はじまりのアリストテレス <家族論>4
やっとアリストテレスです(笑)。
アリストテレスの『政治学』第三巻で、国家の構築に際して人間を考えたときに、三つの原点となることを述べている箇所があります。その三つの順番を逆にして私なりに整理をしてみますと、人間が国家をつくっていくときの出発点は、それがどんな体制の国家であれ、まず第一に生きた人間がそこにいること、そのこと自体にある。当たり前のことですが、忘れられがちな大事なポイントです。
ギリシャ語にグリクテースフィスケーという言葉がありまして、私は「甘美さ」と訳しているんですけど、これは人間の存在それ自体の自然的な美しさ、しかも甘さをともなったようなそういう美しさを指す言葉なんです。人間というものは、生きていることそれ自体が甘美な喜びをもたらす素晴らしい存在である、ということをアリストテレスは力説し、彼の思想の根幹に据えるわけです。
これは、アリストテレスが断固として主張していることで、私は彼のこの考え方を究極の個人主義だとみていますが、「個」を押さえ付けず、個人として自分の力で自分の好きに生きていくことがいかに甘美で素晴らしいことか、彼は認めているわけです。
私たちにとってそのひとつのアングロサクソン的な表現の例が、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』ですね。誰もが知っているように、絶海の孤島にたどり着いた一人の人間と一匹の犬が、その島で頭と身体を思いっきりつかって生きのびていく物語です。どんな文明の恩恵もないと思われる島で自分の暮らしを築き、一人だけで「社会生活」を維持していくわけですね。もちろん大変な苦労をともなうわけですが、そこには生きていることそのものの喜びが純粋なかたちで現れ、あふれている。
人間は一人では生きていけないと言ったけど、人でなくとも犬が一匹いれば生きていけるのか!?とつっこまれそうですが(笑)、ともかく生きることへのパワーの素晴らしさ、生きること自体への喜び、というものがここで強調されているわけですね。
だけど、まあ、それは長続きしない、と。アリストテレスだったら、それだけでは------つまり、人間一人で生きていくだけでは------なかなか持続性がもてない、というでしょう。かりにロビンソン・クルーソーのように、その気になれば人間、一人で全部自給自足できるとしましょう。その「甘美さ」も味わえたとする。しかし、それでも人間は「最終的には」けっして満足できないだろうとアリストテレスは言うんですね。完全に自給自足で一個人が生きていけるとしても、それで満足できないのが人間の性(さが)であり、自然本性であると。
結局、人間というのは、「共に生きたい」「集団をつくりたい」という欲求に支えられている。そして、面倒で大変なこともあるけど、人間は複数で共に暮らすことのほうがいろいろ便利でたのしいということも、経験的に学んでいくわけです。
しかしまた、人間が複数で、集団で生活するときに、そこにあるバランス感覚が生まれないと、すぐに分裂・解体してしまい、持続性が出てこないだろうとアリストテレスはつづける。そのバランス感覚こそ「正義」であるというわけですね。
だからたとえば、どんな未開社会でも、文明化された社会でも「交換」のシステムがありますし、家族のなかの人間どおしでものを交換したり配分したりということが日々生じるわけです。するとたとえば、家族のなかでものを配分するときの公平さという問題が生じてくるし、家族の外(社会)でも当然、資源の分配やものや土地の私有・共有の問題が出てくる。あるいはもっと敷延して言えば、自然資源や環境と人間の生活、「自然からの贈与」と社会発展のバランスをどうとるかという問題が生じてくる。
そういう状況下で、やはり「正しさ」という感覚抜きに人間社会はうまくいかず、そしてそこで生きる個人の欲求は満たされていかないだろう、と。だから「正義」の感覚、アリストテレスで言えばディカイオン=「正」の感覚がいかに重要であるか、ということになってくるわけです。
「正義」は、まず感覚的レベルで複数の人間がそれを共有することからその基準ができあがっていくものですが、それを一定程度安定した社会をつくるために「使える」ものとするためには、やはり「約束事」をものに書きつけて承認し合うというところまで行かなければいけない。まあそれが、法律、法の世界を生み出していくのだという方向に彼は論を展開していきます。つまり、法から国家ができる、国家は法的な共同体だという共通の理解が生み出されていきます。これが二番目の論点。
しかしさらに、まだそれだけでは、社会で幸福に生きるには足らないという考え方が、特に今回強調したい三番目のポイントです。結局、人間というのは、いま言ったように共に生きたいという欲求に支えられている。そのためには、「正義」の基準が必要で、そこに「法」が生まれる。ただし、この場合の「共に生きる」というのは、法の正義とは別次元の共同性、というか相互性の問題であり、より根源的な生の欲求として捉えていく必要があります。
ここにアリストテレスならではの「友愛」の世界があります。つまり、相手によい(良い、善い)と思うことをしたいという欲求を考慮することなしに、よき人間社会はできていかないだろう、とアリストテレスは言うのです。
友愛の欲求は端的に言うと、自分への愛ではなくて相手(他者)への愛です。相手によいと思えることを自分がやってみたいということ。しかも、その思いを相互に抱き合うこと。この友愛抜きにどんな社会も成り立たないだろう。成り立ったとしても、そんな愛のない、喜びのない社会は長続きしない、と。
たとえ話でいえば、どんなに権力を持った王様がいても、その王を愛し、愛されるひとりの女性がいなければ、どんな権力もどんな富もむなしい------。比喩として語られることですけども、それは誰しもが認めることでしょう。
以上のように、アリストテレスの世界ではこの三つの視点/論点が折り重なって、家族や国家が織りなされていくということになるのです。ただ問題は、この三つの視点はそんなに予定調和的に整然と組み合わされて、できていくわけではないということ。
自分が一個の人間として生きることの素晴らしさを拡大しすぎてしまうと、共に生きていこうという友愛の世界と矛盾してくるでしょう。また、正義にしても、正義感覚はみなが共有しているけれども、立場や利害の反する者同士の間で、何が具体的なかたちで正義を実現できる基準になるかっていうと、これがきわめて難しい。正義をめぐる争いがそこに当然出てくる。つまりこの3つの視点はそれぞれが矛盾し対立するような関係性をはらんでもいるのです。
だから、そこから闘争・戦争ということが不可避的に生じる可能性もある程度は常にある。しかし、そのことを視野に入れつつも、この3つの矛盾する欲求をバランスよく満たす家族や会社や国家や地域共同体というものを形成する努力を不断につづけていかなければならない、ということです。
このようなメッセージをアリストテレスの政治哲学から読み取っていくことに、現代に生きるわれわれが彼を読むことの意味があると思います。
アリストテレスは、実践のともなわない「理想家」だと見られることが多いのですが、それは彼のテクストをしっかりと読まないことからくるひとつの誤解だと私は思っています。しかも、彼の哲学が血の通わない抽象的な理論であるとする向きもありますが、それも逆ではないか、と。たしかに彼はある種の理想家ではありますが、しっかりとした人間観察、人間理解に基づいて、自分の思想を生きようとした実践家でもあると私は考えています。端的にいえば、プラトンのイデア(理想)と異なり、アリストテレスの場合、理想と現実は地続きのものです。
彼の書物を丹念に読むことを通じて、私にもやっとそのことがわかってきた気がしています。困難ではあるけれど「理想」に向けて現実を押し上げようと、思考と実践を近づけようと志向する、そんな相反するような重層的な要素をもった存在が人間なのだという理解がアリストテレスの基本にあるいちばん重要なことであると、私はこの場を借りて強調しておきたいと思うのです。

最近のコメント