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    <updated>2010-03-11T09:07:39Z</updated>
    <subtitle>感性と知性を旅するウェブマガジン
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    <title>アリ研第10回御殿場合宿の報告</title>
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    <published>2010-03-11T05:45:33Z</published>
    <updated>2010-03-11T09:07:39Z</updated>

    <summary>3月5、6，7日、アリストテレスと現代研究会（通称アリ研）の合宿が御殿場で行われ...</summary>
    <author>
        <name>izumi_ishii</name>
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        <category term="アリストテレスと現代研究会" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<p>3月5、6，7日、アリストテレスと現代研究会（通称アリ研）の合宿が御殿場で行われた。第10回目にあたり、参加者もちょうど10名。この哲学の勉強会合宿は半年に1回開かれる。スタートから数えると、アリ研に早くも5年が経過したことになる。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="100311-2.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2010/03/11/images/100311-2.jpg" width="340" height="255" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>勉強会はアリストテレスの主著のひとつ『政治学』を参加者が輪読し、段落ごとに座長の荒木勝先生がコメンタリーを加えながら読解していく講義スタイルで行われるが、そこに参加者が質問や感想をはさみ、ときにボケとツッコミの間合いで、アリストテレスの思考を「現代」と照らし合わせていく。今回の講義も、いつもながらに刺激的でスリリングであった。<br />
アリストテレスという名前は知られてはいても、日本ではほとんどきちんと読まれてこなかったこの2300年も前の哲学者の、広範かつディープな思想のスゴサにその都度驚き、その射程が更新され、先へ先へ、奥へ奥へと伸びていく。そしてまた、出身地や世代や職場の異なる私たち参加者それぞれの、現代社会にたいする見方が広がり、一旦カオス化しながらそこにシグナルを探り当てるかのように、一見掛け離れた事象がつながり、深まっていく（ような気がする）。</p>

<p>今回の合宿では『政治学』の4巻の終わりまで読解が進んだ。<br />
次回からは7巻に移り、『政治学』を最後の8巻に向けて読み継ぎながら、いよいよアリストテレス哲学の根幹に位置するとされる『形而上学』を徐々に繙いていくことになる。<br />
次の5年、10年でどこまですすむことができるか。このせっかちな市場主義の世の中で、目立たぬながらもじつに遠大で途方もなく大それた企図である。<br />
ちなみに荒木勝の翻訳・注釈による『政治学』全巻が、この夏ころ発刊される予定。<br />
荒木教授によれば死ぬまでに（？）『形而上学』を完成させたいとのことである。</p>

<p>アリストテレスのテキストとは別に、「現代を読む」うえでの今回の課題図書は内田樹の『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4106103362?ie=UTF8&tag=cafeface-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4106103362">日本辺境論</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=as2&o=9&a=4106103362" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』であった。私は前から内田氏の本やブログのファンであり、物事の考え方や関心の向き方、嗜好に似ている部分があることをよく感じる。年齢も近いし、「フランス文学」出身だし、映画や音楽など同じ文化体験をしていたようだし（80年代の同じ時期、ともに世田谷区の尾山台に住んでいたことがあるのを最近知った）。昨年秋、たまたま担当した彼の講演をまとめる仕事でその姿を見かけ、一言だけ挨拶をかわしたことがあるが、これもたまたま本屋で見かけ読みはじめたばかりの最新刊『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062159546?ie=UTF8&tag=cafeface-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4062159546">現代霊性論</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=as2&o=9&a=4062159546" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』（釈徹宗との対談）を合宿に持参した。荒木先生は<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99%E5%85%A8%E9%9B%86&tag=cafeface-22&index=books&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211">鈴木大拙全集</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=ur2&o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />の『日本霊性論』が収録されている巻を持ってきていて、そこになにかがシンクロしたような、「霊性」が機能したような気がしたが、そんな気がしただけであろうか。まあ、この場合、「気」がはたらいた気がすればそれでよいわけなのだが。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="100311.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2010/03/11/images/100311.jpg" width="340" height="255" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>参加者のひとりに美術史の先生がいて、勉強会の一コマに、ジャポニスム----フランス印象派やフォービスムにおける日本美術の影響をめぐる講義があり、恒例となりつつあるこのN教授の美術史講義も、合宿の大きな愉しみのひとつになってきている。<br />
今回のこのテーマは、プログラムに予定されていた<a href="http://www.polamuseum.or.jp/">ポーラ美術館</a>の作品観賞に合わせたもので、講義のあと2台のクルマに分乗して箱根まで出かけた。<br />
途中、あいにくの雨と霧で富士を拝むことはできなかったが、美術館周辺の葉のない樹木が水墨画のように幽遠に霞み、どこかスピリチュアルといってもよい風合を漂わせていた。<br />
宿の研修所へは、近くの温泉の白濁した湯にみなでつかり身体を浄め（？）暖めてから戻った。この温泉巡りも、アリ研合宿では恒例のこととなっている。</p>

<p>なお、この合宿の最中、宿で参加者と懇談しているときに私のケイタイが鳴った。<br />
私の耳に聴こえてきたのは、写真家で友人の小林洋治さんが亡くなったことを報せる、奥さまからの声だった。偶然にも、私と小林さんが携わったある仕事の話題が出ていたときのことである。<br />
そのこともここに記し、記憶にとどめておきたい。<br />
私は7日の夕方東京に帰り、翌8日の告別式に参列することができた。</p>

<p>私はこのところ、たまたま目の具合が悪く、合宿の間中ずっと半眼状態の涙目であった。<br />
講義の合間には愉快な雑談が飛び交い、アリストテレスの「笑い」や落語、吉本漫才の話題も出て、そのときはじっさい涙が出るほど大いに笑いもした（そういえば、小林さんは落語が好きだった）。<br />
そして、雨の美術館。<br />
目の痛みと笑い、そして悲しみ……。<br />
雨と涙がとめどなく流れた。</p>

<p><br />
</p>]]>
        
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    <title>夢をめぐる断想ー4</title>
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    <published>2010-03-02T03:33:30Z</published>
    <updated>2010-03-03T02:36:46Z</updated>

    <summary>愛を読むひと[DVD]聴く夢と見る夢との関係でいえば、先日DVDで映画『愛を読む...</summary>
    <author>
        <name>izumi_ishii</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 4px;"><span class="cap"><a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%84%9B%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%E3%81%B2%E3%81%A8-%EF%BC%88%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%84%A1%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E7%89%88%EF%BC%89-%E3%80%94%E5%88%9D%E5%9B%9E%E9%99%90%E5%AE%9A%EF%BC%9A%E7%BE%8E%E9%BA%97%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BB%98%E3%80%95-DVD-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC/dp/B001S2QNMS%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcafeface-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB001S2QNMS" target="_blank">愛を読むひと[DVD]</a></span><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%84%9B%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%E3%81%B2%E3%81%A8-%EF%BC%88%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%84%A1%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E7%89%88%EF%BC%89-%E3%80%94%E5%88%9D%E5%9B%9E%E9%99%90%E5%AE%9A%EF%BC%9A%E7%BE%8E%E9%BA%97%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BB%98%E3%80%95-DVD-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC/dp/B001S2QNMS%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcafeface-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB001S2QNMS" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41hmIayU5VL._SL160_.jpg" alt="愛を読むひと （完全無修正版） 〔初回限定：美麗スリーブケース付〕 [DVD]" border="0" /></a><img src='http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=ur2&o=9' width='1' height='1' border='0' alt='' /></div>聴く夢と見る夢との関係でいえば、先日DVDで映画『愛を読むひと』を見ていて、ふとあることに気がづいた。忘れないうちに書いておきたい。

<p>この『愛を読むひと』で主演のケイト・ウィンスレットがアカデミー賞の主演女優賞をとったことで話題になり、ご覧になった方も多いだろう（個人的には『リトル・チルドレン』の彼女を見て、女優として大いに見直したのだが。この映画もぶっ飛ぶほどおもしろい！）。ケイトの演じる主人公は「文盲」という設定で、歳の離れたひとりの少年と恋におちるのだが、文字の読めない彼女の楽しみは、この少年から『オデュセイア』やチェーホフなどの本を読み聞かせてもらうことである。ストーリーや時代背景などは抜きに、取りあえずここでは、そのことだけおさえておいていただきたい。</p>

<p>何が私の興味をひいたかというと、ほぼ同時期に読んだ村上春樹の『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4103534222?ie=UTF8&tag=cafeface-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4103534222">1Q84</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=as2&o=9&a=4103534222" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』とのある種の通底性を感じた点だ。聴くことと読むことの関係性を、かけ離れた2作品が暗示しているように思えたのだ。『1Q84』でいえば、天吾と少女・ふかえりとの、やはり一種の「禁じられた」愛の関係。ふかえりは文盲ではないが「難読症」（ディスレクシア、読字障害）である。この場合天吾は読み聞かせるのではなく、ふかえりの「語る」ことばを書く（リライトする）立場である。むろん『1Q84』も『愛を読むひと』（原作の邦題は『朗読者』！）も、そう単純ではなく、ともにきわめて複雑な筋と構成になっているのだが、ここでは省く。</p>

