このおじさんの仕事は、というと、毎日たくさんの四角い缶を大きなリヤカーに、山のように積んでどこからか帰って来るのですが、長靴にゴムの胸当てのついたエプロンを掛けて、ゴムの手袋を肘まではめて、それを一つずつその舟に浸してはピカピカに洗い上げるのです。このブリキ缶は、お菓子、特に飴類を入れたもののようで、中には溶けた飴がこびり付いているのもありましたし、外側にはレッテルも貼り付いていたりしたのですが、とにかく薄茶色をしたお湯に入れて、束子でごしごし洗うのです。もちろんレッテルもきれいに剥がれて洗い上がると乾かしては、またリヤカーに山のようにピカピカに積んで何処かへ運んでゆくのです。
近所に特に懇意にしていた八百屋があって、その家に、貰いっ子という噂のある、ミキちゃんという男の子がいました。小学校を出ると家業の八百屋を手伝って、朝早く父親とともに、やっちゃ場(八百や市場)に、荷車を引いてでかけるのです。そのミキちゃんが13〜14歳、私が9歳ぐらいでしたが、休みの日には我が家へよく遊びに来たものです。遊び、といっても、ミキちゃんのそれは探偵ごっこなのです。が、普通の子供の遊びとは少し違っていて、ごっこの域を超えていたのです。
まず我が家の小さな物置に探偵事務所を開設するのですが、そこに岩波文庫でしたかの『シャーロックホームズの何とか』という本を何冊か持ち込んで、机代わりの台に並べて、そのうえに虫眼鏡、方角をみる磁石、地図、などというしつらえをするところから始まるのです。私も密かに父の東京市街地図を持ち出して、いつでも拡げられるようにしました。そしてダンロップタイヤ、とか、犯罪、ホシ、尾行とか、それに「第六感」という難しい言葉を覚えたのもその時です。それが何であるのかよく理解出来ないままに、ミキちゃんと二人だけで、他の友達とは違う遊びをしていることを、なんとなく密かな、そして誇らしくさえ思っていたのです。普通ならその頃、怪人二十面相とか明智小五郎とかいうのですが、それらとはひと味違う、すぐそこにある街の現実感のようなものがあったのです。それはミキちゃんが「ほら、あのおじさん、なんか臭うだろ!」という、そういう言い方とか「なんか秘密を隠している臭いがしないか」といいながら、遂に二人でおじさんの後をつけ始めるのです。
ミキちゃんからすれば私はあのワトソン君なのでしょう。尾行のはずみで、例の事件の街へ行くケースもありますし、子供のことですからそんなに遠くに行くわけではないのですが、私たちは事務所に帰ってくると今歩いた道順を、地図を拡げて改めて辿ってみるのです。ただそれだけのことですが、私はそうしたいわば冒険を通じて、人間には鼻で嗅ぐにおいの他に「別の感覚(ミキちゃんの云う第六感)で嗅ぎ分ける臭い」のようなものがあるらしい、ということをおぼろに感じたのでした。
土間にはいつも、天井に届く程、錆びた針金や、何かの機械の部品とか、とにかく鉄くずの梱包が積み上げてあるのです。ですから土間は錆びた鉄くずの酸性の臭いとどぶ泥の生臭い臭いがしていました。このよなげやのムラオカさんちの土間にはいつもどぶから上がったばかりのべい独楽がブリキのバケツに幾つも入っていて、気に入ったのがあれば分けてもらえるから、特に男の子たちには隠れた人気があったのです。それはどこかの子供がコマ遊びの最中に、どぶ川に弾き飛ばしてしまったものですが、そういうのは前の持ち主が一生懸命、強い独楽を作ろうと改造したもので、かなり強そうな面構えをしているのです。駄菓子屋で売っている鋳込んだままの新品の独楽とは、重みや貫禄が全く違うのです。もう錆びかかっているものもありますが、それを更に自分なりに、例えば道路のアスファルトにこすって回転軸の芯を研ぎ出したり、相手と当たる角を削り出したり、表面に松脂を溶かして天保銭を埋め込んだり、鉛を溶かして埋めて、とにかく重戦車のようなどっしりとした独楽を作るわけです。仕舞には手がすっかりドブドロと金気の臭いで、幾ら洗っても取れなくなってしまうほどです。今のような除菌時代には到底考えられない事です。
