カンガエドコロ

→哲学は役に立つか 〜アリ研の合宿報告に代えて


 9月17,18,19日、第11回アリストテレスと現代研究会(通称アリ研)の勉強会合宿が長野県の諏訪で行われました。

 100929.jpg参加者は、座長の荒木勝教授(岡山大学)を含め、これまでで最多の16名。合宿初参加は2名。若き女性弁護士Hさん、それと、遅れてではありますが、公務で超多忙の近藤誠一さん(文化庁長官)も駆けつけてくれました!
 勉強会は荒木訳アリストテレス『政治学』の輪読、荒木先生自身によるコメンタリー、参加者との質疑応答、そこから広がる現代的問題・課題を自由に討議するという、いつもどおりの「対話」形式で行われました。

 [写真は、合宿に参加された三村聡さん(愛知学泉大学教授)が送ってくれたもの。私が帰京した翌日、ケイタイで撮った写真ということですが、見た瞬間感激しちゃったので、使わせてもらいました。題して「天孫降臨」とでも?。これぞ光の御柱! 大きな水たまりは、むろん諏訪湖です]

 以下、報告というより、復習をかねて、思うまま独語的に何か書いてみます。
 (会員のひとり秋山和平さんもブログ「ふだんの冒険」で合宿のことを書いてます)

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 今回講読を行った『政治学』第7巻は次のような書き出しではじまります。

 最善の国家体制について、それに相応しい探求をしようとする者は、まず第一に最も望ましい生活とは何であるか、をはっきりさせておかねばならない。

 最善の国家とはどんな国家かを考えることは、最も望ましい生活とはどんな生活かを考えることと同義であると言っているわけですが、こんなさりげない一言さえ、マジに理解しようとすると、じつに多くの問いが言葉になろうとして頭のなかに疑問形のまま渦巻きます。

 まず、国家のあり方と生活(英語でライフですから、人生あるいは生そのものとしても訳せる)を同列に置くこと自体「ほーっ!?」と思います。しかし、そもそも、アリストテレスの言う、

 最善って? 国家って? 望ましい生活って?

 アリ研は正式には「アリストテレスと現代」研究会といいますが、現代社会に生きている私たちの「いま」の視点から、およそ2300年前にアリストテレスの遺した言葉(概念)を検討し、理解することを旨としています。
 無理して「現代」に結び付けなくとも、学問的歴史的研究はできるだろうし、じっさいそんなアリストテレス研究者はいるし、っていうか、それが「主流」でしょう。しかし、多かれ少なかれ、学問の世界でも「時代」から完全に超越して、まっさらな「客観的」視点から単独のものとしてテキストを読むことはできないはずです。ですから、なにも無理しているわけではなく、それが私たちにとっての自然体です。

 アリ研は、大学の先生も多くいますけど、アリストテレス自体を「客観的」に研究しようとする専門家の集合体ではありません。「客観的」とは何かというややこしい定義はスルーして言うと、現代という「文脈」にアリストテレスの哲学を入れ込んだときに、それ(アリストテレス)はどう読めるのか。そしてまた、アリストテレスの知の体系と現代を照合したとき、それ(現代という時代)はどのように理解できるのか。相互貫入的に問いと問いをぶつけ合い、合わせ鏡のように反射していく。
 アリストテレスを読むことが、「現代」とそこで生きる自分を見つめ返すことにつながるわけで、それを学究的にではなく、自分たちそれぞれの生き方において自覚的に行おうとするのがアリ研です(と、勝手に定義してしまいます)。その意味で、座長を除き、私たちはみなアマチュアです。アマチュアの特権として、自由に読み、考えよう、と。

 しかし、アリストテレスがスゴイと思うのは、そんな素人でもそれなりにアリストテレスを少しずつ読み込んでいくうちに、彼の思考形態自体にそんな知の技法が内包されているのではないかと感じられてくる点です。アリストテレスというよりはアラキトテレス(荒木先生)の読み(理解・解釈の広さ・深度)の凄さなのかもしれませんが、おそらくそんな読みさえ、対象がアリストテレスであることに因っているはずなのです。少なくとも、そう「感じ」られる。フラクタルというか、「入れ子」構造というか、、、。

 「問い」といいましたが、ひとつの問いは次々に別の問いを生み、連関していく。万学の祖といわれるほどのアリストテレスの広大無辺な知の領域は、その問いの連鎖と重層性によって拓かれたのかという気さえしてきます。きわめて高度な博物学的知性といったらよいか(というか、まさに彼は博物学の祖でもあるといってもいいわけです。世界ではじめての生物学者ともいわれています)。
 彼の書物は問いの視線=「観察」による記述が主で、こうすべきだという「答え」を容易に示してはくれない。それも非常にアリストテレス的ではないかと思うのですが、問いは言葉であっても、答えは言葉を超えて、各自の生き方のなかに探るべし、とでも言っているような。

 以前、アリ研が発足したころ、荒木先生と話をしたときに、ずばり「(アリストテレスの)哲学は生きることに役に立つのか?」と乱暴な問いかけをしたことがあります。そのとき先生から「役に立つ!」と、はっきり応えていただきましたが、それはある意味で「答え」ではない。つまり、荒木先生の「答え」ではあっても、私の「答え」ではない。私が「そうか!」と納得しない以上、私にとっての答えにはならないわけで、じっさい、はっきりとそう明言した先生の態度には驚き、感動しましたが、それを聞いても「ふーん、そうか」といった程度の反応しか、自分のなかに起こらないのです。

 自分で問うていながら、その応えから私に生じたのは「そうか、役に立つのか。だけど、どういう風に役に立つのか。役に立つとはどういうことなのか」といった新たな問いなのです。先生の答えは新たな問いの契機を内包した「応え」であり、他者から言葉による答えを教わっても、それだけでは決して自分の答え(言葉)にはならないということの実例がここに示されている。私は、先生がそう言うのなら、そうなんだろう。なんとなくだけど、そうであるような気がする、といった程度の諒解の仕方しかそのときはできませんでした。当然と言えば当然です。

 でも、あまり厳密性に拘泥せずに、問いに応えようと言葉にしてみる(アウトプットする)ことは大事です。

 というのも、今回の勉強会で、私なりにわかりかかってきているかなと思えたことがあります。そうであるような気がする、といった程度の理解、というか直観的な把握の仕方、それも多分「あり」なんだということです。そんな感覚も、言葉によって、ある言葉がきっかけとなって、引き起こされる。

 話は少しジャンプしますが、「観想こそ最高の実践である」という禅問答のような、逆説的なアリストテレスの言葉が今回の勉強会での対話のなかで荒木先生の口から紹介されました。一見(一聴)なんのことかさっぱりわかりません。
 しかし、「役に立つ」という言葉の目的語を仮想すると、なにがわからないかが、ぼんやりとわかってくる。つまり、この場合は、活動体としての「生」(エネルゲイア)。エネルゲイアがなんたるか、よくわからないまま口にしていますが、これまでの「お勉強」の蓄積と直感から推理すると、観想すること(考えること)は「生命の活動(つまり、生きること)」として最高の実践(行為)であるととれるのです。相反する観想と実践が裏返って、メビウスの帯のように一枚につながってくる。

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