方が共通の理解として大勢をしめている。<br />
　それはそれで私としても異存はありませんが、しかし肝心な問題は、ではそのように考えられている幸福を私たちはどうやったらものにすることができるのかということですよね。方法論の問題だけではありません。何が真の幸福なのか、そしてそれをどうやってつかむのか、おそらくその両方が"同時に"必要なのです。アリストテレスに則して考えてみましょう。</p>

<p>　アリストテレスはいろいろなところで幸福について書いていますが、いちばん力をいれて述べていると思われるのは『ニコマコス倫理学』という倫理に関する本です。日本語訳の問題もあって、簡単にさっと読めるような代物でないのが悩ましいところですが、できるだけ多くに人に読んでもらいたい、たいへんすばらしい論究がなされている書物です。私自身、あと20年くらいのうちには、なんとか読みやすいものにしたいと思っているもののひとつです。一見してイメージがとらえにくい消化しづらい文ですが、私が試みに訳したところを読んでみましょう。第1巻第9章からです。ちょっと長いですが、まず、全文を。</p>

<p>　「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福（エウダイモーニア）こそ神与のもの（テオスドートン）とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間の持つあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。しかし、こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう。しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性（アレテー＝徳）とかなんらかの学習（マセーシス）や訓練（アスケーシス）によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる。まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福（マカリオン）のものであると思われる。<br />
　さて、幸福は、広く人々に共通に行き渡るものである。事実、卓越性にたいして不具合ではない全ての人は、何らかの学習と心遣いによって幸福を獲得することができるであろう。またこのような仕方で幸福であるのは、運（テュケー）によって幸福であるのにまさるものだとするならば、やはりそのような仕方で人は幸福になりうるものであるとするのが至当であろう。というのは、自然に即してある物は、可能なかぎり美しくあるものとして、そのような本性をもっており、技芸に基づくものも、その他いかなる因に基づくものも、これと同様なものである以上、最善の因によるものはいっそう美しいものであろうからである。もっとも重大でもっとも美しいものを運に委ねることはあまりにも不当であろう。<br />
　　この問題にたいしては、われわれの議論からも明白になるだろう。すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動（エネルゲイア）である。」《1099b11-27》</p>

<div class="sub2">--　運と卓越性　--</div>

<p>　もう一度、今度はいくつか文節を区切って読んでみます。</p>

<p>　「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福（エウダイモーニア）こそ神与のもの（テオスドートン）とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間のもつあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。しかし、こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう」</p>

<p>　アリストテレスにおいても、幸福というものは人間ひとりの力によって獲得できるものではない、といっているのですね。だけど、幸福が人間のもつもののなかで最善のものだ、と。<br />
　しかし、人間に最高の贈り物を与えるのがなぜ神なのか。「こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう」。別の考察の機会というのは、アリストテレスが書いた超難解な『形而上学』という書を指していると思われます。</p>

<p>　「しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性（アレテー＝徳）とか、なんらかの学習（マセーシス）や訓練（アスケーシス）によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる」</p>

<p>　これは少し難しいですね。たとえ幸福が神様によって与えられるものではなくて、卓越性とか徳と訳されることが多い人間がもっているアレテーとか、あるいは学習したり訓練して自分自身で一生懸命に努力して幸福が獲得できたとしても、それは神的なものに属するとされている。ここでまた、神的とはどういうことかという問題がでてくる。矛盾したような言い方だから、下手な洒落だけど、「アレー？」って誰もが思いますよね（笑）。<br />
　自分自身が個人である人間としての努力のすえに獲得するのであれば、それは人間的なものであって神的なものにはならないんじゃないか、と。ところが、それはもっとも神的なものに属すると彼はいっている。ここではその理由を述べていないけど、はっきりと言い切っています。つづけましょう。　</p>

<p>　「まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福（マカリオン）のものであると思われる」</p>

<p>　人間が必死になって身につけた卓越性（徳）の力によって得たものは、自分自身の努力によって得たものだから人間のものであるということを否定しているわけではない。人間的なものであるという"だけでなく"、神的なものでもあるといっているのです。だからこそそれはマカリオン、すなわち至福のものである、ということになる。</p>

<p>　「さて、幸福は、広く人々に共通に行き渡るものである。事実、卓越性にたいして不具合ではない全ての人は、何らかの学習と心遣いによって幸福を獲得することができるであろう」</p>

<p>　幸福は万人が追求しているものです。じっさい、努力の結果、自分が幸福であると感じている人も多くいるでしょう。「卓越性にたいして不具合ではない」というのは、ちょっと固い言い方で申し訳ないけど、要するに、どんな人間であっても、どこかに秀でた面をもち、なにか優れた力をもっているはずです。だから、人間であれば誰でも自分の力を発揮できさえすれば、なにかしらの幸福感を得ることができるのは確かです。先にも述べてある学習とか訓練、あるいは心遣いによって、幸福を獲得することができるわけです。学習とは自分が身につけた能力と広くとらえていいし、心遣いというのは、あとでもう少し説明しますが、人々を愛するときに感じる歓びです。そういう心のはたらきによっても幸福を得ることができる。</p>

<p>　「またこのような仕方で幸福であるのは、運（テュケー）によって幸福であるのにまさるものだとするならば、やはりそのような仕方で人は幸福になりうるものであるとするのが至当であろう」</p>

<p>　ちょっと持って回った言い方ですが、肝心要なことをいっている。つまり運にまかせた幸福より、自分の懸命な努力とか、あるいは他者にたいする心遣いによって得た幸福のほうがまさっている。それこそが真の幸福だと述べているのです。</p>

<p>　「というのは、自然に即してある物は、可能なかぎり美しくあるものとして、そのような本性をもっており、技芸に基づくものも、その他いかなる因に基づくものも、これと同様なものである以上、最善の因によるものはいっそう美しいものであろうからである。もっとも重大でもっとも美しいものを運に委ねることはあまりにも不当であろう」</p>

