下は「アリ研」のメーリングリストに投函されたものですが、まさに“今”の問題を指摘した、すぐれて公共的な内容をもつものだと思いますので、ここに紹介させていただきます。前後の文脈がわかりづらい点は、他の目的で書かれたメール文である性格上お許しください。(石井)
荒木先生、石井さま、みなさま
秋山です
荒木先生
私のつたない意見に、的確な方向性を与えていただき、ありがとうございました。
いろいろ考えねばならないことが、一つのメールに集約されており感激しました。
石井さま
イリャニトゥ監督の『バベル』。まだ見ておりませんが、ぜひどこかでみたいと思います。(時間もお金もないくせに、どうも映画館でないと映画には集中できないんですよ。家では最近TVもあまりよくないですね。集中しすぎなのかなあ)
荒木先生のご呈示された「アキバ事件の主人公の絶望」を社会学的にどうみるか、ということはM氏だけでなく、今の社会学者に共通するテーマだと思います。
政治・経済の問題として考えるポイントは、まさに荒木先生のご指摘されたとおりだと思います。このアプローチの記事は、この数日新聞各紙が取り上げています(乱暴に要約すれば、安定した雇用、安心できる生活環境がないから社会的に孤立してしまい、ちょっとしたきっかけで犯罪行動を起こす。社会システムとして若年層支援をしなくてはならない、という主張です)論旨は僕もまったく正しいと思います。
ただ、今回の事件に限らず、若者・子どもの事件、それもキーワード化されたものを以て現代社会の問題点を明らかにすることの限界もあるように思います。
つまり、事件は、突出した「結果」が先に出てしまうので、その「原因」(犯罪の動機)を示さなければ、その事件が繰り返されるという不安が社会の側に強く働くと思います。そうすると、原因を何とかして説明しなくてはならないという要求が生まれてきます。
そこに「アキバ」とか「ハケン」というキーワードが結びつくと、何かおどろおどろしいもの、自分たちとは異質なものという意識も入り込んでくるように感じます。キーワードがその人の固有性を消してしまい、どんどん一人歩きを始めると、事件の本質には届かないように考えています。
また、もう一つの懸念は、若者・子どもの犯罪の動機をどこから求めて来るか、ということについて、状況から犯罪の動機が明確でない(あるいは一般常識から犯罪の動機が推測しにくい)事件の場合、犯人(容疑者)の精神鑑定が積極的に導入されていることです。
精神医学が、じつは治安維持の不可分な関係で発達してきたのは、『時代がつくる「狂気」 精神医療と社会』(芹沢一也著 朝日選書 825) に詳しくあります。
僕が問題視しているのは、犯罪の原因として発達障害(自閉症やアスペルガー症候群を含む)が背景にあると指摘されることが多くなっているのですが、その判断基準に精神鑑定が用いられているということです。犯罪を未然に防ぐ手段のひとつとして発達してきた精神鑑定は、その時点での精神状況を推測することは可能ですが、生育の過程でどのような問題があったかなどについては、ほとんどくみ取ることができません。ましてや発達障害の「診断」とはまったく別のものなのに、社会的には「精神鑑定で問題が発見されたのだから、診断されたも同じだろう」という意識が一般的だと見られています。
これまで先日死刑が執行された宮崎勤の東京埼玉連続幼女誘拐殺害事件、神戸の連続児童殺傷事件、大阪の宅間守の児童殺傷事件、長崎の小6女子同級生殺害事件などで、「犯人はアスペルガーだった」というような報道が出たりします。
もちろん、自閉症やアスペルガー症候群のコミュニケーションにおける問題は、まったく犯罪と無関係とは言い切れません。物事に対する興味が限定していたり、人とのコミュニケーションが苦手なために孤立感を高めたりひきこもりになることもあり、こうした傾向がベースとなって、何かのきっかけで歯車が狂いだしたときに、元に戻りにくいということはあると思います。
では、なぜ心理的なバランスを崩したときに、戻りやすい人とそうでない人の差があるのか? というと、それは性格・素質ももちろんあるのでしょうけど、おそらく「愛された経験の有無を、自分の中でどのように対象化するのか(それは、どのような愛の言葉を紡ぐのか、ということになるかと思います。アキバ事件の主人公からバベルの愛の言葉の枯渇というものに結びつけた石井さんの視点はさすが! と思います)にかかっていると思います。これまでの報道にあったように、両親というより父親に「大学に行けないものは・・・」と見捨てられ、以降被害者意識を持ち続けて生きてきたけど、これから自分の人生が好転するとも思えず、自暴自棄な気持ちから犯罪に突き進んだということは、大きな動機の一つだと思います(この過程で、多くの言葉を携帯ネットの掲示板に残したことの意味も大きいと思います)。
また、彼の言葉が、人とつながりたいという気持ちを強く感じさせつつも、それとまったく逆の言葉を使って自分を表現しようとすることも気になります。気持ちと言葉が裏腹なのは、言葉という器に自分の気持ちをうまくはめ込むことが苦手な彼の個性なのかもしれませんが、ここにも彼だけの問題ではなく、今の若者に共通するコミュニケーション性向の問題があります。
いろいろ言い出すときりがないので、この辺で止めますが、この問題はおそらく結論が出るものではないようにも感じます。
荒木先生がM氏と話されたときに感じた、「現代社会の問題は社会科学的なアプローチだけでは理解できない。新たな視点が必要ではないかという彼の気分」ということは非常に示唆的でした。
僕は大きな方からいえば、政治・経済の問題でもあるし、個人からの視点に立てば心理学、発達心理学からのアプローチも必要で、その成果を共通の土俵で昇華させていくことが不可欠かな、と思います。その土俵になるのが哲学や宗教、あるいは文学や芸術ではないか、と考えています。
秋山



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