<p>言えるのは、ともに女の方が「聴く」あるいは「語る」側であり、男の方が「読む」あるいは「書く」役割であるということだ（このことも、もっと微妙な役割分担なのだが、ここではあえて単純化する）。つまり前者が聴覚（表音）、後者が視覚（表意）を受け持っている。さらに興味深いのは『1Q84』においてはこの両者を、ふかえり＝パシヴァ（perceiver、知覚する者）と天吾＝レシヴァ（receiver、受け入れる者）と位置づけていることである。<br />
（そして、両カップルとも、片方は少年、片方は少女というちがいはあるが、年齢のかけ離れた「成就」することが困難な愛である）</p>

<p>つまりこれまでの夢に関する本稿の文脈でいえば、聴くことがパシヴァ（perceiver、知覚する者）、見ることがレシヴァ（receiver、受け入れる者）として、夢の「声」（聴覚）と「映像」（視覚）を捉えることができるのではないか。アリストテレスのいうヌース（直感、直知）とロゴス（理性的認識）の関係を想起してもよい。その二面性が「私」のなかで交錯し、その交点で演じられるドラマが夢ではないか。「私とは一個の他者である」というランボーのことばの遠い反響を聴き取ることもできる。夢のなかの私とは誰か。</p>

<p>夢における聴くことと見ることの関係性の表象として、この2作品を「読む」ことができそうだと気づいたわけである。深読みなわけだから、気づいたというよりか示唆された、あるいは刺激されたといったほうがよいかもしれないが。しかも、聴くこと（と、声に出して読むこと）が見ることより「一瞬」先にある、ということ……。聴くことで知覚する者は、いったい「誰」の声を聴いているのか。受け入れる者は、文字に記す、あるいは文字を読むことで、いったい誰を（何を）受け入れているのか。</p>

<p>★</p>

<p><a href="http://www.cafe-nous.com/2010/02/3-3.html#comments">waheiさんのご指摘</a>のように、夢と現実は別のものではないと私も思います。少なくとも両者を画然と隔てる壁などない。境界はあっても、デジタルな明確な区分ではなく、それはいうなればグラデーションのように境目はどこまでもあいまいです。夢と現実は地つづきであり、聴くことと見ること、知覚することと受け入れることの境界に「真の現実」は生起するといえるのではないでしょうか。</p>

<p>簡単に短く書こうとしたため、わかりにくい記述になってしまいました。これは、夢に関する覚書であり「断想」であるゆえ、お許しください。<br />
アリストテレスの「知る（見る）」ことの意味や、シャーマニズムや夢の「集合性」、文化人類学的な意味でのイニシエーションについても考えてみたいところですが、それはまたいずれ。</p>

<p>この5日からのアリ研（アリストテレスと現代研究会）の合宿で、お話のつづきができるとよいですね。そういえば、アリストテレスは人類史上はじめて学の体系として夢を論じた人であるといわれているようです。荒木トテレス先生に教えを請いたいところです。</p>]]>
        
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    <title>夢をめぐる断想ー3</title>
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    <published>2010-02-15T08:54:31Z</published>
    <updated>2010-02-15T09:01:32Z</updated>

    <summary>なにやら想像した以上に深層にググッとくるコメントをもらい、ちょっと慌てていますが...</summary>
    <author>
        <name>izumi_ishii</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p>なにやら想像した以上に深層にググッとくるコメントをもらい、ちょっと慌てていますが、今回はまず、たしかに「悪夢」というものがある、といったことから。</p>

<p>最近ある若い人と夢の話をしていて「あっ、そうなの！？」と意外に思ったのは、悪夢を見たことがないっていう人がいること。その若い人自身がそうだと言うのだけど、うらやましいというかなんというか。見たことのある人ならわかるはずだけど、あの悪夢というやつは、ほんと、どうしようもないくらい嫌なもんですよね。目が覚めてからも、しばらくは「もう立ち直れない」ってくらいズタズタな気分で、自分っていう存在を消せるものなら消してしまいたくなるほど。</p>

<p>悪夢で思い出すのは「夢は五臓六腑の疲れから」という言葉と、人にもよるのかもしれないが、私の場合は、なにか邪悪なものに追いかけられている、だけどどうやっても逃げられないといった焦るような思い。たしかに身心の疲労から悪夢は生じやすいだろうし、「永遠に」逃げられない（抜け出せない）という迷路に入り込んでしまったかのような不安が、悪夢というものの構造を形成してもいるように感じる。まあ、「五臓六腑の疲れ」という物理的・身体的な要因は事実としてあるとしても、それだけが悪夢のもとではないと思うし、かりにそうだとしてもそれで「解決」できない面はまちがいなくあるわけで、では、心（意識）のほうから悪夢を考えたとき、悪夢ってなんだろう。</p>

<p>いただいたコメントにもあるように、たしかに夢は現実では満たされない「欲望」を仮想的に充足させる機能をもつものだろう。ある意味で、現実（環境）と自己（の意識）に折り合いをつけようとする思考の運動でもあるだろう。基本的に「快」の実現に向けられた脳のはたらきであろう。では、なぜ邪悪な、とんでもなく嫌な夢を見ることがあるのだろうか。</p>

<p>おそらくそこに「神」の問題がでてくるのではないか。naohnaohさんのおっしゃるのとはちょっと違うかもしれないが、精神分析学的には「父」というタームで語られる問題である。いま夢は願望の充足であるとフロイト的に書いたが、付け足しておかねばならないのは、その「快」は決して「十全には」満たされることがないということだ。欲望には禁じられた欲望というものがあり、欲望の実現を可能とするのも、またそれを禁じ、抑圧するのも「神」であり「父」である。快楽と悪夢は紙一重なのかもしれない。</p>

<p>……ここまでくれば、「悪夢」まであと一歩という気もするが、つづきは次回以降に。</p>

<p>それにしても、悪夢や夢そのものを見ないという人にとっては、ある意味で「神」とか「父」とかの存在が希薄あるいは不在なのだろうか。それとも、欲望（願望）が満たされ、それから解放された人なのだろうか。そんなはずはないと思うのだが。</p>]]>
        
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    <title>夢をめぐる断想ー2</title>
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    <published>2010-02-08T05:52:40Z</published>
    <updated>2010-02-08T07:18:18Z</updated>

    <summary>前回寄せられたコメントにあるように、「持つ」夢と「見る」夢のほかに、「聴く」夢が...</summary>
    <author>
        <name>izumi_ishii</name>
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    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p>前回寄せられたコメントにあるように、「持つ」夢と「見る」夢のほかに、「聴く」夢があるのかもしれない。<br />
というか、おそらく夢は、まず「聴く」ことからはじまるような気がする。<br />
それは言葉（口からでる言葉と文字に書かれる言葉）の構造と関係しているように思える。</p>

<p>目覚めぎわに見る夢は覚えていやすいと書いたが、寝入りばなには声が聴こえてくることが多い。私たちは、声に導かれて夢を見る、つまり眠りに入る。<br />
「夢見の技術」が巧みだったころ、私にはまず声が聴こえてきて、それが「映像」に変わると「あっ、いま眠る」と一瞬だがわかることがあった。</p>

<p>声が聴こえてくる前に、その日にあったことや、人と話したことなどをぼんやり考えているのだが、ある瞬間、その言葉＝思考の流れが、自分の意識のコントロールを離れ、「勝手に」運動をはじめる。そして、ひとつの「誰か」の声となって聴こえはじめるのだ。その声は、どうも自分の声ではない。その声が映像に変換されて、意識に映じはじめる。</p>

<p>その時、身体はすでに眠りに入っており、動かせない。「ここだ」と思った瞬間にその流れから意識を引き離すと、ちょうど「金縛り」にあったときのように、身体は動かないが意識は醒めた状態になる。その状態はなかなかつらいので、再び眠りの世界に身（意識）をゆだねるのだが。</p>

<p>映像に変換されると書いたが、そのとき声は消えるわけではない。聴こえなくなったかと思える声は、しかし、映像の背後あるいは底流に音楽の通奏低音のように流れつづけている。通常は滅多にその「沈んだ」声に気づくことはないのだが、ときに（半覚醒状態のときといえばよいか）それをキャッチできることがある。</p>

<p>私はかつてこんな夢（夢に関する夢）を見たことがある。</p>

<p>ある映画館。スクリーンに映像が映し出されている。暗い館内に昔の映画館のように映写機から銀幕に投映される光の束が見える。映写機の光源から出る光がリールに巻かれるフィルムを通って映写幕にその像を映しているのだ。私は映画館のどこにいるのかわからない。どうも、映画館自体が私（の脳）のようだ。</p>

