nous letter
2009年12月 9日 15:56

埼玉と静岡で「本」を主題とした現代美術の展覧会が開かれている。12月2日付けの朝日新聞(夕刊)に「現代美術で見る、感じる『本』」という記事がでていたのでご存知の方も多いだろう。なぜか、いま「本」なのである。

私はきのう、この二つの展覧会ではなく、「もうひとつの」本をめぐる展示を見に、練馬区江古田の小さなギャラリー「水・土・木(みずとき、と読む)」に足を運んでみた。このギャラリーのオーナーである陶芸作家の川村紗智子さんは知人でもあり、ご案内をいただいておきながら、5日のオープニングには行けなかったからという事情もあったわけだが。

古今東西、「本」という主題、あるいはモチーフによる美術作品は数多く作られつづけていて、本というモノが好きで、また長年、書籍や雑誌の編集やデザインに携わっている職業柄、いつも興味はもちつづけてきた。しかし、なぜ“それ”が「好き」なのかはよくわからないし、本を「読む」ということ自体が人間にとって、どんな意味や価値のある営為なのか、わかりやすい説明で理解するのは意外にむずかしいことなのではなかろうか。
仮に、情報や知識を仕入れるためのメディアだからといったって、じゃ情報や知識を本というメディアで得るとはどういうことなのか。口頭にせよ何にせよ、他のメディアで得ることと何が違うのか。また、それが説明できるとしても、なぜ本が好き(あるいは嫌い)なのかは、そういう仕方で「理解すること」を超えたなにものかなのではなかろうか。本の特性(「本」性)というか、本というものの魅力は、ちょっと別のところにあるような気がする。

081208-1.jpg091209-2.jpgということで(どういうことで?)、「坂の上の雲」ならぬ坂の上の家「ギャラリー水・土・木」の『本のかたち 09「アーティストブック1」』を見に行ってみたわけだ。まず全体として、先に「小さな」ギャラリーといったが、アーティスト8人によるこのグループ展は、じつに多様・多彩でありながら個々の作品のもつ強度も高く、小さいからこその内に溜め込んだある種の「力(エナジー)」を感じさせる好企画だったように思う(ちなみに8人とは配島庸二、菱刈俊作、木下良輔、栃木美保、服部俊弘、瀧本祐子、上田恭子、川村紗智子の8名である)。
この「普通の」住居を改装した小さな「家」であるギャラリーが、一冊の絵本として開かれており、そのなかにまた、さまざまな「宇宙」を秘めた本が並んでいる。ひとつの「入れ子」構造をもつ宇宙模型(どんな大きなものでも、模型は“それ”を小さくしたものであるか、その逆であることに面白さがある)として、小さな町の小さな本=家として読まれることを誘っている……。

なかでも、やはりと言うか何というか、私としてはいまいった「本を読む」とはどういうことかというメタな問題意識(というほどではないが)を追求しているような作品に惹かれるものが多かった。
091209-3.jpgいまここで個々の作品に言及する余裕はないが、これもやはりというか、配島庸二の「折畳本」(佐理試論)の2作は、本というモノの持つ空間性と時間性をまるごと折り(織り)込んだ素晴らしい作品であった。これもすぐに一言で言えないが(だからこそ!なのだが)、本を書く(つくる)、あるいは本を読む(見る)という行為をソバージュ(未開、野生)なまでの美しさで「かたち」にしたもので、私にとってはひとつの衝撃であり驚きだった。

たまたま少し前に、仕事の関係で、アジアの古文書(パラバイ、ロンタルなどの伝統文書)の形態を調べてみていた矢先だったということもあろう。一種、なにかがシンクロした感があった。私は美術作品を「買う」という発想に縁遠い者だが(お金ないし)、その官能的な「美」に反応し、珍しく、あっ、これは欲しい、そばにおいてずっと見ていたい(読んでいたい)と思ったほどだ。

それはさておき、それにしても「!」である。
あえていえば、ハード/ソフトウェアとしての本(本というコンセプト)が、かつてこれほど生(ブリュット)なかたちで、己の姿をさらしたことがあっただろうか。
この作品は30年ほども前に作られたものだそうだが、同時に展示されていた炭書の新作「ジードの日記」などに見るように、配島さんのここ数年の炭書のセリー(系列)を知る者にとって、その両者のあるようでじつはない「絶対の距離」を測ることで、本という「知」のありようの「起源」あるいは「消滅にむけた未来」に変わらぬアンビバレンツな恋情を抱いていることにガクゼンと感動したのだった……。