<p>　これはなかなかにわかりにくい言い方ですが、アリストテレスの考えている世界は万物が運動している。運動をもたらすものは自然の力です。自然力によって万物は運動し、自然力によって運動している万物はそれ自体で美しいと彼はいっているわけです。<br />
　で、それ自体で自然は美しいのだけど、人間は技芸----技芸というのはテクニック（技術）ととらえてもいいのですが、自然にたいして技術をもってはたらきかけ、いろいろなものをつくる存在です。しかもそれによって美しいものをつくろうとする。自然によって創造されるものでも、人間の技によってつくられるものでも、最善の原因によって生じるものは一層のこと美しいとアリストテレスは言うのです。<br />
　最善の原因によってつくられる「美」は幸福にむすびついてくるのですが、それは運、すなわち偶然だけに頼っていては取り逃がしてしまうことになるだろうと訴えている。そんなことでは「もったいない！」と言いたいのかどうか、わかりませんが（笑）。</p>

<p>　アリストテレスは幸福と幸運とは異なるものであり、人間の内発的な卓越性（アレテー）、つまり徳というものは単なる偶然の運よりも一層すぐれたものだと考えている。徳によってつくりだされる幸福は、運によってもたらされる幸福よりもよりすぐれた幸福であると主張しているのです。<br />
　そして次の一言で結ばれる。</p>

<p>　「この問題にたいしては、われわれの議論からも明白になるだろう。すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動（エネルゲイア）である」</p>

<p>　この2行はアリストテレスの幸福論のなかでも、もっともよく知られた命題です。<br />
　これまでの読解である程度理解されてきたと思いますが、端的にいいますと、人間は卓越性＝徳によってのみ幸福になることができる、と結論づけているのです。そして幸福とは、魂の一種の活動状態のことである、と。<br />
　この最後の言葉は「神与」ということにも関わる、これまたひじょうに難しい事柄なので、あとでまた関連したお話をします。</p>

<p>　以上のように、幸福とは徳を磨くことによってはじめて手にすることができるものだということ。だから欧米の知識層のなかでは、このアレテーをいかにして磨いていくかということが、いつも議論の底流を流れている。はじめに言ったように、アリストテレスをちゃんと読んでいるからですね（苦笑）。</p>

<p>　もちろん中国や日本においても、徳というのは人間性を形成するうえで昔から重要な言葉としてつかわれてきました。しかし、このアレテーは儒教的な意味でいわれる徳よりも、もっと広い概念としてあります。たとえば儒教的な徳は、親切心とか義の行い、惻隠の情とかを示す道義的な面を強くもっているものですが、ヨーロッパにおけるアレテーでなにがいちばん重要かというと、知性つまり知的な徳なのです。アレテーを磨くということは、知的な徳を磨くということ。たくさん勉強して知性を身につけることが人間を幸福にするんだという方向にヨーロッパの人々の思考は向かっていくわけです。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat5/index_3.html">[3-3]へ続く</a></p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［3-3］</title>
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    <published>2008-08-05T06:28:44Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:19:38Z</updated>

    <summary>再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/a-ken/">
        <![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">--　知性的な力量と実践的な力量　--</div>

<p>　幸福と幸運は異なると先ほど申し上げましたが、しかしもちろん、運も幸福の一要素であることを無視はできません。結局、どんなに奮闘努力した結果得た幸福でも、たいていは運がそこにはたらいている。アリストテレスは幸運といったものを度外視しているわけではない。<br />
　たとえば幸運のなかには、夫婦関係やお金や仕事に関して運に恵まれるかどうかということが大きな要素としてある。<br />
　アリストテレスはなかでもよき夫、よき妻に恵まれることが人生で最高の幸運だといっているのですが、お金だって一生懸命働いただけではなかなか儲からない。タイミングをうまくつかむとか、人との出会いとかのさまざまな偶然のはたらきがあってお金も儲かったり儲からなかったりする。仕事がうまくいくか、事業が成功するかといったことだって同様ですよね。<br />
　子どもだって、優れた親から優れた子が生まれるとは限らない。その逆もあるわけです。それから男でも女でも美貌に恵まれることはかなり運ですし、会社の上司にとっては優秀な部下に恵まれるかどうかも運に左右される。友人や恋人もそうでしょう。</p>

<p>　アリストテレスにしても東洋思想にしても、やっぱりそれは人間の力を超えたなんらかの神的なもののはたらきによると考えているのであって、ある意味で幸運はその恵みであり贈与であるととらえておいた方がよい。</p>

<p>　私自身が専門にしている政治学にしても、あるいは経済学にしても完全には人の思うようには社会は動かないということを、いつも目の前につきつけられているんです。そのことは冷厳に見つめておく必要がある。経済学にしても、限られた部分的なことをピックアップして、その因果関係をアーキテクチャーとして数学的に分析はできても、全体的長期的な予測ということではほとんど説明できた験しがないわけです。政治に関しては、みなさんよくおわかりのように、「一寸先は闇」の世界です。そういう意味では、政治も経済も運というものに大いに左右されてくる。</p>

<p>　しかし、ここが肝心ですが、先ほどからお話しているように、幸福は幸運だけでは得ることができないというのも事実でしょう。運に恵まれるだけでは、人間はけっして満ち足りることはない。運には幸運もあれば、当然不運もある。そんな運に翻弄されながらも、自分の力で幸福を獲得したいという欲求が万人のなかに必ずみられる。<br />
　ですから逆にいえば、どんな逆境にあってもその逆境に折り合いをつけ、そこに幸せを見いだしていくように私たち人間の誰もが努力することも事実なのです。そういう意味で、幸福は幸運に還元できないというふうにアリストテレスはいっているのです。</p>

