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        <title>アリストテレスと現代研究会</title>
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        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2008</copyright>
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            <title>戦略的思考を超えて［3-1］</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<br /><span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="araki080805.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/08/05/araki080805.jpg" width="429" height="381" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span>

<div class="sub2">—　アリストテレスと現代　—</div>
　この研究会（アリストテレスと現代研究会、通称アリ研）も、はじめてから3年ほどがたちます。何度か講義や勉強会を行ってきましたが、私としては毎回が驚きの連続だったというのが率直な気持です。

<p>　欧米諸国では、社会で指導的立場にある人たちは、プラトンやアリストテレスの基本的な著作は読んでいて、だいたいの知識はもっている。また、専門家ではない一般の人々のなかにも、ギリシャ哲学に対する関心をもち、基礎的素養を備えている人々は多い。<br />
　しかし、日本においては、これまでにお話したように翻訳文のとっつきにくさなど諸々の事情があることはあるのですが、ほとんどといっていいほど、その哲学になじみがない。とくにアリストテレスはそうです。</p>

<p>　だから何が驚きだったかというと、このアリ研、そしてアリ研の個々のメンバーを通じて伝わってくる自分自身や社会に対する問題意識がじつに切実なものであり、しかもアリストテレスが言わんとしていた哲学的思考と根本のところでつながっている。そういう思いが回を追うごとに強まり、大袈裟ですがある種の衝撃さえ感じるのです。</p>

<p>　世間知らずでとおっている私ですが（苦笑）、じつは現在、私の所属している大学で、企業でいうところの管理職めいたことをやっていて、「学問」研究とはまた別次元の忙しない状況がつづいています。本音をいうとひとりでどこかにひきこもりたい（笑）気持でいっぱいなのですが、そうもいかないし、逆にいうと社会の情勢がかなり具体的に“身にしみて”わかってくる面があります。この管理職のあいまに、その悩みとこういう会やメールでやりとりされる問題がリンクして、みなさんの問題提起にどう応えたらいいのかということを、いつもどこにいても、考えざるをえないはめに陥っているというのが実情なのです。</p>

<p>　さて、きょうは「幸福論」がテーマです。勉強会のための合宿とは別に、これまで2回講演という形で話をしてきましたが、メンバーの人からの提案もあり、ひとつの締めくくりとして今回は幸福とは何かといったことを主題に話してみたいと思います。</p>

<p>　先に結論めいたことを言いますと、この講演の準備をしている過程でだんだん自分の考えもふくらみ発展してきまして、結局のところ幸福というのは「宗教」の問題と深く関わってくるものであるとの思いが強くなりました。ただ急いで付け加えますが、この場合の宗教とは、なにか具体的な教団、たとえばかつてのオウム真理教の社会的問題とかをここでまた取り上げるということではなくて、もっと広く一般的な意味での「宗教性」あるいは「聖なる次元」といった範疇でこの言葉を使いますので、その旨をご了解いただきたい。</p>

<p>　まず大きく言って、いまなぜ幸福論が問題となるのかというあたりから簡単に話していきたいと思います。</p>

<p>　日本の社会に欧米流の経営方式がはいってきて、また、いわゆるグローバル資本主義・市場経済に席捲される世の中になって、もう十年以上がたちます。勝ち組・負け組などという言葉が流行り、あれよあれよという間に、格差社会などといわれるようになった。閉塞感といった言葉も同様です。いつの時代でも社会はさまざまな問題を抱えているわけですが、このような言葉は、たしかにこれまで一般ではあまり使われることはなかった。</p>

<p>　ただ言葉として使われることが多くなったというだけでなく、じっさいに、日本の社会はこの十数年くらいの間に、じつに大きな問題を抱えるようになったということを私も実感しております。しかも、過去に類例をみない、今後の予測もできないような問題や課題が日々表面化しているようにも感じます。<br />
　人口1億2千万、成熟して豊かになったというこの国で、毎年3万人もの人が自殺に追い込まれている。交通事故死よりも多いし、自殺者のなかには、働き盛りの人が多くの数をしめている。端的にいって、問題解決の糸口を見出すことができず、あるいは問題の元になる責任の所在さえ明確にできずに、絶望の淵に追いやられた結果の死が増えているのです。<br />
　「自分で死ぬのが悪い、自己責任だ」といって済ませられることではないはずです。こういう社会でなければ防ぐことのできた自殺は、想像以上に多いのではないでしょうか。<br />
　<br />
　以前に、このアリ研メンバーになった友人とも深刻に議論したことがあります。その友人は中小企業の経営者を相手に、さまざまな相談に応じ、解決策をいっしょになって考えるコンサルタントのお仕事をしている人です。<br />
　いろいろな話題が出て同感することが多かったのですが、そのなかでもとくに、日本の銀行は怠慢であるということでは、まったく意見が一致しました。まともに相手を調査せずに担保だけとって、あとは知らん顔をきめこむ「左ウチワ」の金融機関は許し難いということです。<br />
　そればかりではなく、ひじょうに大きな、たとえば一方に莫大な収益をあげている巨大企業があって、他方には小さな町工場や商店のような零細企業がある。その零細な企業に、まったくもって理不尽な要求をつきつけてくる大会社があるわけです。かなり単純化していっていますが、そういう状況のなかで誠実に汗水たらして働いたあげく、自ら命を絶つ人があとをたたない。</p>

<p>　私自身も管理職になってみて、その辛さを日々しみじみと味わっている現状があるので、企業の管理職の立場にある人の苦悩はある程度推測がつきます。たとえばある会社の部長が理不尽とわかってはいても、部下に会社の命令を指示しなければならないという状況はよくあります。部下である相手がどんなに弱い立場にある場合でも、「やれ！」という命令をしなければならず、なんとも嫌な気分になるわけです。“上”からの命令は、管理職だろうがその部下だろうが、いわれたらやらざるをえない。まじめな人ほど心の葛藤にさいなまれ、しかも報われることが少ない。<br />
　その結果、日本の社会のなかに「鬱病」が蔓延している状況が生じている。</p>

<p>　こういう企業社会における鬱病は、日本だけではなくアメリカなどにも相当に広がっているようです。鬱から自殺にいたる現象が、大きな波のようにアメリカの社会を襲っているのです。<br />
　そういうなかで、日本でも対処療法的に鬱病やそれにまつわる自殺を防ごうという社会の自己防衛がはじまっている。自殺防止法が制定されたり、NPOなどが自殺を未然に防ぐための活動を行うようになった。精神医学界にも、さまざまな対応策が問われている。</p>

<div class="sub2">—　「美しさ」と差別　—</div>

<p>　別の似たような社会現象として「いじめ」の問題はどうでしょう。こどもたちの自殺も増えている。これもその原因をひとつのことだけに限定できない、複雑な要因がもつれあって起こることですが、些細なことながら私が最近とくに気になっていることからアプローチしてみましょう。</p>

<p>　それは大学の学生たちと話をしていて気づいたことなのですが、いじめというか差別の問題としての「美醜」といったことなのです。人が美醜のことを気にするのはあたりまえのことです。誰だって自分の“見た目”が醜いよりは美しいと言われたい。しかし、ことに若い人たちにとっては、自分が美しいか醜いかが、いまきわめて切実な関心事となっている。他人が自分をどのように見るかは誰だって気になることですが、醜いといわれることが劣等感の範囲にとどまっているならまだしも、差別やいじめにつながるから美しくなりたいという一種の強迫観念と化しているような気がする。しかも、その「美しさ」は皆と同じ美しさでなければならないような均一的な表面のみの美しさなわけです。なにが真の美しさかという観点は、まったく抜け落ちている。</p>

<p>　そこに企業が目をつける。先日もテレビで報道されていましたが、「美の世界の争奪戦」というようなタイトルで、日本の大手化粧品会社が中国や東南アジアという巨大マーケットに進出し、「美」の市場が急成長を遂げている。お金さえ出せば、誰でも簡単に美しくなれるというわけです。グローバル資本主義の流れといってしまえばそれまでですが、それは結局のところ、そこに群がっていくわれわれ人間の問題としてとらえたとき、美醜と幸福の関係、美しくないと幸せの切符を手に入れることができないのではないかという不安に関わってくる。<br />
　<br />
　些細なことといいましたが、これは考えてみると人間存在の根源的な部分に、ひじょうに深く関わってくる重要な問題です。ご承知だと思いますが、仏教には阿弥陀仏の48願というのがある。法蔵菩薩が仏になるために48の願をかけるのだけど、そのひとつに、この世の中に生きているありとあらゆる人から醜さがなくなるようにという祈願がある。それが叶ったときにこそ、悟りを得て仏になることができる----。そういう話ですが、人類にとっては大昔から美醜をめぐる問題が人間の幸福にとって大きな要素になっているのがよくわかると思います。</p>

<p>　日本やアジアばかりでなく、もちろん古くからヨーロッパでもそうでして、現代のわれわれが見ることのできるギリシャ的彫刻の美の裏に、美しくないとされていた人たちの悩みが隠されている。そういう人々はなにかにつけ発言権を奪われていたり、差別されたりで、「生きにくさ」という問題にかかわってくる。じっさい、美しい（とされる）人は貴族的な処遇を受け、身分を保障されるなどの実情があったし、現にいまでも似たようなことはあるわけです。つまり、そういう美醜をめぐる問題が幸、不幸を分ける大きな要因になるだろうということが一方ではたしかに考えられるのです。</p>

<p>　ですから、いま私たちが直面している幸、不幸の諸相は、ある意味で現代特有の問題でもあるけど、人類はじまって以来の基本問題に立ち返ってみることで、ある程度の整理と理解ができるのではないかとも感じています。幸福とは何かということがひじょうに見えづらい時代に、大昔にアリストテレスの考えたことが、私たちの生き方になんらかのヒントをあたえてくれるのではないか。そんな期待もこめて、こうやってお話をさせてもらっているわけです。</p>

<div class="sub2">—　スピリチュアルなものと倫理　—</div>

<p>　現代にかぎらず、不幸な時代には、不幸な状態から抜け出して幸福になりたいという人たちのなかに「癒し」とかスピリチュアルなものに憧れるという傾向が強まります。つまり、いうまでもなく幸福には貧富や美醜の問題など物質的・肉体的な面が大きく影響しますが、しかし、その物質面での「豊かさ」と心の平安とは必ずしも一致しない。幸福にはその両面が欠かせない。</p>

<p>　たとえば仏教にも幸福の反対の苦しみ、不幸な状態からの脱却を仏の救いにもとめ、悟りの境地にいたることができれば幸福になることができるという考え方がある。<br />
　また、キリスト教では「心の貧しき者に幸あれ」という言葉がマタイ伝などに見られるように、人々に幸福をあたえるのが本当の宗教であるという呼びかけがある。だから世の中の不幸が拡大すればするほど、当然のように幸福をあたえると呼びかける宗教に多くの人が頼るようになってきます。「幸福の科学」という名称が象徴するように、それを当て込んだ勧誘が盛んになり入信する人たちも増えることになる。だから、そのことの是非は別にしても、やはり幸福論はどこかで宗教的な救いといった問題と深く関わってくるといえるだろうと思うのです。<br />
　この場合の科学という単語は、宗教と同義につかわれている。科学も、人間を幸福に導くマジカルな宗教的救いをもたらすものとして、現代人の願望が投影されているのですね。</p>

<p>　そんなことをなんとはなしに考えていたら、ある日、偶然に映画『天国と地獄』をリメイクしたTVドラマを見たんです。これは幸福論を考える意味でもとってもおもしろかったのですが、黒澤明の本編を思い出すと同時に、あわててエド・マクベインの原作『キングの身代金』も読んでみました。</p>

<p>　この作品と幸福論にどんな関係があるのか。それは、簡単にいうと、いついかなる災難がわれわれに降りかかってくるか予想はできない。偶然に左右される人間の生活のなかで、ある日突然、思いもしなかった事態が起き、未来の明暗をわける重要な岐路に立たされたとき、どっちをとるかは誰しも“自分の問題”として考えざるをえないということなのです。</p>

