3月5、6,7日、アリストテレスと現代研究会(通称アリ研)の合宿が御殿場で行われた。第10回目にあたり、参加者もちょうど10名。この哲学の勉強会合宿は半年に1回開かれる。スタートから数えると、アリ研に早くも5年が経過したことになる。
勉強会はアリストテレスの主著のひとつ『政治学』を参加者が輪読し、段落ごとに座長の荒木勝先生がコメンタリーを加えながら読解していく講義スタイルで行われるが、そこに参加者が質問や感想をはさみ、ときにボケとツッコミの間合いで、アリストテレスの思考を「現代」と照らし合わせていく。今回の講義も、いつもながらに刺激的でスリリングであった。
アリストテレスという名前は知られてはいても、日本ではほとんどきちんと読まれてこなかったこの2300年も前の哲学者の、広範かつディープな思想のスゴサにその都度驚き、その射程が更新され、先へ先へ、奥へ奥へと伸びていく。そしてまた、出身地や世代や職場の異なる私たち参加者それぞれの、現代社会にたいする見方が広がり、一旦カオス化しながらそこにシグナルを探り当てるかのように、一見掛け離れた事象がつながり、深まっていく(ような気がする)。
今回の合宿では『政治学』の4巻の終わりまで読解が進んだ。
次回からは7巻に移り、『政治学』を最後の8巻に向けて読み継ぎながら、いよいよアリストテレス哲学の根幹に位置するとされる『形而上学』を徐々に繙いていくことになる。
次の5年、10年でどこまですすむことができるか。このせっかちな市場主義の世の中で、目立たぬながらもじつに遠大で途方もなく大それた企図である。
ちなみに荒木勝の翻訳・注釈による『政治学』全巻が、この夏ころ発刊される予定。
荒木教授によれば死ぬまでに(?)『形而上学』を完成させたいとのことである。
アリストテレスのテキストとは別に、「現代を読む」うえでの今回の課題図書は内田樹の『日本辺境論』であった。私は前から内田氏の本やブログのファンであり、物事の考え方や関心の向き方、嗜好に似ている部分があることをよく感じる。年齢も近いし、「フランス文学」出身だし、映画や音楽など同じ文化体験をしていたようだし(80年代の同じ時期、ともに世田谷区の尾山台に住んでいたことがあるのを最近知った)。昨年秋、たまたま担当した彼の講演をまとめる仕事でその姿を見かけ、一言だけ挨拶をかわしたことがあるが、これもたまたま本屋で見かけ読みはじめたばかりの最新刊『現代霊性論
』(釈徹宗との対談)を合宿に持参した。荒木先生は鈴木大拙全集
の『日本霊性論』が収録されている巻を持ってきていて、そこになにかがシンクロしたような、「霊性」が機能したような気がしたが、そんな気がしただけであろうか。まあ、この場合、「気」がはたらいた気がすればそれでよいわけなのだが。
参加者のひとりに美術史の先生がいて、勉強会の一コマに、ジャポニスム----フランス印象派やフォービスムにおける日本美術の影響をめぐる講義があり、恒例となりつつあるこのN教授の美術史講義も、合宿の大きな愉しみのひとつになってきている。
今回のこのテーマは、プログラムに予定されていたポーラ美術館の作品観賞に合わせたもので、講義のあと2台のクルマに分乗して箱根まで出かけた。
途中、あいにくの雨と霧で富士を拝むことはできなかったが、美術館周辺の葉のない樹木が水墨画のように幽遠に霞み、どこかスピリチュアルといってもよい風合を漂わせていた。
宿の研修所へは、近くの温泉の白濁した湯にみなでつかり身体を浄め(?)暖めてから戻った。この温泉巡りも、アリ研合宿では恒例のこととなっている。
なお、この合宿の最中、宿で参加者と懇談しているときに私のケイタイが鳴った。
私の耳に聴こえてきたのは、写真家で友人の小林洋治さんが亡くなったことを報せる、奥さまからの声だった。偶然にも、私と小林さんが携わったある仕事の話題が出ていたときのことである。
そのこともここに記し、記憶にとどめておきたい。
私は7日の夕方東京に帰り、翌8日の告別式に参列することができた。
私はこのところ、たまたま目の具合が悪く、合宿の間中ずっと半眼状態の涙目であった。
講義の合間には愉快な雑談が飛び交い、アリストテレスの「笑い」や落語、吉本漫才の話題も出て、そのときはじっさい涙が出るほど大いに笑いもした(そういえば、小林さんは落語が好きだった)。
そして、雨の美術館。
目の痛みと笑い、そして悲しみ……。
雨と涙がとめどなく流れた。




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