<p>同時にある模式図のようなものが目に浮かんだ。スクリーンに映っている映像が夢であり、フィルムは言葉、ひとつひとつのコマは「言の葉」というか声の一音一音で、それが光源の前をある速度で流れている。光源は、どういったらよいか、言葉を「見える」ようにするための意思（欲望）のようなもの。その意思が光となって声を透過して映像（イメージ）を、意識であるスクリーンに生成させている……。</p>

<p>映像の人影たちはそれぞれに何かを話しているが、映像自体の後ろには「別の声」がとぎれることなく流れており、その声はフィルムに焼き付けられた言葉＝文字の「絵」と一体になった、イメージを生む「音」が声として聴こえているのだ。この声の主こそが、真の「語り部」である。</p>

<p>そして、じつをいえば、この「声」は夢を見ているときだけに関わらず、眠っているときも起きているときも、意識のどこかに「生の（裸の、要するにブリュットな）思考」として流れつづけている。夢を見るとは、その声の川にダイブして、流れに身をゆだねることなのである。</p>

<p>この夢は数十年も前に見たものだが、すでに紛失してしまったノートに図入りで記したことがある。一度、文字あるいは「絵」として書き（描き）意識化されたものは、記憶として定着され、頭のどこかにストックされるということだろうか。そして、なにかのきっかけによって、引き出されるのを待っているのか。<br />
こうして、数十年も前の夢を、もう一度記すのは、失われたノートを再び見出そうとする試みなのだろうか。</p>

<p>声楽、器楽に関わらず、音楽とは、声にまで抽象化された音のつながり、流れである。声によって、映像としての「運動」に変換されたものが夢である。</p>

<p>見る夢。聴く夢。聴くように見ることがあれば、見るように聴くこともある。夢は視覚と聴覚の結婚を夢を見みている。</p>]]>
        
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    <title>夢をめぐる断想ー1</title>
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    <published>2010-01-29T08:15:03Z</published>
    <updated>2010-02-02T04:56:14Z</updated>

    <summary>近ごろ、よく夢を見る。 夜ごと人は夢を見ているはずだから、近ごろ夢を見ていたこと...</summary>
    <author>
        <name>izumi_ishii</name>
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    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p>近ごろ、よく夢を見る。<br />
夜ごと人は夢を見ているはずだから、近ごろ夢を見ていたことを覚えているといったほうがよいだろうか。<br />
といっても、覚えているのは目覚め際に見た夢がほとんどで、寝床から出て顏を洗うまでのうちに忘れてしまう。夢を見たことの記憶だけがのこる。<br />
しかし、覚えていない夢を夢と呼べるだろうか。</p>

<p>いまは昔、枕元にノートをおいて、目覚めたらすぐに夢を記していたことがある。青春のある一時期のことにすぎないが、その頃は「夢見の技術」とでもいうか、夢とそれを書くことのあいだに通路ができて、夢が現実のように鮮明になり、現実が夢のようにさまざまな一通りでない「意味」を発しているみたいな、それをある程度「操作」できるようにもなったもので。<br />
ある意味で、とっても「危ない」日常だった。</p>

<p>西郷信綱が言ったように（『古代人と夢』）、夢はいつのころからか見るものでなくなり、持つものとなった。夢を持てとは言われるが、夢を見るということは、どこか後ろめたい、というか揶揄するような否定的なニュアンスがそこに込められる風になった。</p>

<p>しかし、現実といわれるものが「輝き」を失い、つまらぬ書割り程度の現実性しか持たぬようになったのは、夢が持つものとしての夢に偏ってきたこととパラレルなのではなかろうか。現実（リアル）と現実性（リアリティ）とは、近い言葉だが、分離され相反するものとしてあるのがいまの「現実」である。リアリティの根拠は、じつは夢である。</p>

<p>夢は無意識の活動であるとして、それを「見る」というからには、そこに意識（理性）のはたらきが介在する。</p>

<p>すっかり途絶えていた夢の記憶がわずかながら意識に浮上してくるようになったのは、持つ夢さえ持つことの困難な社会のなかの自分への、無意識からのシグナルをキャッチしバランスを保とうとする「心」のはたらきなのだろうか。<br />
持つことも見ることなしにはありえない、のかもしれない。</p>

<p>もう一度、夢に目覚めよ、ということか。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>あけまして おめでとうございます [バリコラージュ8]</title>
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    <published>2010-01-06T05:52:53Z</published>
    <updated>2010-01-06T06:58:09Z</updated>

    <summary>今年はバリをモチーフにして年賀状をつくってみました。 プリアタンのレゴン・ダンサ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p>今年はバリをモチーフにして年賀状をつくってみました。<br />
プリアタンのレゴン・ダンサーの写真（フィルム）をデジタル加工したものです。<br />
じっさいにプリントしてつかったのは、真ん中のやつ。<br />
本年もひきつづきカフェ・ヌースをご愛読いただければ幸いです。<br />
「初荷」は配島さんの<a href="http://www.cafe-nous.com/font/">『町まちの文字を訪ねて：子を思う母の文字二つ』</a>。お楽しみください。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="1001-2.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2010/01/06/images/1001-2.jpg" width="170" height="252" class="mt-image-none" style="" /></span><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="1001-4.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2010/01/06/images/1001-4.jpg" width="170" height="252" class="mt-image-none" style="" /></span><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="1001-3.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2010/01/06/images/1001-3.jpg" width="170" height="252" class="mt-image-none" style="" /></span></p>]]>
        
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    <title>「本のかたち 09」展を読み、キムチを食す悦楽</title>
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    <published>2009-12-09T06:56:30Z</published>
    <updated>2009-12-10T02:59:01Z</updated>

    <summary>埼玉と静岡で「本」を主題とした現代美術の展覧会が開かれている。12月2日付けの朝...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p>埼玉と静岡で「本」を主題とした現代美術の展覧会が開かれている。12月2日付けの朝日新聞（夕刊）に「現代美術で見る、感じる『本』」という記事がでていたのでご存知の方も多いだろう。なぜか、いま「本」なのである。</p>

<p>私はきのう、この二つの展覧会ではなく、「もうひとつの」本をめぐる展示を見に、練馬区江古田の小さなギャラリー「水・土・木（みずとき、と読む）」に足を運んでみた。このギャラリーのオーナーである陶芸作家の川村紗智子さんは知人でもあり、ご案内をいただいておきながら、5日のオープニングには行けなかったからという事情もあったわけだが。</p>

<p>古今東西、「本」という主題、あるいはモチーフによる美術作品は数多く作られつづけていて、本というモノが好きで、また長年、書籍や雑誌の編集やデザインに携わっている職業柄、いつも興味はもちつづけてきた。しかし、なぜ“それ”が「好き」なのかはよくわからないし、本を「読む」ということ自体が人間にとって、どんな意味や価値のある営為なのか、わかりやすい説明で理解するのは意外にむずかしいことなのではなかろうか。<br />
仮に、情報や知識を仕入れるためのメディアだからといったって、じゃ情報や知識を本というメディアで得るとはどういうことなのか。口頭にせよ何にせよ、他のメディアで得ることと何が違うのか。また、それが説明できるとしても、なぜ本が好き（あるいは嫌い）なのかは、そういう仕方で「理解すること」を超えたなにものかなのではなかろうか。本の特性（「本」性）というか、本というものの魅力は、ちょっと別のところにあるような気がする。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="081208-1.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/12/09/images/081208-1.jpg" width="300" height="225" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="091209-2.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/12/09/images/091209-2.jpg" width="300" height="225" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>ということで（どういうことで？）、「坂の上の雲」ならぬ坂の上の家「ギャラリー水・土・木」の『本のかたち 09「アーティストブック1」』を見に行ってみたわけだ。まず全体として、先に「小さな」ギャラリーといったが、アーティスト8人によるこのグループ展は、じつに多様・多彩でありながら個々の作品のもつ強度も高く、小さいからこその内に溜め込んだある種の「力（エナジー）」を感じさせる好企画だったように思う（ちなみに8人とは配島庸二、菱刈俊作、木下良輔、栃木美保、服部俊弘、瀧本祐子、上田恭子、川村紗智子の8名である）。<br />
この「普通の」住居を改装した小さな「家」であるギャラリーが、一冊の絵本として開かれており、そのなかにまた、さまざまな「宇宙」を秘めた本が並んでいる。ひとつの「入れ子」構造をもつ宇宙模型（どんな大きなものでも、模型は“それ”を小さくしたものであるか、その逆であることに面白さがある）として、小さな町の小さな本＝家として読まれることを誘っている……。</p>