<p>　『天国と地獄』では、ある裕福な会社社長の息子が誘拐されたという事件が発端になるのだけど、それがじつは社長の子ではなく、その社長のおかかえ運転手の息子だったということが明らかになる。それでその子どもの命と引き替えに身代金が要求されるのですが、社長は自分が社運をかけ苦労して得たカネを、雇い人である運転手とその息子のためにはたいてしまうことができるか。自分の幸福を犠牲にして、他者のためにつくせるかといった究極的な問いが、そこに問われているわけです。</p>

<p>　そのとき私が思ったのは、幸福とか不幸とかにむすびつく問題を考えたときに、たとえばお釈迦さんとかキリストに“すべて”をゆだねて、救いのために自己判断を放棄してしまうというかたちで、私たちの生活を処理していいのかということです。いかなる事態になった場合でもなにをどういうふうに選択していったらよいかという人間自身のある種倫理的な問題として、幸福の問題を考えていく必要があるのではないかと痛感しました。</p>

<p>　まあ、このようなことは改めて言うまでもないことではあるのですが、ひとつの問題の立て方として、確認の意味で述べておきたいところです。みんな誰だって幸福になりたい。しかし、いや、だからといったほうがよいか、神仏にすがるということだけですぐさま幸福が到来するわけじゃない。<br />
　幸福になるために、人間のもっているあらゆる力を行使して“自分で”選択していくにはどうすればよいかを考えていくということが、まずは重要な幸福論の切り口だと思います。<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/08/32.html">（[3-2]につづく）</a></p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/08/31.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">戦略的思考を超えて3</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 05 Aug 2008 17:12:05 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>戦略的思考を超えて［3-2］</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<br /><span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>
<div class="sub2">—　「幸福」という言葉をめぐって　—</div>

<p>　では、何をどのように選択するか。そのためには、そもそも幸福とはなにかということから考えていかねばならないでしょう。</p>

<p>　幸福というのは万人万様で、主観的なものだし、人によって幸福の感じ方は違うのではないかという考え方はたしかに一面では正しいでしょう。私とあなたの幸福にたいする価値観は同一ではないし、みながそれぞれ各自の幸福を追求しているのだから、幸福について論じることに意味はないのではないかというわけです。<br />
　ところが、ある意味では不思議なことなのですが、万人が万様に幸福を追求しているのだけど、そこに万人に共通する、なにかしら普遍的な、幸福の根拠といったものがあり、「私とあなた」の間で幸福をめぐるコミュニケーションがちゃんと成り立つことも事実なのです。もし、私の幸福とあなたの幸福がまったく異なるものでなんの共通性ももたないものであれば、互いの話を理解することすらできない。<br />
　<br />
　われわれは日ごろから、ちょっとした会話の節々に「あなたはいま幸福ですか？」とか「幸せになってね」などという言葉をはさみ、互いに気持ちや情報の交換をしあっているわけです。そしてそこに、幸福とは何かということがおぼろげながらにしろ、一定の共通理解がなされている。そうでなければ幸福という言葉で会話は成り立たなくなってしまう。</p>

<p>　たしかに現代社会はこの幸福の意味、何が幸福かといったことがひじょうにわかりにくくなっていることは事実でしょう。個人の嗜好や主観を超えた幸福はあるはずなのですが、共通して語れる幸福の像（イメージ）がどんどんぼやけてきていて、幸福を語り合うことが困難な状況になってきている。<br />
　だから、幸福なんて個々の価値観が決めることで、幸福と感じるかどうかは主観の問題なのだから、そんなことは意味がないという思考に陥りがちなのですね。でも、いまいったように、そんなことはないのです。むしろ、いまの世の中では「幸福論」そのものが成りたちにくいという、そのことを問題にすべきでしょう。ですから、まず、私たちが幸福というものを思い描くとき、一般的なあり方として幸福とはなんであるかを考えていきたいと思っているわけです。</p>

<p>　「幸福」という言葉からはいってみましょう。<br />
　幸福の「幸」という漢字は、『説文解字』という中国の漢代にできた字典によりますと、吉にして凶をまぬがれる、とか、夭死（わかじに）をまぬがれる、という基本的理解があるのですが、もともと人偏のつく「倖」と同じ意味合いがあったとされています。僥倖といいますね。僥とは人の累々たる様を示していますので、幸＝倖とは人々が群れ集い、活発な集団生活がそこにあること、そしてその一員であることが前提になっているのです。ちょっと拡大解釈しますと、他者とともにあることが幸福の根拠のひとつであることになります。</p>

<p>　また幸福の「幸」は、和語として「しあわせ」とも読みます（「幸福」と2文字で書いても「しあわせ」と音読みすることがあります）。しかし「しあわせ」というのは、もともと「幸」の読み方ではなく、「し（仕）」「あわす（合わす）」、つまり「仕合わせ」からきた言葉です。<br />
　仕合わせとは、「仕」「合わす」ですから、出合いとかめぐり合いといったニュアンスをもっていて、事の成り行きがうまくいくという意味合いでつかわれるのです。つまり、原因はよくわからずとも、なにか事柄がうまく組み合わさって、よいかたちで事がはこぶことが「仕合わせ」です。仕合わせよし、仕合わせ悪し、といった用法もある。<br />
　なお、松尾芭蕉の『奥の細道』に、「この道必ず不用（不都合）のことあり、恙のう送り参らせて仕合わせしたり」という文があるのはご存知かと思います。</p>

<p>　英語のhappyという単語にも似たような意味合いがあります。happyのhapには、そもそも運とか運命という語義がある。ドイツ語のgluckも同様で、幸運とか幸福を指す言葉には、洋の東西を問わず似たような意味が含まれています。このような言葉で私たちが思い浮かべることには、ひじょうに重なる部分が多く、万国共通に通じ合うものがあるということですね。</p>

<p>　もう少しヨーロッパ人のものの考え方の骨格をつくってきたギリシャ語、ラテン語の世界をのぞいてみましょう。<br />
　ラテン語には幸福を指す言葉のひとつにベアティチュド（beatitudo）というのがあります。これには、祝福されたとか恵まれたという意味合いがあります。誰かから祝福を受けることが幸福の大きな要素なんですね。<br />
　ギリシャ語でいえば、幸福を表す言葉にふたつあります。エウダイモーニア（eudaimonia）とマカリオン（makarion）。さきほど少し触れたマタイ伝の「心の貧しき者に幸いなれ」とか「義に飢え渇く者よ幸いなれ」とかの「幸い」というのは、マカリオンです。</p>

<p>　マカリオンの意味は、喜びが満ちあふれる「幸せいっぱい」というイメージに近い状態の幸福です。マカリオンのマ（ma）は接頭語で、カリオン（karion）はカリウス（xarius）からきた言葉でしょう。カリウスは快楽の「快」、要するに心の奥底から湧き出るような喜びを指していて、アリストテレスも『ニコマコス倫理学』のある部分で、それが幸福のひとつの現れであると言っています。</p>

<p>　ではエウダイモーニアとはどんな幸福の様態を指しているのか。ギリシャの人々は自分たちにとっていちばんの幸福を指すときにエウダイモーニアという言葉をつかうのですが、この言葉はきょうのこの幸福論のキーワードのひとつでもあります。<br />
　エウダイモーニアのエウ（eu）とは英語でいうウェル（well）、つまり「よい（良い、善い）」という意味です。ダイモーニアはダイモーン（daimon）、すなわち神霊ですね。要するにエウダイモーニアには、「神霊のよき導き」という意味合いがあるのです。<br />
　ダイモーン（神霊）とは何かとなるとひじょうにむずかしい話になるのだけど、このさいは取りあえず、万物の背後にあり万物を動かしている目にみえない力とでもとらえておいてください。そういう力によく導かれた状態が真の幸福なんだということを言っているわけです。</p>

<div class="sub2">—　幸福のふたつの相　—</div>

<p>　きわめて長い時間、数千年といっていいと思いますけど、人類の長い暮らしのなかで、幸福とかhappyという言葉で呼ぶようになった人間が追いもとめるある状態は、大きくいってふたとおりの見方ができるのではないでしょうか。</p>

<p>　ひとつは、幸福とは自分の力を超えた何か神的なものと触れ合うこと。<br />
　その神的なものというのは、ヨーロッパや日本、あるいは中国といった国や民族を超え、また、固有の宗教を超えた、人間の力がおよばぬ力である、と。それが神的なものでして、たとえばこの場合、神（シン、カミ）とは中国最古の辞書『説文解字』にもあるように雷（カミナリ、神鳴り）の稲妻からきているという考え方があります。つまり、目には見えないけれど、あるとき、あるものを発動する超自然的な力。<br />
　それは日本語（和語）のカミという、万葉集とか古事記とかに出てくる言葉についての本居宣長の説も同様であって、人間個人の思惑や力を超えた不思議なパワーのことをカミ（神）という言葉で表していたのでしょう。<br />
　そういう点では、古代ギリシャのダイモーンにも通じるところがある。自己という人間個人を超えた何か神的なものの導きと関連している事柄であることが、幸福という言葉のなかに大きな要素として含まれているのです。</p>

<p>　もうひとつは、説明するまでもなく、その神的なものの導きとは別に、人間の生活のなかでなんらかの快適で喜びにあふれるような状態を、長い人類の歴史をとおして「幸福」として呼んできたといえるでしょう。<br />
　しかし、このふたつの面だけが幸福のすべてなのだろうか。もちろん、ともに欠くことのできない幸福の要素だけど、どうもこれだけでは幸福の全体像というか、真の姿を取り逃がしてしまうのではないかと、いまの社会とアリストテレスの考え方を両目で同時に見ながら最近よく考えるんです。</p>

<p>　わかりやすくいうと、たとえば日本国憲法13条の基本的人権の項目。これによると誰でもその個人の生命の安全と、自由、幸福を追求する権利があり、保証されていると記されている。つまり、幸福は個人の欲求に基づいて追求できる事柄であるということが、はっきりと述べられているんですね。このことからもいえるように、ことに近代以降は、幸福は個人である自分の力によって獲得できるものとする考え方が共通の理解として大勢をしめている。<br />
　それはそれで私としても異存はありませんが、しかし肝心な問題は、ではそのように考えられている幸福を私たちはどうやったらものにすることができるのかということですよね。方法論の問題だけではありません。何が真の幸福なのか、そしてそれをどうやってつかむのか、おそらくその両方が“同時に”必要なのです。アリストテレスに則して考えてみましょう。</p>

<p>　アリストテレスはいろいろなところで幸福について書いていますが、いちばん力をいれて述べていると思われるのは『ニコマコス倫理学』という倫理に関する本です。日本語訳の問題もあって、簡単にさっと読めるような代物でないのが悩ましいところですが、できるだけ多くに人に読んでもらいたい、たいへんすばらしい論究がなされている書物です。私自身、あと20年くらいのうちには、なんとか読みやすいものにしたいと思っているもののひとつです。一見してイメージがとらえにくい消化しづらい文ですが、私が試みに訳したところを読んでみましょう。第1巻第9章からです。ちょっと長いですが、まず、全文を。</p>

<p>　「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福（エウダイモーニア）こそ神与のもの（テオスドートン）とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間の持つあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。しかし、こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう。しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性（アレテー＝徳）とかなんらかの学習（マセーシス）や訓練（アスケーシス）によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる。まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福（マカリオン）のものであると思われる。<br />
　さて、幸福は、広く人々に共通に行き渡るものである。事実、卓越性にたいして不具合ではない全ての人は、何らかの学習と心遣いによって幸福を獲得することができるであろう。またこのような仕方で幸福であるのは、運（テュケー）によって幸福であるのにまさるものだとするならば、やはりそのような仕方で人は幸福になりうるものであるとするのが至当であろう。というのは、自然に即してある物は、可能なかぎり美しくあるものとして、そのような本性をもっており、技芸に基づくものも、その他いかなる因に基づくものも、これと同様なものである以上、最善の因によるものはいっそう美しいものであろうからである。もっとも重大でもっとも美しいものを運に委ねることはあまりにも不当であろう。<br />
　　この問題にたいしては、われわれの議論からも明白になるだろう。すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動（エネルゲイア）である。」《1099b11-27》</p>