きのう会場に配島夫妻と「スクラップ・ワンダーランド」の池田忠利さん夫妻が、これもたまたまいらしていて、帰りがけに江古田駅そばの「済州(チェジュ)」という店でビールを飲み、韓国料理を食べながら歓談したことも忘れずに記しておきたい。じっさい済州島で十年ほど「修行」したというソウル生まれの女主人のつくる焼き肉やチヂミなどなど、とくにキムチがことのほか美味で、こんどみなでホントの済州島にいって食べよう、月島で「もんじゃ」もいいねなどと、あまりゲージツに関係のない(?)話で盛り上がり、私にとっても久しぶりに味気ない日常を忘れた楽しい一時であった。
……とか言いながら、白菜をまるごとつかったキムチで「食べられる本」がつくれないかな〜などと帰りの電車にゆられ心地よくウトウト夢見ていたら、気づいたときはすでに降りる駅を二駅ほど過ぎていたのでした。おしまい。


2009年11月10日 14:03

091110.jpg銀座で池田忠利さんの個展を見てきた。
道に迷って、やっと会場の「ギャルリー志門」にたどり着いたら、すでにオープニング・パーティは始まっていた。
小さな部屋はパーティに駆けつけた人々でいっぱい。数人の見知った顏もあったが、ほとんどははじめてお見かけする方々。池田さんの作品に負けず劣らず、風貌も格好も個性豊かでユニーク、池田さんの作品の一部のようでした。なんて言っちゃいかんか!? でも、ぼくは、こういう方々のほうがほっとする。
091109-3.jpg作品については、改めてここでは触れない。どの作品もタイトルがふるっていて、やはり、池田さんの作品はそのシャレたイタズラ言語感覚抜きには語れない気がした。
で、私も、ここで一句ならぬ一シャレを、池田忠利讚江。

 一角獣の
 けん玉遊び
 ダッコチャンとのランデヴー

 探検するスルメの短剣
 誰がじゃれるか髑髏
 時計草の夢語り
 始祖鳥尻目にトランス・ダンス!

もうひとつオメケに。

091109-2.jpgープニツカッタ
ジラ
ラップ ポップ スクラップ
ッツン・アラ・ドーモ

ンパクオウジガ
ートトオクデ
イビング
クダハラクダッテ

ーナツハドーナッタ


2009年11月 4日 14:41

09.11.04.jpg「渚の創造者」池田忠利さんから展覧会の案内状が届いた。海岸に打ち上げられた漂着物をコラージュして、ユーモラスでちょっと不気味な作品を生み出す池田さんのひとつの集成ともなる個展である。

 というのも、今回の展覧会は15年余にもおよぶ彼の創作「SCRAP WONDERLAND」の作品集の出版を記念したものでもあるからである。くわしくは本サイトの「コンテンポラリー粋/狂」をぜひ一読いただきたい。これは作品集に掲載されている配島庸二さんの「友愛」につらぬかれた論を「一足先」にアップさせていただいたもの。池田さんの長年のファンである私も、そもそもが配島さんに池田さんを紹介してもらったことが彼の作品を知るきっかけだったわけだが、お二人を知る私にとって、友愛といっても、のっぴきならぬ一種の緊張感漂うこの一文は感涙ものである(そうか、アール・ブリュットやゾンネンシュターンが、こんなふうにつながってくるのか!)。

 池田さんから郵便で送ってもらったこの作品集を眺めていると、なんとも楽しい気分になり、いろいろな言葉が浮かんでは消える。というか、分断された言葉の断片が意識の層に浮かび上がっては、無意識に沈んでいく。それは、たまたま最近読んだ本にあった言葉、たとえばラカンの「他者の語らい」とか「無意識は言語として構造化されている」といった、やはり「言葉」に対する言葉だったりする。そして未開とかブリコラージュ、シニフィアンとかアフォーダンス、「不気味なもの」(フロイト)とかモンスター、夢とか転生とか顏とか渚とか……。

 海と陸地の境目である渚は、意識と無意識の境界でもあるという比喩が成り立つからだろうか。「渚の創造者」という呼びかた自体、ずいぶん前の配島さんによるものだが、いまになってその詩的で多義的、かつ入れ子的な見立ての「意味」がわかってきたような気がするような気がするような気がする(アレ?)。

 そしていま、新たな作品とともに、自然と都市、未開と文明、過去と未来の渚に、それ自体が渚の贈り物としてこの作品集が打ち上げられた次第なのだ。

 配島さんは、「媚」「秋波」という言葉を巧みに使い、またブルトンの『ナジャ』にも言及されているが、それに連関して、私はやはりブルトンの「理解するよりも先に愛すること」という言葉が、久々に大脳の岸辺に漂ってきたことを付け加えておきたい。池田さんの作品群は、まさにモノと人との愛の営みであると言いたくなったからかもしれない。愛の狂気か、「狂気の愛」か!