<p>なかでも、やはりと言うか何というか、私としてはいまいった「本を読む」とはどういうことかというメタな問題意識（というほどではないが）を追求しているような作品に惹かれるものが多かった。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="091209-3.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/12/09/images/091209-3.jpg" width="300" height="225" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>いまここで個々の作品に言及する余裕はないが、これもやはりというか、配島庸二の「折畳本」（佐理試論）の2作は、本というモノの持つ空間性と時間性をまるごと折り（織り）込んだ素晴らしい作品であった。これもすぐに一言で言えないが（だからこそ！なのだが）、本を書く（つくる）、あるいは本を読む（見る）という行為をソバージュ（未開、野生）なまでの美しさで「かたち」にしたもので、私にとってはひとつの衝撃であり驚きだった。</p>

<p>たまたま少し前に、仕事の関係で、アジアの古文書（パラバイ、ロンタルなどの伝統文書）の形態を調べてみていた矢先だったということもあろう。一種、なにかがシンクロした感があった。私は美術作品を「買う」という発想に縁遠い者だが（お金ないし）、その官能的な「美」に反応し、珍しく、あっ、これは欲しい、そばにおいてずっと見ていたい（読んでいたい）と思ったほどだ。</p>

<p>それはさておき、それにしても「！」である。<br />
あえていえば、ハード／ソフトウェアとしての本（本というコンセプト）が、かつてこれほど生（ブリュット）なかたちで、己の姿をさらしたことがあっただろうか。<br />
この作品は30年ほども前に作られたものだそうだが、同時に展示されていた炭書の新作「ジードの日記」などに見るように、配島さんのここ数年の炭書のセリー（系列）を知る者にとって、その両者のあるようでじつはない「絶対の距離」を測ることで、本という「知」のありようの「起源」あるいは「消滅にむけた未来」に変わらぬアンビバレンツな恋情を抱いていることにガクゼンと感動したのだった……。</p>

<p>★</p>

<p>きのう会場に配島夫妻と「スクラップ・ワンダーランド」の池田忠利さん夫妻が、これもたまたまいらしていて、帰りがけに江古田駅そばの「済州（チェジュ）」という店でビールを飲み、韓国料理を食べながら歓談したことも忘れずに記しておきたい。じっさい済州島で十年ほど「修行」したというソウル生まれの女主人のつくる焼き肉やチヂミなどなど、とくにキムチがことのほか美味で、こんどみなでホントの済州島にいって食べよう、月島で「もんじゃ」もいいねなどと、あまりゲージツに関係のない（？）話で盛り上がり、私にとっても久しぶりに味気ない日常を忘れた楽しい一時であった。<br />
……とか言いながら、白菜をまるごとつかったキムチで「食べられる本」がつくれないかな〜などと帰りの電車にゆられ心地よくウトウト夢見ていたら、気づいたときはすでに降りる駅を二駅ほど過ぎていたのでした。おしまい。</p>

<p><br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>『バリ、夢の景色　ヴァルター・シュピース伝』 [バリコラージュ 7]</title>
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    <published>2009-12-01T06:18:26Z</published>
    <updated>2009-12-02T03:17:47Z</updated>

    <summary>ヴァルター・シュピースという画家の名前を知っているだろうか。 バリ島が好きで、バ...</summary>
    <author>
        <name>izumi_ishii</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p><a href="http://homepages.shu.ac.uk/~scsgcg/spies/">ヴァルター・シュピース</a>という画家の名前を知っているだろうか。</p>

<p>バリ島が好きで、バリの文化、芸能や絵画などに興味のある人は、あるいはその名を耳にしたことがあるかもしれない。<br />
シュピースは、1925年にはじめてバリ島を訪れて以来、この小さな熱帯の島の魅力に取り憑かれ、2年後ウブドに居を移して、十年以上におよんでバリの「客人（マレビト）」となり「住人」となる。そして、オランダの植民地支配がつづくなかで、現地バリ人とともにさまざまな芸術活動をおこなったロシア生まれのドイツ人である。</p>

<p>私は、80年代、2度目か3度目にバリを訪れたさいに宿泊したウブドのホテルで彼の名をはじめて聞いた記憶がある。そのバンガロー風のホテルは「ホテル・チャンプアン」といい、たまたまシュピースにゆかりのある宿であった。また、そのバリ旅行のとき、やはりウブドの美術館でシュピースの絵を見た。彼の作品は1点しかなく、格段優れた絵だとは思わなかったが、妙に心惹かれ、なぜか「好き」になってしまうような不思議な魅力があった。</p>

<p>以来、シュピースの他の作品や、彼の来歴、バリでの活動のことをもっと知りたいと思っていたが、彼の「全体像」が伝わる適当な資料を見出せぬまま、年月ばかりが経過した。何冊かのバリに関する書物にシュピースの名を見つけるたびに、彼がバリの文化・芸能に欠かせぬ人物であることを断片的に知り、その都度彼への興味は募ったが、私にとって「うわさ」ばかりの、いうなれば幻の芸術家にとどまっていた。</p>

<p>7年ほど前、やっと伊藤俊治の『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4582851266?ie=UTF8&tag=cafeface-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4582851266">バリ島芸術をつくった男―ヴァルター・シュピースの魔術的人生</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=as2&o=9&a=4582851266" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』という本（平凡社新書 2002年1月発行）が出て、適度に渇を癒すことができた。この小さな本はシュピースに関する初めての評伝であり、彼を視座に据えたすぐれたバリ島論ではあったが、シュピースの履歴や伝記的側面はいささか食い足りず、人物像にもっと肉薄したいという思いをさらに高めるものであった。</p>

<p>2004年に5度目のバリに行って以来、ここ数年は仕事や日常の雑事に追われ、バリもシュピースも「具体的」には意識の遠景に後退していた。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="091201.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/12/01/images/091201.jpg" width="245" height="365" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4892570435?ie=UTF8&tag=cafeface-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4892570435">バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=as2&o=9&a=4892570435" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』（文遊社 2004年12月発行）に出会ったのは、そんな折りである。一月ほど前、仕事の打ち合せで新宿に出たさい、帰りがけに立ち寄った書店（ブック・ファースト）の棚にこの本を偶然に見つけた。坂野徳隆（さかの・なるたか）という著者の名ははじめてで、かなり厚手、定価も5800円とそれなりに高かったが、装丁もよく、シュピースの絵（右は本書の扉）や写真も豊富で、その場で買うことを決めるのに時間はかからなかった。出会いとはそんなものであろう。</p>

<p>本や映画の紹介をするとき、あまりその筋や内容には立ち入らないのが私の主義なので詳細は省くが、シュピースへの関心の渇きをやっと潤すことができ、時をわすれて読みふけることができたことは言っておきたい。ここに取りあげたのもそのためで、バリにたいする興味、知識をさらに深めてくれたことは言うまでもないが、シュピースの「人と成り」、彼の人間関係（家族、友人たちとの交流、バリ人とのつきあい）、当時の文化状況などが取材や書簡などの「第一次資料」をもとに織りなされてくるさまは、一本の映画を見るようで予想以上に愉しく説得的であった。専門家の論として構えた仰々しさもなく、平易でさりげない記述スタイル（文体）にも好感がもてた。</p>

<p>私としては、ことに、吸血鬼映画『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000NN765Q?ie=UTF8&tag=cafeface-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000NN765Q">ノスフェラトゥ</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=as2&o=9&a=B000NN765Q" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』で名高いドイツ表現主義映画の巨匠ムルナウとの交友（美術顧問としての、また、「愛人」としての）とその死、そしてバリでの弟コンラッドの死、またシュピース自身の投獄と死という「三つ巴」の死にまつわるエピソードは、けっして思わせぶりということではなく、バリというひとつの場所と時、その何かを象徴する出来事として忘れ難いものだ。炎の光にゆらめくワヤン・クリット（影絵芝居）の影のように、ダラン（人形使い）であるはずの語り手（著者）を、その死の影が逆に操り導いたのではないか。<br />
バリは予兆の島であると言ったら、やはりそれは、あまりにバリ的にすぎる言い方であろうか……。</p>

<p>しかし、そんな読後の余韻が、バリをめぐる記憶（物語）のなかでガムランの残響音のように共鳴し、私の「夢の景色」を静かに振動させたことを付け加えておきたい。</p>]]>
        
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    <title>池田忠利 讚江</title>
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    <published>2009-11-10T05:03:10Z</published>
    <updated>2009-11-10T06:33:05Z</updated>

    <summary>銀座で池田忠利さんの個展を見てきた。 道に迷って、やっと会場の「ギャルリー志門」...</summary>
    <author>
        <name>izumi_ishii</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="091110.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/11/10/images/091110.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>銀座で池田忠利さんの個展を見てきた。<br />
道に迷って、やっと会場の「ギャルリー志門」にたどり着いたら、すでにオープニング・パーティは始まっていた。<br />
小さな部屋はパーティに駆けつけた人々でいっぱい。数人の見知った顏もあったが、ほとんどははじめてお見かけする方々。池田さんの作品に負けず劣らず、風貌も格好も個性豊かでユニーク、池田さんの作品の一部のようでした。なんて言っちゃいかんか！？　でも、ぼくは、こういう方々のほうがほっとする。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="091109-3.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/11/10/images/091109-3.jpg" width="240" height="320" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>作品については、改めてここでは触れない。どの作品もタイトルがふるっていて、やはり、池田さんの作品はそのシャレたイタズラ言語感覚抜きには語れない気がした。<br />
で、私も、ここで一句ならぬ一シャレを、池田忠利讚江。</p>