<div class="sub2">—　運と卓越性　—</div>

<p>　もう一度、今度はいくつか文節を区切って読んでみます。</p>

<p>　「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福（エウダイモーニア）こそ神与のもの（テオスドートン）とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間のもつあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。しかし、こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう」</p>

<p>　アリストテレスにおいても、幸福というものは人間ひとりの力によって獲得できるものではない、といっているのですね。だけど、幸福が人間のもつもののなかで最善のものだ、と。<br />
　しかし、人間に最高の贈り物を与えるのがなぜ神なのか。「こうした問題は、おもうに別の考察の機会に譲るほうが似つかわしいであろう」。別の考察の機会というのは、アリストテレスが書いた超難解な『形而上学』という書を指していると思われます。</p>

<p>　「しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性（アレテー＝徳）とか、なんらかの学習（マセーシス）や訓練（アスケーシス）によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる」</p>

<p>　これは少し難しいですね。たとえ幸福が神様によって与えられるものではなくて、卓越性とか徳と訳されることが多い人間がもっているアレテーとか、あるいは学習したり訓練して自分自身で一生懸命に努力して幸福が獲得できたとしても、それは神的なものに属するとされている。ここでまた、神的とはどういうことかという問題がでてくる。矛盾したような言い方だから、下手な洒落だけど、「アレー？」って誰もが思いますよね（笑）。<br />
　自分自身が個人である人間としての努力のすえに獲得するのであれば、それは人間的なものであって神的なものにはならないんじゃないか、と。ところが、それはもっとも神的なものに属すると彼はいっている。ここではその理由を述べていないけど、はっきりと言い切っています。つづけましょう。　</p>

<p>　「まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福（マカリオン）のものであると思われる」</p>

<p>　人間が必死になって身につけた卓越性（徳）の力によって得たものは、自分自身の努力によって得たものだから人間のものであるということを否定しているわけではない。人間的なものであるという“だけでなく”、神的なものでもあるといっているのです。だからこそそれはマカリオン、すなわち至福のものである、ということになる。</p>

<p>　「さて、幸福は、広く人々に共通に行き渡るものである。事実、卓越性にたいして不具合ではない全ての人は、何らかの学習と心遣いによって幸福を獲得することができるであろう」</p>

<p>　幸福は万人が追求しているものです。じっさい、努力の結果、自分が幸福であると感じている人も多くいるでしょう。「卓越性にたいして不具合ではない」というのは、ちょっと固い言い方で申し訳ないけど、要するに、どんな人間であっても、どこかに秀でた面をもち、なにか優れた力をもっているはずです。だから、人間であれば誰でも自分の力を発揮できさえすれば、なにかしらの幸福感を得ることができるのは確かです。先にも述べてある学習とか訓練、あるいは心遣いによって、幸福を獲得することができるわけです。学習とは自分が身につけた能力と広くとらえていいし、心遣いというのは、あとでもう少し説明しますが、人々を愛するときに感じる歓びです。そういう心のはたらきによっても幸福を得ることができる。</p>

<p>　「またこのような仕方で幸福であるのは、運（テュケー）によって幸福であるのにまさるものだとするならば、やはりそのような仕方で人は幸福になりうるものであるとするのが至当であろう」</p>

<p>　ちょっと持って回った言い方ですが、肝心要なことをいっている。つまり運にまかせた幸福より、自分の懸命な努力とか、あるいは他者にたいする心遣いによって得た幸福のほうがまさっている。それこそが真の幸福だと述べているのです。</p>

<p>　「というのは、自然に即してある物は、可能なかぎり美しくあるものとして、そのような本性をもっており、技芸に基づくものも、その他いかなる因に基づくものも、これと同様なものである以上、最善の因によるものはいっそう美しいものであろうからである。もっとも重大でもっとも美しいものを運に委ねることはあまりにも不当であろう」</p>

<p>　これはなかなかにわかりにくい言い方ですが、アリストテレスの考えている世界は万物が運動している。運動をもたらすものは自然の力です。自然力によって万物は運動し、自然力によって運動している万物はそれ自体で美しいと彼はいっているわけです。<br />
　で、それ自体で自然は美しいのだけど、人間は技芸----技芸というのはテクニック（技術）ととらえてもいいのですが、自然にたいして技術をもってはたらきかけ、いろいろなものをつくる存在です。しかもそれによって美しいものをつくろうとする。自然によって創造されるものでも、人間の技によってつくられるものでも、最善の原因によって生じるものは一層のこと美しいとアリストテレスは言うのです。<br />
　最善の原因によってつくられる「美」は幸福にむすびついてくるのですが、それは運、すなわち偶然だけに頼っていては取り逃がしてしまうことになるだろうと訴えている。そんなことでは「もったいない！」と言いたいのかどうか、わかりませんが（笑）。</p>

<p>　アリストテレスは幸福と幸運とは異なるものであり、人間の内発的な卓越性（アレテー）、つまり徳というものは単なる偶然の運よりも一層すぐれたものだと考えている。徳によってつくりだされる幸福は、運によってもたらされる幸福よりもよりすぐれた幸福であると主張しているのです。<br />
　そして次の一言で結ばれる。</p>

<p>　「この問題にたいしては、われわれの議論からも明白になるだろう。すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動（エネルゲイア）である」</p>

<p>　この2行はアリストテレスの幸福論のなかでも、もっともよく知られた命題です。<br />
　これまでの読解である程度理解されてきたと思いますが、端的にいいますと、人間は卓越性＝徳によってのみ幸福になることができる、と結論づけているのです。そして幸福とは、魂の一種の活動状態のことである、と。<br />
　この最後の言葉は「神与」ということにも関わる、これまたひじょうに難しい事柄なので、あとでまた関連したお話をします。</p>

<p>　以上のように、幸福とは徳を磨くことによってはじめて手にすることができるものだということ。だから欧米の知識層のなかでは、このアレテーをいかにして磨いていくかということが、いつも議論の底流を流れている。はじめに言ったように、アリストテレスをちゃんと読んでいるからですね（苦笑）。</p>

<p>　もちろん中国や日本においても、徳というのは人間性を形成するうえで昔から重要な言葉としてつかわれてきました。しかし、このアレテーは儒教的な意味でいわれる徳よりも、もっと広い概念としてあります。たとえば儒教的な徳は、親切心とか義の行い、惻隠の情とかを示す道義的な面を強くもっているものですが、ヨーロッパにおけるアレテーでなにがいちばん重要かというと、知性つまり知的な徳なのです。アレテーを磨くということは、知的な徳を磨くということ。たくさん勉強して知性を身につけることが人間を幸福にするんだという方向にヨーロッパの人々の思考は向かっていくわけです。<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/08/33.html">（[3-3]につづく）</a></p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/08/32.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">戦略的思考を超えて3</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 05 Aug 2008 16:27:04 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>戦略的思考を超えて［3-3］</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<br /><span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">—　知性的な力量と実践的な力量　—</div>

<p>　幸福と幸運は異なると先ほど申し上げましたが、しかしもちろん、運も幸福の一要素であることを無視はできません。結局、どんなに奮闘努力した結果得た幸福でも、たいていは運がそこにはたらいている。アリストテレスは幸運といったものを度外視しているわけではない。<br />
　たとえば幸運のなかには、夫婦関係やお金や仕事に関して運に恵まれるかどうかということが大きな要素としてある。<br />
　アリストテレスはなかでもよき夫、よき妻に恵まれることが人生で最高の幸運だといっているのですが、お金だって一生懸命働いただけではなかなか儲からない。タイミングをうまくつかむとか、人との出会いとかのさまざまな偶然のはたらきがあってお金も儲かったり儲からなかったりする。仕事がうまくいくか、事業が成功するかといったことだって同様ですよね。<br />
　子どもだって、優れた親から優れた子が生まれるとは限らない。その逆もあるわけです。それから男でも女でも美貌に恵まれることはかなり運ですし、会社の上司にとっては優秀な部下に恵まれるかどうかも運に左右される。友人や恋人もそうでしょう。</p>

<p>　アリストテレスにしても東洋思想にしても、やっぱりそれは人間の力を超えたなんらかの神的なもののはたらきによると考えているのであって、ある意味で幸運はその恵みであり贈与であるととらえておいた方がよい。</p>

<p>　私自身が専門にしている政治学にしても、あるいは経済学にしても完全には人の思うようには社会は動かないということを、いつも目の前につきつけられているんです。そのことは冷厳に見つめておく必要がある。経済学にしても、限られた部分的なことをピックアップして、その因果関係をアーキテクチャーとして数学的に分析はできても、全体的長期的な予測ということではほとんど説明できた験しがないわけです。政治に関しては、みなさんよくおわかりのように、「一寸先は闇」の世界です。そういう意味では、政治も経済も運というものに大いに左右されてくる。</p>

<p>　しかし、ここが肝心ですが、先ほどからお話しているように、幸福は幸運だけでは得ることができないというのも事実でしょう。運に恵まれるだけでは、人間はけっして満ち足りることはない。運には幸運もあれば、当然不運もある。そんな運に翻弄されながらも、自分の力で幸福を獲得したいという欲求が万人のなかに必ずみられる。<br />
　ですから逆にいえば、どんな逆境にあってもその逆境に折り合いをつけ、そこに幸せを見いだしていくように私たち人間の誰もが努力することも事実なのです。そういう意味で、幸福は幸運に還元できないというふうにアリストテレスはいっているのです。</p>

<p>　そうすると、では幸福とは、詰まるところいったいなにかということになりますが、彼は幸福とは、われわれのなかのもっともよい事柄を追求することにあるとしているのです。聞き慣れない言い方で「最高善」といいますけど、もっとも善いものを私たちが追求しようとするときに幸福は訪れるだろう、多くの人々もそういうふうに考えるだろうといっているんですね。運も努力のうちだ、という言葉を思い出してもらってもいいでしょう。</p>

<p>　だから問題は、では最高に善きものとはなにかということになる。もっとも善いもの、卓越的なものとはなにかということが、『ニコマコス倫理学』の最重要テーマになってくるのです。<br />
　これまでにも他の場で少しお話しましたが、アリストテレスはそれをふたつに分けて、知性的な力量と実践的な力量というふうにいっている。それらを獲得し発揮したときに、ほんとうの歓びすなわち幸福が訪れるだろうと彼は考えている。</p>

<p>　ひとつは知的な力量による、知ることの歓び。なんの役に立つのかという以前の、純粋に知ることの歓び。科学などの発明・発見などでも、真に優れた研究者はそういう純粋な動機から大きな成果をあげる場合が多い。宗教的な面で、悟りを得ることとか神を見る体験とかも、そういう知性による幸せにほかならないでしょう。<br />
　それからたとえば美術や音楽。美的なものを見たり聴いたりしたときの歓び。それも美にたいする卓越した知性のはたらきとして幸福の範疇に入ってくるだろう。</p>

<p>　実践的な力量は自分と自分の隣人、隣近所というだけでなく、たとえば夫や妻、子どもなどを含めた家庭でもそうですが、自分と“他者”によい事柄をもたらすための力量。これもまた幸福とは切れない関係がある。大勢の人たちに喜びをもたらすという場合、企業でいえば経営者の実践的力量が問われることになるのです。</p>

<p>　さらに自分の国や世界全体に、幸せをもたらすといったかたちで実践的力量を発揮しなければならないのが政治家です。いうまでもなく、知的、実践的力量は互いに関連しあっているものなのですが、わかりやすくいうとこういうことになるでしょう。要は、卓越的力量（アレテー）とは知的、実践的力量を指しており、これらを発揮したときに得られる喜び（歓び）が幸福であるという考え方は、多くの人が納得し共有できる考え方だろうということです。</p>

