アリストテレスへの道(2)

2008年7月23日 15:51

 さて、前回は、私がポーランドでアリストテレスに出会うさわりの部分で終わっていました。
 ポーランドの2年間の滞在期間は、私にとって大きな意味をもっていましたが、なかでも、初めて西洋人の生活にある程度接触できたことは最大の収穫であった、と思います。

 ある日、おそらく、83年の春のある日のことだと思いますが、ワルシャワの日本人学校に通っていた娘が、下校時、妻と息子と一緒に、学校の近くにあった公園(ワルシャワをご存知の方はサスキ公園といういえばご存知でしょう)を散歩していた時、足を滑らして池に落ちるというハップニングがおきました。娘はそのとき、小学1年生、息子は5歳くらいでしたが、落ちたその池はすり鉢状で、娘はどんどん池の中心に引き込まれるように沈んでいったようです。妻はおろおろ、自分は泳げないので、誰か助けてと叫びましたが、その声とほとんど同時に、近くを歩いていた若いポーランドの女性が、自分の赤ちゃんを妻に手渡すと、目にも止まらぬ速さで池に突進し、服をきたまま頭から飛び込み、娘の近くに泳ぎ、彼女を抱えるようにして助けた、ようです。
 そのポーランド女性は何事もなく去ろうとしたので、妻は名前と住所だけを教えてもらいました。

 後日、私は妻とともに、そのポーランド女性のお住まいを探しあて、尋ねていったのですが、当時のポーランドの普通の労働者の家庭が住んでいる、2DKの小さなアパートに彼女は、若い夫とともに住んでいました。部屋にはほとんど家具らしきものはなく、池に飛び込んで汚れた服を新調してほしいと言って幾ばくかかのお金を渡そうとしても、頑として受け取ろうとはしません。私たち夫婦はただただお礼の言葉を述べ、帰宅しましたが、帰路の間、私たちは感動の渦の中にいました。これは一体何だろう、と。

 さらにまた娘に関わる事件ですが、やはり春の一日、ポーランドの田舎の春の祭典で、もっとも有名なウオヴィッチュの祭りに出かけてときのことです。
 ワルシャワ郊外の田舎の町ウオヴィッチュは、民俗衣装で着飾ったポーランドの美少女達が踊る春の祭典で有名で、、普段は数千の町の人口を何倍にも膨れ上がらせ、人々は身動きできない通りを押し合いへし合いで行列のほうへ進んでいきます。
 私たちも4人でその人並みにうずもれていましたが、昼ごろ家内があわてて、娘がどこかにいってしまったというのです。この何万という人波の中にまぎれこんだ、というのです。どうしてもっとしっかり手をもっていなかったのか、という怒声を妻に浴びせながら、それからという数時間、町中を人ごみに押されながら探しまわり、また祭りの主催者、警察にも頼んで探してもらいましたが、夕方になっても不明なままでした。だんだん夕闇がせまり、あせりと疲れでなにか絶望的な感じに囚われていたそのとき、薄暗くなり、人並みが減った通りの中央からポーランドの老夫婦が一人の子どもを連れて、なにか叫びながら近寄ってきたのです。

 その子が私たちの娘でした。この老夫婦は、昼からずーっと娘の親を探して町中を歩きまわていた、というのです。
 あとで、この老夫婦のご自宅まで伺いました。かれらはこの地元のお百姓の方でした。私たちは、お礼を述べましたがその家族からかえって大歓迎され、日本のことやポーランドでの生活やで話が盛り上がり、帰り際に、ポーランド風騎士の帽子や人形をお土産にいただきました。言葉も満足に通じないのに、どうしてこんなに楽しい、幸福感に満ちた時間がすごせたのだろう。

 私はいまでもこのエピソードを思い出すたびに自分が幸せな時間のなかに入っていくような気がします。

 ポーランドでの生活は、複雑な理論で武装された思想とは別の次元に生きている思想の存在を気づかせてくれましたが、それが何なのかまだよくわかっていなかった、と思います。あるとき、それは、トルストイの民話の世界に通じる何ものかではないか、またそれが、エートスにまで転化した思想ではないか、と思うようになりました。(つづく)

荒木

2008年7月23日 15:51 | コメント(1) | トラックバック(0) |

アリストテレスへの道(1)

2008年7月18日 16:24

 アリ研のメンバーから、アリストテレスとの出会いについて話してほしいと言われました。機会がありましたら、ゆっくりお話したいと思っていますが、今、思いつくままに述べてみます。

 1982年から84年まで、私はポーランドに留学していました。
 82年という年はポーランドは戒厳令の中、連帯が非合法化され、ヤルゼルスキー将軍が独裁権力を握っている、と報道されていた年でした。