<p><span style="color:#660000">い</span>　一角獣の<br />
<span style="color:#660066">け</span>　けん玉遊び<br />
<span style="color:#6600CC">だ</span>　ダッコチャンとのランデヴー</p>

<p><span style="color:#CC0000">た</span>　探検するスルメの短剣<br />
<span style="color:#CC00CC">だ</span>　誰がじゃれるか髑髏<br />
<span style="color:#996600">と</span>　時計草の夢語り<br />
<span style="color:#006666">し</span>　始祖鳥尻目にトランス・ダンス！</p>

<p>もうひとつオメケに。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="091109-2.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/11/10/images/091109-2.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span><span style="color:#660000">ス</span>ープニツカッタ<br />
<span style="color:#660099">ク</span>ジラ<br />
<span style="color:#CC0000">ラッ</span>プ　ポップ　スクラップ<br />
<span style="color:#CC00CC">プ</span>ッツン・アラ・ドーモ</p>

<p><span style="color:#990099">ワ</span>ンパクオウジガ<br />
<span style="color:#003399">ン</span>ートトオクデ<br />
<span style="color:#003366">ダ</span>イビング<br />
<span style="color:#990000">ラ</span>クダハラクダッテ<br />
<span style="color:#666666">ン</span>？<br />
<span style="color:#663300">ド</span>ーナツハドーナッタ</p>

<p><br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>渚のパレード　池田忠利展への招待</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cafe-nous.com/2009/11/post-62.html" />
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    <published>2009-11-04T05:41:48Z</published>
    <updated>2009-11-10T06:25:51Z</updated>

    <summary>「渚の創造者」池田忠利さんから展覧会の案内状が届いた。海岸に打ち上げられた漂着物...</summary>
    <author>
        <name>izumi_ishii</name>
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        <category term="イベント案内" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="09.11.04.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/09.11.04.jpg" width="320" height="475" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>「渚の創造者」池田忠利さんから展覧会の案内状が届いた。海岸に打ち上げられた漂着物をコラージュして、ユーモラスでちょっと不気味な作品を生み出す池田さんのひとつの集成ともなる個展である。</p>

<p>　というのも、今回の展覧会は15年余にもおよぶ彼の創作「SCRAP WONDERLAND」の作品集の出版を記念したものでもあるからである。くわしくは本サイトの「<a href="http://www.cafe-nous.com/haijima/no15/">コンテンポラリー粋／狂</a>」をぜひ一読いただきたい。これは作品集に掲載されている配島庸二さんの「友愛」につらぬかれた論を「一足先」にアップさせていただいたもの。池田さんの長年のファンである私も、そもそもが配島さんに池田さんを紹介してもらったことが彼の作品を知るきっかけだったわけだが、お二人を知る私にとって、友愛といっても、のっぴきならぬ一種の緊張感漂うこの一文は感涙ものである（そうか、アール・ブリュットやゾンネンシュターンが、こんなふうにつながってくるのか！）。</p>

<p>　池田さんから郵便で送ってもらったこの作品集を眺めていると、なんとも楽しい気分になり、いろいろな言葉が浮かんでは消える。というか、分断された言葉の断片が意識の層に浮かび上がっては、無意識に沈んでいく。それは、たまたま最近読んだ本にあった言葉、たとえば<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3&tag=cafeface-22&index=books&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211">ラカン</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=ur2&o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />の「他者の語らい」とか「無意識は言語として構造化されている」といった、やはり「言葉」に対する言葉だったりする。そして未開とかブリコラージュ、シニフィアンとかアフォーダンス、「不気味なもの」（フロイト）とかモンスター、夢とか転生とか顏とか渚とか……。</p>

<p>　海と陸地の境目である渚は、意識と無意識の境界でもあるという比喩が成り立つからだろうか。「渚の創造者」という呼びかた自体、ずいぶん前の配島さんによるものだが、いまになってその詩的で多義的、かつ入れ子的な見立ての「意味」がわかってきたような気がするような気がするような気がする（アレ？）。</p>

<p>　そしていま、新たな作品とともに、自然と都市、未開と文明、過去と未来の渚に、それ自体が渚の贈り物としてこの作品集が打ち上げられた次第なのだ。</p>

<p>　配島さんは、「媚」「秋波」という言葉を巧みに使い、またブルトンの『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003259025?ie=UTF8&tag=cafeface-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4003259025">ナジャ</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=as2&o=9&a=4003259025" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』にも言及されているが、それに連関して、私はやはりブルトンの「理解するよりも先に愛すること」という言葉が、久々に大脳の岸辺に漂ってきたことを付け加えておきたい。池田さんの作品群は、まさにモノと人との愛の営みであると言いたくなったからかもしれない。愛の狂気か、「狂気の愛」か！</p>

<p>「狂気の愛」とは、これまたブルトンの著書の題名だが、原語でL'amour fou であり、fou （フ）は英語でいえばフール、狂気であると同時に「おバカさん」とか「道化」の意味を持っている。すなわちこれは「道化の愛」とも読める。考えてみれば、道化とは境界＝渚に存在する者ではなかったか！ そこでは、道化こそが王である。</p>

<p>　さてさて、これら道化たちのパレードに、私たちもくり出してみようではないか。</p>

<p>　池田忠利「作品集出版記念」展は、11月9日〜14日まで、東京・銀座のギャルリー志門で開かれます。<br />
</p>]]>
        
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    <title>高原のバロック　 「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」展を見て</title>
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    <published>2009-10-23T03:35:00Z</published>
    <updated>2009-10-29T02:06:50Z</updated>

    <summary>事務所に来る途中、上野で下車して「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」展を見てき...</summary>
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        <![CDATA[<p>事務所に来る途中、上野で下車して「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」展を見てきた。<br />
この展覧会を先に見ていた家人にすすめられて行ったのだが、やはり、これは何ともスゴイ、おもしろい！<br />
宗教（チベット密教）美術だから、あまりストレートな俗っぽい反応は慎むべきかもしれないが、まずはこうとでも言っておくしかない。</p>

<p>ずいぶん以前に別のチベット展などで曼荼羅やマニ車などの法具類、いくつかのタンカや仏像は見たことがあった。しかし、仏像マニアからほど遠い私にしても（だからか？）、こんな凄まじく美しい仏像の数々ははじめてである。ひとつだけ紹介してみよう。</p>

<p>たとえば、極め付けといっていい、これを見てほしい。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="091023.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/10/23/091023.jpg" width="340" height="496" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>「カーラチャクラ父母仏（ぶもぶつ）立像」と呼ばれるもので、14世紀前半に作られたらしい。<br />
男女二体の仏が抱き合い合体（合一）した総高60cmほどの立像で、この写真（絵はがき）では隠れて見えない側にカーラチャクラがいる。</p>

<p>図録によると、カーラチャクラは一切の悪に打ち勝つ力を持つ最強の仏である守護尊（忿怒尊）のひとつで、伝説のシャンバラの教主でもある。四面三眼二十四臂（ひ。手のこと）二足。</p>

<p>ひとつの顔を正面に向けているのはカーラチャクラが抱く明妃ヴィッシュヴァマーで、よく見ると背と尻がこちらに向いているので、その顔は『エクソシスト』の少女のようにグルッと後ろをむいているのがわかるだろう。こちらは四面八臂二足（図録ではなぜか何眼であるかが抜けているが、写真をよく見ると額に“縦の眼”があり「三眼」であることがわかる。ちなみに私は四面ではなく五面ではないかと思うのだが、もう一度行って確かめてみなければ何ともいえない）。</p>

<p>千手観音というのもあるし、八面六臂などという表現もあるように、複数の顏と手をもつ仏像は多々あるが（たとえば、人気の高いあの阿修羅像）、この躍動感はどうだろう！　いや流動感といったほうがいかもしれない。</p>

<p>現代の劇画やゲームなどのサブカルチャーに慣れた目にも、『北斗の拳』や『ストリート・ファイター』あるいは映画『マトリックス』（ちょっと古いか！？）の、目にも止まらぬ身体の動きをストップモーションで見せる“斬新な”表現手法がシラケてしまうほどの素晴らしさである。その“速度”感！</p>

<p>またも低俗な形容になってしまったが、むしろこれは、爆発的に静止している、ブルトンのいう「痙攣美」と言っていいのかもしれない。相反するものの合一を体現する父母仏像であることも相俟って、その官能性とともに聖と俗、善と悪が溶け合い一体となっているような熱く冷たい輝きを全身から放散させている。</p>

