荒木さんへ
お帰りなさい。
中国の政治学レベルがグローバルな視野に立っていること、
中国が選択の余地なく民主化を希求していること
がよく分かりました。
興味深い情報、ありがとうございました!
西浦
荒木さんへ
お帰りなさい。
中国の政治学レベルがグローバルな視野に立っていること、
中国が選択の余地なく民主化を希求していること
がよく分かりました。
興味深い情報、ありがとうございました!
西浦
アリ研の皆様へ
昨日、3度目の長春から無事帰りました。
今回は吉林大学行政学院で1週間の大学院向けの集中講義で、アリストテレス政治学概論ということで朝の8時半から午後4時半まで、昼2時間の休憩をはさんで講義しました。
15〜20名の博士課程の院生が積極的に参加し、また最初から最後まで、日本語学科の講師級の翻訳者をつけて、議論も活発になりました。
今回も感じたこと、驚いたことなどを書いていきたい、と思っています。
とくに感じた点は、中国の政治学では、行政学、行政管理学的な分野と並んで、政治哲学の関心が著しく高い、ということ。それもアメリカの政治哲学の研究がほとんど同時に紹介される、というレヴェルに達しているということ。フーコーやチャールズ・テイラーやまたカント。ヘーゲル哲学への関心も高く、他方日本の研究への関心は高いものの、日本人の研究がアメリカの輸入品であることをキチンと認識していること、でした。
私を招待してくれた学院長は中国の政治学分野で5本の指にはいる有名教授だったことが後でわかりましたが、彼や彼の側近の人々の姿勢は、中国の政治の困難な現状を踏えていて、それをすこしでも民主化のほうに教導していく方途を真剣に探るというものでした。アリストテレス正義論への熱い関心もそうした姿勢を物語っているようです。
人口が13億もの中国をどう民主化するのか、中央政府、党の中でも非常に複雑な過程が存在するようです。しかし中国が向かう方向は民主化の方向しかない、それも正義の方向で、時間がどれほどかかるか不明だが、それしかない、という確信に近いものを感じました。
また明日から多忙な日々が始まりますが、時間の許すかぎり、紹介していきます。
荒木
きわめて長い時間、数千年といっていいと思いますけど、人類の長い暮らしのなかで、幸福とかhappyという言葉で呼ぶようになった人間のもとめるある状態は、大きくいってふたとおりの見方ができるのではないでしょうか。
ひとつは、幸福とは自分の力を超えた何か神的なものと触れ合うこと。
その神的なものというのは、ヨーロッパや日本、あるいは中国といった国や民族を超え、また、固有の宗教を超えた、人間の力がおよばぬ力である、と。それが神的なものでして、たとえばこの場合、神(シン、カミ)とは中国最古の説文解字にもあるように雷(カミナリ、神鳴り)の稲妻からきているという考え方があります。つまり、目には見えないけれど、あるとき、あるものを発動する超自然的な力。
それは日本語(和語)のカミという、万葉集とか古事記とかに出てくる言葉についての本居宣長の説も同様であって、人間個人の思惑や力を超えた不思議なパワーのことをカミ(神)という言葉で表していたのでしょう。
そういう点では、古代ギリシャのダイモーンにも通じるところがある。自己という人間個人を超えた何か神的なものの導きと関連している事柄であることが、幸福という言葉のなかに大きな要素として含まれているのです。
もうひとつは、その神的なものの導きとは別に、人間の生活のなかでなんらかの快適で喜びにあふれるような状態を、長い人類の歴史をとおして「幸福」として呼んできたといえるだろうと思います。
しかし、このふたつの面だけが幸福のすべてなのだろうか。もちろん、ともに欠くことのできない幸福の要素だけど、どうもこれだけでは幸福の全体像というか、真の姿を取り逃がしてしまうのではないかと、いまの社会とアリストテレスの考え方を両目で見ながら最近よく考えるんです。
●幸福という言葉をめぐって
では、何をどのように選択するか。そのためには、そもそも幸福とはなにかということから考えていかねばならないでしょう。
