カンガエドコロ

→はじまりのアリストテレス <家族論>5


 ところで、これまで私はディカイオンという言葉をたびたび使い、それを「正義」あるいは「正」と訳してきましたが、一般的にディカイオンは「権利」の意味で使われる場合が多い。最後に、いま言った重層性という観点から、人間の共同性を成り立たせるために欠くことのできないこのディカイオンという言葉をどう理解するかという問題を考えておきたい。

 ギリシャ語のディカイオンは日本語で「権利」と訳されることが多い。ラテン語でイウスですが、英語のライトという単語がそうですね。日本ではそれぞれがこの権利という意味を第一に担わされている。
 われわれが生きている近代社会は、この権利という言葉の意味に強く照明をあてて社会や人間の関係を制度化し展開してきたと考えることができる。たしかにそれはそのとおりと言ってよいでしょう。しかし、ほんとにディカイオン=権利でいいのだろうか。社会をディカイオンに基づいてつくるのはよいとしても、ディカイオンを権利という意味に限定して理解するのはどうなんだろうと私は思うわけです。

 というのも、アリストテレスを原典から読むと、そのディカイオンという言葉は義務に対する権利という狭い意味で一義的につかわれているわけではないことがわかります。つまり、繰り返すようですが、ディカイオンは「権利」であると同時に、あるいはその前に「正義」あるいは「正」という意味であるわけです。「権利」をこの「正義」「正」と合わせて多義的にとらえ、社会におけるディカイオンのあり方を多様な側面から考えていく必要があります。

 長い社会の歴史のなかで、その「権利」の問題がさかんに議論されてきたのはご存知でしょうが、近年はまた、ことにヨーロッパのなかで新しい角度から人間としての権利をめぐる論議が活発化しています。それは、端的に言うと権利と「人格」の問題です。「人権」という概念からさらに、「人格権」いうようなかたちで権利概念を拡張していこうという新しい方向性が出てきているのです。

 アリストテレスは人間を矛盾的・重層的存在としてとらえていると申し上げましたが、それは一人の人間の人格においてもあてはまる見方です。
 しかし、そもそも人格とは何か。これはまた難しい話になりますけど、ギリシャ語では「プロソーポン」という言葉がそれにあたり、ラテン語の世界では「ペルソナ」。英語では「パーソン」という言葉ですから、「ライト・オブ・パーソン」すなわち「人格権」というかたちで、権利概念の拡張が行われているのです。
 で、人格権とは何かっていうと、みなさんもご承知のように、たとえば典型的な使われ方の例として「法人格」というのがある。法律的に、たとえば私の所属する岡山大学は法人格を持っている。大学や企業は人間ではないのだけど、ある組織が人間の人格のようにその「格」に応じたふさわしい権利をもつ。たとえば処分権とか所有権とか、その他諸々の権利ですね。
 それはもともと、人間が社会のなかで生活するときのさまざまな人の権利を集団、組織にあてはめているわけです。

 そもそもの語義からして、一般的によく使われるペルソナとかパーソンっていう言葉は「仮面」を指していて、その延長で役者=役を演じる者という意味をもっている。
 人間はこの世に生を受けたときに、何もないところでポツンとひとり無名の個人として存在をはじめるのではなくて、生まれ落ちるとすぐに家族の成員という立場や資格を示す「お面」を付けることになるわけですよ。この面は「顏」といってもよく、人は生まれてから成長するにつれ、いくつも顏をもつことになる。つまりある男性が成人すれば、大人の男としての顏をもち、夫としての顏をもち、父親としての顏をもち、企業人としての顏ももち、そして市民としての顏をもつ。
 
 じっさい、ギリシャ語のプロソーポンという言葉には顏という意味もあり、仮面という意味がある。人間存在それ自体がいわば複数の顏をもち、さまざまな面を幾重にも重ねてつけて生きていることを、このプロソーポンという言葉は示している。だから、そうだとすると、その一つひとつの現れがペルソナなり、パーソンであると理解できると思います。

 そうすると、そのペルソナやパーソンに応じた権利というものがそこに当然付着してくるわけです。だから、権利という側面から言うと、人間としての、一個人としての権利、父親としての権利、あるいは母親としての、子どもとしての権利、企業人としての、市民としての権利、そういうものが幾重にも重なった重層構造をなして人間社会を成り立たせている、ということが言えるのです。
 単に言葉の語義の問題としてではなく、そのことをもう一度真剣に考え直していく必要があるんじゃないか。複雑に絡み合っているからこそ、己の権利を主張するだけでなく、何が正義であり真の公正といえるのかを、まさにディカイオン(正)の問題として重層的に考えていくことが必要なのです。


 ここで家族のことに戻りますが、この人格と権利の問題は、ディカイオンの視角から、家族や地域や国家の重層的な関係のあり方の問題として考えることができる。
 最近は、主権を国家ではなく地域に移して、地域主権の確立を実現すべきだと語られることが多くなっていますが、これは主権という以上、権利の概念ですよね。だとすれば、今いったように、人間や社会の存在そのものが重層構造をなした人格権の重なりとしてあるわけなので、当然、国から地域にすべての主権が委譲されるということはありえないわけですよ。人格における権利自体が重層構造をなして展開しているのですから、国の権利もあれば地域の権利もある。もちろん、個人の権利もある。そして、各々のなかにさらにいくつもの権利の層が重なって存在している。
 