<div class="sub2">—　愛こそが幸福の最高の条件　—</div>

<p>　ここで、アリ研のこれまでの講義に参加していない人のために少し補足しておきますと、アリストテレスは実践的力量をもう少し細かく分けておりまして、そこにはいわゆる戦略的な思考や行動も含まれてきます。これまで「戦略的思考を超えて」ということでお話をしてきましたが、「反戦略」でない以上、そこに戦略的な思考をいっさい認めないということではないのです。</p>

<p>　これはわかりやすい例を出しますと、公認会計士などをはじめとするような、経理的、会計的な功利性、合理性の世界です。つまり、目的・手段を功利的に選択していくという戦略的な思考がないと、家庭も企業も政治もうまくいかない。世俗的な成功もその可能性が保証されないということになります。目的・手段の効率的な選択には当然、数字をふまえたうえでの的確な判断力が必要なわけで、そこではIQ（知能）を重視した思考が評価されるのです。</p>

<p>　ただ、この戦略的思考だけを極限的に追求していくとどうなるかということを考えてみていただきたい。結局それは目的にたいして、より功利的な手段を選択することばかりに思考が集中することになる。手段の合理的選択が目的に先行してしまう。そして、自分だけの、あるいは自社だけの、自分の家族だけの、自分の階層だけの利益になればよい、そのために成功すればよいということに帰着していくことになるでしょう。</p>

<p>　そうなると当然、当人以外の人や集団から、その成功は共有しえないから許しがたいという評価を下されるはめに陥る。利益を自分の会社だけにはいってくるようにして、その周りの外注先や諸々の関係者などが死にたえることになったら、それはやはり何のための企業かという大義や理念が問われることになる。また家族においても、自分だけが計算づくで楽しくいい思いをしても、妻や子どもたちとその思いを共有できなければ、真の楽しさを味わうことはできない。どこか充足しきれない空しさが心の底に残るでしょう。身近なことでいいましたが、そういう意味で戦略的な思考は“それだけでは”一時の幸福感に空しさがつきまとい、周りにも虚無的な気持ちを引き起こすであろうことは、やはりしっかりと自覚しておく必要があります。世の中、戦略ばかりになったら、こんな息苦しいことはありません。</p>

<p>　では戦略的思考を超えるものはなにかという本題に戻りますが、それはアレテー、卓越的力量とか徳と呼んでいるものの発揮と強く関わってくる。端的にいって、アレテーとは自分と他者との善、この場合利益といってもいいと思いますが、そのバランスをとることです。パブリック・グッズという言葉がありますが、このグッズ（goods）が善＝財の両方の意味をもっていることを想起するとわかりやすいかもしれません。また、バランスは「正義」における比例的配分と言い換えてもいいかもしれないけど、要は正義というのは、自分と他者との善＝利益のバランスをとるというかたちでしか発揮できないことなのです。</p>

<p>　自社と他社の繁栄のバランスを保つ。夫と妻の愛情のバランスを配慮する。さらにいえば日本と世界との経済のバランスをとるといったような、そういう思考と行動が正義ということです。このバランスは同一ということではないし、必ずしも「私有」を否定しているのでないことは、前にお話したとおりですが。</p>

<p>　そこで、正義には知慮の徳が求められる。現実に則していえば、正義は当面する自分と他者との利益のバランスです。それはあくまで「当面する」バランスであって、人間社会は時の経過にともなって大きく動き、変化しているわけです。ですから過去を調べ反省し、未来を透かし見て現在の正義の行使をしていかなければならない。<br />
　「全体」をぼんやりとでもいいから掴みとる予見能力。予知能力といってもいい、けっして数字からだけではわからないような直観的な能力が求められてくる。過去の人類が蓄積してきた経験と智恵の遺産を現在の目でとらえ直し、未来に役立てるというかたちで発揮される善＝バランスが知慮の徳であるといっていい。</p>

<p>　たとえば、ある人の顏を見ることによって、その人が経験してきた過去のさまざまな事柄、苦労や歓びなどを推察する能力。よく顏の表情やシワを読み取るというようなことがいわれますが、そういう過去への賢察力、あるいは過去に基づいた未来への洞察力が知慮のなかに含まれている。</p>

<p>　また、たとえば身体に障害をもつ人々への配慮といったこと。つまり自分と他者との利益のバランスをとることにおいて、うまく公平に力を発揮しえなかったり、発言の場が少ない人たちとの関係をどのように築くかといった問題。正義というのは多くの場合、相手と自分が互いに競争あるいは闘争することを通じて実現されていく。議論したり論争したりしながら、正義というものが築かれていく。<br />
　ところが問題なのは、発言する力のない人や、その場をあたえられることのない人、あるいは発言することが本来的にできない自然（環境）やそこに生きるものたちが、結果を省みない粗暴な力の行使によって被害をこうむることがないようにバランスをとろうとする知恵、それが知慮の徳でもあるのです。</p>

<p>　ですから知慮というのは、そういう正義のあり方を常に問いかける知性の能力です。それを人間はちゃんと習得していく必要がある。そのことによって、幸福は自分の力によって追求できるものとなりうる。</p>

<p>　ただし、アリストテレスの場合、それだけで徳の習得は終わらない。私たちが正義を追求するときに、またそのための知慮を発揮するときに、さらにうんと深いところで、信義、信頼、希望、愛といった幸福にとって根源的な能力が要求されると彼はいっている。<br />
　正義のバランスをとろうとしたときに、自分を信頼もしない、それどころか敵対意識をむき出しにするような人に対しては、利益のバランスだってとる気にはならないわけですよ。あるいは男女の関係だって、男か女のどちらか一方のみの愛情や行動が突出していて偏っていたら、そこにバランスのとれた正義というものはない。</p>

<p>　ということは、正義とか知慮といったものが発揮されるための前提として、お互いに愛し愛されるという関係がないと、そもそもからして正義や知慮を追求しようという意欲さえ湧いてこない。そういう意味で、人間の徳すなわちアレテーを発揮させる究極的な力は、やはり愛の力だとアリストテレスは訴えているのです。<br />
　しかもその愛には、大雑把にいうと、愛の二面性、いうなれば横の愛と縦の愛がある。つまり自分自身を愛する愛と他者を愛する愛。そして平等な関係の愛と親子や師弟関係などの“上下”の愛。愛というもののなかにも多様な愛のかたちがあるのだけど、重要なのは、愛するという徳にはひじょうに特徴的なことがら、すなわち喜びを引き出す力があるとアリストテレスはいっているわけです。</p>

<p>　今回私は、幸福というのは無上の喜びをともなう精神の状態であるということを強調していますが、愛のアレテー＝徳というものこそ幸福の最高の条件であるということを強くいっておきたいのです。つまり喜びは愛を語るさいに欠かせぬものだとか、あるいは愛を補完するものだとかいわれますが、アリストテレスによれば愛という徳こそが、人間の力によって獲得できる幸福のなかで最高のものだといえるのです。愛も知性の一種だとすると、それが人間の知の卓越的な力によって獲得が可能な幸福なのです。</p>

<p>　いわゆる運命、運の偶然のはたらきや転変に耐える知慮の力といってもいい。すなわち、（1）合理的理性を含んだ知性と理性の結合である知慮、そして（2）その知慮と結合した宜の徳、愛と正義のアレテーの発揮のなかに幸福があるということ。このことを肝に命じておいてください。</p>

<p>　ここまでのところは、多くの研究者のうちでもだいたい一致したアリストテレス理解だと思います。ただ、この2つのことだけで幸福になるための条件がすべて満たされることになるのでしょうか。私がみなさんに私の理解としてぜひとも述べておきたいのは、幸福にとって3番目の問題です。それは最前からでてきている「神与」ということに関連する事柄です。<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/08/34.html">（[3-4]につづく）</a></p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/08/33.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">戦略的思考を超えて3</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 05 Aug 2008 15:28:44 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>戦略的思考を超えて［3-4］</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">再び結び合うものとしての「幸福（エウダイモーニア）」<br /><span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">—　利害や打算を超えた「熱狂」　—</div>

<p>　知慮によって獲得される幸福、そして愛の力によって行き渡る幸福。しかしそれだけではなくて、幸福にはもうひとつ別の視点から見ることのできる幸福がある。神的なものに出会うことによってもたらされる幸福がそれです。<br />
　先の引用文をもう一度見てみましょう。</p>

<p>　「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福（エウダイモーニア）こそ神与のもの（テオスドートン）とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間の持つあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。<br />
　……<br />
　しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性（アレテー＝徳）とかなんらかの学習（マセーシス）や訓練（アスケーシス）によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる。まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福（マカリオン）のものであると思われる。<br />
　……<br />
　すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動（エネルゲイア）である」</p>

<p>　この「神的なものに属する幸福」というものをどう考えればよいか、正直いって私にも長い間よくわからなかった。ところがあるとき、『政治学』の最後の第8巻でアリストテレスがひじょうに重要なことをいっていることに気づいたのです。そこにエンシュージャスムス（enthusiasmus）という言葉（ギリシャ語）が出てくる。英語でエンスージアスム（enthusiasm）。日本でも一種の俗語として「エンスー」なんて言い方で使うこともある。</p>

<p>　8巻の内容にはここでは立ち入りませんが、要するにこのエンシュージャスムスという言葉がそこに出てきて、はっと思ったのです。<br />
　これは日本語では「熱狂」と訳される。「狂」という文字が含まれているから、そのイメージに引っぱられてなかなか本当の意味が伝わりにくいのですが、この言葉は「狂」ではなくじつは「神」を指しているんです。エンは英語でいうイン（in）、エンシュージャスムスはもともとエンテオスからきた言葉で、テオスというのは神ですから、エンシュージャスムスは「神の中にいる（in the god）」状態を示しているわけです。</p>

<p>　つまり、運によってある状況があたえられ、そのなかで一生懸命努力して正義や知慮や愛を追求したとしましょう。そのときに人間に訪れる状態がエンシュージャスムスだとアリストテレスは述べている。いうなれば忘我入神。「神的なものに属する幸福」とは、そんな状態にあるときの幸福のことなのではないでしょうか。幸福の最中にいるとき、人間は我を忘れている。我を忘れる、自己を超える、神の中に入る、それらは少なくとも、幸福な状態としては同じ状態であると思います。</p>

<p>　アメリカのいわゆるエリート教育制度のなかに、世界のリーダーを育てるための中高一貫のボーディング・スクールというのがあります。この学校の入学試験は、もちろん書類審査もあるけど、興味深いことに面接試験をしっかりとやるんです。その面接で、あなたが熱狂できるものはなんですかときかれる。あなたはなににエンスーできますか、ということを質問されるんですね。<br />
　要するに、利害や打算を度外視して、自分がなにかに熱狂できる能力があるかどうかをきいてくるわけです。語学にしても数学や科学にしても、あるいはスポーツにしてもなんでもいい。そのことを通じて純粋に知る喜びとか、あるいは他人に奉仕する喜びとかを得ることができますかと問いかけてくるのです。<br />
　<br />
　エンシュージャスムスを「熱狂」といってしまうと、じゃっかん意味がずれてしまいますが、まあ、人間生活のある局面で、利害関係や打算的思惑をスルーして自分が没頭できる対象をもっているのかどうかということです。その質問の発案者がどこまで考えていたかわかりませんが、そのような対象があり、「戦略」を超えておのれの能力・技量を発揮できる人こそが幸福を獲得できるのではないかという発想がここにはあります。</p>

<div class="sub2">—　再び結び合わせるもの　—</div>

<p>　ボーディングスクールの話は単にひとつの例にすぎません。しかし、ヨーロッパ世界の言語の系譜を考えたときに、エンシュージャスムスという言葉から「幸福」にアプローチする方法があることに、アリストテレスを読んでいて私は気づいたわけです。エンシュージャスムスとは日本語でいうと「熱狂」よりは、「忘我入神」という言葉に近く、それが幸福のあり方（ヘクシス）を解き明かす、ひとつのキーワードではないかということです。</p>