<p>　そうすると、では幸福とは、詰まるところいったいなにかということになりますが、彼は幸福とは、われわれのなかのもっともよい事柄を追求することにあるとしているのです。聞き慣れない言い方で「最高善」といいますけど、もっとも善いものを私たちが追求しようとするときに幸福は訪れるだろう、多くの人々もそういうふうに考えるだろうといっているんですね。運も努力のうちだ、という言葉を思い出してもらってもいいでしょう。</p>

<p>　だから問題は、では最高に善きものとはなにかということになる。もっとも善いもの、卓越的なものとはなにかということが、『ニコマコス倫理学』の最重要テーマになってくるのです。<br />
　これまでにも他の場で少しお話しましたが、アリストテレスはそれをふたつに分けて、知性的な力量と実践的な力量というふうにいっている。それらを獲得し発揮したときに、ほんとうの歓びすなわち幸福が訪れるだろうと彼は考えている。</p>

<p>　ひとつは知的な力量による、知ることの歓び。なんの役に立つのかという以前の、純粋に知ることの歓び。科学などの発明・発見などでも、真に優れた研究者はそういう純粋な動機から大きな成果をあげる場合が多い。宗教的な面で、悟りを得ることとか神を見る体験とかも、そういう知性による幸せにほかならないでしょう。<br />
　それからたとえば美術や音楽。美的なものを見たり聴いたりしたときの歓び。それも美にたいする卓越した知性のはたらきとして幸福の範疇に入ってくるだろう。</p>

<p>　実践的な力量は自分と自分の隣人、隣近所というだけでなく、たとえば夫や妻、子どもなどを含めた家庭でもそうですが、自分と"他者"によい事柄をもたらすための力量。これもまた幸福とは切れない関係がある。大勢の人たちに喜びをもたらすという場合、企業でいえば経営者の実践的力量が問われることになるのです。</p>

<p>　さらに自分の国や世界全体に、幸せをもたらすといったかたちで実践的力量を発揮しなければならないのが政治家です。いうまでもなく、知的、実践的力量は互いに関連しあっているものなのですが、わかりやすくいうとこういうことになるでしょう。要は、卓越的力量（アレテー）とは知的、実践的力量を指しており、これらを発揮したときに得られる喜び（歓び）が幸福であるという考え方は、多くの人が納得し共有できる考え方だろうということです。</p>

<div class="sub2">--　愛こそが幸福の最高の条件　--</div>

<p>　ここで、アリ研のこれまでの講義に参加していない人のために少し補足しておきますと、アリストテレスは実践的力量をもう少し細かく分けておりまして、そこにはいわゆる戦略的な思考や行動も含まれてきます。これまで「戦略的思考を超えて」ということでお話をしてきましたが、「反戦略」でない以上、そこに戦略的な思考をいっさい認めないということではないのです。</p>

<p>　これはわかりやすい例を出しますと、公認会計士などをはじめとするような、経理的、会計的な功利性、合理性の世界です。つまり、目的・手段を功利的に選択していくという戦略的な思考がないと、家庭も企業も政治もうまくいかない。世俗的な成功もその可能性が保証されないということになります。目的・手段の効率的な選択には当然、数字をふまえたうえでの的確な判断力が必要なわけで、そこではIQ（知能）を重視した思考が評価されるのです。</p>

<p>　ただ、この戦略的思考だけを極限的に追求していくとどうなるかということを考えてみていただきたい。結局それは目的にたいして、より功利的な手段を選択することばかりに思考が集中することになる。手段の合理的選択が目的に先行してしまう。そして、自分だけの、あるいは自社だけの、自分の家族だけの、自分の階層だけの利益になればよい、そのために成功すればよいということに帰着していくことになるでしょう。</p>

<p>　そうなると当然、当人以外の人や集団から、その成功は共有しえないから許しがたいという評価を下されるはめに陥る。利益を自分の会社だけにはいってくるようにして、その周りの外注先や諸々の関係者などが死にたえることになったら、それはやはり何のための企業かという大義や理念が問われることになる。また家族においても、自分だけが計算づくで楽しくいい思いをしても、妻や子どもたちとその思いを共有できなければ、真の楽しさを味わうことはできない。どこか充足しきれない空しさが心の底に残るでしょう。身近なことでいいましたが、そういう意味で戦略的な思考は"それだけでは"一時の幸福感に空しさがつきまとい、周りにも虚無的な気持ちを引き起こすであろうことは、やはりしっかりと自覚しておく必要があります。世の中、戦略ばかりになったら、こんな息苦しいことはありません。</p>

<p>　では戦略的思考を超えるものはなにかという本題に戻りますが、それはアレテー、卓越的力量とか徳と呼んでいるものの発揮と強く関わってくる。端的にいって、アレテーとは自分と他者との善、この場合利益といってもいいと思いますが、そのバランスをとることです。パブリック・グッズという言葉がありますが、このグッズ（goods）が善＝財の両方の意味をもっていることを想起するとわかりやすいかもしれません。また、バランスは「正義」における比例的配分と言い換えてもいいかもしれないけど、要は正義というのは、自分と他者との善＝利益のバランスをとるというかたちでしか発揮できないことなのです。</p>

<p>　自社と他社の繁栄のバランスを保つ。夫と妻の愛情のバランスを配慮する。さらにいえば日本と世界との経済のバランスをとるといったような、そういう思考と行動が正義ということです。このバランスは同一ということではないし、必ずしも「私有」を否定しているのでないことは、前にお話したとおりですが。</p>

<p>　そこで、正義には知慮の徳が求められる。現実に則していえば、正義は当面する自分と他者との利益のバランスです。それはあくまで「当面する」バランスであって、人間社会は時の経過にともなって大きく動き、変化しているわけです。ですから過去を調べ反省し、未来を透かし見て現在の正義の行使をしていかなければならない。<br />
　「全体」をぼんやりとでもいいから掴みとる予見能力。予知能力といってもいい、けっして数字からだけではわからないような直観的な能力が求められてくる。過去の人類が蓄積してきた経験と智恵の遺産を現在の目でとらえ直し、未来に役立てるというかたちで発揮される善＝バランスが知慮の徳であるといっていい。</p>

