きわめて長い時間、数千年といっていいと思いますけど、人類の長い暮らしのなかで、幸福とかhappyという言葉で呼ぶようになった人間のもとめるある状態は、大きくいってふたとおりの見方ができるのではないでしょうか。
ひとつは、幸福とは自分の力を超えた何か神的なものと触れ合うこと。
その神的なものというのは、ヨーロッパや日本、あるいは中国といった国や民族を超え、また、固有の宗教を超えた、人間の力がおよばぬ力である、と。それが神的なものでして、たとえばこの場合、神(シン、カミ)とは中国最古の説文解字にもあるように雷(カミナリ、神鳴り)の稲妻からきているという考え方があります。つまり、目には見えないけれど、あるとき、あるものを発動する超自然的な力。
それは日本語(和語)のカミという、万葉集とか古事記とかに出てくる言葉についての本居宣長の説も同様であって、人間個人の思惑や力を超えた不思議なパワーのことをカミ(神)という言葉で表していたのでしょう。
そういう点では、古代ギリシャのダイモーンにも通じるところがある。自己という人間個人を超えた何か神的なものの導きと関連している事柄であることが、幸福という言葉のなかに大きな要素として含まれているのです。
もうひとつは、その神的なものの導きとは別に、人間の生活のなかでなんらかの快適で喜びにあふれるような状態を、長い人類の歴史をとおして「幸福」として呼んできたといえるだろうと思います。
しかし、このふたつの面だけが幸福のすべてなのだろうか。もちろん、ともに欠くことのできない幸福の要素だけど、どうもこれだけでは幸福の全体像というか、真の姿を取り逃がしてしまうのではないかと、いまの社会とアリストテレスの考え方を両目で見ながら最近よく考えるんです。



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