幸福というのは万人万様で、主観的なものだし、人によって幸福の感じ方は違うのではないかという考え方はたしかに一面では正しいでしょう。私とあなたの幸福にたいする価値観は同一ではないし、みながそれぞれ各自の幸福を追求しているのだから、幸福について論じることに意味はないのではないかというわけです。
ところが、ある意味では不思議なことなのですが、万人が万様に幸福を追求しているのだけど、そこに万人に共通する、なにかしら普遍的な、幸福の根拠といったものがあり、「私とあなた」の間で幸福をめぐるコミュニケーションがちゃんと成り立つことも事実なのです。もし、私の幸福とあなたの幸福がまったく異なるものでなんの共通性ももたないものであれば、互いの話を理解することすらできない。
われわれは日ごろから、ちょうとした会話の節々に「あなたはいま幸福ですか?」とか「幸せになってね」などという言葉をはさみ、互いに気持ちや情報の交換をしあっているわけです。そしてそこに、幸福とは何かということがおぼろげながらにしろ、一定の共通理解がなされている。そうでなければ幸福という言葉で会話は成り立たなくなってしまう。
たしかに現代社会はこの幸福の意味、何が幸福かといったことがひじょうにわかりにくくなっていることは事実でしょう。個人の嗜好や主観を超えた幸福はあるはずなのですが、共通して語れる幸福の像(イメージ)がどんどんぼんやりとしてきていて、幸福を語り合うことが困難な状況になってきている。
だから、幸福なんて個々の価値観が決めることで、幸福と感じるかどうかは主観の問題なのだから、そんなことは意味がないという思考に陥りがちなのですね。でも、いまいったように、そんなことはないのです。むしろ、いまの世の中では「幸福論」そのものが成りたちにくいという、そのことを問題にすべきでしょう。ですから、まず、私たちが幸福というものを思い描くとき、一般的なあり方として幸福とはなんであるかを考えていきたいと思っているわけです。
それは自分の息子や娘と話をしていて気づいたことなのですが、いじめというか差別の問題としての「美醜」といったことなのです。人が美醜のことを気にするのはあたりまえのことです。誰だって自分の“見た目”が醜いよりは美しいと言われたい。しかし、ことに若い人たちにとっては、自分が美しいか醜いかが、いまきわめて切実な関心事となっている。他人が自分をどのように見るかは誰だって気になることですが、醜いといわれることが劣等感の範囲にとどまっているならまだしも、差別やいじめにつながるから美しくなりたいという一種の強迫観念と化しているような気がする。しかも、その「美しさ」は皆と同じ美しさでなければならないような均一的な表面のみの美しさなわけです。なにが真の美しさかという観点は、まったく抜け落ちている。
そこに企業が目をつける。先日もテレビで報道されていましたが、「美の世界の争奪戦」というようなタイトルで、日本の大手化粧品会社が中国や東南アジアという巨大マーケットに進出し、「美」の市場が急成長を遂げている。お金さえ出せば、誰でも簡単に美しくなれるというわけです。グローバル資本主義の流れといってしまえばそれまでですが、それは結局のところ、そこに群がっていくわれわれ人間の問題としてとらえたとき、美醜と幸福の関係、美しくないと幸せの切符を手に入れることができないのではないかという不安に関わってくる。
些細なことといいましたが、これは考えてみると人間存在の根源的な部分に、ひじょうに深く関わってくる重要な問題です。ご承知だと思いますが、仏教には阿弥陀仏の48願というのがある。法蔵菩薩が仏になるために48の願をかけるのだけど、そのひとつに、この世の中に生きているありとあらゆる人から醜さがなくなるようにという祈願がある。それが叶ったときにこそ、悟りを得て仏になることができる----。そういう話ですが、人類にとっては大昔から美醜をめぐる問題が人間の幸福にとって大きな要素になっているのがよくわかると思います。
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