荒木勝(岡山大学教授)
[1]問題の所在
プラトン、アリストテレスに代表される古代ギリシャの政治学的思考には正義論はあっても権利論は無縁なものであるとする見解は、すでに20世紀中葉、政治思想史家セイバインや法学者M.ヴィレイの指摘以来一個の了解事項であったし、レオ・シュトラウス学派や、マッキンタイヤーによってもその見解が再確認されてきたといってもよいであろう。
たとえばジャッファによれば、プラトン、アリストテレスによって代表される古典的政治学の自然的正natural rightは物事の客観的正しさrightnessを意味していたとされ、ホッブス、ロックが展開した近代的自然権、すなわち個々人が自己の生活を維持するために保持していた正観念や個々人の自己保存権から導き出された自然権とは根本的に異なるものである、とされる。またマッキンタイヤーにおいては、そもそも近代以前には個人に固有に内在するとされる権利観は存在しないもの、とされている。
「ゲワースの議論にたいする私の論及において私がほのめかした事実に照らしてみると、端的に人間である限りの人間に帰属するような権利というものが存在するということは、いささか奇妙なものである。その事実とは、中世の終焉近くになるまでは、いかなる古代や中世の言語においても、『権利right』という我々の表現で正確に翻訳できる表現はない、という事実である。……つまりそのような権利など存在しないのであり、そのような権利を信じることは、魔女や一角獣を信じることと同じなのである」
しかしながら、最近、といってももう10年ほど前になるが、アメリカのアリストテレス研究者F.ミラーによってその見解は大きく批判されるに至った。
ミラーによれば、アリストテレスの政治的思考、とりわけ要求権ディカイオンdikaion、自由権エクスーシアexousia、権限キュリオスkurios、免除権アキュロスakurosおよびアデイアadeiaの諸観念においては、ホーヘルトの言うところの個人―行為―他者間に成立する権利概念が存在するばかりか、近代的な個人的自然権の思考と共通するある種の自然権的思考もみられるとされる。 もちろんこのアリストテレスの自然的権利概念は、ロック的な自然状態下での自然権ではなく、アリストテレス政治学に固有の自然的国家における自然権という組み立てにおいてではあるが。
大胆ともいえるこのようなミラーの見解に対して、アメリカ・イギリスのアリストテレス研究者たちは、翌年の1996年『形而上学レヴュー』紙上でシンポジウウムを企画し、様々な批判を展開している。論者の多くは、アリストテレスにおける権利概念の一定の存在を認めつつも、ミラーの見解は、1.アリストテレスにおける義務と権利のバランスを軽視し、国家の実定的枠組みの一環としてのアリストテレスの権利観を過大視し(不安定な市民の政治的権利)、2.個人的権利と集団的(階層的)権利の差を見過ごし、3.古代的な政治参加の特権的権利=義務と、近代的な公私の区分を前提とした、私的生活の権利要求としての権利論という区別を曖昧にしている、という批判を展開している。
さて、こうしたアリストテレスの権利論をめぐる論争において、議論の出発点ともなり、論争の前提ともなった論点の1つが、アリストテレスにおける権利概念を表示する言葉の問題であり、ミラーの問題提起もまたこの点から出発している、といってよいであろう。ミラーによれば、とりわけ「正」「正しいもの」「正しさ」とも訳されている「ディカイオン」を権利と訳すことは、E・バーカー以来の翻訳上の事実であり、文脈上もそのように解することが可能である、とされる。こうした理解にたてば、『ニコマコス倫理学』第5巻に登場する「フュシコン・ディカイオン(自然的正)」も「自然的権利」と翻訳されることが可能になり、ミラーの主張するアリストテレスにおける自然的権利の主張もあながち無根拠な主張ということにはならないであろう。
それゆえ本稿においても、アリストテレスにおける正義論と権利論の関連を解くために、まずもってこの「ディカイオン」の意味の確定から検討してみることにしよう。


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