<p>　だけどまた、そのことに気づくと同時に、そこから別の重要な問題が私たちの前に立ちあらわれてくる。忘我入神というと、ある意味で「外」がなくなるわけだから、ひとつの状態に囚われていることになる。忘我、すなわち無我夢中になるということは、やはり熱狂の「狂」の面も無視できなくなるわけです。</p>

<p>　狂というのはマニア、マニアックという意味のマニアです。<br />
　たとえば端的に身近な例でいえば、オウム真理教にはいった青年たちは、忘我入神（入信）の生活をおくる。自分たちは救われると思い、「狂」的に教祖を信じて自分たちだけの“閉じた”世界に生きるわけで、精神状態としてはマニアとエンシュージャスムスがひじょうに接近した状態にあるわけです。最高の幸福と最低の不幸が、表裏一体になった問題としてそこに浮上してくる。<br />
　はじめに、幸福というのは宗教、あるいは信仰と大いに関わってくるといったのは、そういう幸福のあり方をちゃんと視界にいれておかねばならないと思うからです。この幸福と不幸の境界線に、宗教あるいは宗教性の問題が一気に吹き出してくる。</p>

<p>　じつはいま私たちが論じている宗教という言葉は、オウム真理教の名をあげはしましたが、仏教とかキリスト教などの特定の宗派や教団を指す意味でつかっているのではありません。もっと一般的な次元での宗教、英語のレリジョン（religion）として理解してください。<br />
　religionのreとは「再び」「アゲイン」という意味なのはおわかりと思いますが、ligionはラテン語の「リゴー」からきた言葉で、結び合わせるという意味です。だれがreligionを「宗教」としたのか知りませんが、むしろ先にお話した「仕合わす（しあわせ）」という言葉に religionは近い感じもします。</p>

<p>　それはさておき、語義として、分かたれていたものを再び結び合わせるものがreligion（宗教）です。わかりやすくいえば、人は死ぬと死者になり、生者から分離される。しかし亡くなった人を愛していた者は、再び相まみえることを願います。死者と生者が結ばれ合うことを望む気持ちが、宗教心の根幹にはあるのではないでしょうか。それはまさに幸福の問題でもあります。</p>

<p>　いや、それこそが、幸福とはなにかの最大のポイントだと思います。生者と死者だけではない、人と人、人と自然、そして人と神的なものが結ばれ合うことこそが、幸福にほかならないのです。エンシュージャスム、忘我入神、我を忘れるという「魂のある種の活動」は、分離された自分が再びなにかと結び合う、もしくは結び付ける活動であるといっていいのではないでしょうか。融合するといってもよいかもしれない。それが幸福というものなのです。</p>

<div class="sub2">—　つながり合う正義、知慮、そして愛　—</div>

<p>　どうやら、やっとひとつの結論にたどりつきましたが、これで終わらないのが人生というもの（笑）。<br />
　では、どうやったらその「魂のある種の活動」を行うことができるのか。忘我入神というけれど、「狂」に陥らないための、“正しい”忘我入神の方法をどのようにして見出し、身につけるのかといった困難でやっかいな問題が残ります。それはヨーロッパや東洋の長い知的伝統のなかでも議論されつづけている「見神」の問題、あるいは「狂信」と正しく信じる「正信」という、ふたつの「信」がぶつかるむずかしい問題です。<br />
　さらに、そこにまたアレテーの問題も循環してくる。</p>

<p>　これまで洋の東西を問わず、数々の「幸福論」が出版されていますが、有名なものではたとえばカール・ヒルティの『幸福論』があります。あれなんかを見ても、究極的な幸福とは神を見ることだという結論になりますよね。仏教にも「見神」ならぬ「観仏」という言葉がある。</p>

<p>　しかし、そういう教えだけでは、私たちの人生における、日常のひじょうに細々とした「選択」になかなか結びついてこない。先にもいいましたように、私たちの生活は、日々「あれかこれか」といった細かな選択の積み重ねによって営まれている。だから、思考と行動をよいかたちで結び付ける技量、アレテーという徳を身につけることが、幸福にとって欠かせぬものとして問われてくるのです。しかも、くりかえしますが、目先の戦略的思考だけではダメ。戦略的思考を超えた知慮と、それにつながるアレテーがないところに真の幸福もない。</p>

<p>　話は戻りますが、みなさんは『天国と地獄』を見たことありますか。あるいは本は？　私は友人から原作本の『キングの身代金（原題：King's Ransom）』を借りて、それも読みましたけど、あれは『王の贈り物』と題名を訳したほうがいいんじゃないかな〜。著者のエド・マクベインがどういう思いで書いたのかくわしいことはわかりませんが、原題にあるransomという単語には身代金とか賠償のほかに、辞書で確かめたのですが、贖罪とか神からの贈り物という意味もふくまれているんです。</p>

<p>　それからキングというのにも私はひっかかっていまして、king of kings、要するに神を「王」と呼ぶ知的な伝統がヨーロッパにはある。つまりマクベインの真意は別にしても、人間が本当の幸福をつかむには、神もしくは神的なものからの贈与が不可欠なのではないか。そういう問いかけをこの作品から読み解くことができると思うんです。<br />
　黒澤明やTVドラマの製作者たちがどれだけ意識しているかはこれまたわかりませんが、“現実の”会社経営者である社長として、企業を、社員をあずかり、そして子どもをさずかって育てている親として、極限的な状況に追い込まれ選択を迫られたときにしめすひとつの判断が、登場人物たちそれぞれに幸福をもたらすかどうかの分かれ目になる。</p>

<p>　マクベインの原作では札束の代わりに新聞紙をバッグにつめるのだけど、ＴＶや映画ではちゃんと本物のお札をいれて犯人の要求を受け入れようとする。社長にとっては経済的な破滅につながる。しかし、その破滅をひとつの運命として覚悟したとき、社長に「夫婦の愛」が再来する。これはTV版の方で強調して描かれるのですが、黒澤映画では犯罪者側の呵責や恐怖がクローズアップされる。<br />
　それぞれ強調するポイントが少しずつちがうのですが、共通していえるのは幸福とそのための選択、そしてその「報酬」といったことが主要なテーマになっていて、じつにいろいろなことを考えさせられました。多かれ少なかれ、誰もが日々、当人にとってはそれこそ天国か地獄かといった選択を実践的に迫られているわけですからね。</p>

<p>　そこには大きな迷いと悩みがともないます。「人生いかに生きるべきか」という哲学的問いだって否応なしに生じるでしょう。幸福、そして幸福の追求という問題を、正義と知慮と愛がつながり合ったものとして、また神的なものとの関係、あるいは自然からの贈与の問題として考え、行動していかなければならない。その過程抜きに幸福はないし、戦略的思考を超えたプロセスを経てこそ、迷いや悩みも「力」となり、幸福がその真の姿を垣間見せてくれるともいえるのです。</p>

<p>　ということで、これで「正義論」「知慮論」、今回の「幸福論」と3回にわたった私のお話の、ひとまずの結びといたします。（おわり）</p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/08/34.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">戦略的思考を超えて3</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 05 Aug 2008 13:32:06 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>戦略的思考を超えて［2-1］</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">……そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="a004_01.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/04/16/a004_01.jpg" width="460" height="345" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 0px;" /></span>

<div class="sub2">—　力の正義、正義の力　—</div>
　前回のおさらいからはじめましょう。前回の「<a href="http://www.cafe-nous.com/a-ken/cat16/">戦略的思考を超えて（1）</a>」では、アリストテレスの正義論をめぐっていろいろお話しましたが、要は、いまの日本の社会においていちばんの問題は、正義とは何かがきちんと定義されていないということでした。じっさい、現在の社会全体を見ると、正義とは力であると一義的にとらえられる傾向が強い。勝てば官軍であって、官軍というのはいうなれば法律を独占できるのですから、勝った方が正義であるとなってしまうわけです。

<p>　この、力がすなわち正義である、勝者の方に正義はあるという考え方は、それこそ人類の歴史はじまって以来からの古い考え方としてあります。ところが、その正義のとらえ方もわからないではないけど、どうもそれだけでは困るという感覚を多くの人々が抱いてきたわけです。プラトンも『国家』のなかで、批判の対象として「力＝正義」という考え方を取り上げています。</p>

<p>　正義を大上段に振りかざす人間がいたら、まず、その人を疑えということがよくいわれます。そういいたくなるのも、よくわかります。その場合の正義というのは、大方は、力のうえに成り立つ、権力と結びついた強引な正義だからです。現実にそのような力の正義にだまされ、被害をこうむったという思いを抱いている人は多いでしょう。正義を語ることの困難さ、語りづらさもその点にあるのですが、しかし、だからといって、それで正義の問題を等閑視していいということにはならない。正義がそのように一面的なものとしてしか捉えられず、ちゃんと理解されていなことが、そもそもの憂慮すべき重大な問題なのです。</p>

<p>　では、どういうふうに正義を定義したらよいか。それもまた、これまでに延々と議論されてきたわけで、多様な考え方、アプローチの仕方があります。</p>

<p>　たとえば、とくにいまの日本の状況からいうと、法令を遵守することが正義だという考え方が根強い。法に従うことが正しいのだ、と。法令遵守が正しいことで、正義だということですね。</p>

<p>　しかし、法令や条例を遵守することだけが、ほんとうに正義なのか？　それだけでは、社会の実情に合わず、多くの人たちの気持ちにもそぐわない面が当然出てくるでしょう。法にしたがっていれば何をやってもいいのかという話にもなってくるわけで、これもまあ困るわけです。</p>

<p>　弱い者が生き残るために、相互に約束をしあって決めごとをする。それを正義としようというような議論もいままでにあったわけですよね。むちゃくちゃ理不尽なことをやる王様に対抗するために人民が「連合」し、「契約」して、自分たちにとって正しいことを行おうというのもそうです。</p>

<p>　いずれにしても、いままでお話したようなことは、正義とは何か、その核心部分の周辺をグルグルとまわっているだけの状態で、正義というものをどう規定したらよいのかがよく見えてこない。そこで、アリストテレスの遺した言葉、概念を基準にして、正義という「理念」の真の姿をつかまえてみたい、というのが前回のお話の趣意だったわけです。</p>

<p>　そのさいに述べたように、アリストテレスは自己と他者とで「善いこと」を比例的に配分することが正義であると、ひとつの定義をしました。この定義自体は、かなり具体的な事柄にあてはまります。たとえば、比例的正義のなかに、配分的正義、矯正的正義、交換的正義という三つの正義の考え方がある。アリ研メンバーのメールのなかにもちょっと出てきましたが、水戸黄門の例なんかにもあるように、悪い代官や悪い商人をとりあげると、たとえば悪い商人なら「正しい」価格で販売しないということだから、これは交換的正義に反している。それから代官が悪い商人と結託するという場合、良民にあたえるべき取り分を代官がくすねると配分的正義に反するということになる。あるいは代官がほんとうの犯人ではない人をつかまえてきて罰するのは、あきらかに矯正的正義に反するわけです。</p>

<p>　そういう感覚はだれでももっているものだから、テレビで「水戸黄門」なんかを見て黄門さんの裁きに共感したりできるわけです。</p>

<p>　それから古代ユダヤの王ソロモンの知恵というものが伝えられています。わかりやすい例でいうと、ここに二人の女性と一人の赤子がいるとしましょう。二人の女はその赤ん坊が自分の子どもであると主張して、取り合いになる。そこで赤ん坊を両方で引っぱり合うことになるのだけど、当然、強く引っぱった方の手に泣きわめいている赤ちゃんはいく。それで強引な方の女は自分の主張どおりになったと喜ぶのだけど、そこにソロモンが出てきて、真にわが子を思い、気遣うのが母親であるから、引っぱり合いに負けたもうひとりの女こそが赤子の母であると判定し裁くわけです。</p>