 そういう意味で私は、個人から出発して家族の権利、そしてまた、家族の構成員の権利、そして地域の住民としての権利、というかたちで、出発点を個人と家族の権利に置いて考えていくのがわかりやすくてよいと思っています。それを基本にして、社会全体の「正しい」かたちをつくりなおしていく必要があるのではないか、と。分権ということで自治体ができること、やるべきことはもちろんありますし、私自身が一大学の施策として地域の復興ということをやろうとしているわけですけど、そのためにもやっぱり、この家族の再建という問題を考えることなしに、真の地域の再建はないだろうと思っているのです。

 それは、個人としておのれが生きる喜びや生きる意味と不可分の問題です。美しくいえば「自己完成」とか、卑俗な言葉で立身出世、野心、名誉欲。これら自体はけっして悪いものではないし、それが社会全体の「利」に資する結果を生むのであれば、これほど歓迎すべきこともない。
 しかし、現実には個と全体の利害は必ずしも一致しないし、いまのグローバル化した社会はあまりに複雑怪奇で、一個人が何から手をつけ、何をどうしたらよいのか非常にわかりにくい世界になっている。

 そんな世界情勢のなかで、今回の震災を機に「私たちに何ができるか」を考え、人々や社会の役に立ちたいと思っている人が増えている。これはすばらしいことです。しかし、一個人がいきなり大きなことをしようとするには無理があるし、いくら大規模なことをやってもそれが一人ひとりの個人の扶けにならないようではしょうがない。じっさいにできることからはじめ、それがよきことかどうか、相手の身になって考えてみることが大事だし、実践的な態度です。

 自己と他者というものを考えたときに、だれでもいちばん「身近か」なのは家族でしょう。だから、一個人が社会や国の救済、再建という方にいきなりいくんじゃなくて、その中間に、家族の問題を自分と結び付けるかたちで考えていく。自分の家族と、他者にとってのその人の家族。そして、それを通じて地域の復活の問題を考えていく。そういうかたちでの展望というものを考えていく必要があるというふうに思うわけです。

 ......ということで、本日のお話をそろそろ終えなければなりませんが、アリ研でも当初から議論してきた、「宗教」という大きな問題がのこされています。ここまで個人、家族、そして地域の救済、再建の話をしましたが、究極的には魂の救済という問題がある。それは「幸福」に深く関連したことでもある。
 そのひとつのアリストテレス的な展開として、エンスージアスムス、つまり忘我入神状態こそが幸福の絶頂である、神とひとつになるということが、幸福の最大の到達点だということを、すでに前の「幸福論」の講演でお話しました。

 きょうはですね、そのエンスージアスムスというのは確かに究極的な人間の幸福のあり方ではあるのだけど、そのためにはどんな手段をつかっても構わないということではなく、やはり、そこへ至るための自覚とプロセスが大事なんだということを改めて強調しておきたいのです。

 第一に、個人が大事とはいっても、人はひとりで生きているのではないという当たり前の事実をしっかり見つめてほしい。 
 私たちはひとりの個人ですが、家族のなかのひとりであり、会社のなかのひとりであり、地域のなかのひとりであり、そして国家のなかのひとりである。そういう様々な立場、環境、条件などが異なる重層的な関係と状況のなかで、それぞれの問題や悩みの一つひとつに直面し、乗り越えていくということを通じてこそ訪れてくるのがエンスージアスムスの世界ではないかな、と、いま、そういうふうに私は思っています。困難に立ち向かい、必要なプロセスをきちんと踏んでいく。そういう粘り強い努力を抜きにして、究極的なエンスージアスムスの世界はおそらく訪れることはないだろう、と。

 そういう最高の幸福へと至る道は、とんでもなく困難極まる道です。すぐに実現できるようなものではないどころか、自分が生きているうちに実現できるかどうかもわからない。ある面で「シジフォスの労働」に似たものだという話を『アリストテレス政治哲学の重層性』という本のなかに書きました。しかし、それがどんなに困難であっても、また、いかに他の人から無意味だと揶揄されるような事柄であっても、当人にとってはそれこそが究極的な幸福への道なのです。人は、その幸福へのプロセス自体に生きること、人間であることの意味を見出すことのできる存在なのです。

 話を終えるにあたって、この私の本『アリストテレス政治哲学の重層性』(創文社)から引用することをお許しいただきたい。論文ですので少し硬い表現になっていますが、いまの私にとって言いたいことは、ほぼこの文に尽くされていると思われますので。

 理想国家建設への絶えざる志向、共同的なものと個的なものとの合一への志向、それはアリストテレスにおいても、絶望的なほど実現困難な理想であった。しかしながらこのような理想追求の、シジフォスの労働にも似た人間の努力は、アリストテレスにおいて無意味なものではなかったはずである。アリストテレスにおいては、美しいもの、善なるものへの知的かつ実践的欲求こそが、人間に固有の存在性であったのではなかろうか。もしも人間がその固有の存在性を保とうとするならば、それは善美を追求する動的生を生きなければならない。そうでなければ、人間は、人間存在であることを辞めるほかない。アリストテレスにおいては、人間においてこそ、善と存在とはともすれば乖離しつつも、志向においては一致する。今筆者の脳裏に浮かぶのはこのようなアリストテレス理解である。(『アリストテレス政治哲学の重層性』第六章「国家論の構造」より)

 これでこの連続講演をひととおり終えますが、アリストテレスの哲学は「終わり」の思想ではなく、「はじまり」の思想です。私たちが何か大事なことを決め、何か善きことをはじめようとするとき、2300年の時を超えて、アリストテレスはいつでも何度でも私たちの前に甦ってくるでしょう。

 (終わり)
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