<p>　たとえば、ある人の顏を見ることによって、その人が経験してきた過去のさまざまな事柄、苦労や歓びなどを推察する能力。よく顏の表情やシワを読み取るというようなことがいわれますが、そういう過去への賢察力、あるいは過去に基づいた未来への洞察力が知慮のなかに含まれている。</p>

<p>　また、たとえば身体に障害をもつ人々への配慮といったこと。つまり自分と他者との利益のバランスをとることにおいて、うまく公平に力を発揮しえなかったり、発言の場が少ない人たちとの関係をどのように築くかといった問題。正義というのは多くの場合、相手と自分が互いに競争あるいは闘争することを通じて実現されていく。議論したり論争したりしながら、正義というものが築かれていく。<br />
　ところが問題なのは、発言する力のない人や、その場をあたえられることのない人、あるいは発言することが本来的にできない自然（環境）やそこに生きるものたちが、結果を省みない粗暴な力の行使によって被害をこうむることがないようにバランスをとろうとする知恵、それが知慮の徳でもあるのです。</p>

<p>　ですから知慮というのは、そういう正義のあり方を常に問いかける知性の能力です。それを人間はちゃんと習得していく必要がある。そのことによって、幸福は自分の力によって追求できるものとなりうる。</p>

<p>　ただし、アリストテレスの場合、それだけで徳の習得は終わらない。私たちが正義を追求するときに、またそのための知慮を発揮するときに、さらにうんと深いところで、信義、信頼、希望、愛といった幸福にとって根源的な能力が要求されると彼はいっている。<br />
　正義のバランスをとろうとしたときに、自分を信頼もしない、それどころか敵対意識をむき出しにするような人に対しては、利益のバランスだってとる気にはならないわけですよ。あるいは男女の関係だって、男か女のどちらか一方のみの愛情や行動が突出していて偏っていたら、そこにバランスのとれた正義というものはない。</p>

<p>　ということは、正義とか知慮といったものが発揮されるための前提として、お互いに愛し愛されるという関係がないと、そもそもからして正義や知慮を追求しようという意欲さえ湧いてこない。そういう意味で、人間の徳すなわちアレテーを発揮させる究極的な力は、やはり愛の力だとアリストテレスは訴えているのです。<br />
　しかもその愛には、大雑把にいうと、愛の二面性、いうなれば横の愛と縦の愛がある。つまり自分自身を愛する愛と他者を愛する愛。そして平等な関係の愛と親子や師弟関係などの"上下"の愛。愛というもののなかにも多様な愛のかたちがあるのだけど、重要なのは、愛するという徳にはひじょうに特徴的なことがら、すなわち喜びを引き出す力があるとアリストテレスはいっているわけです。</p>

<p>　今回私は、幸福というのは無上の喜びをともなう精神の状態であるということを強調していますが、愛のアレテー＝徳というものこそ幸福の最高の条件であるということを強くいっておきたいのです。つまり喜びは愛を語るさいに欠かせぬものだとか、あるいは愛を補完するものだとかいわれますが、アリストテレスによれば愛という徳こそが、人間の力によって獲得できる幸福のなかで最高のものだといえるのです。愛も知性の一種だとすると、それが人間の知の卓越的な力によって獲得が可能な幸福なのです。</p>

<p>　いわゆる運命、運の偶然のはたらきや転変に耐える知慮の力といってもいい。すなわち、（1）合理的理性を含んだ知性と理性の結合である知慮、そして（2）その知慮と結合した宜の徳、愛と正義のアレテーの発揮のなかに幸福があるということ。このことを肝に命じておいてください。</p>

<p>　ここまでのところは、多くの研究者のうちでもだいたい一致したアリストテレス理解だと思います。ただ、この2つのことだけで幸福になるための条件がすべて満たされることになるのでしょうか。私がみなさんに私の理解としてぜひとも述べておきたいのは、幸福にとって3番目の問題です。それは最前からでてきている「神与」ということに関連する事柄です。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat5/index_4.html">[3-4]へ続く</a></p>]]>
        
    </content>
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    <title>戦略的思考を超えて［3-4］</title>
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    <published>2008-08-05T04:32:06Z</published>
    <updated>2010-04-30T09:10:15Z</updated>

    <summary>再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
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        <![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">--　利害や打算を超えた「熱狂」　--</div>

<p>　知慮によって獲得される幸福、そして愛の力によって行き渡る幸福。しかしそれだけではなくて、幸福にはもうひとつ別の視点から見ることのできる幸福がある。神的なものに出会うことによってもたらされる幸福がそれです。<br />
　先の引用文をもう一度見てみましょう。</p>

<p>　「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福（エウダイモーニア）こそ神与のもの（テオスドートン）とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間の持つあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。<br />
　......<br />
　しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性（アレテー＝徳）とかなんらかの学習（マセーシス）や訓練（アスケーシス）によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる。まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福（マカリオン）のものであると思われる。<br />
　......<br />
　すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動（エネルゲイア）である」</p>

<p>　この「神的なものに属する幸福」というものをどう考えればよいか、正直いって私にも長い間よくわからなかった。ところがあるとき、『政治学』の最後の第8巻でアリストテレスがひじょうに重要なことをいっていることに気づいたのです。そこにエンシュージャスムス（enthusiasmus）という言葉（ギリシャ語）が出てくる。英語でエンスージアスム（enthusiasm）。日本でも一種の俗語として「エンスー」なんて言い方で使うこともある。</p>

<p>　8巻の内容にはここでは立ち入りませんが、要するにこのエンシュージャスムスという言葉がそこに出てきて、はっと思ったのです。<br />
　これは日本語では「熱狂」と訳される。「狂」という文字が含まれているから、そのイメージに引っぱられてなかなか本当の意味が伝わりにくいのですが、この言葉は「狂」ではなくじつは「神」を指しているんです。エンは英語でいうイン（in）、エンシュージャスムスはもともとエンテオスからきた言葉で、テオスというのは神ですから、エンシュージャスムスは「神の中にいる（in the god）」状態を示しているわけです。</p>