「狂気の愛」とは、これまたブルトンの著書の題名だが、原語でL'amour fou であり、fou (フ)は英語でいえばフール、狂気であると同時に「おバカさん」とか「道化」の意味を持っている。すなわちこれは「道化の愛」とも読める。考えてみれば、道化とは境界=渚に存在する者ではなかったか! そこでは、道化こそが王である。

 さてさて、これら道化たちのパレードに、私たちもくり出してみようではないか。

 池田忠利「作品集出版記念」展は、11月9日〜14日まで、東京・銀座のギャルリー志門で開かれます。

2009年10月23日 12:35

事務所に来る途中、上野で下車して「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」展を見てきた。
この展覧会を先に見ていた家人にすすめられて行ったのだが、やはり、これは何ともスゴイ、おもしろい!
宗教(チベット密教)美術だから、あまりストレートな俗っぽい反応は慎むべきかもしれないが、まずはこうとでも言っておくしかない。

ずいぶん以前に別のチベット展などで曼荼羅やマニ車などの法具類、いくつかのタンカや仏像は見たことがあった。しかし、仏像マニアからほど遠い私にしても(だからか?)、こんな凄まじく美しい仏像の数々ははじめてである。ひとつだけ紹介してみよう。

たとえば、極め付けといっていい、これを見てほしい。
091023.jpg「カーラチャクラ父母仏(ぶもぶつ)立像」と呼ばれるもので、14世紀前半に作られたらしい。
男女二体の仏が抱き合い合体(合一)した総高60cmほどの立像で、この写真(絵はがき)では隠れて見えない側にカーラチャクラがいる。

図録によると、カーラチャクラは一切の悪に打ち勝つ力を持つ最強の仏である守護尊(忿怒尊)のひとつで、伝説のシャンバラの教主でもある。四面三眼二十四臂(ひ。手のこと)二足。

ひとつの顔を正面に向けているのはカーラチャクラが抱く明妃ヴィッシュヴァマーで、よく見ると背と尻がこちらに向いているので、その顔は『エクソシスト』の少女のようにグルッと後ろをむいているのがわかるだろう。こちらは四面八臂二足(図録ではなぜか何眼であるかが抜けているが、写真をよく見ると額に“縦の眼”があり「三眼」であることがわかる。ちなみに私は四面ではなく五面ではないかと思うのだが、もう一度行って確かめてみなければ何ともいえない)。

千手観音というのもあるし、八面六臂などという表現もあるように、複数の顏と手をもつ仏像は多々あるが(たとえば、人気の高いあの阿修羅像)、この躍動感はどうだろう! いや流動感といったほうがいかもしれない。

現代の劇画やゲームなどのサブカルチャーに慣れた目にも、『北斗の拳』や『ストリート・ファイター』あるいは映画『マトリックス』(ちょっと古いか!?)の、目にも止まらぬ身体の動きをストップモーションで見せる“斬新な”表現手法がシラケてしまうほどの素晴らしさである。その“速度”感!

またも低俗な形容になってしまったが、むしろこれは、爆発的に静止している、ブルトンのいう「痙攣美」と言っていいのかもしれない。相反するものの合一を体現する父母仏像であることも相俟って、その官能性とともに聖と俗、善と悪が溶け合い一体となっているような熱く冷たい輝きを全身から放散させている。

邪悪、俗悪なものを足で踏みつぶしているその形姿が、ヒンドゥー教の最高神シヴァを思わせるのも興味深い。細部の凝りようの凄さも、バロック好きにはたまらい。フィギュア好きにも(海洋堂のフィギュアと比べるのはそもそも転倒というものか)。

本来、この父母仏像は門外不出の、修行を積んだ僧のみが観想をゆるされる仏像らしい。世俗の人間には毒気(瘴気)が強すぎ、この霊的パワーに太刀打ちできず押しつぶされてしまうからだ。実物を見ると、そう言われているのもわかる気がする。

しかし、せっかくの機会である。上野の森に足を運び、この立像を360度の視点から見てみるのもいいのではないだろうか(本展は来年の5月末まで全国を巡回している)。幸か不幸か、本地を離れることで、少しはそのアブナイ“霊力”も緩和されているだろう。これだけでなない。他の展示物も見どころいっぱいで、実物ならではのオーラを発散させている。

私も近づいたり遠ざかったりしながらこの像を何度もまわって見たが、文字通り見飽きることがない。見尽くすことはできない。
他の展示品へ向かおうとしても、ついついこの像に引き戻されてしまう。その磁力は、ほとんど魔術(呪術)的といってよいほどである。

適わぬ望みかもしれないが、いつの日かもう一度、そのあるべき場所、現地チベット(シャル寺)で見てみたいものである。

カーラチャクラよ、非礼、不遜をお許しあれ。

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Profile

石井 泉/いしい いずみ
東京出身。明治学院大学文学部フランス文学科卒。長きにわたり、出版社、編集プロダクションに在籍、主に科学・芸術関係の雑誌、書籍編集およびデザイン、公共施設の展示プランニング等を手がける。2006年に独立し、「エディション・ヌース」として事務所を開設。科学・芸術・哲学の領域を、横断的な視点で編集・表現していく感性と技を模索しつづけている。最近は依頼に応じてエッセイの執筆なども行う。
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