以下は昨年末に名古屋で行われた「アリストテレスと現代研究会」座長/荒木勝(岡山大学教授)の講演を、同研究会のメンバーである石井泉が文字に起こし、編集・構成を行ったものです。まだ完成をみていませんが、このコーナーに何回かにわけて掲載していきます。連載の間に忌憚のないご意見や感想をお寄せいただければうれしいです。なお、前2回の講演録と合わせて再構成を行い、最終的に荒木先生に補筆していただき一冊の「本」としてつくりあげる予定です。ご期待ください。(現在のところ発行・発売の形態・方法は未定です。ご要望があれば、早めに石井までご連絡ください)
この研究会(アリストテレスと現代研究会、通称アリ研)も、はじめてから3年ほどがたちます。何度か講義や勉強会を行ってきましたが、私としては毎回が驚きの連続だったというのが率直な気持です。
欧米諸国では、社会で指導的立場にある人たちは、プラトンやアリストテレスの基本的な著作は読んでいて、だいたいの知識はもっている。また、専門家ではない一般の人々のなかにも、ギリシャ哲学に対する関心をもち、基礎的素養を備えている人々は多い。
しかし、日本においては、これまでにお話した翻訳文のとっつきにくさなど諸々の事情があることはあるのですが、ほとんどといっていいほど、その哲学になじみがない。とくにアリストテレスはそうです。
だから何が驚きだったかというと、このアリ研、そしてアリ研の個々のメンバーを通じて伝わってくる個人や社会に対する問題意識がじつに切実なものであり、しかもアリストテレスが言わんとしていた哲学的思考と根本のところでつながっている。そういう思いが回を追うごとに強まり、大袈裟ですがある種の衝撃さえ感じるのです。
世間知らずでとおっている私ですが(苦笑)、じつは現在、私の所属している大学で、企業でいうところの管理職めいたことをやっていて、「学問」研究とはまた別次元の忙しない状況がつづいています。本音をいうとひとりでどこかにひきこもりたい(笑)気持でいっぱいなのですが、そうもいかないし、逆にいうと社会の情勢がかなり具体的に“身にしみて”わかってくる面があります。この管理職のあいまに、その悩みとこういう会やメールでやりとりされる問題がリンクして、みなさんの問題提起にどう応えたらいいのかということを、いつもどこにいても、考えざるをえないはめに陥ったというのが実情なのです。
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さて、きょうは「幸福論」がテーマです。勉強会のための合宿とは別に、これまで2回講演という形で話をしてきましたが、メンバーの人からの提案もあり、ひとつの締めくくりとして今回は幸福とは何かといったことを主題に話してみたいと思います。
先に結論めいたことを言いますと、この講演の準備をしている過程でだんだん自分の考えもふくらみ発展してきまして、結局のところ幸福というのは「宗教」の問題と深く関わってくるものであるとの思いが強くなりました。ただ急いで付け加えますが、この場合の宗教とは、なにか具体的な教団、たとえばかつてのオウム真理教の社会的問題とかをここでまた取り上げるということではなくて、もっと広く一般的な意味での「宗教性」あるいは「聖なる次元」といった範疇でこの言葉を使いますので、その旨をご了解いただきたい。
まず大きく言って、いまなぜ幸福論が問題となるのかというあたりから簡単に話していきたいと思います。
日本の社会に欧米流の経営方式がはいってきて、また、いわゆるグローバル資本主義・市場経済に席捲される世の中になって、もう十年以上になります。勝ち組・負け組などという言葉が流行り、あれよあれよという間に、格差社会などといわれるようになった。閉塞感といった言葉も同様です。いつの時代でも社会はさまざまな問題を抱えているわけですが、このような言葉は、たしかにこれまで一般ではあまり使われることはなかった。
ただ言葉として使われることが多くなったというだけでなく、じっさいに、日本の社会はこの十数年くらいの間に、じつに大きな問題を抱えるようになったということを私も実感しております。しかも、過去に類例をみない、今後の予測もできないような問題や課題が日々表面化しているようにも感じます。
人口1億2千万、成熟して豊かになったというこの国で、毎年3万人もの人が自殺に追い込まれている。交通事故死よりも多いし、自殺者のなかには、働き盛りの人が多くの数をしめている。端的にいって、問題解決の糸口を見出すことができず、あるいは問題の元になる責任の所在さえ明確にできず、絶望の淵に追いやられた結果の死が増えているのです。
「自分で死ぬのが悪い、自己責任だ」といって済ませられることではないはずです。こういう社会でなければ防ぐことのできた自殺は、想像以上に多いのではないでしょうか。
以前に、このアリ研メンバーになったNさんとも深刻に議論したことがあります。Nさんは中小企業の経営者を相手に、さまざまな相談に応じ、解決策をいっしょになって考えるコンサルタントのお仕事をしている人です。
いろいろな話題が出て同感することが多かったのですが、そのなかでもとくに、日本の銀行は怠慢であるということでは、まったく話が一致しました。まともに相手を調査せずに担保だけとって、あとは知らん顔をきめこむ「左ウチワ」の金融機関は許し難いということです。
そればかりではなく、ひじょうに大きな、たとえば一方に莫大な収益をあげている巨大企業があって、他方には小さな町工場や商店のような零細企業がある。その零細な企業に、まったくもって理不尽な要求をつきつけてくる大会社があるわけです。かなり単純化していっていますが、そういう状況のなかで誠実に汗水たらして働いたあげく、自ら命を絶つ人があとをたたない。
私自身も管理職になってみて、その辛さを日々しみじみと味わっている現状があるので、企業の管理職の立場にある人の苦悩はある程度推測がつきます。たとえばある会社の部長が理不尽とわかってはいても、部下に会社の命令を指示しなければならないという状況はよくあります。部下である相手がどんなに弱い立場にある場合でも、「やれ!」という命令をしなければならず、なんとも嫌な気分になるわけです。“上”からの命令は、管理職だろうがその部下だろうが、いわれたらやらざるをえない。まじめな人ほど心の葛藤にさいなまれ、しかも報われることが少ない。
その結果、日本の社会のなかに「鬱病」が蔓延している状況が生じている。
こういう企業社会における鬱病は、日本だけではなくアメリカなどにも相当に広がっているようです。鬱から自殺にいたる現象が、大きな波のようにアメリカの社会を襲っているのです。
そういうなかで、日本でも対処療法的に鬱病やそれにまつわる自殺を防ごうという社会の自己防衛がはじまっている。自殺防止法が制定されたり、NPOなどが自殺を未然に防ぐための活動を行うようになった。精神医学界にも、さまざまな対応策が問われている。
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別の似たような社会現象として「いじめ」の問題はどうでしょう。こどもたちの自殺も増えている。これもその原因をひとつのことだけに限定できない、複雑な要因がもつれあって起こることですが、些細なことながら私が最近とくに気になっていることからアプローチしてみましょう。(つづく)



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