<p>　つまり、運によってある状況があたえられ、そのなかで一生懸命努力して正義や知慮や愛を追求したとしましょう。そのときに人間に訪れる状態がエンシュージャスムスだとアリストテレスは述べている。いうなれば忘我入神。「神的なものに属する幸福」とは、そんな状態にあるときの幸福のことなのではないでしょうか。幸福の最中にいるとき、人間は我を忘れている。我を忘れる、自己を超える、神の中に入る、それらは少なくとも、幸福な状態としては同じ状態であると思います。</p>

<p>　アメリカのいわゆるエリート教育制度のなかに、世界のリーダーを育てるための中高一貫のボーディング・スクールというのがあります。この学校の入学試験は、もちろん書類審査もあるけど、興味深いことに面接試験をしっかりとやるんです。その面接で、あなたが熱狂できるものはなんですかときかれる。あなたはなににエンスーできますか、ということを質問されるんですね。<br />
　要するに、利害や打算を度外視して、自分がなにかに熱狂できる能力があるかどうかをきいてくるわけです。語学にしても数学や科学にしても、あるいはスポーツにしてもなんでもいい。そのことを通じて純粋に知る喜びとか、あるいは他人に奉仕する喜びとかを得ることができますかと問いかけてくるのです。<br />
　<br />
　エンシュージャスムスを「熱狂」といってしまうと、じゃっかん意味がずれてしまいますが、まあ、人間生活のある局面で、利害関係や打算的思惑をスルーして自分が没頭できる対象をもっているのかどうかということです。その質問の発案者がどこまで考えていたかわかりませんが、そのような対象があり、「戦略」を超えておのれの能力・技量を発揮できる人こそが幸福を獲得できるのではないかという発想がここにはあります。</p>

<div class="sub2">--　再び結び合わせるもの　--</div>

<p>　ボーディングスクールの話は単にひとつの例にすぎません。しかし、ヨーロッパ世界の言語の系譜を考えたときに、エンシュージャスムスという言葉から「幸福」にアプローチする方法があることに、アリストテレスを読んでいて私は気づいたわけです。エンシュージャスムスとは日本語でいうと「熱狂」よりは、「忘我入神」という言葉に近く、それが幸福のあり方（ヘクシス）を解き明かす、ひとつのキーワードではないかということです。</p>

<p>　だけどまた、そのことに気づくと同時に、そこから別の重要な問題が私たちの前に立ちあらわれてくる。忘我入神というと、ある意味で「外」がなくなるわけだから、ひとつの状態に囚われていることになる。忘我、すなわち無我夢中になるということは、やはり熱狂の「狂」の面も無視できなくなるわけです。</p>

<p>　狂というのはマニア、マニアックという意味のマニアです。<br />
　たとえば端的に身近な例でいえば、オウム真理教にはいった青年たちは、忘我入神（入信）の生活をおくる。自分たちは救われると思い、「狂」的に教祖を信じて自分たちだけの"閉じた"世界に生きるわけで、精神状態としてはマニアとエンシュージャスムスがひじょうに接近した状態にあるわけです。最高の幸福と最低の不幸が、表裏一体になった問題としてそこに浮上してくる。<br />
　はじめに、幸福というのは宗教、あるいは信仰と大いに関わってくるといったのは、そういう幸福のあり方をちゃんと視界にいれておかねばならないと思うからです。この幸福と不幸の境界線に、宗教あるいは宗教性の問題が一気に吹き出してくる。</p>

<p>　じつはいま私たちが論じている宗教という言葉は、オウム真理教の名をあげはしましたが、仏教とかキリスト教などの特定の宗派や教団を指す意味でつかっているのではありません。もっと一般的な次元での宗教、英語のレリジョン（religion）として理解してください。<br />
　religionのreとは「再び」「アゲイン」という意味なのはおわかりと思いますが、ligionはラテン語の「リゴー」からきた言葉で、結び合わせるという意味です。だれがreligionを「宗教」としたのか知りませんが、むしろ先にお話した「仕合わす（しあわせ）」という言葉に religionは近い感じもします。</p>

<p>　それはさておき、語義として、分かたれていたものを再び結び合わせるものがreligion（宗教）です。わかりやすくいえば、人は死ぬと死者になり、生者から分離される。しかし亡くなった人を愛していた者は、再び相まみえることを願います。死者と生者が結ばれ合うことを望む気持ちが、宗教心の根幹にはあるのではないでしょうか。それはまさに幸福の問題でもあります。</p>

<p>　いや、それこそが、幸福とはなにかの最大のポイントだと思います。生者と死者だけではない、人と人、人と自然、そして人と神的なものが結ばれ合うことこそが、幸福にほかならないのです。エンシュージャスム、忘我入神、我を忘れるという「魂のある種の活動」は、分離された自分が再びなにかと結び合う、もしくは結び付ける活動であるといっていいのではないでしょうか。融合するといってもよいかもしれない。それが幸福というものなのです。</p>

<div class="sub2">--　つながり合う正義、知慮、そして愛　--</div>

<p>　どうやら、やっとひとつの結論にたどりつきましたが、これで終わらないのが人生というもの（笑）。<br />
　では、どうやったらその「魂のある種の活動」を行うことができるのか。忘我入神というけれど、「狂」に陥らないための、"正しい"忘我入神の方法をどのようにして見出し、身につけるのかといった困難でやっかいな問題が残ります。それはヨーロッパや東洋の長い知的伝統のなかでも議論されつづけている「見神」の問題、あるいは「狂信」と正しく信じる「正信」という、ふたつの「信」がぶつかるむずかしい問題です。<br />
　さらに、そこにまたアレテーの問題も循環してくる。</p>

