カンガエドコロ

→はじまりのアリストテレス <家族論>3


 震災後の日本の「復興」と社会構造の変革を考えたときに、ともかく時間がない、すぐに手を打たねばならないということで復興計画や政策案を国は次々と出してはくるのだけど、私自身はそのこと自体に違和感を持たざるをえないところがあります。それでは、結局なにも根本的に変わらないのではないか。

 何でもかんでも経済的な面での復興を優先して、「そのため」のものづくりとか人づくりとか組織づくりとか、そういう言葉、文脈で語られていくものばかりで------。何度もいうようにそれはそれで大事だし、しっかりと現実的に考え実行していかなければならないことはわかります。しかし、それが何のための実践であり、どういう哲学、考え方や価値観に基づいているのか、という人間を人間たらしめる面を無視して、手段や方法論ばかりが先行していていいのか、と言いたい。

 人間の真の幸福とは何か、人間にとって自然とは何か、人間がその自然と共生するとはどういうことか、そんな原点的な問いに則しながら、人と自然、人と人のつながりを構築していくような考え方、そういう発想がいまの政治にはほぼ完全に欠けているんじゃないか。それは、すぐに「これだ!」というふうに答えが出るようなことではないかもしれません。だけど、そういう思考=志向抜きに、その場しのぎの性急な解決策ばかりを求めても「過ち」は繰り返されるばかりです。
 この度の震災で亡くなられた方々を、まずはしっかりと手厚くお弔いしなければならないことは言うまでもありませんが、それと同時に、あとに残されたわれわれは、しっかりとこの災害から教訓を学び、活かして生きのびていかなければならない責任がある。「お金」と「スピード」偏重のこれまでのやり方を見直し、戦略的思考を超えた発想で取り組む必要があるのです。
 
 たとえば今回、アリ研のメンバーの一人が見せてくれた、トヨタ財団の広報誌『JOINT』7号に出ていた、あの漁村の復興に思いを託した発言。記事のタイトルは「漁労文化を置き去りにした復興であってはならない」というものでした。一例として、私自身こういう発言に共感する部分がある。
 風習というかエートスというか、ともかく人間が長い時間をかけて自然との共存関係のなかで築き、育んできた生活習慣や「文化」を、復興や再開発という名のもとに簡単に無視してしまってはならない。私の言う「自然に則して」というのは、外的な環境としての自然と共存するという意味と同時に、人間のもっている自然的な本性に則して、人間の集団、共同社会をつくっていくという方向性をつねに考えておくということです。
 そのためには、ある程度の時間がどうしても必要なケースがある。しかし時間がかかるから効率的でないといって、それを簡単に無視し消去してはならない。失ったものを取り戻すのは容易ではないけれど、逆にだからこそ、ある固有の文化やエートスに対する尊敬の念や配慮というものを欠いてはならないと強く思うのです。

 しかも、その自然に則したかたちでの人間集団であることと同時に、それぞれが個々の意見を出し合い、議論をしていく場をつくるということも大事なことです。短絡しないでほしいのですが、「自然に則して」といっても、ただ黙って成り行きにまかせればいいということではありません。どうすれば「自然」に則することになるのか、それは自然にわかるものではない。自覚的に自然や人々の暮らしを観察し、自然や人間について考え、そしてその思いを共有し、合意するために議論することが、どんな活動の基底にも欠かせないことなのです。
 社会というものは、多種多様な人格や個性をもった人たちが集まってできています。だからこそそこに「公正」とか「正義」の問題が出てくるのですが、それらの問題を「みんな」で考え、議論しながら解決していくという姿勢が大切で、それにはそのための「対話の場」が必要です。私は、古代ギリシャで重要なはたらきをしたアゴラ(フォーラム、すなわち広場)を、そのような場として復活させ、機能させたいと考えているのです。

 いまの政治には、そういった場や機会をつくるということへの目配りというか、配慮があまりに足りないのではないか......。議論といってもそのテーマや内容の検討といったことだけでなく、そのための場や機会をどうやってつくっていくか、というノウハウを含めて、政府だけでなく各自治体も考えていく必要があるということを、付け加えておきます。

 さて、そこで人間にとって何がいちばん大事なのか考えると、誰でもが何よりもまず自分の生活が第一ということがあるわけで、結局、個人の生活の安泰性をどう確保するかという「選択」の問題が当然つきまとってくるわけです。まあ、人間の誇りとか尊厳というのは、とにかく自分の意志で自由に選択できることにあるんだ、と。そういう意味で人間の個人性の重視ということを、やっぱり優先順位の先頭におかなければいけない。これは確かなことだと思います。

 しかし同時に、普段はあまり意識しませんが、人間が危機に直面したとき、人間はひとりでは生きていけないという事実と向き合わざるを得なくなる。人間の集団性とか共同性とか、そういう他者との関係を抜きにしては自分というものの存在さえ危うくなるということに気づき、その問題を真剣に考えなければならなくなるわけです。
 人間存在の究極的な根拠として個人と家族や地域、さらにいえば国家など「共同体」の問題を抜きに、人間の幸福のことなど考えられないだろうということが、3.11以後、いま急激に表面化し、さまざまな具体的かつ普遍的な問題として当然のごとく浮かび上がってきているわけです。

 その問題をアリストテレスの考え方と照合して整理したらどういうふうになるか、考えてみましょう。

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