荒木 勝 講演録「幸福の行方」(3)

2008年6月 6日 10:19

(2)からつづく

●幸福という言葉をめぐって

 では、何をどのように選択するか。そのためには、そもそも幸福とはなにかということから考えていかねばならないでしょう。

 幸福というのは万人万様で、主観的なものだし、人によって幸福の感じ方は違うのではないかという考え方はたしかに一面では正しいでしょう。私とあなたの幸福にたいする価値観は同一ではないし、みながそれぞれ各自の幸福を追求しているのだから、幸福について論じることに意味はないのではないかというわけです。
 ところが、ある意味では不思議なことなのですが、万人が万様に幸福を追求しているのだけど、そこに万人に共通する、なにかしら普遍的な、幸福の根拠といったものがあり、「私とあなた」の間で幸福をめぐるコミュニケーションがちゃんと成り立つことも事実なのです。もし、私の幸福とあなたの幸福がまったく異なるものでなんの共通性ももたないものであれば、互いの話を理解することすらできない。
 
 われわれは日ごろから、ちょうとした会話の節々に「あなたはいま幸福ですか?」とか「幸せになってね」などという言葉をはさみ、互いに気持ちや情報の交換をしあっているわけです。そしてそこに、幸福とは何かということがおぼろげながらにしろ、一定の共通理解がなされている。そうでなければ幸福という言葉で会話は成り立たなくなってしまう。

 たしかに現代社会はこの幸福の意味、何が幸福かといったことがひじょうにわかりにくくなっていることは事実でしょう。個人の嗜好や主観を超えた幸福はあるはずなのですが、共通して語れる幸福の像(イメージ)がどんどんぼんやりとしてきていて、幸福を語り合うことが困難な状況になってきている。
 だから、幸福なんて個々の価値観が決めることで、幸福と感じるかどうかは主観の問題なのだから、そんなことは意味がないという思考に陥りがちなのですね。でも、いまいったように、そんなことはないのです。むしろ、いまの世の中では「幸福論」そのものが成りたちにくいという、そのことを問題にすべきでしょう。ですから、まず、私たちが幸福というものを思い描くとき、一般的なあり方として幸福とはなんであるかを考えていきたいと思っているわけです。


 幸福という「言葉」からはいってみましょう。
 幸福の「幸」という漢字は、説文解字という中国の漢代にできた字典によりますと、吉にして凶をまぬがれる、とか、夭死(わかじに)をまぬがれる、という基本的理解があるのですが、もともと人偏のつく「倖」と同じ意味合いがあったとされています。僥倖といいますね。僥とは人の累々たる様を示していますので、幸=倖とは人々が群れ集い、活発な集団生活がそこにあること、そしてその一員であることが前提になっているのです。ちょっと拡大解釈しますと、他者とともにあることが幸福の根拠のひとつであることになります。

 また幸福の「幸」は、和語として「しあわせ」とも読みます(「幸福」と2文字で書いても「しあわせ」と音読みすることがあります)。しかし「しあわせ」というのは、もともと「幸」の読み方ではなく、「し(仕)」「あわす(合わす)」、つまり「仕合わせ」からきた言葉です。
 仕合わせとは、「仕」「合わす」ですから、出合いとかめぐり合いといったニュアンスをもっていて、事の成り行きがうまくいくという意味合いでつかわれるのです。つまり、原因はよくわからずとも、なにか事柄がうまく組み合わさって、よいかたちで事がはこぶことが「仕合わせ」です。仕合わせよし、仕合わせ悪し、といった用法もある。
 なお、松尾芭蕉の『奥の細道』に、「この道必ず不用(不都合)のことあり、恙のう送り参らせて仕合わせしたり」という文があるのはご存知かと思います。

 英語のhappyという単語にも似たような意味合いがあります。happyのhap
には、そもそも運とか運命という語義がある。ドイツ語のgluckも同様で、幸運とか幸福を指す言葉には、洋の東西を問わず似たような意味が含まれているんです。このような言葉で私たちが思い浮かべることには、ひじょうに重なる部分が多く、万国共通に通じ合うものがあるということですね。

 もう少しヨーロッパ人のものの考え方の骨格をつくってきたギリシャ語、ラテン語の世界をのぞいてみましょう。
 ラテン語には幸福を指す言葉のひとつにベアティチュド(beatitudo)というのがあります。これには、祝福されたとか恵まれたという意味合いがあります。誰かから祝福を受けることが幸福の大きな要素なんですね。
 ギリシャ語でいえば、幸福を表す言葉にふたつあります。エウダイモーニア(eudaimonia)とマカリオン(makarion)。さきほど少し触れたマタイ伝の「心の貧しき者に幸いなれ」とか「義に飢え渇く者よ幸いなれ」とかの「幸い」というのは、マカリオンです。

 マカリオンの意味は、喜びが満ちあふれる「幸せいっぱい」というイメージに近い状態の幸福です。マカリオンのマ(ma)は接頭語で、カリオン(karion)はカリウス(xarius)からきた言葉でしょう。カリウスは快楽の「快」、要するに心の奥底から湧き出るような喜びを指していて、アリストテレスも『ニコマコス倫理学』のある部分で、それが幸福のひとつの現れであると言っています。

 ではエウダイモーニアとはどんな幸福の様態を指しているのか。ギリシャの人々は自分たちにとっていちばんの幸福を指すときにエウダイモーニアという言葉をつかうのですが、この言葉はきょうのこの幸福論のキーワードのひとつでもあります。
 エウダイモーニアのエウ(eu)とは英語でいうウェル(well)、つまり「よい(良い、善い)」という意味です。ダイモーニアはダイモーン(daimon)、すなわち神霊ですね。要するにエウダイモーニアには、「神霊のよき導き」という意味合いがあるのです。
 ダイモーン(神霊)とは何かとなるとひじょうにむずかしい話になるのだけど、このさいは取りあえず、万物の背後にあり万物を動かしている目にみえない力とでもとらえておいてください。そういう力によく導かれた状態が真の幸福なんだということを言っているわけです。(つづく)

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