<p>　これまで洋の東西を問わず、数々の「幸福論」が出版されていますが、有名なものではたとえばカール・ヒルティの『幸福論』があります。あれなんかを見ても、究極的な幸福とは神を見ることだという結論になりますよね。仏教にも「見神」ならぬ「観仏」という言葉がある。</p>

<p>　しかし、そういう教えだけでは、私たちの人生における、日常のひじょうに細々とした「選択」になかなか結びついてこない。先にもいいましたように、私たちの生活は、日々「あれかこれか」といった細かな選択の積み重ねによって営まれている。だから、思考と行動をよいかたちで結び付ける技量、アレテーという徳を身につけることが、幸福にとって欠かせぬものとして問われてくるのです。しかも、くりかえしますが、目先の戦略的思考だけではダメ。戦略的思考を超えた知慮と、それにつながるアレテーがないところに真の幸福もない。</p>

<p>　話は戻りますが、みなさんは『天国と地獄』を見たことありますか。あるいは本は？　私は友人から原作本の『キングの身代金（原題：King's Ransom）』を借りて、それも読みましたけど、あれは『王の贈り物』と題名を訳したほうがいいんじゃないかな〜。著者のエド・マクベインがどういう思いで書いたのかくわしいことはわかりませんが、原題にあるransomという単語には身代金とか賠償のほかに、辞書で確かめたのですが、贖罪とか神からの贈り物という意味もふくまれているんです。</p>

<p>　それからキングというのにも私はひっかかっていまして、king of kings、要するに神を「王」と呼ぶ知的な伝統がヨーロッパにはある。つまりマクベインの真意は別にしても、人間が本当の幸福をつかむには、神もしくは神的なものからの贈与が不可欠なのではないか。そういう問いかけをこの作品から読み解くことができると思うんです。<br />
　黒澤明やTVドラマの製作者たちがどれだけ意識しているかはこれまたわかりませんが、"現実の"会社経営者である社長として、企業を、社員をあずかり、そして子どもをさずかって育てている親として、極限的な状況に追い込まれ選択を迫られたときにしめすひとつの判断が、登場人物たちそれぞれに幸福をもたらすかどうかの分かれ目になる。</p>

<p>　マクベインの原作では札束の代わりに新聞紙をバッグにつめるのだけど、ＴＶや映画ではちゃんと本物のお札をいれて犯人の要求を受け入れようとする。社長にとっては経済的な破滅につながる。しかし、その破滅をひとつの運命として覚悟したとき、社長に「夫婦の愛」が再来する。これはTV版の方で強調して描かれるのですが、黒澤映画では犯罪者側の呵責や恐怖がクローズアップされる。<br />
　それぞれ強調するポイントが少しずつちがうのですが、共通していえるのは幸福とそのための選択、そしてその「報酬」といったことが主要なテーマになっていて、じつにいろいろなことを考えさせられました。多かれ少なかれ、誰もが日々、当人にとってはそれこそ天国か地獄かといった選択を実践的に迫られているわけですからね。</p>

<p>　そこには大きな迷いと悩みがともないます。「人生いかに生きるべきか」という哲学的問いだって否応なしに生じるでしょう。幸福、そして幸福の追求という問題を、正義と知慮と愛がつながり合ったものとして、また神的なものとの関係、あるいは自然からの贈与の問題として考え、行動していかなければならない。その過程抜きに幸福はないし、戦略的思考を超えたプロセスを経てこそ、迷いや悩みも「力」となり、幸福がその真の姿を垣間見せてくれるともいえるのです。</p>

<p>　ということで、これで「正義論」「知慮論」、今回の「幸福論」と3回にわたった私のお話の、ひとまずの結びといたします。（おわり）</p>]]>
        
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    <title>戦略的思考を超えて［2-1］</title>
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    <published>2008-04-10T09:01:27Z</published>
    <updated>2010-06-08T07:21:01Z</updated>

    <summary>......そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ荒木勝（岡山大学教授） --...</summary>
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<div class="sub2">--　力の正義、正義の力　--</div>
　前回のおさらいからはじめましょう。前回の「<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat2/">戦略的思考を超えて（1）</a>」では、アリストテレスの正義論をめぐっていろいろお話しましたが、要は、いまの日本の社会においていちばんの問題は、正義とは何かがきちんと定義されていないということでした。じっさい、現在の社会全体を見ると、正義とは力であると一義的にとらえられる傾向が強い。勝てば官軍であって、官軍というのはいうなれば法律を独占できるのですから、勝った方が正義であるとなってしまうわけです。

<p>　この、力がすなわち正義である、勝者の方に正義はあるという考え方は、それこそ人類の歴史はじまって以来からの古い考え方としてあります。ところが、その正義のとらえ方もわからないではないけど、どうもそれだけでは困るという感覚を多くの人々が抱いてきたわけです。プラトンも『国家』のなかで、批判の対象として「力＝正義」という考え方を取り上げています。</p>

<p>　正義を大上段に振りかざす人間がいたら、まず、その人を疑えということがよくいわれます。そういいたくなるのも、よくわかります。その場合の正義というのは、大方は、力のうえに成り立つ、権力と結びついた強引な正義だからです。現実にそのような力の正義にだまされ、被害をこうむったという思いを抱いている人は多いでしょう。正義を語ることの困難さ、語りづらさもその点にあるのですが、しかし、だからといって、それで正義の問題を等閑視していいということにはならない。正義がそのように一面的なものとしてしか捉えられず、ちゃんと理解されていなことが、そもそもの憂慮すべき重大な問題なのです。</p>

<p>　では、どういうふうに正義を定義したらよいか。それもまた、これまでに延々と議論されてきたわけで、多様な考え方、アプローチの仕方があります。</p>

<p>　たとえば、とくにいまの日本の状況からいうと、法令を遵守することが正義だという考え方が根強い。法に従うことが正しいのだ、と。法令遵守が正しいことで、正義だということですね。</p>