<p>　私たちはこのような話を聞くと、なるほどと納得するのですが、なんの価値観も判断基準もなければ、こういうことに共感もなにもできないはずです。要するに、力（腕力）ではない正義というものが存在し、それがどこかで別の力としてはたらいているというふうに、われわれ人間は心のある部分で感じとることができる。力の正義ではなく、正義の力といったものがあるのではないか、と。</p>

<p>　そういう意味でいうと、正義とは何かということを根本から考え直すには、直観的な理解ということが、まずは大事なことなのです。</p>

<div class="sub2">—　返報的正義と贈与　—</div>
　返報的正義についても前回の説明不足を少し補っておきます。

<p>　交換的正義といのはギブ・アント・テイクですよね。返報的正義も、たしかに交換ではあるのだけど、「ギブ」のほうが、つまり、あたえることのほうがもらうことより重要視される。しかしながら、相手はあたえられたことに対して、そのお返しをしなければならないというのが返報的正義の考え方。等価物を “同時に”交換するのでも、また、もらいっぱなしでもない、人類学における「贈与」に近い行為といってもよいでしょう。</p>

<p>　これは、親と子の関係で考えるとわかりやすい。親は基本的に、子育てというかたちでさまざまなものをギブする（あたえる）わけですが、子どもに対してその分の見返りを目的にしているわけではない。いうなれば、無償の愛情です。しかし、いや、だからこそ子どもは大人になったら、親に「返す」ことをしなければならないというのが返報的な正義感なのです。親と子という範囲だけでなく、先祖から子孫へとあたえられてきたもの、伝えられてきたものがある。つまり自分の肉体そのものも先祖がいなければ存在しなかったわけですから、なんらかのかたちで先祖に返報しなければならない。それが、先祖崇拝といったようなことでもあり、また、自分の子への贈与にもつながっていく。</p>

<p>　あるいはもっと広くとらえて、村落とかの共同体、あるいは「国」とかに対しても同様で、私が「共同的結合体」と訳しているコイノーニア（国）に対しての返報をひとつの正義の問題として考えていかなければならない。つまり、家族から国家にいたるまで、あまねく共通したこととしてそのことはいえるのです。法があって我々は安全・安心な生活を営むことができる。しかし、法は国家が決めたもの。というよりも、国家は法的なコイノーニアだから、我々はこの国家に、返報的正義を抱く。このようにアリストテレスは考えています。祖国愛・愛国心の根底には、正しい国家に対する返報的正義の観念が生じるわけです。</p>

<p>　もっというならば、自然そのものと人間の関係としての「贈与」の問題がある。自然からの贈与である「恵み」に対して、人間はどのように報いるか。返礼するのか。現代の環境問題とも関連してきますが、これも自然と人間との間の正義の問題として考えていく必要がある。</p>

<p>　返報的正義というのは、このように非常に大きな射程範囲と距離を持っている。いわゆる「未開社会」から現代にまで通じる宗教的儀礼なども、それ自体としてはなんとも非合理なものだけど、自然からの贈与に対する人間の側の正義の姿勢として理解できるわけです。</p>

<p>　アリストテレスのいう正義論のなかには、このような多種多様な正義のあり方が含まれている。しかしもっとも重要なことは、彼によれば、人間それ自身、あるいは人間社会には、「正」と「正しい事柄」、つまり正義を判別し、実現しようとする人間に共通した態度・指向、そういうものが厳然として存在しているだろうというふうに考えられるのです。</p>

<p>　となると、人間にそのような「正」に対する姿勢・構えがなぜ生じてくるのか。そのことを哲学的に深く考えていく必要がある。正義を単純化した口当たりのよいワンフレーズで定義するということではなくて、正義を規定するためのさまざまな要素や条件といったもの全体を包括的に考えていかなければ、正義の真の姿を取り逃がしてしまうことになりかねない。そして、そのように「考える（哲学する）」ことと並行して、“もう一度”現実の正義の問題に立ち返ってみる必要があるだろうと思うのです。</p>

<p>　包括的にといっても、アリストテレスの哲学を細部にわたって探求しようとしたら、これはもう大変なことになってしまうし、忙しい人が多いなかで時間がいくらあっても足りません。それに「生きた哲学」としては、専門的に細かく字義に拘泥するようなことは、少なくともいまここでは、あまり意味のあることではありません。とにかくまずは、全体の輪郭とエッセンスの概要をざっと描いてみることが大事なことでしょう。そこから善く生きていくための考え方、ものごとを考えるための「枠組み」といったもののヒントをみなさんにつかみ取っていただければ、私としてもたいへんにうれしいことです。これからお話することも、既存の哲学的理解とは大きくズレているところがあります。これまでの学界のアリストテレス研究と私の考え方の相違については、2008年の1月か3 月に発表される『思想』や、これまでの私の学術論文を見てください。</p>

<div class="sub2">—　「霊魂論」における三つの柱　—</div>
　それではこれから、力や法によったものでない正義、というより、むしろその根本にある正義、つまり“戦略的な”正義を超えた正義のあり方について考えてみたいと思います。「知性」が主題のひとつになります。

<p>　知性について考える場合、どうしても避けて通れないものとして「霊魂論」があります。たいへんむずかしい話ですが、手短な解説を試みてみましょう。</p>

<p>　アリストテレスの霊魂論は大きく分けて三つの柱から成っています。</p>

<p>（1）霊魂とは、生命の根源であり、人間も他の動物も生きていることの根源的な力は霊魂にあるということ。では、肉体と霊魂はどういう関係にあるのかという問題になるわけですが、ちょっと難解な言葉を使うと、霊魂とは肉体の「現実態」であるという言い方がある。現実態はギリシア語でエネルゲイアといいます。</p>

<p>　肉体といっても“生きている”肉体ということで、死体は含みません。つまり生きている肉体は、動き、なんらかのはたらきをしているもので、その力の根源が霊魂である。だから、現実態というのは「はたらき」と言い換えてもいいわけですけど、肉体のはたらきをつくっているもの、その因となっているものが霊魂であると、アリストテレスはいっているわけです。</p>

<p>（2）霊魂というと日本では「死者の霊魂」というふうに、生きているということから分離されやすいので、ここでは「魂」といっておきましょう。その魂には、固有のはたらきといったものがある。たしかに魂は肉体を動かしている根源なのだけれども、それだけが人間の魂のはたらきではない。人間の魂自体がある別のパワーと機能を持っている。</p>

<p>　それは何かというと、欲求的能力と知性的能力であるとされる。このふたつの能力のうち、とくに、知性的能力は、魂の根幹にある固有のはたらきです。欲求的能力、つまり欲すること、何かを得ようとすることも魂がもつ大きな力なのだけど、アリストテレスは知性を発揮するということが魂の根本にある最高のはたらきであると強調しているのです。</p>

<p>（3）その場合の知性がヌース、日本語に訳すと「直知」、つまり直観的知性というものなんです。アリストテレスは、ヌース＝直観的知性が人間の魂の根幹にある力なのだと述べている。つまり、モノを得たいという欲求もたしかにひとつの魂の力なのですが、モノを得るために、あるいはモノを得る前にモノを知りたいという力がつくる欲求的能力も、人間の場合は知的能力と結びついている。さらにアリストテレス哲学の根幹には、「幸福」とはその人が持っている力量の発揮という有名な規定がありますが、この力量の中に直知＝ヌースの力が入り込んでいます。これが大事な三つ目の柱です。</p>

<p>　そして、この三つの柱をよく理解するために、アリストテレスの決定的に重要な三つの書物があります。すなわち『形而上学』『ニコマコス倫理学』『政治学』の三著で、三つの柱を咀嚼するには、これを三位一体にして読み込んでいかなければならない。</p>

<p>　それぞれの書から、要点となる言葉をひとつずつあげておきましょう。<br />
『形而上学』には「ひとはすべて知ることを欲する」<br />
『ニコマコス倫理学』には「善とは万物が希求するもの」<br />
『政治学』には「我々が見るところによれば、国家とは最高の共同的結合体である。国家の根幹は正義である」</p>

<p>　と書かれている。</p>

<p>　つまりアリストテレスは、人間の能力をはかるとき、まず「知る」ということに重きをおいている。ギリシア語では、この「知る」ということは「見る」ということと同じ単語「エイデーナイ」です。見ること・知ることが人間の霊魂というものの第一の機能であるといっていい。それが知性的能力にあたります。</p>

<p>　また、さきほど欲求的能力といいましたが、人は何を欲求するのかといえば「善」なんです。善いものを欲求する。では善いものとは何か。それをまず知らなければならない。つまり、知りつつ欲求していくことになります。アリストテレスにおいて、霊魂の能力にはこのふたつ、知性的能力と欲求的能力があるということを念頭に置いておいてください。</p>

<p>　そのうえで『政治学』の第一巻で述べられている「国家とは最高の共同的結合体である。国家の根幹は正義である」ということを考察していく必要がある。正義が人間社会を幸福に成り立たせていくための基本だからです。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">戦略的思考を超えて2</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 10 Apr 2008 18:01:27 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>戦略的思考を超えて［2-2］</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">……そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">—　受動的な知性と能動的な知性　—</div>
　さてそれでは、これらの言葉（生命＝霊魂、善、欲求、知性）のなかで、知性というものの説明をくわえていきたいと思います。話があっちこっちに飛ぶかもしれませんが、がまんして聴いてください。

<p>　第一に、「知性（ヌース）」と「理性（ロゴス）」は、ある部分は重なりながらも根本的に違うということを申し上げておきたい。日本語では知性と理性はほぼ同じ意味合いで使われることが多く、また、ともに区別しづらいかたちでアリストテレスは訳されていることが多いものだから、知性と理性のどこが違うのかひじょうにわかりにくいことになっています。</p>

<p>　知性と理性はどういうふうに異なるかというと、厳密な意味での理性（ロゴス、英語でリーズン）というのは推理、計算、比例（比べる）能力を指しています。平たくいえば、入学試験や入社試験などで問われるような能力ですね。この推理、計算、比例能力がないと人間社会は統制がとれずゴチャゴチャになって混乱してしまうので、社会のなかで私たちが生きていくのに必要な能力であることは了解しておきたい。しかし、アリストテレスはその理性とは“別に”、知性と呼ぶべき能力があるといっている。理性と対比すると、端的にいって、知性は直観的に事象を知る能力です。この知性は直知とも訳すことができますが、さきほどから申し上げているヌースを指しています。厳密にいえばヌース（直知）は知性の感性的・直観的はたらきを示しているものですが、混乱を避けるために、「知性」と一括して話をすすめましょう。</p>

<p>　知性には大きく分けるとふたつの性質がある。知性の特徴は二面性というか、二方向性を持っていることにあるのです。アリストテレスもふたつに分けて論じている。すなわち、受動知性と能動知性というふうに。</p>

<p>　受動知性というのは、感覚的知性を指していて、ちょっとむずかしくいえば「個別に即した究極的個の認識能力」といっていい。つまり、たとえば、人間の顔にはひとつとして同じ顔はないのですが、AさんならＡさんであることが、視覚をとおして顏を見た瞬間にわかる、といったような能力。感覚的・直観的に個別的なものを認識することのできる知性です。</p>

<p>　もう一方の能動知性とはなにかというと、「規範的な普遍命題や理論的な普遍命題への直観的理解能力」のことです。これまた相当むずかしい言い方ですので解説しましょう。</p>

<p>　たとえば「殺すな」というわれわれの社会を維持するための大原則、普遍命題がある。これは数年前にも「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者からの問題提起があり、マスコミでも話題になりました。さまざまな人たちがそれなりの答え方を試みているけど、なかなか明解には論証のできない命題です。「人は一人では生きていけない」とか、「人間愛に反する」からとかの「答え」がいくつか出ましたが、でもそれ以上つっこんで万人が納得できるような論証にはならない。</p>