<p>邪悪、俗悪なものを足で踏みつぶしているその形姿が、ヒンドゥー教の最高神シヴァを思わせるのも興味深い。細部の凝りようの凄さも、バロック好きにはたまらい。フィギュア好きにも（海洋堂のフィギュアと比べるのはそもそも転倒というものか）。</p>

<p>本来、この父母仏像は門外不出の、修行を積んだ僧のみが観想をゆるされる仏像らしい。世俗の人間には毒気（瘴気）が強すぎ、この霊的パワーに太刀打ちできず押しつぶされてしまうからだ。実物を見ると、そう言われているのもわかる気がする。</p>

<p>しかし、せっかくの機会である。上野の森に足を運び、この立像を360度の視点から見てみるのもいいのではないだろうか（本展は来年の5月末まで全国を巡回している）。幸か不幸か、本地を離れることで、少しはそのアブナイ“霊力”も緩和されているだろう。これだけでなない。他の展示物も見どころいっぱいで、実物ならではのオーラを発散させている。</p>

<p>私も近づいたり遠ざかったりしながらこの像を何度もまわって見たが、文字通り見飽きることがない。見尽くすことはできない。<br />
他の展示品へ向かおうとしても、ついついこの像に引き戻されてしまう。その磁力は、ほとんど魔術（呪術）的といってよいほどである。</p>

<p>適わぬ望みかもしれないが、いつの日かもう一度、そのあるべき場所、現地チベット（シャル寺）で見てみたいものである。</p>

<p>カーラチャクラよ、非礼、不遜をお許しあれ。</p>]]>
        
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    <title>「Spirit オーストラリア植物物語」の案内状</title>
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    <published>2009-10-05T05:59:44Z</published>
    <updated>2009-10-06T03:49:52Z</updated>

    <summary>オーストラリアの写真、といえばこの人！ 相原正明さんから写真展の案内が届きました...</summary>
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        <category term="イベント案内" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="spirit_w320.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/10/05/spirit_w320.jpg" width="320" height="674" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>オーストラリアの写真、といえばこの人！ 相原正明さんから写真展の案内が届きましたので紹介します。</p>

<p>写真展は「Spirit オーストラリア植物物語」と題するもので、この10年間にわたり撮影されたオーストラリアの植物たちのポートレイト集とのこと。しかし、植物図鑑的な、つまり「説明的」な展示ではなく、小さなコケからユーカリの巨木まで、物言わぬ植物たちが大型パノラマ写真を含めて約60点展示されるようです。</p>

<p>「物言わぬ植物」とは相原さんからのメールにあった言い方ですが、植物図鑑的に分類したり、名前を付けていない植物ということなのでしょう。人が名付ける種や属の名前を剥ぎ取られモノに還元された植物たち------。「頭」で理解するよりも、「心の眼」で感じてほしいとの思いをこめて相原さんはシャッターをきり、展示の構成を考えたのでしょうが、名のないモノだからこそ逆に植物たちは別の何かを語りかけてくる。「Spirit」というタイトルは、そのことを見事に示している。</p>

<p>それが何かを知る前の「最初の出会い」の瞬間をこそ、相原さんは大切にしているように思います。彼の写真から、大自然の雄大さばかりではなく、原初の瑞々しい輝きといったものが伝わってくるのはそれゆえに違いありません。ハガキによる案内状を受け取ったとき、そこに印刷された写真とSpiritという文字を見て、静かな感動とともに、そんなことを感じました。相原さんの写真からは、写真というもののスピリットが風のように、見る者に向かって吹いてきます。</p>

<p>相原正明写真展「Spirit オーストラリアの植物物語」は、日本全国の富士フィルムフォトサロンにて開催されます。皮切りの東京展は10月16日から。詳細は相原さんの<a href="http://aihara.exbrog.jp/11332306/">ブログ</a>、ならびに富士フィルム・富士フォトサロンのHPをご覧ください。<br />
　<br />
</p>]]>
        
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    <title>アリ研第9回合宿報告　（付：松山取材報告）</title>
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    <published>2009-09-01T02:24:20Z</published>
    <updated>2009-11-02T04:43:20Z</updated>

    <summary>長野県・諏訪でアリストテレスと現代研究会（アリ研）の第9回合宿が行われました。諏...</summary>
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        <name>izumi_ishii</name>
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        <category term="アリストテレスと現代研究会" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p>長野県・諏訪でアリストテレスと現代研究会（アリ研）の第9回合宿が行われました。諏訪は2度目の合宿地となります。<br />
あいにく私は仕事で愛媛県・松山への出張と重なり合宿への参加はできませんでしたが、『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html?ie=UTF8&location=http%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2Fs%3F_%5Fmk%5Fja%5FJP%3D%2583J%2583%255E%2583J%2583i%26url%3Dsearch-alias%253Dstripbooks%26field-keywords%3D%2590%25AD%258E%25A1%258Aw%2581%2540%2583A%2583%258A%2583X%2583g%2583e%2583%258C%2583X%26x%3D0%26y%3D0&tag=cafeface-22&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211">政治学</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=ur2&o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』の読解やギリシャ美術史の講義、創意あるエクスカーションなど、ひらめきと高揚感に満たされた勉強会になった模様です。例によって、今回幹事を務められたN.I.さん（naohnaohさん）の「週末日記」から引用させていただき、報告の報告といたします。</p>

<p>＊</p>

<p>２８日(金)は、朝から第９回「アリストテレスと現代」研究会の諏訪合宿の準備をしました。午後２時半に全国各地から集まったメンバーが揃いました。二泊三日の合宿研修のカリキュラムは、「政治学」第４巻第１２章の輪読から始まりました。<br />
国家体制いかにあるべきか、というアリストテレス政治学の根幹部分のため、初っぱなから議論が白熱しました。第１２章だけで３時間近くかけて議論しましたが、選挙を控えた時期故に中味の濃い話ができました。</p>

<p>夕刻、皆で山から歩いて下りて、まるみつデパート５階の「和みの湯」で汗を流しました。<br />
その後、いつもお世話になっている割烹「一楽」で懇親会をしました。<br />
生麩のずんだ和え、焼き茄子の大和芋蒸し・うに添え、アサリの酒盗和え・山芋短冊、ズワイガニと菊の花の胡瓜巻きの酢物、滝川豆腐、マグロ赤身・ヒラメ・ヤリイカ・甘エビの刺し身、ホタテしんじょの冬瓜巻き・射抜きゴボウ・煮タコ・オクラの煮物。<br />
いずれも主の腕と熱意が伝わる料理でした。焼きおにぎりの茶漬けを食べてお開きとなりました。<br />
今の季節に毎日打ち上げられる諏訪湖のミニ花火を見て、ホテルに行くメンバーと別れました。<br />
 <br />
諏訪合宿二日目の２９日(土)は、朝８時過ぎからわが家にメンバーが集まり、前日に引き続き「政治学」第４巻第１３章の国家体制のあり方に係る部分の輪読から始めました。Ｏ大学Ａ座長による解釈を受けて、メンバーそれぞれの専門分野、経験からの意見が続出して、おおいに議論が盛り上がりました。<br />
一段落してから、メンバーのＴ大学Ｎさんによるギリシャ美術史の講演がありました。テーマは「アルカイックとクラシック」、ＢＣ５００年頃を境にギリシャ彫刻の表現がどう変わったのかを勉強しました。</p>

<p>午後からは恒例のエクスカーションで霧ヶ峰八島湿原に行き、秋の気配が漂う高原を散策しました。東俣林道を抜けて、御柱の木落とし坂を経て、六峰温泉の熱い湯に入りました。最初は熱さにしりごみしていた仲間も、湯のインパクト、入浴後の爽快感に満足した様子でした。<br />
諏訪の街に戻って６時から居酒屋「ばんや」で懇親会をしました。料理も可愛いお姉さんのサービスもよく、オヤジ一同皆気持ちよく酔っぱらいました。湖岸まで歩いて、花火を見てから解散しました。</p>

<p>３０日(日)は午前中に第１４章の輪読、解釈と全体総括を行いました。来年３月に予定されている次回合宿は、御殿場、浜松を候補地とすることになりました。<br />
メンバーを上諏訪駅に送ってから、もう１日諏訪に滞在するＡ大学Ｍさんと下諏訪みなみ温泉に行き、無人の掛け流し湯でゆったりくつろぎました。岡谷の「浜丑」で背開き、じか焼きの香ばしいうな重を食べ、買い物をして戻りました。<br />
夕方から、Ｍさんと高知「酔鯨」吟寿、地元「御湖鶴」純米吟醸、東京あきる野「しろやま桜」を飲みながら、選挙報道を見て過ごしました。<br />
 <br />
＊</p>]]>
        <![CDATA[<p>ちなみにこの8月28日、29日、私は松山において、アジアにおける「伝統文書（古文書）」の発掘・保存と異文化（多文化）の共存などをテーマとした座談会と親睦会にJOINT誌の編集者として参加しておりました。</p>

