どうやら、やっとひとつの結論にたどりつきましたが、これで終わらないのが人生というもの(笑)。
では、どうやったらその「魂のある種の活動」を行うことができるのか。忘我入神というけれど、「狂」に陥らないための、“正しい”忘我入神の方法をどのようにして見出し、身につけるのかといった未解決の問題が残ります。それはヨーロッパや東洋の長い知的伝統のなかでも議論されつづけている、「狂信」と正しく信じる「正信」という、ふたつの「信」がぶつかるむずかしい問題です。
さらに、そこにまたアレテーの問題も循環してくる。
また身近な例をあげてみましょう。たとえば、日本の偉人のひとりに西郷隆盛という人間がいた。西郷という人はたいへんに宗教的な魅力をそなえた人だったらしく、一日西郷に触れると一日おぼれる。二日目はさらにおぼれ心酔し、三日、四日になると心中してもいいと思えるくらい西郷の周りにはオーラが漂っていたといわれています。つまりある面で人を狂わせる不思議なパワーを西郷という人物はもっていたのでしょう。
そこで、じゃあ西郷は神なのかという問題がでてきます。西郷と神を分けるものはなんなのか。だれでも西郷は人間であって神ではないというと思いますが、それでは人間と神はなにがちがうのか。
もちろん、私は西郷さんであれどんな偉い人であれ、人間と神はきちんと分けて考えなければならないと思っています。そこにはエンシュージャスムスの観点と、アレテーすなわち知慮の徳の観点の両方の結び付きから幸福の問題を考えていく必要がある、と。
う〜ん、なかなか終わりませんが、あとはとりあえず各自の人生における「実践」の問題であるということにしておきましょう。じっさい、哲学に自分で考えることなしの「答え」を期待されても困りますし、解にいたるための正しいと思える「考え方」を示すのが哲学の役割です。そして“ともに”考えるということがとても大事なことでしょう。私だって、こうやってお話しながら、みなさんといっしょに考えているのです。考えるということは、しかも言葉で考えるということは、忘我入神じゃないけど(苦笑)、ともに、結び合いのなかで考えるということにほかならないのではないでしょうか。そして、答えがあるとしたら、それは各自の生き方のなかで探っていくしかない。
「そして、人生はつづく」というわけです。



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