 2年間のポーランド滞在の日々は、私にとって、驚きの連続でした。
 その中でも一番の衝撃は、マルクス、レーニンの思想的権威がポーランドではほとんど感じられなかったことでした。公式にはもちろんマルクス主義、レーニン主義の宣伝、党員の公式の場での発言はありましたが、どれもこれも生気がなく陳腐なもの、本屋には、マルクス、レーニンの全集が山と積まれていましたが、学生がそれを良く読んでいるようには思われませんでした。
 マルクス主義は思想としては死んでいるように思いました。
 それに比べて、カトリック関係の書物にはおおくの学生が魅かれていて、ポーランドのワルシャワ郊外にあるカトリック大学には、毎日むせ返るような学生・教員の熱気あふれる討論の場がありました。

 私は、思想とはなにか、生きた、生活に根ざし思想とはなにかを改めて考え直して見よう、と思いました。日々の生活に生き、子どもたちを教育する場に生き、日々の内省の基準となり、明日を生きる生の励ましになる思想とはなにか、について考えました。マルクスはそのような問題の考察に役に立つのか。
 ポーランドで多くの友人を持つことができましたが、そうした交流がまた私を考えさせました。(つづく)

荒木

2008年7月18日 16:24 | コメント(0) | トラックバック(0) |

荒木 勝 講演録 「幸福の行方」(9)最終回

2008年7月10日 10:35

(8)からつづく

 どうやら、やっとひとつの結論にたどりつきましたが、これで終わらないのが人生というもの(笑)。
 では、どうやったらその「魂のある種の活動」を行うことができるのか。忘我入神というけれど、「狂」に陥らないための、“正しい”忘我入神の方法をどのようにして見出し、身につけるのかといった未解決の問題が残ります。それはヨーロッパや東洋の長い知的伝統のなかでも議論されつづけている、「狂信」と正しく信じる「正信」という、ふたつの「信」がぶつかるむずかしい問題です。
 さらに、そこにまたアレテーの問題も循環してくる。

 また身近な例をあげてみましょう。たとえば、日本の偉人のひとりに西郷隆盛という人間がいた。西郷という人はたいへんに宗教的な魅力をそなえた人だったらしく、一日西郷に触れると一日おぼれる。二日目はさらにおぼれ心酔し、三日、四日になると心中してもいいと思えるくらい西郷の周りにはオーラが漂っていたといわれています。つまりある面で人を狂わせる不思議なパワーを西郷という人物はもっていたのでしょう。

 そこで、じゃあ西郷は神なのかという問題がでてきます。西郷と神を分けるものはなんなのか。だれでも西郷は人間であって神ではないというと思いますが、それでは人間と神はなにがちがうのか。
 もちろん、私は西郷さんであれどんな偉い人であれ、人間と神はきちんと分けて考えなければならないと思っています。そこにはエンシュージャスムスの観点と、アレテーすなわち知慮の徳の観点の両方の結び付きから幸福の問題を考えていく必要がある、と。

 う〜ん、なかなか終わりませんが、あとはとりあえず各自の人生における「実践」の問題であるということにしておきましょう。じっさい、哲学に自分で考えることなしの「答え」を期待されても困りますし、解にいたるための正しいと思える「考え方」を示すのが哲学の役割です。そして“ともに”考えるということがとても大事なことでしょう。私だって、こうやってお話しながら、みなさんといっしょに考えているのです。考えるということは、しかも言葉で考えるということは、忘我入神じゃないけど(苦笑)、ともに、結び合いのなかで考えるということにほかならないのではないでしょうか。そして、答えがあるとしたら、それは各自の生き方のなかで探っていくしかない。
 「そして、人生はつづく」というわけです。

編集版「戦略的思考を超えて[3-1]」

2008年7月10日 10:35 | コメント(0) | トラックバック(0) |

荒木 勝 講演録「幸福の行方」(8)

2008年7月 8日 10:41

(7)からつづく

 今回私は、幸福というのは無上の喜びをともなう精神の状態であるということを強調していますが、愛のアレテー=徳というものこそ幸福の最高の条件であるということを強くいっておきたいのです。つまり喜びは愛を語るさいに欠かせぬものだとか、あるいは愛を補完するものだとかいわれますが、アリストテレスによれば愛という徳こそが、人間の力によって獲得できる幸福のなかで最高のものだといえるのです。愛も知性の一種だとすると、それが人間の知の卓越的な力によって獲得が可能な幸福なのです。

 いわゆる運命、運の偶然のはたらきや転変に耐える知慮の力といってもいい。すなわち、①合理的理性を含んだ知性と理性の結合である知慮、そして②その知慮と結合した宜の徳、愛と正義のアレテーの発揮のなかに幸福があるということ。このことを肝に命じておいてください。

 ここまでのところは、多くの研究者のうちでもだいたい一致したアリストテレス理解だと思います。ただ、この2つのことだけで幸福になるための条件がすべて満たされることになるのでしょうか。私がみなさんに私の理解としてぜひとも述べておきたいのは、幸福にとって3番目の問題です。それは最前からでてきている「神与」ということに関連する事柄です。