<p>たいへんに意義のある奥の深い議論が展開されましたが、なかでも発言者のひとりから、国家や民族を超えて「人類」としての視点から、固有であると同時にすべての人間が共有すべきものとして文化（文明といったほうがよいか？）をとらえていかねばならないという意見が表明され、感銘を受けました。</p>

<p>固有とか伝統という言葉は狭義のナショナリズムに回収されるおそれがあるが、いまはあまり厳密な言葉の定義に拘泥すべきではない。部分と全体、固有と普遍、一と多、大と小のバランスを今後どのようにとっていくかが、私たち現代に生きる人間の、困難ではあるが避けられない道である、と。<br />
アリストテレスの考えかたとも共通性する点を感じ共感しました。</p>

<p>また、以下は蛇足ですが、この論点に近い問題系はアリ研の今回の合宿でも酒を酌み交わしながら議論されたはずです。課題図書のひとつである『逝きし世の面影』（渡辺京二・著 平凡社ライブラリー）のことが、松山の地においても私の脳裏に浮かんでいました。この書は、きわめて優れたエートス論であり、また「外」からの視線をオリエンタリズムとして単純に排除することなく、いかに「内」との思索の往還のなかで己を相対化・普遍化するかという、近代をとらえ直すうえで、見事な知略につらぬかれた本だと思います。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="090901.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/09/01/090901.jpg" width="350" height="263" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>このような議論が歴史と文学の地である松山において行われたのも、なんだか粋でおもしろいと思います。諏訪においても恒例の温泉めぐりが行われたようですが、私もちゃんと道後温泉につかってきましたよ（^_^;）。　</p>]]>
    </content>
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    <title>土佐備長炭の窯出し体験</title>
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    <id>tag:www.cafe-nous.com,2009://10.470</id>

    <published>2009-08-18T09:17:41Z</published>
    <updated>2009-08-18T10:08:41Z</updated>

    <summary>この16,17日、高知県室戸へ行き、土佐備長炭に関連した取材を行ってきました。 ...</summary>
    <author>
        <name>izumi_ishii</name>
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    </author>
    
        <category term="そのほか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="090818.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/08/18/090818.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>この16,17日、高知県室戸へ行き、土佐備長炭に関連した取材を行ってきました。</p>

<p>高知空港から地元の研究者・宮川敏彦さんのクルマに同乗させていただき、ウバメガシや炭焼き技術の伝搬の歴史などのお話を道々おききしながら、森に囲まれた炭焼き窯へとご案内いただきました。</p>

<p>到着したときはちょうど「窯出し」の最中で、本格的なものとしては初めて見るその光景と、文字通り窯の熱気に煽られて気分も一気に沸騰！　神々しく白熱した炭を窯から引き出し、灰（スバイ）をかぶせて消火する作業の見事さ・豪快さ・美しさに見とれました（とは言っても、炭の熱と舞い散る灰のために、われわれ取材班はほとんど窯に近づくことさえできないありさまだったのですが）。あの熱や窯の中の火の色、引き出されたときにたてる炭の渇いた音、におい、「白炭」のいわれである灰の粉塵が空間を満たす様、扇風機の風、職人さんたちの機敏で無駄のない動作などの「全体」は、やはりその場の体験でしか感得できない高揚した時間と空間の結晶でした。</p>

<p>窯出しの合間の短い昼食時間に、消火されできあがったばかりの炭で、途中で買ってきたさばき立てのウナギや肉、地元の野菜を焼き、カンビールを飲みながら食べました。おまけに、刈りたての新米でにぎってもらったおむすびまでいただき（そのどれもが美味かったこと！）、自然のなかでみなさんと歓談しながら食したことは、忘れられない記憶として焼き付いたままいつまでも心にのこりそうです。</p>

<p>談笑のなかで「ここ室戸は田舎で、なんもないけど…」と、おむすびのおカミさんがおっしゃっていましたが、東京から来たわれわれにとって、この森と空気と炭、近くを流れる川の透明な水、そして人々のあたたかいおもてなしは、なにもないどころか、いやそれゆえにこそ、なにものにもかえがたい豊潤なものでした。<br />
仕事とはいえ、夏期休暇に旅に出られなかった私にとって唯一の、そしてサイコーに素敵な「夏」の体験となったことを、みなさんへの感謝の気持ちとともに記しておきたいと思います。</p>

<p>この室戸取材は、炭の産業と文化研究をライフワークとされている宮川さんへのインタビュー記事として、トヨタ財団の広報誌『JOINT』第2号（10月中旬の発行予定）に掲載される予定です。したがってここでは、記事の内容には立ち入りません。興味と関心のある方は、トヨタ財団のウェブ・サイトをご覧のうえ、講読をお申し込みください。</p>

<p><br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「水の宴」　神話的認識（ミュトロギア）の私的試み（メモ）</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.cafe-nous.com/2009/07/post-59.html" />
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    <published>2009-07-08T05:08:13Z</published>
    <updated>2009-11-02T05:04:52Z</updated>

    <summary>きのう（7月7日）、水・土・木（みずとき）ギャラリーで「七夕茶会」が開かれた。本...</summary>
    <author>
        <name>izumi_ishii</name>
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    </author>
    
        <category term="そのほか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.cafe-nous.com/">
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="090708.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/2009/07/08/090708.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>きのう（7月7日）、水・土・木（みずとき）ギャラリーで「七夕茶会」が開かれた。本展のコンセプトを「担当」した私としては、自分の考えを整理しておく意味で、前日の夜、下の覚書を書いた。ここに、その隠喩的連想のつながりをそのまま記しておきたい。</p>

<p>展覧会DMの「呼び込み文」には、こう書かれている。<br />
「水の宴。時世の変わり目には、水の精霊メリュジーヌが飛来し、その蛇身をきらめかせて城の上空を三度旋回する------。ケルト的妖精伝説と呼応するかのように、いま、ここにある三者三様の作品は時代の変化の予兆に身を震わせている。変容し、循環する水の宿命。このモノたちは、異なる風姿の内に変わらぬ本性を秘めながら、水の宴へと私たちを招いている。」</p>

