荒木 勝 講演録「幸福の行方」(2)
それは自分の息子や娘と話をしていて気づいたことなのですが、いじめというか差別の問題としての「美醜」といったことなのです。人が美醜のことを気にするのはあたりまえのことです。誰だって自分の"見た目"が醜いよりは美しいと言われたい。しかし、ことに若い人たちにとっては、自分が美しいか醜いかが、いまきわめて切実な関心事となっている。他人が自分をどのように見るかは誰だって気になることですが、醜いといわれることが劣等感の範囲にとどまっているならまだしも、差別やいじめにつながるから美しくなりたいという一種の強迫観念と化しているような気がする。しかも、その「美しさ」は皆と同じ美しさでなければならないような均一的な表面のみの美しさなわけです。なにが真の美しさかという観点は、まったく抜け落ちている。
そこに企業が目をつける。先日もテレビで報道されていましたが、「美の世界の争奪戦」というようなタイトルで、日本の大手化粧品会社が中国や東南アジアという巨大マーケットに進出し、「美」の市場が急成長を遂げている。お金さえ出せば、誰でも簡単に美しくなれるというわけです。グローバル資本主義の流れといってしまえばそれまでですが、それは結局のところ、そこに群がっていくわれわれ人間の問題としてとらえたとき、美醜と幸福の関係、美しくないと幸せの切符を手に入れることができないのではないかという不安に関わってくる。
些細なことといいましたが、これは考えてみると人間存在の根源的な部分に、ひじょうに深く関わってくる重要な問題です。ご承知だと思いますが、仏教には阿弥陀仏の48願というのがある。法蔵菩薩が仏になるために48の願をかけるのだけど、そのひとつに、この世の中に生きているありとあらゆる人から醜さがなくなるようにという祈願がある。それが叶ったときにこそ、悟りを得て仏になることができる----。そういう話ですが、人類にとっては大昔から美醜をめぐる問題が人間の幸福にとって大きな要素になっているのがよくわかると思います。
日本やアジアばかりでなく、もちろん古くからヨーロッパでもそうでして、現代のわれわれが見ることのできるギリシャ的彫刻の美の裏に、美しくないとされていた人たちの悩みが隠されている。そういう人々はなにかにつけ発言権を奪われていたり、差別されたりで、「生きにくさ」という問題にかかわってくる。じっさい、美しい(とされる)人は貴族的な処遇を受け、身分を保障されるなどの実情があったし、現にいまでも似たようなことはあるわけです。つまり、そういう美醜をめぐる問題が幸、不幸を分ける大きな要因になるだろうということが一方ではたしかに考えられるのです。
ですから、いま私たちが直面している幸、不幸の諸相は、ある意味で現代特有の問題でもあるけど、人類はじまって以来の基本問題に立ち返ってみることで、ある程度の整理と理解ができるのではないかとも感じています。幸福とは何かということがひじょうに見えづらい時代に、大昔にアリストテレスの考えたことが、私たちの生き方になんらかのヒントをあたえてくれるのではないか。そんな期待もこめて、こうやってお話をさせてもらっているわけです。
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現代にかぎらず、不幸な時代には、不幸な状態から抜け出して幸福になりたいという人たちのなかに「癒し」とかスピリチュアルなものに憧れるという傾向が強まります。つまり、いうまでもなく幸福には貧富や美醜の問題など物質的・肉体的な面が大きく影響しますが、しかし、その物質面での「豊かさ」と心の平安とは必ずしも一致しない。幸福にはその両面が欠かせない。
たとえば仏教にも幸福の反対の苦しみ、不幸な状態からの脱却を仏の救いにもとめ、悟りの境地にいたることができれば幸福になることができるという考え方がある。
また、キリスト教では「心の貧しき者に幸あれ」という言葉がマタイ伝などに見られるように、人々に幸福をあたえるのが本当の宗教であるという呼びかけがある。だから世の中の不幸が拡大すればするほど、当然のように幸福をあたえると呼びかける宗教に多くの人が頼るようになってきます。「幸福の科学」という名称が象徴するように、それを当て込んだ勧誘が盛んになり入信する人たちも増えることになる。だから、そのことの是非は別にしても、やはり幸福論はどこかで宗教的な救いといった問題と深く関わってくるといえるだろうと思うのです。
この場合の科学という単語は、宗教と同義につかわれている。科学も、人間を幸福に導くマジカルな宗教的救いをもたらすものとして、現代人の願望が投影されているのですね。
そんなことをなんとはなしに考えていたら、ある日、偶然に映画『天国と地獄』をリメイクしたTVドラマを見たんです。これは幸福論を考える意味でもとってもおもしろかったのですが、黒澤明の本編を思い出すと同時に、あわててエド・マクベインの原作『キングの身代金』も読んでみました。
幸福論とどんな関係があるのか。それは、簡単にいうと、いついかなる災難がわれわれに降りかかってくるか予想はできない。偶然に左右される人間の生活のなかで、ある日突然、思いもしなかった事態が起き、未来の明暗をわける重要な岐路に立たされたとき、どっちをとるかは誰しも"自分の問題"として考えざるをえないということなのです。
『天国と地獄』では、ある裕福な会社社長の息子が誘拐されたという事件が発端になるのだけど、それがじつは社長の子ではなく、その社長のおかかえ運転手の息子だったということが明らかになる。それでその子どもの命と引き替えに身代金が要求されるのですが、社長は自分が社運をかけ苦労して得たカネを雇い人である運転手とその息子のために、はたいてしまうことができるか。自分の幸福を犠牲にして、他者のためにつくせるかといった究極的な問いが、そこに問われているわけです。
そのとき私が思ったのは、幸福とか不幸とかにむすびつく問題を考えたときに、たとえばお釈迦さんとかキリストに"すべて"をゆだねて、救いのために自己判断を放棄してしまうというかたちで、私たちの生活を処理していいのかということです。いかなる事態になった場合でもなにをどういうふうに選択していったらよいかという人間自身のある種倫理的な問題として、幸福の問題を考えていく必要があるのではないかと痛感しました。
まあ、このようなことは改めて言うまでもないことではあるのですが、ひとつの問題の立て方として、確認の意味で述べておきたいところです。みんな誰だって幸福になりたい。しかし、いや、だからといったほうがよいか、神仏にすがるということだけですぐさま幸福が到来するわけじゃない。
幸福になるために、人間のもっているあらゆる力を行使して"自分で"選択していくにはどうすればよいかを考えていくということが、まずは重要な幸福論の切り口だと思います。(つづく)