 知慮によって獲得される幸福、そして愛の力によって行き渡る幸福。しかしそれだけではなくて、幸福にはもうひとつ別の視点から見ることのできる幸福がある。神的なものに出会うことによってもたらされる幸福がそれです。
 先の引用文をもう一度見てみましょう。

 「もし神々の人間への贈り物と考えられるべき何ものかがある、とするならば、幸福(エウダイモーニア)こそ神与のもの(テオスドートン)とするのが至当であり、それは最善のものであるだけに、人間の持つあらゆるもののうち、そのもっともふさわしいものであろう。

 ……

 しかし、たとえ幸福が神与のものでなく卓越性(アレテー=徳)とかなんらかの学習(マセーシス)や訓練(アスケーシス)によって生じるものであるにしても、それはやはりもっとも神的なものに属すると見られる。まことに、卓越性の報償であり目的であるところのものは、なによりも善きもの、したがってまたなんらか神的なもの、至福(マカリオン)のものであると思われる。

 ……

 すなわち幸福とは卓越性に即した、魂のある種の活動(エネルゲイア)である」

 この「神的なものに属する幸福」というものをどう考えればよいか、正直いって私にも長い間よくわからなかった。ところがあるとき、『政治学』の最後の第8巻でアリストテレスがひじょうに重要なことをいっていることに気づいたのです。そこにエンシュージャスムス(enthusiasmus)という言葉(ギリシャ語)が出てくる。英語でエンスージアスム(enthusiasm)。日本でも一種の俗語として「エンスー」なんて言い方で使うこともある。

2008年7月 8日 10:41 | コメント(0) | トラックバック(0) |

荒木 勝 講演録「幸福の行方」(7)

2008年7月 2日 10:37

(6)からつづく

 ここで、アリ研のこれまでの講義に参加していない人のために少し補足しておきますと、アリストテレスは実践的力量をもう少し細かく分けておりまして、そこにはいわゆる戦略的な思考や実践も含まれてきます。これまで「戦略的思考を超えて」ということでお話をしてきましたが、「反戦略」でない以上、そこに戦略的な思考をいっさい認めないということではないのです。

 これはわかりやすい例を出しますと、公認会計士などをはじめとするような、経理的、会計的な功利性、合理性の世界です。つまり、目的・手段を功利的に選択していくという戦略的な思考がないと、家庭も企業も政治もうまくいかない。世俗的な成功もその可能性が保証されないということになります。目的・手段の効率的な選択には当然、数字をふまえたうえでの的確な判断力が必要なわけで、そこではIQ(知能)を重視した思考が評価されるのです。

 ただ、この戦略的思考だけを極限的に追求していくとどうなるかということを考えてみていただきたい。結局それは目的にたいして、より功利的な手段を選択することばかりに思考が集中することになる。手段の合理的選択が目的に先行してしまう。そして、自分だけの、あるいは自社だけの、自分の家族だけの、自分の階層だけの利益になればよい、そのために成功すればよいということに帰着していくことになるでしょう。

 そうなると当然、当人以外の人や集団から、その成功は共有しえないから許しがたいという評価を下されるはめに陥る。利益を自分の会社だけにはいってくるようにして、その周りの外注先や諸々の関係者などが死にたえることになったら、それはやはり何のための企業かという大義や理念が問われることになる。また家族においても、自分だけが計算づくで楽しくいい思いをしても、妻や子どもたちとその思いを共有できなければ、真の楽しさを味わうことはできない。どこか充足しきれない空しさが心の底に残るでしょう。身近ことで言いましたが、そういう意味で戦略的な思考は“それだけでは”一時の幸福感に空しさがつきまとい、周りにも虚無的な気持ちを引き起こすであろうことは、やはりしっかりと自覚しておく必要があります。世の中、戦略ばかりになったら、こんな息苦しいことはありません。

 では戦略的思考を超えるものはなにかという本題に戻りますが、それはアレテー、卓越的力量とか徳と呼んでいるものの発揮と強く関わってくる。端的にいって、アレテーとは自分と他者との善、この場合利益といってもいいと思いますが、そのバランスをとることです。パブリック・グッズという言葉がありますが、このグッズ(goods)が善=財の両方の意味をもっていることを想起するとわかりやすいかもしれません。また、バランスは比例的配分と言い換えてもいいかもしれないけど、要は正義というのは、自分と他者との善=利益のバランスをとるというかたちでしか発揮できないことなのです。

 自社と他社の繁栄のバランスを保つ。夫と妻の愛情のバランスを配慮する。さらにいえば日本と世界との経済のバランスをとるといったような、そういう思考と行動が正義ということです。このバランスは同一ということではないし、必ずしも「私有」を否定しているのでないことは、前にお話したとおりですが。

2008年7月 2日 10:37 | コメント(0) | トラックバック(0) |