<p>　しかし、法令や条例を遵守することだけが、ほんとうに正義なのか？　それだけでは、社会の実情に合わず、多くの人たちの気持ちにもそぐわない面が当然出てくるでしょう。法にしたがっていれば何をやってもいいのかという話にもなってくるわけで、これもまあ困るわけです。</p>

<p>　弱い者が生き残るために、相互に約束をしあって決めごとをする。それを正義としようというような議論もいままでにあったわけですよね。むちゃくちゃ理不尽なことをやる王様に対抗するために人民が「連合」し、「契約」して、自分たちにとって正しいことを行おうというのもそうです。</p>

<p>　いずれにしても、いままでお話したようなことは、正義とは何か、その核心部分の周辺をグルグルとまわっているだけの状態で、正義というものをどう規定したらよいのかがよく見えてこない。そこで、アリストテレスの遺した言葉、概念を基準にして、正義という「理念」の真の姿をつかまえてみたい、というのが前回のお話の趣意だったわけです。</p>

<p>　そのさいに述べたように、アリストテレスは自己と他者とで「善いこと」を比例的に配分することが正義であると、ひとつの定義をしました。この定義自体は、かなり具体的な事柄にあてはまります。たとえば、比例的正義のなかに、配分的正義、矯正的正義、交換的正義という三つの正義の考え方がある。アリ研メンバーのメールのなかにもちょっと出てきましたが、水戸黄門の例なんかにもあるように、悪い代官や悪い商人をとりあげると、たとえば悪い商人なら「正しい」価格で販売しないということだから、これは交換的正義に反している。それから代官が悪い商人と結託するという場合、良民にあたえるべき取り分を代官がくすねると配分的正義に反するということになる。あるいは代官がほんとうの犯人ではない人をつかまえてきて罰するのは、あきらかに矯正的正義に反するわけです。</p>

<p>　そういう感覚はだれでももっているものだから、テレビで「水戸黄門」なんかを見て黄門さんの裁きに共感したりできるわけです。</p>

<p>　それから古代ユダヤの王ソロモンの知恵というものが伝えられています。わかりやすい例でいうと、ここに二人の女性と一人の赤子がいるとしましょう。二人の女はその赤ん坊が自分の子どもであると主張して、取り合いになる。そこで赤ん坊を両方で引っぱり合うことになるのだけど、当然、強く引っぱった方の手に泣きわめいている赤ちゃんはいく。それで強引な方の女は自分の主張どおりになったと喜ぶのだけど、そこにソロモンが出てきて、真にわが子を思い、気遣うのが母親であるから、引っぱり合いに負けたもうひとりの女こそが赤子の母であると判定し裁くわけです。</p>

<p>　私たちはこのような話を聞くと、なるほどと納得するのですが、なんの価値観も判断基準もなければ、こういうことに共感もなにもできないはずです。要するに、力（腕力）ではない正義というものが存在し、それがどこかで別の力としてはたらいているというふうに、われわれ人間は心のある部分で感じとることができる。力の正義ではなく、正義の力といったものがあるのではないか、と。</p>

<p>　そういう意味でいうと、正義とは何かということを根本から考え直すには、直観的な理解ということが、まずは大事なことなのです。</p>

<div class="sub2">--　返報的正義と贈与　--</div>
　返報的正義についても前回の説明不足を少し補っておきます。

<p>　交換的正義といのはギブ・アント・テイクですよね。返報的正義も、たしかに交換ではあるのだけど、「ギブ」のほうが、つまり、あたえることのほうがもらうことより重要視される。しかしながら、相手はあたえられたことに対して、そのお返しをしなければならないというのが返報的正義の考え方。等価物を "同時に"交換するのでも、また、もらいっぱなしでもない、人類学における「贈与」に近い行為といってもよいでしょう。</p>

<p>　これは、親と子の関係で考えるとわかりやすい。親は基本的に、子育てというかたちでさまざまなものをギブする（あたえる）わけですが、子どもに対してその分の見返りを目的にしているわけではない。いうなれば、無償の愛情です。しかし、いや、だからこそ子どもは大人になったら、親に「返す」ことをしなければならないというのが返報的な正義感なのです。親と子という範囲だけでなく、先祖から子孫へとあたえられてきたもの、伝えられてきたものがある。つまり自分の肉体そのものも先祖がいなければ存在しなかったわけですから、なんらかのかたちで先祖に返報しなければならない。それが、先祖崇拝といったようなことでもあり、また、自分の子への贈与にもつながっていく。</p>

<p>　あるいはもっと広くとらえて、村落とかの共同体、あるいは「国」とかに対しても同様で、私が「共同的結合体」と訳しているコイノーニア（国）に対しての返報をひとつの正義の問題として考えていかなければならない。つまり、家族から国家にいたるまで、あまねく共通したこととしてそのことはいえるのです。法があって我々は安全・安心な生活を営むことができる。しかし、法は国家が決めたもの。というよりも、国家は法的なコイノーニアだから、我々はこの国家に、返報的正義を抱く。このようにアリストテレスは考えています。祖国愛・愛国心の根底には、正しい国家に対する返報的正義の観念が生じるわけです。</p>

<p>　もっというならば、自然そのものと人間の関係としての「贈与」の問題がある。自然からの贈与である「恵み」に対して、人間はどのように報いるか。返礼するのか。現代の環境問題とも関連してきますが、これも自然と人間との間の正義の問題として考えていく必要がある。</p>

<p>　返報的正義というのは、このように非常に大きな射程範囲と距離を持っている。いわゆる「未開社会」から現代にまで通じる宗教的儀礼なども、それ自体としてはなんとも非合理なものだけど、自然からの贈与に対する人間の側の正義の姿勢として理解できるわけです。</p>