<p>　あるいは「盗むな」という命題。状況によってはある程度許容する社会があるとしても、根本的にはどんな社会でも他人のものは盗んではいかんという決まりがあるわけですよね。でも、なぜいけないかの理由を、あるところまで以上に遡って論証できないような命題。こういうのを規範的普遍命題というのです。</p>

<p>　では、理論的普遍命題とは何か。たとえば、顏の例でいま、まったく同じものは存在しないといいましたが、でも、顏なら顏にも共通項はある。ＡさんとＢさんはまったく顔も人柄も違うけど、ともに同じ人間である、といったような事実における理論的な分析に関わる命題です。ユークリッド幾何学における前提命題のようなものもそれにあたるでしょう。</p>

<p>　しかし、改めてその「人間」というものを抽出して論証しようとしても、なかなかむずかしいわけです。簡単にはいかない。人間を人間たらしめている構成要素は何かといったようなことになると、とたんにいっぱい議論すべきことが出てくる。でも、感覚的にはどれひとつとして同じもののない個別なものに共通する“何か”を、瞬時につかむのが能動知性というものなんです。</p>

<p>　たとえば人は、別々の個別のコップでも、そこに共通するコップという概念をすぐに形成できるわけです。現実にはないけど、現実のなかから共通するものを引っぱりだしてくる。これを「抽象する」というのだけど、そういう抽象化する能力が能動知性にあたるものです。この能動知性が個人としてはたらくのか、共同としてはたらくのかという問題は残ります。</p>

<p>　ということで、知性には受動的な知性と能動的な知性のふたつの種類があるということになります。次に述べる実践知と観想知もふまえて、人間の知性のはたらきを以下のように区別します。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="a004_02.gif" src="http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/04/16/a004_02.gif" width="460" height="150" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></p>

<div class="sub2">—　実践知と観想知（プラクシスとテオーリア）　—</div>
　さらに、知性を理解するのにもうひとつ別の観点があります。観想知と実践知という区別がそれで、前者は理論知とも呼ばれます。

<p>　この観想知とは何かというと、これはコップかビンか時計かというような、物事の何であるかを判別する場合などに発揮される知性です。それは、コップならコップを存在させているものは何かを問いかける知性であり、そこにも受動的な知性から能動的な知性までのはたらきがみられます（D → C）。</p>

<p>　それから先ほどいったように人間が生きていくうえで、「殺すな」とか「盗むな」といった規範的な、最も根源的な命題があるわけですね。それを直観的につかむのが実践知。それは「何々してはいけない」という、人間が生きていくうえでの“目的”にそった能動知性のひとつです（A）。言い換えると、実践的目的の観点から自分の目の前に起こっていることを見て、それに対する規範的な命令を出そうとする知性がある、それが、実践的な知性といわれているものです（B → A）。</p>

<p>　じっさい、われわれの生きている社会は、この「観想」と「実践」の両知性の非常に厳しい緊張関係のなかにあるといってよいのです。一見社会からかけ離れているかに見える学問だって、すべてそうなんです。たとえば私なんかがやっている政治学なんていうのは、本当に朝鮮からミサイルが飛んでくるのかどうか、これ自体の良い悪いは別にして（悪いに決まっていますが）、さまざまな政治的要因になりうる事柄を冷静に客観的に調べ尽くさなければいけない。そのうえで、では、どうやって防ぐのがよいか、というふうに問いを展開していくわけです。調べることは主に観想知、どうのようにして防ぐかは実践知のひとつの行使になるわけです。</p>

<p>　自動車業界からみた交通事故の場合なら、事故がどのくらいの頻度で起こるのか、原因として考えられることは何かというようなことを客観的に数字的に全部把握しなければいけない。できるかぎり個別な事例を多く集めて観察する（D）。そこから何らかの、その個別的事例の変化の原因とか、多くの事例の変化の方向を推理する。そして何が最大の原因であるかを考察する（C）。そのうえでこれからのことを把握し、それにどう対策を立て、対応しなければならないのかを判断していく。これが実践知です（A）。</p>

<p>　あるいは逆に、自分が事故にあって、自動車事故の問題性を痛感する（B）。そこから自動車事故全般をなくそうと考える（A）。しかしそのためには、自動車事故のデータを集めて客観的に観察しなければならない。事故の発生原因を可能なかぎり普遍的に追求していくことになる（C、D）。これはほんの一例ですが、ことほど左様に、われわれはつねに観想知・理論知と実践知の緊張関係のなかで“答え”を探り、追い求めているのです。</p>

<p>　受動知性と能動知性、観想知と実践知が自乗的に相互に関係し、さまざまな“現実の”局面でどうしてもぶつかってくるわけです。</p>

<div class="sub2">—　ヌースの不完全性　—</div>
　もう少し続けましょう。たとえば「知解を求める信仰」というのがあります。われわれが「神」を信仰するときに、よく「イワシの頭も信心から」なんていわれるけど、本当にイワシの頭を信心するバカ者はいないわけです。それが神様だから信じる。あるいは、神様が宿っていると思えるから信仰する。だけど、それじゃ、われわれは神を見たことがあるのか。神を知らずしてどうして信仰することができるのか。だからそこにも、神とは何かを知ることと実践として信仰することとが、どうしても問題となり、“折り重なるように”からんでくる。学問的議論のなかでは、この、神を知ることのみが観想知だとする見解が存在しているほどです。永遠の存在を知る、見ることが観想知であると。

<p>　信仰という“高尚”なことだけではなくて、たとえば恋愛という事柄ひとつとっても同様でしょう。愛する人を「見なければ」恋愛できないわけですよね。例外的に見なくても恋愛できる人がいるかもしれないけど（笑）。でもまあ、通常は「その人」に会い、顔や形姿を見てこの人はいい、素敵だと思って好意を抱きますよね。で、好意から恋愛に発展する。つまり「見る」ということでいうと、これはもう客観的・理論的な知性のはたらきなわけです。その女性（あるいは男性）はどういう者なのか、美しいのか均整がとれているのかどうかなどを「見る」わけです。そして、見ることで好意を抱き、好意を抱いたとたんに実践的知性の対象になってしまう。じっさいに何を実践するかは、人さまざまだとしても（笑）。つまり、好意を抱くと、さらに見たくなる、知りたくなるのです。そして、どのように言葉をかけて接近すればよいか……。恋愛と知性は別物のように思われがちですが、好意を抱くこと、すなわち愛するということにも、その愛がどのようなかたちであれ、知性が強くはたらいているのです。</p>

<p>　見ることは知ることであるという言葉を思い出してください。愛があって後に彼女（彼）を知るのか、知ってから彼女（彼）を愛するのか。信仰も同様です。信じてから知るのか、知ってから信じるのか。いつもわれわれはこの二律背反にさいなまれているのではないか。だから、人間の知性の両面性を別々のものとして理解してはいけないわけです。ひとつの知性に、ふたつのはたらき方あるのです。相手が何であるかを客観的に知るということと、その相手を愛するとか欲するとかなにかを為すとか、知性にはそういうふたつのかたちが“同時に”あるわけです。</p>

<p>　「善く為すとは、よく知ること、観想すること」とアリストテレスも述べている。善き行いと、知ること、観想することは窮極的には一体である、といっているわけです。部分的にはズレも生じていますが。</p>

<p>　誤解を防ぐためにいっておきますが、ここまで魂の重要なはたらきとしての「知性」を見てきましたが、善く為し、よく知るうえで「理性」は不要であるといっているのではありません。知性と理性は相補的な関係にあって、これもどちらか一方だけでは、ダメなのです。ヌース（直知、直観的知性）が根幹にあるけれども、ヌースの不完全性ということも考慮にいれておかねばならない。人間の直知の身体的限定、つまり多様で不確定な個別的な事柄に対しては、それを理性の確実性によって補っていかなければならないのです。</p>

<p>　直観がしばしば人をあざむくことがあるのもそうした事柄と関連してきます。恋愛でも一目ぼれが失望にかわることがあります。深刻なのは宗教的問題です。神を見たと称した人が、あるいは自ら神（または神の生まれ変わり。使者）と称した人が、弟子たちに、この世では許されていない命令を出す場合です。盲目的信仰といわれるものです。そういうわけで、宗教の世界に、「知解」を求める欲求が出てくるのです。可能なかぎり論理的に理性的認知ができる神理解が生じます。それが「神学」というものでしょう。</p>

<div class="sub2">—　夢と責任、そして愛　—</div>
　さて、ちょっと脇道に逸れますが、つい数日前にアリ研のメンバーの一人から、村上春樹の小説『海辺のカフカ』に「夢に責任を持つ」という言葉が出ており、これはどのように考えればよいかというメールがありました。また、別の会員から、小野二郎の『ウィリアム・モリス　ラディカル・デザインの思想』に「夢の責任」という数ページがあり、ちょうど読んでいたところだけど、そこに「夢の責任は『教育』がとらねばならない」という一文があると教えてくれました。まさに夢のようなこの偶然の一致に少し驚きましたが、驚いたついでに（笑）、この「夢の責任」という言葉から、知性と愛の話を進めてみましょう。

<p>　この言葉がどのように使われているか、両著の文脈はいまは無視させていただきますが、一見なんの関連もないように思える、この夢と責任という言葉にはどんな関係があるのか。</p>

<p>　ここまでのお話である程度おわかりかとも思いますが、責任というのは実践的・選択的行為で発生することです。選択する場合には選択する対象（人やモノ）を知らなければならない。選択とは人間の自由な知性的要求の行為です。だから、選択的行為には責任が生じる。知ったことを自由に選択したわけですから、そこから生じた問題に責任が出てくるのです。</p>

<p>　他方、夢というのは魂の一種のはたらきで、直知を含むものと、アリストテレスは考えている。身体の機能は休んでいるのだけれども、知性のはたらきが残存している。アリストテレスは夢に関して、歴史上はじめて理論的に語った人であるともいわれていますが、彼によれば夢にも知性がはたらいているのです。フロイト以降、近代においては無意識というものの存在が重視されるようになっていますが、要するに無意識のなかでも知性はちゃんと活動している。簡単にいうと、知性が実践的行為と切り離せない以上、やはり知性のはたらきである夢にも責任が生じます。当然といえば当然のことなのです。ですから、この場合の責任とは、行為と夢とが密接に結びついていることを、しっかりと認識しておかねばならないという「責任」が知性にはあると理解しておくことができる……。そして、そのことを教えるのが教育の本来の役目なのです。それは夢だけでなく、祈りとか、希望とか、つまり欲求するという魂のはたらきともつながってきます。</p>

<div class="sub2">—　欲求と三つの愛のかたち　—</div>
　先に、魂には知性の力とは別に欲求する力とがあるといいました。では、欲求とは何か。こんどは、そのことを考えてみましょう。それは、他者を捉えようとする魂の固有の力であると、とりあえず定義しておきます。ちょっとややこしくなりますが、その欲求のなかにも知性的欲求と感覚的欲求とがある。つまり、人間の「知りたい」という知性的欲求と、感覚・五感が欲する欲求とは根本的に違うはずです。

<p>　知性的に知りたいというのは哲学の言葉でいうと「意志」ということになる。意志という言葉は日常でも使いますが、意志は単純に生存本能にもとづいた生理的欲求ではなく、知性が関与している欲求を示す言葉なのです。「意志がある」とは、知ったうえで、知りつつ欲求することであるといってもよい。</p>

<p>　だから、そこには何を欲求するかという選択が生じてくる。その選択の能力のことを自由意志と呼ぶのです。要するに、人間には自由意志がある、だからこそ、前にも述べましたが責任という問題も出てくるわけです。繰り返しになりますが、責任ということを厳密に追求すると「知性」が大きく関わってこざるをえないのです。身心耗弱者には責任を問えない、というあの刑法原則もそこから出てくる。だからヌース（直知）の場合と反対に、選択意志のはたらきが、近代的な意味での理性的、合理的理解だけに留まってしまうと、夢と知性と責任のリンクが切れてしまい、夢の責任を理性的に考えることはできないとなって、「何をいっているのか、さっぱりわからない」ということになってしまうのです。</p>