こうしてひとたび「臭い」記憶が蘇ると、次から次へと出てくるもので、我ながら仰天しながら書いていますが、こんな臭いの遊び?がありました。確か3〜4歳の、もちろん学齢前のことです。近所の子供たちと、今まで続けてきた遊びを突然中止して、お互いの腕を捲くって唾液を掛けると、今度はそれを片方の手で激しく擦り合うのです。摩擦の熱で乾いてきたら、すぐに鼻を当ててその臭いを嗅ぎあうのです。ただそれだけの事で、遊びといえるのかどうか、そして、もしそれをフロイト先生がご覧になったらなら、何とおっしゃるのか、と、ふと興味深く思うのですが・・・。
その当時の私の家の匂いというと、関東大震災と昭和の大恐慌のあおりで、父は親代々の薬屋を失敗してしまい、酒に浸る日々だったそうですが、私が生まれたのを機に酒を断って、私の知る父は、熱心な禅宗の信仰者の姿でした。ですから家の中は常に線香の匂いが漂っていたし、お菓子ときたら、いつも父がお寺から貰って来る供物の打ち菓子にしても、どこか線香のにおいが染みていたものです。
母の懐が木酢の匂いであったことは先に述べましたが、父の懐はというと、こちらは常に抹香の匂いと、仁丹のような匂い。薬屋を仕舞ったとはいえ、局方の薬以外の漢方の薬もずいぶんあって、お腹を壊した時など煎じて飲まされてもいましたから、そんな匂いがしていたのです。つまり日曜学校の匂いと、我が家の匂いのコードが違っていた、という訳です。
この父親の懐の匂いは、後で、もう一度、今度はスパイスとかハーブという匂いにコードを変えて、1950年頃ですが、私の画家としての生活に大きな転機をもたらすことになったのです。そして更にもう20年を経て、冒頭に述べた、食のアートイベント並びに「チャングムの誓い」への発想と繋がっているのだということを、この記事を書きながら、ありありと思い浮かべ、自覚するに至ったのです。「チャングムの誓い」などは全編が漢方ならぬ韓方薬の香りに満ちた物語りですから・・・。
さて、余談が長くなりましたが、その日曜学校のクリスマスの催しで、劇をする事になって、本来ならキリスト誕生の話になるのに、その一年後には、第二次世界大戦が始まろうというときのことですから、銃後の子供たちの心構えを説いた、勧善懲悪劇です。大勢の悪い友達が、一人のよい子供を誘惑するといったその劇で、私は事も有ろうに、代表的悪ガキの役を振られ、マルメンと云われていた大きな円形のメンコをおでこに付けさせられて登場し、一斉に「そうだ、そうだ、それがいいや」と大声で叫ぶのです。もうそれが嫌でいやで、恥ずかしくって、そんな或る日曜日、劇の練習の最中に、チリンチリンとベルの音がして生ゴミ集めの車が来たのです。当時はおじさんが大八車に大きな黒い箱を乗せて、集めにきたものですが、教会の裏口を開けて作業を始めたのです。その臭いが突然練習の劇の中へ流れ込んだものですから、思わず「あっ、臭い」と云ってしまった私は、牧師の奥さんに、そんな下品な事を云ってはいけません。だからメンコが相応しいといって叱られてしまったのです。そうか臭い事は下品なのか、おれは下品なんだからメンコの役なのか、と、なんともやり切れない気持ちになって、いっそクリスマスなんか休んでしまおうかと何度思ったか知れません。結局何とか終わらせたのですが、日曜学校そのものも、また劇とか芝居というものもいっぺんに嫌いになってしまったのです。




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