<p>　アリストテレスのいう正義論のなかには、このような多種多様な正義のあり方が含まれている。しかしもっとも重要なことは、彼によれば、人間それ自身、あるいは人間社会には、「正」と「正しい事柄」、つまり正義を判別し、実現しようとする人間に共通した態度・指向、そういうものが厳然として存在しているだろうというふうに考えられるのです。</p>

<p>　となると、人間にそのような「正」に対する姿勢・構えがなぜ生じてくるのか。そのことを哲学的に深く考えていく必要がある。正義を単純化した口当たりのよいワンフレーズで定義するということではなくて、正義を規定するためのさまざまな要素や条件といったもの全体を包括的に考えていかなければ、正義の真の姿を取り逃がしてしまうことになりかねない。そして、そのように「考える（哲学する）」ことと並行して、"もう一度"現実の正義の問題に立ち返ってみる必要があるだろうと思うのです。</p>

<p>　包括的にといっても、アリストテレスの哲学を細部にわたって探求しようとしたら、これはもう大変なことになってしまうし、忙しい人が多いなかで時間がいくらあっても足りません。それに「生きた哲学」としては、専門的に細かく字義に拘泥するようなことは、少なくともいまここでは、あまり意味のあることではありません。とにかくまずは、全体の輪郭とエッセンスの概要をざっと描いてみることが大事なことでしょう。そこから善く生きていくための考え方、ものごとを考えるための「枠組み」といったもののヒントをみなさんにつかみ取っていただければ、私としてもたいへんにうれしいことです。これからお話することも、既存の哲学的理解とは大きくズレているところがあります。これまでの学界のアリストテレス研究と私の考え方の相違については、2008年の1月か3 月に発表される『思想』や、これまでの私の学術論文を見てください。</p>

<div class="sub2">--　「霊魂論」における三つの柱　--</div>
　それではこれから、力や法によったものでない正義、というより、むしろその根本にある正義、つまり"戦略的な"正義を超えた正義のあり方について考えてみたいと思います。「知性」が主題のひとつになります。

<p>　知性について考える場合、どうしても避けて通れないものとして「霊魂論」があります。たいへんむずかしい話ですが、手短な解説を試みてみましょう。</p>

<p>　アリストテレスの霊魂論は大きく分けて三つの柱から成っています。</p>

<p>（1）霊魂とは、生命の根源であり、人間も他の動物も生きていることの根源的な力は霊魂にあるということ。では、肉体と霊魂はどういう関係にあるのかという問題になるわけですが、ちょっと難解な言葉を使うと、霊魂とは肉体の「現実態」であるという言い方がある。現実態はギリシア語でエネルゲイアといいます。</p>

<p>　肉体といっても"生きている"肉体ということで、死体は含みません。つまり生きている肉体は、動き、なんらかのはたらきをしているもので、その力の根源が霊魂である。だから、現実態というのは「はたらき」と言い換えてもいいわけですけど、肉体のはたらきをつくっているもの、その因となっているものが霊魂であると、アリストテレスはいっているわけです。</p>

<p>（2）霊魂というと日本では「死者の霊魂」というふうに、生きているということから分離されやすいので、ここでは「魂」といっておきましょう。その魂には、固有のはたらきといったものがある。たしかに魂は肉体を動かしている根源なのだけれども、それだけが人間の魂のはたらきではない。人間の魂自体がある別のパワーと機能を持っている。</p>

<p>　それは何かというと、欲求的能力と知性的能力であるとされる。このふたつの能力のうち、とくに、知性的能力は、魂の根幹にある固有のはたらきです。欲求的能力、つまり欲すること、何かを得ようとすることも魂がもつ大きな力なのだけど、アリストテレスは知性を発揮するということが魂の根本にある最高のはたらきであると強調しているのです。</p>

<p>（3）その場合の知性がヌース、日本語に訳すと「直知」、つまり直観的知性というものなんです。アリストテレスは、ヌース＝直観的知性が人間の魂の根幹にある力なのだと述べている。つまり、モノを得たいという欲求もたしかにひとつの魂の力なのですが、モノを得るために、あるいはモノを得る前にモノを知りたいという力がつくる欲求的能力も、人間の場合は知的能力と結びついている。さらにアリストテレス哲学の根幹には、「幸福」とはその人が持っている力量の発揮という有名な規定がありますが、この力量の中に直知＝ヌースの力が入り込んでいます。これが大事な三つ目の柱です。</p>

<p>　そして、この三つの柱をよく理解するために、アリストテレスの決定的に重要な三つの書物があります。すなわち『形而上学』『ニコマコス倫理学』『政治学』の三著で、三つの柱を咀嚼するには、これを三位一体にして読み込んでいかなければならない。</p>

<p>　それぞれの書から、要点となる言葉をひとつずつあげておきましょう。<br />
『形而上学』には「ひとはすべて知ることを欲する」<br />
『ニコマコス倫理学』には「善とは万物が希求するもの」<br />
『政治学』には「我々が見るところによれば、国家とは最高の共同的結合体である。国家の根幹は正義である」</p>

<p>　と書かれている。</p>

<p>　つまりアリストテレスは、人間の能力をはかるとき、まず「知る」ということに重きをおいている。ギリシア語では、この「知る」ということは「見る」ということと同じ単語「エイデーナイ」です。見ること・知ることが人間の霊魂というものの第一の機能であるといっていい。それが知性的能力にあたります。</p>

<p>　また、さきほど欲求的能力といいましたが、人は何を欲求するのかといえば「善」なんです。善いものを欲求する。では善いものとは何か。それをまず知らなければならない。つまり、知りつつ欲求していくことになります。アリストテレスにおいて、霊魂の能力にはこのふたつ、知性的能力と欲求的能力があるということを念頭に置いておいてください。</p>

<p>　そのうえで『政治学』の第一巻で述べられている「国家とは最高の共同的結合体である。国家の根幹は正義である」ということを考察していく必要がある。正義が人間社会を幸福に成り立たせていくための基本だからです。</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat1/index_2.html">[2-2]へ続く</a></p>]]>
        
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