<p>　夢を眠っている身体のなかに残存する知性的欲求と捉えれば、夢を構成するものとは何かが重要なファクターになってきます。夢の内容として、われわれは何を本源的に知的に欲求しているのか。他方、「教育」は欲求するその知性的な「何か」を人々のなかに形成する機能と役割をもっています。だからこそ、夢は教育とも密接に関わってくるわけです……。</p>

<p>　欲求をさらに突き詰めていくと、その根源には「愛（アモール）」がある。恋愛についてはいまちょっと触れましたが、この場合の愛は、恋愛を含む広い意味でのエロス的なものと考えてもらってよいでしょう。つまり相手と合一しようと願う非常に強い欲求の展開形態と考えておいていただきたい。</p>

<p>　愛に関しては、またあとでも触れたいと思いますが、愛のかたちを取りあえず三つに分類しておきましょう。それは、<br />
<div class="emp2">（1）最広義の愛：本源的、合一的愛。性愛も含まれます。<br />
（2）愛情：選択的に快楽を求める利己的愛。<br />
（3）友愛：相手を見る、つまり知ることの愛で、理性的な愛、他者の善を思考する愛。</div></p>

<p>となります。もちろんこれらは、正義や知性の分類同様、まったく別々に分離されてあるものではなく、複雑に重なり、混じり合って存在しています。</p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/a-ken/2008/04/22.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">戦略的思考を超えて2</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 09 Apr 2008 11:38:27 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>戦略的思考を超えて［2-3］</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">……そして、「宜しき人（エピエーケース）」ヘ<span class="asset-name_c">荒木勝（岡山大学教授）</span></div>

<div class="sub2">—　正義における欲求、秩序、権利　—</div>
　知性と愛について述べたところで、それと関連してきますので、再度正義の問題にもどってみましょう。配分的正義を取り上げるとわかりやすいでしょう。

<p>　配分的正義というのはA,B,C…という複数の人たちにモノを分ける、各人に各人のモノを等しく分配することですね。ということはA, B,C…といった個別の人たちが基本的に等しい存在であるという前提がないと、配分的正義というのは成り立たないわけです。つまり、基本的に、モノを受け取る人間、配分を受ける人間が人間として等しく、万人が平等であるという直観的知性がそこにはたらいているということです。もし、奴隷は人間ではないと判断したら、人間でないのだから配分しませんよね。人間だからこそ分ける。</p>

<p>　家族の場合だってそうです。父、母、子どもたち、すべてが家族の成員だという直観的な認識がそこにあるのです。だからみんなに、役割に応じて配分しましょうとなる。貢献の度合いにおいて配分の割合は異なるけど、基本的にはそれぞれが配分にあずかれる平等な主体であるということ。</p>

<p>　正義が成り立つ前提には、人間が基本的に平等であるという直観的理解がある。これが第一。</p>

<p>　第二には、人間が自由な判断主体であることへの直観、いい換えれば、人格の尊厳性への直知がある。</p>

<p>　配分的正義には、いまいった貢献度の違いによる配分差の問題が当然出てきます。ですから配分の割合が間違っていると感じたら、受け取る側には不満が出てきます。たとえば、父親の分け方がおかしいと思ったら、子どもたちはブーブーと文句をいう。つまり文句をいうということは、貢献度に対する主観的な認識が父と子とではずれているわけですよね。ずれが生じたときには自由に抗議することができる。配分された主体が異議申し立てをでき、配分するほうもそれを考慮するということ。その際、重要な意味をもってくるのが、この自分の意志を相手に伝えることを可能にする「言葉」です。</p>

<p>　言葉が大事になってきます。人間だけでなく、家で飼っている犬や猫などにも食べ物などを分けあたえることはあるけど、犬や猫は言葉で異議申し立てができない（笑）。だから、言葉を持った人間が正義の主体であると、アリストテレスもいっているのです。</p>

<p>　三番目は、質的差異を量的差異に還元することの可能性を直知すること。家族でいえば、父親は外で仕事をし、母親は家で家事を行う場合、これは質的にまったく異なる内容なのだから、量的に文句が出ないように“公正に”配分するなんて、本来はおかしなことなわけですよ。端から無理がある。</p>

<p>　しかし、貢献度が質的に違っているのに、分けるときは量的に分けてしまうし、人はそれを納得してしまう。ということは、結局、質的差異を量的差異に還元することを“それなりに”認めているのです。交換的正義も同様です。まったく違う異質な物事を、人間は貨幣という抽象的なもので量に還元することができる。どのような手段で、どのような比率で交換するかは別にしても、質を量に還元できる可能性があることを、人間は直観的に“わかって”いるのです。</p>

<p>　市場価格というものも、こうした個々の人間の還元的知性の、ぼうだいな集積を前提として、市場に表現された結果をもとに成立するものなのでしょう。</p>

<p>　そこで四番目に、闘争と合意形成のなかで還元比率を決定するということが出てきます。だから正義を実現するということのうちには、必ず論争や闘争などの諍いが含まれているということです。久しぶりに聴く言葉かもしれないけど、賃上闘争なんかもそうでしょう（笑）。</p>

<p>　だから今度は客観的秩序、整序（アレンジメント）、法形成をいかに行うかが五番目の正義の構成要素になる。文句をいい合いながらも、社会は概ね「正」の方向に秩序が形成されていくわけです。そうでなければ安定した社会はありえない、と皆が合意する。しかし一方で、受け取る側の人間からいわせると、この正しい秩序形成は権利というかたちであらわれる。権利とは何かというと、正当な要求資格のことです。自分への配分を喪失した場合には、不正と思われる現状を法や権威に訴えて、喪失分を取り戻すことのできる資格のことを権利というわけですね。正義があるときには、必ず権利もある。正義と権利は相即不離の関係にあるものなのです。英語の the rightは、そのあたりの論理をうまく表現しています。正であると同時に権利。the right を客観的秩序の面からみれば“正”、主観的関りの面からみれば“権利”になります。</p>

<p>　このように考えてみると、正義における欲求、秩序、権利というものは、人間のみに固有な、つまり知性の発揮と結びついた本源的な偉大なはたらきです。そしてその正を合意しようとするときに法とか国家というものが形成される。</p>

<p>　繰り返すと、正とは比例的に整序（アレンジメント）された客観的な秩序であるということができます。この正を実現しようとする心的傾き（ヘクシス）が正義であり、徳（アレテー）としての正義です。正しい社会関係・権利を実現しようとする持続的な知性の構え、すなわち徳が人における正義なのです。</p>

<p>　アレテーというアリストテレスの言葉も、日本語に非常に変換しにくい単語で、「卓越的力量」という訳語もありますが、いまは「徳」としておきます。徳が人における正義であるとした場合、徳を身につけるための場・方法として、さきほどからいうように、教育のあり方がきわめて重要になってきます。それはいうまでもなく、政治のあり方とも深く関連してきます。</p>

<div class="sub2">—　国家論と教育の重要性　—</div>
　アリストテレスの政治学全般からうかがえる特質は、教育とは正義と友愛を養うことであると主張されている点です。『政治学』の第八巻が教育論で終わっていることを見ても、それはわかります。

<p>　昨今の日本社会に見られる教育への根本的疑念は、正義というものが、教育のなかで「徳」として子どもたちに形成されているかどうかにあるのではないでしょうか。あるいは教師と生徒たちの間に正義に基づく関係が実現しているかどうか。そこがもっとも本質的な問題であって、それをどういうふうに形成しなければならないかに、われわれは知恵をしぼらなければならない。そのための本質的な議論がないがしろにされているような気がしてなりません。道徳教育や「徳学」の奨励などという形だけの方法論ではなく、その目的、本質に踏み込んだ議論をしなければならない。そこには、「国」とは何かといった論議が当然あっていい。</p>

<p>　私は正合意論としての国家論こそ現実世界に対するアリストテレスの思考の根幹であり、最大の遺産であると思っています。つまり、現代のわれわれにとって彼の哲学が真に有効な意味を持つのは国家論を内包した正義論なのです。善き国家、すなわち正義の国家を建設しようとする行為と学問こそが、人にとってのもっとも高貴な行いであり、活動であるということをいっておきたい。</p>

<p>　最近、お国のために死ぬことの重要さ、美しさが取沙汰されていますが、人が自らの命を捧げる国家自体が何かを把握せずに一方的に国への奉仕が説かれるならば、それはやはり大いに問題です。正義を担う国家だからこそ、人は自らの命まで捧げる。ということは、いま大切なことは、国家とは何か、正義と国家とはどのような関係にあるかを明確にすることではないでしょうか。欧米の議論の根幹もそこにあるのであって、日本にはこうした視点が弱いように思われます。</p>

<p>　その正義・正が日本ではどこの教育現場でも、まったく教えられていないのではないでしょうか。いつもきまって統治機構論だとか政策論だとか、また、手段の合理的あり方（合理的選択理論）だとかね、そういうことばかりで、正義とは何かということをきちっと考えて教えていない。だからいつも問題が露呈すると、目先の合理的解決に走り、問題の本質を先送りにしていくことになる。もちろん、早急な合理的解決の必要な局面も現実世界にはあり、その手腕をとわれることもあります。しかし、本質的な議論を踏まえて、考え、行動していかないと同じ場当たり的な対応が繰り返されるばかりで、けっして世の中全体がよくなることはない。だから、国家論に関してはまた別の主題になりますのでこれ以上立ち入りませんが、こと教育に関しても、私にいわせれば「アリストテレスに還れ！」ということになるんです。</p>

<div class="sub2">—　宜しき人へ　—</div>
　ということで、ここからは「愛」についてもう少し考えてみましょう。しかし、アリストテレスにおける愛論は、これもまた非常に奥の深い“こみいった”話になりますので、ここでは正義論に関連する重要なポイントを抑えておくだけにとどめます。

<p>　正義に関連する愛とは友愛、すなわち知性のはたらきが強い愛のことですが、アリストテレスにおいて愛は「他者の善を希求することである」と、規定されます。同様に正義も善を希求することですから、愛と正義は重なっており、友愛がなければ正義もないということになります。ある意味で他者とは未知の存在ですから、未知なものに対する好意がなければ正・正義もありえません。したがって、友愛の徳と正義の徳とは内在的関係にあるという言い方もできます。</p>

<p>　これまでの話から理解しておいていただきたいのは、●敵とは正義をともにしえない、●家族が正・正義の起点である、●現在の教育現場でも問題になっている「いじめ」とは正義の対極、奴隷主的統治のことであり、いじめの克服は正義の徳の養成以外にない、という三点です。</p>

<p>　ここで新しく、アリストテレスの重要な言葉を提示しておきましょう。愛と正義の接点にあるエピエイケイア「宜（よろ）しさ」という言葉です。これはアリストテレスのなかでも独特な言葉ですが、一般にはあまり知られていないようですので、彼の書物のなかから二，三引用させてもらいます。エピエイケイアとは法的正義と友愛の中間であると考えるとわかりやすいのですが、私はこのエピエイケイアの喪失こそが現代社会の諸問題の要因にもなっているのではないかと思っています。「戦略的人間から知慮的人間へ」ということを前回お話しましたが、さらにいえば「宜しき人間（エピエーケース）」を目指すことが、正義の実現にとっては欠くことのできないことであると、私は強く指摘しておきたいからです。<br />
宜しき人とは、「正」であっても法に則してのそれではなく、かえって法的 正義の補完、……杓子定規的ではなく、むしろ法が自分に有利であっても過小に取るというたちの人である。（『ニコマコス倫理学』第五巻第十章）</p>

<p>　わかりやすいように、前にいった例をもう一度あげると、お餅を家族で分ける場合、きまった割合で公正に分けるのは配分的な正義ですよね。それ