さて、前回は、私がポーランドでアリストテレスに出会うさわりの部分で終わっていました。
ポーランドの2年間の滞在期間は、私にとって大きな意味をもっていましたが、なかでも、初めて西洋人の生活にある程度接触できたことは最大の収穫であった、と思います。
ある日、おそらく、83年の春のある日のことだと思いますが、ワルシャワの日本人学校に通っていた娘が、下校時、妻と息子と一緒に、学校の近くにあった公園(ワルシャワをご存知の方はサスキ公園といういえばご存知でしょう)を散歩していた時、足を滑らして池に落ちるというハップニングがおきました。娘はそのとき、小学1年生、息子は5歳くらいでしたが、落ちたその池はすり鉢状で、娘はどんどん池の中心に引き込まれるように沈んでいったようです。妻はおろおろ、自分は泳げないので、誰か助けてと叫びましたが、その声とほとんど同時に、近くを歩いていた若いポーランドの女性が、自分の赤ちゃんを妻に手渡すと、目にも止まらぬ速さで池に突進し、服をきたまま頭から飛び込み、娘の近くに泳ぎ、彼女を抱えるようにして助けた、ようです。
そのポーランド女性は何事もなく去ろうとしたので、妻は名前と住所だけを教えてもらいました。
後日、私は妻とともに、そのポーランド女性のお住まいを探しあて、尋ねていったのですが、当時のポーランドの普通の労働者の家庭が住んでいる、2DKの小さなアパートに彼女は、若い夫とともに住んでいました。部屋にはほとんど家具らしきものはなく、池に飛び込んで汚れた服を新調してほしいと言って幾ばくかかのお金を渡そうとしても、頑として受け取ろうとはしません。私たち夫婦はただただお礼の言葉を述べ、帰宅しましたが、帰路の間、私たちは感動の渦の中にいました。これは一体何だろう、と。
さらにまた娘に関わる事件ですが、やはり春の一日、ポーランドの田舎の春の祭典で、もっとも有名なウオヴィッチュの祭りに出かけてときのことです。
ワルシャワ郊外の田舎の町ウオヴィッチュは、民俗衣装で着飾ったポーランドの美少女達が踊る春の祭典で有名で、、普段は数千の町の人口を何倍にも膨れ上がらせ、人々は身動きできない通りを押し合いへし合いで行列のほうへ進んでいきます。
私たちも4人でその人並みにうずもれていましたが、昼ごろ家内があわてて、娘がどこかにいってしまったというのです。この何万という人波の中にまぎれこんだ、というのです。どうしてもっとしっかり手をもっていなかったのか、という怒声を妻に浴びせながら、それからという数時間、町中を人ごみに押されながら探しまわり、また祭りの主催者、警察にも頼んで探してもらいましたが、夕方になっても不明なままでした。だんだん夕闇がせまり、あせりと疲れでなにか絶望的な感じに囚われていたそのとき、薄暗くなり、人並みが減った通りの中央からポーランドの老夫婦が一人の子どもを連れて、なにか叫びながら近寄ってきたのです。
その子が私たちの娘でした。この老夫婦は、昼からずーっと娘の親を探して町中を歩きまわていた、というのです。
あとで、この老夫婦のご自宅まで伺いました。かれらはこの地元のお百姓の方でした。私たちは、お礼を述べましたがその家族からかえって大歓迎され、日本のことやポーランドでの生活やで話が盛り上がり、帰り際に、ポーランド風騎士の帽子や人形をお土産にいただきました。言葉も満足に通じないのに、どうしてこんなに楽しい、幸福感に満ちた時間がすごせたのだろう。
私はいまでもこのエピソードを思い出すたびに自分が幸せな時間のなかに入っていくような気がします。
ポーランドでの生活は、複雑な理論で武装された思想とは別の次元に生きている思想の存在を気づかせてくれましたが、それが何なのかまだよくわかっていなかった、と思います。あるとき、それは、トルストイの民話の世界に通じる何ものかではないか、またそれが、エートスにまで転化した思想ではないか、と思うようになりました。(つづく)
荒木


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