<p>★</p>

<p>■なぜ、メリュジーヌか<br />
○水をテーマとした三人の作品展を開きたいので、コンセプトを考えてほしいという呼びかけがあったとき、こういう依頼ははじめてだし、私になにができるかわからないけど、おもしろそうなので引き受けた。<br />
○いわゆるシュルレアリスム美術にはA.ブルトンを通して関心は持っていたが、私は美術家でも美術評論家でもないので、少し躊躇した。しかし、配島さんに「だからこそ、頼みたい」といわれ、私自身にも刺激になり、勉強になるかとも思った。配島さんの編集的実験精神には、いつも敬意と畏れを抱いている。<br />
○やはりブルトンの著作を通じてメリュジーヌには惹かれるものを感じていた。しかし、ブルトンの本にはメリュジーヌの「説明」はまったくなく、私には水に関連する妖精の一種という理解しかなかった。（たとえば『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003259025?ie=UTF8&tag=cafeface-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4003259025">ナジャ </a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=as2&o=9&a=4003259025" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』には、自分をメリュジーヌに見立てたナジャが星のかたちに髪を結うという記述があるのみ）<br />
○だから、「水」というお題をもらったとき、メリュジーヌが時を隔てて思い浮かんだのは、まったくの直感と偶然でしかない。しかし、私は直感とか偶然というものにそれなりの信をおいている。<br />
○家のどこかに、10年以上も前に買いはしたが読まずにおいたままのメリュジーヌの本があるはずだと思い出した。なかなか見つからず、やはり縁がなかったかとあきらめかかったときに、最後に探した本棚の隅っこに文庫本の背の「妖精メリュジーヌ伝説」（クードレット作）という文字が目に入ってきた。<br />
○本を開いてみると最初にアリストテレスへの言及があるので、ここにも偶然の符号のようなものを感じた。少し前に、「愛知」県の常滑である友人と『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html?ie=UTF8&location=http%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2Fs%3F_%5Fmk%5Fja%5FJP%3D%2583J%2583%255E%2583J%2583i%26url%3Dsearch-alias%253Dstripbooks%26field-keywords%3D%258C%2560%258E%25A7%258F%25E3%258Aw%2B%2583A%2583%258A%2583X%2583g%2583e%2583%258C%2583X%26sprefix%3D%258C%2560%258E%25A7%258F%25E3%258Aw&tag=cafeface-22&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211">形而上学</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=cafeface-22&l=ur2&o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />』をちゃんと読みたいという話をしたばかりだったからだ。<br />
○プロローグの冒頭に「あの高貴な『メタフィジカ（形而上学）』の冒頭で、人間の知性は生まれつきものを考え、学び、かつ識ることにむけられるものである、と述べたかの哲学者アリストテレスは、……」とある。<br />
このメリュジーヌの伝説もなにかを「知る」ことに向けられた、「知る」とはどういうことなのかをめぐる物語としても読めるのだ。<br />
クードレット作の『妖精メリュジーヌ伝説』（森本英夫、傳田久仁子・訳 社会思想社・現代教養文庫）から要点のみを掬い取ってみよう。<br />
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        <![CDATA[<p>■メリュジーヌ伝説の粗筋<br />
○中世、西フランスのある地方（ポワトゥ）にレモンダンといううだつのあがらないひとりの騎士がいた。<br />
○ある日、王（伯爵である領主。ここでは「王」としておきたい）とともに狩に出る。レモンダンは巨大な猪に襲われた王を救おうとするが、あろうことかレモンダンの槍が王にささり、王は絶命する。<br />
○困りはてたレモンダンがひとり森をさまよっていると泉があり、そばに美しい3人の乙女（姉妹）がいる。3人の乙女はレモンダンに知恵をさずける。<br />
○なかでも末の妹メリュジーヌにレモンダンは目と心を惹かれ、王を手厚く葬って新しい王となったあかつきには、もう一度この泉を訪ねなさいという彼女との約束をはたし、ふたりは結婚する。<br />
○多くの子をもうけ（どの男子も一種の「奇形」なのだが）、ふたりは幸せに暮らすが、結婚のさいにメリュジーヌとかわした約束（誓い）があった。それは、土曜日の一日メリュジーヌは部屋にこもるので、けっして覗いたり、扉をあけてはならぬという約束である。<br />
○しかし、あるとき、土曜日にメリュジーヌがレモンダンを部屋にいれないのは、不貞をはたらいているからだという「噂」を耳にして、嫉妬に狂ったレモンダンは剣を扉に突き刺し、あいた穴からなかをのぞき込む。<br />
○そこにレモンダンが目にしたものは、水浴しているメリュジーヌの姿であった。これ以上に美しいものはなかったが、しかし彼女の下半身は蛇の尾であった。渦巻く水と水しぶきに銀色と紺碧色に輝く蛇身！<br />
○メリュジーヌは見られたことに気づかなかったが、レモンダンは彼女を失うことを怖れ、見たことを告白し、涙ながらに許しを請う。メリュジーヌは、二度と同じ過ちを繰り返さず、けっして他言せずにふたりだけの「秘密」に留めておくのであればという条件で彼を許す。<br />
○再度の誓いをまもり平穏な日々のままに時が経ち、ふたりは子どもたちの成長と出世（戦果）をたのしみにリュジニャンの城で暮らしている。ところがある日、レモンダン一家を不幸が襲う。戦士（騎士）にならず、ただひとり僧となった子が僧院の僧侶たちに惨殺されたという誤報をきいた兄弟のひとりが、怒りのあまり僧院を焼き払い僧侶を皆殺しにしたのだ。<br />
○この報せをきいたレモンダンは嘆き悲しむが、この不幸はメリュジーヌが人間ではなく異界の生き物（蛇）であることが原因であると思い、怒りに狂い、理性を失う。レモンダンの嘆きと苦しみを和らげようとして、メリュジーヌは何人かの付き人とともに、レモンダンのところへやってくる。しかし、我をわすれたレモンダンは、皆の前で、「ああ蛇よ。おまえの血をひく者は、生きている間にけっして善をなすことはないのだ！」と大声でわめきちらし、メリュジーヌの秘密をあばいてしまう。<br />
○レモンダンはすぐに後悔するが、もう取り返しがつかない。この言葉をきいたメリュジーヌは気を失って倒れる。そばにいたひとりの騎士が冷たい水で彼女の顔を何度も濡らし、メリュジーヌは意識を取り戻す。そして静かに悲しげにレモンダンに言う。「あなたの裏切り、あなたの過ち、あなたの嘘、あなたの冷酷さ、あなたの理性を失った言葉が、わたしを永遠の苦しみのなかに突き落としたのです。……」<br />
○「ここを去る前にもうひとつ言っておきたいことがあるのです。百年後に生まれる人にもそのことを知っておいてもらいたいのです。彼らにこの話を必ず聞かせてほしいのです。リュジニャン城の城主がかわる年の三日前に、城の周りにわたしが浮かんでいる（飛んでいる）のが見えるでしょう。空に姿が見えないときには、地面の上に、少なくとも泉のほとりに姿をみせます。……」<br />
○「優しいあなた、どうかわたしのために祈ってくださいね。わたしはあなたの命が続くかぎりあなたのことを忘れはしません。あなたが困難に直面した時には、わたしの助けと慰めを得ることでしょう。わたしはあなたのお役に立てるように気にかけています。でも不幸も受け入れなければなりません。もう二度と人間の女の姿でメリュジーヌを見ることはないでしょう。あなたのおそばに長く仕えた、あなたの心からの恋人メリュジーヌを」……<br />
○「メリュジーヌは話し終えると、窓から飛び立ち、たちまち大きくて長い蛇に変身しました。それにはだれもがとても驚きました。蛇に姿を変えたこの妖精の尾は、銀色と紺碧に輝いていました。レモンダンは激しく嘆きました。メリュジーヌは三度城砦を旋回すると、その度に叫び声をあげました。それは驚くべき叫び声でした。とても不思議な、悲しく哀れを誘う叫び声でした」<br />
（上昇し星になるメリュジーヌ？　天と地をつなぐ龍（立つ）、竹のナーガ（ヒンドゥー教の蛇神）？　上に伸びる竹は天地をつなぐ蛇？　七夕の願い事を書いた短冊を飾る葉竹も？）</p>

<p>■メリュジーヌを妖精（精霊）として、三つの作品（ミュトス）をつなぐ。あるいは、3つの「創作」をつなぐロゴスを探ることでメリュジーヌを召喚する。<br />
そのことで、「水の宴（縁）」を神話（ミュトロギア）生成の場とする。<br />
○「はじめに神話があった」というポール・ヴァレリーの言葉。<br />
○アリストテレスの「知ることを欲する」の「知る」は「見る」とも訳せる。<br />
○『形而上学』には、また、「哲学（フィロ・ソフィア＝愛知）は驚く（不思議を感じる感性）ことからはじまる」という言葉もある。すなわち知ることは驚くことであり、それは見ることである。<br />
○水（水面）は驚きを生むメディアであり、鏡。ナルキッソス。ミロワール（鏡）→メルヴェイユ（驚き、不思議）。鏡（水面）に移る自分。私とは誰か。「驚き」の根源。予兆としての顕現。<br />
○「メリュジーヌという言葉は、必ず驚くべきことが起こるということを意味しているのです」（「メリュジーヌ伝説」p.57）<br />
○「見る（知る）」ことの恐ろしさ（禁忌）。メドゥーサ。見ることによる喪失。オルフェウスとエウリデュケー。レモンダンとメリュジーヌ。禁を破り「見ようとする」画家。<br />
○「……創作（ポイエーシス）を美事にするためには、神話（ミュトス）はいかに組み合わされなければならないか」（アリストテレス『詩学』）<br />
○真実＝自然（性）。創作＝自然の模倣（ミメーシス）。人為（アート）によって自然（無意識）と一体化する試み。その限界。「自己の死」と引き替えの真実との出会い。<br />
他者との出会い（導き）と別れ（犠牲）、再会（再生）への願い。再び巡り合うことの、予兆。</p>

<p>■メリュジーヌという神話から別個に造られた三者の作品とその関係を「読む」<br />
○メリュジーヌは水の精霊であり、蛇の化身である。水と蛇は、自然の不可思議を象徴する「得たいの知れない」自然（の要素）である。ともに変容と循環のミュトス（神話素）である。（蛇は脱皮、つまり変容し、自らの尾を噛む蛇＝ウロボロスは循環の象徴）<br />
○芸術作品の見方（読み方）は、作者の意図を超えて多種多様であり、個々の見る者との視線の交差のうちに成立する。したがって、むろん、これも「ひとつの」隠喩としての読みにすぎない。三角の関係性のなかで読んでみると。</p>

<p>●配島さんの作品は、メリュジーヌとレモンダンの結婚（聖なる異類婚）の碑である。→異なるものの結合、創造の秘蹟。<br />
●川村さんの作品は、己の「秘密」を人目に曝された（裸にされた）メリュジーヌが身を投じた窓。→水面、鏡、すなわち「こちら」と「あちら」との境界、別れの悲しみと再会への祈り。<br />
●岡野さんの作品は、「洪水の後」つまり変容した（する）世界へ飛来したメリュジーヌの目によって眺めた景色である（水は変容すると同時に、変容させるものである）。→メリュジーヌの帰還。新たな地上の「王」との出会いの場「泉」をもとめて</p>

<p>水の「物質の三態」のように、三者の作品はそれぞれの関係のなかで変容しトグロを巻いた蛇のごとく循環する。「3」は面（閉じた世界）を構成する最小の単位である。宴は縁であり円である。</p>

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<p>夜、11時半ころ帰宅。7月7日は妻の誕生日であり、8日との境目、0時少し前に生まれたという。</p>]]>
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