反射
nous letter
2012年2月 7日 17:49

デジカメと「もの」

 一月ほど前にカメラを買った。

 これまで使っていたカメラはもうさすがに耐用年数に達している観があったし、些かかさ張るし、以前のアナログ・カメラのように手になじんだ愛着もさほど感じなかったこともあり(とてもよく働いてくれて大いに感謝はしているのだけど)、最近のデジカメの技術的進歩とデザインの先進性に、新製品を目にするたび「へえー!へえー!」とトリビア的に感心しながらしばらく前から「次の」カメラを物色していた。

 とくに一眼レフで、小型のタイプのもの(ミラーレス一眼など)に惹かれていた。ときどきアマゾンなどネットを見て機能性と値段などを比べたりもしていた。仕事でも使うけど、あまり高価なものは手が出ないし(ぼくはプロの写真家じゃないし)、趣味と実用を兼ねたもので、いいのないかな〜と。

 で結局は迷ったすえ、家電/カメラショップを何気にブラブラしていたときに、購入を想定していなかったあるカメラが目にとまり、衝動買いしてしまった。一眼レフではない。コンパクト・デジカメらしからぬシブい意匠と、ネットで見てただけでは伝わらないその材質感、そして一眼ではないけどファインダーが付いているところに、グッときてしまったのだ。要は「もの」としてのデザインが気に入ったわけ。
 
 どんなものでも「もの」との出会いとはそんなものなのかもしれない。しかも、これ、コンデジにしては安価な一眼レフくらい高価(ややこしい言い方!)だったけど、ショップの人が表示価格よりさらに少し「勉強」してくれもしたので......。

120207-1.jpg そんでもって、最初に撮ったのがこれ。何でもない写真だけど、まあ記念すべきファースト・ショットということで。
 手前はぼくのいま愛用しているエレキギター(フェンダーのストラトキャスター)で、買ったあとに貼ったシール『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』から主人公の名をとって「ジャック」と名付けた。
 その後ろにあるのが、去年の初冬、やはり衝動買いしてしまったオベイションのアコースティック・ギター(中古)。もちろん(?)、「豆の木」とぼくは呼んでいる。買ったばかりのカメラを箱から出して、バッテリーの充電が終ってすぐに焦点の合わせ方も意識せずにシャッターをきったものだから、こっちのエレアコの方にピントがずれている(ジャックと豆の木の豆の木のほうに焦点がきている。家の近くに「豆の木」という不思議な名の旨いラーメン屋さんがあるけど、それはまた別の話)。

120207-2.jpg その一週間後、はじめて仕事の「お伴」に持っていって、霞が関ビル35階でのある行事の取材が終わり、外に出て入口そばにあったモニュメントを撮ったものが右。おお、これってまるでスピッツの『とげまる』じゃんと思って、うれしくなってこのステンレス(だと思う)のエッシャー風オブジの前まで行ってシャッターをおした。隅っこにぼく自身が映り込んでいる。
 『とげまる』はご存知日本の人気バンド、スピッツの13枚目のオリジナル・アルバム名であり、アルバムのシンボル・デザインにこのトゲトゲの意匠がつかわれている(スピッツ・ファンならすぐピンとくるだろう)! 
 そういえば、3月の終わりに開くぼくらのコンサートでもスピッツを数曲演奏することになっている(アルバム『とげまる』からは「トラバント」。ぼくはジャックをかき鳴らす)。

 そのあと、銀座に出て知り合いの(一年の半分以上はバリ島で暮らしている)ある画家(坂田純さん)の個展を見に行った。こういうことでもない限り、あんなに好きでよく来ていた銀座にも滅多に来ることがなくなったけど、面白いのは、新しいカメラをもっていると、銀座の町が新鮮に見えてくる。じっさい、ここ数年でずいぶん銀座も変わったけど。

 しかし、新しくなったことと新鮮に見えることとは違う。カメラをもってシャッターチャンスをねらっていると、対象の新旧に拘らず、これまで目に入っていなかったものにも目がとまるようになる。風景の見え方が変わってくるから不思議だ。「眼の野生」がなせる技か。

120207-3.jpg 個展をやっていた画廊はメチャクチャ古そうなアナログなビル(エレベーターは二重扉で、何と手動で蛇腹式に開閉する!)のなかにあり、作品と同時にこの建物を見るのがなんともたのしい(ここでは触れないが、個展のバリのバナナ紙をつかった「抽象画」も上空から撮影した古代都市のように見えてくる)。このビルに来るのは二度目だったが、ぼくはまだまだ他所から来た闖入者みたいな感じがして、遠慮がちに2,3回シャッターをきっただけで失礼したのだけど(これはその一枚)。許されるなら、この建物がなくなる前にまた来て探検したい(「ちゃんと」写真に撮りたい)ものだ。

 ところで、文脈から少しはずれるけど、ちょっと前にNHKの「日曜美術館」で木村伊兵衛がパリで撮ったストリート・スナップの写真作品を取り上げていた。なんというか、じつにしみじみといいんだな〜、これが。このよさは、昨今の女性写真ブームと関連しているような気がしなくもない。もちろんいい意味でだけど。

 ぼくの周りでも、女性だけではないが、じつは今ちょっとしたカメラ・ブームがおこっている。仕事の性格を考慮したとしても、専門でもないのに、写真やカメラの話題が最近とても多い(じっさい、最近デジカメを同時に2台買ったという女性もいる)。いっしょに仕事している人たちと、ひとつのコミュニケーション・ツール(二重の意味で)になっている観もある。

 デジカメのすぐれた利便性は、センスさえあれば誰でも手軽によいスナップが撮れることにあるだろう(写真、とくにスナップはプロとアマチュアの敷居が限りなく低い。それが写真の特長でもある。ことにデジカメが主流になってから、それはますます加速している)。
 これまでの既得した「現実」にすがりつき維持しようとあがいている男たちに比べると、「もうひとつの現実」に対する好奇心を持ちつづけている女子たちはきわめて健全な気がする。ぼくも多少はそれが(女子たちに煽られたことが)カメラを買う動機のひとつとして作用した点がなくもない、かも。

 写真はいうまでもなく、撮るだけでなく見るものである。見る・見られることを前提としている。しかも、ほとんどの場合、複数の人が一枚の写真を見る。「もうひとつの現実」を共有したいという欲望が写真を撮る・見るという行為を駆動しているんじゃないかと言いたくなる。共有することで「新しい現実」になると言った方がよいかもしれないが。

 いま読んでいる内田樹と中沢新一の対談集『日本の文脈』のなかに「男のおばさん」を顕揚する話がでてくるけど、そうだとすると、「カメラ女子」みたいな「女のおじさん」化(つまり本来「物好き」はおじさんの領分だから)もよきことなのじゃないか、なんて、書いているうちに思えてもくる。「日本の現実」はおしゃべりな「男のおばさん」と物好きな「女のおじさん」たちが組み換えてくれる。そんなことを期待したくもなるのも新しいデジカメの効用だとしたら、これはほんとに買得である。

120207-4.jpg  このカメラ、今週末、取材で行く福島と仙台にもっていく予定。遠いところじゃないけど、ぼくには久しぶり、このカメラにとっては初の「出張」である。小さな旅とはいえ、ともに震災後はじめての東北となる。
 どんな「もの」と出会うことになるのだろう。

2012年1月13日 18:57

『タンタンの冒険』をめぐるスピルバーグの冒険

tintin_movie0113.jpgこの週末、正月の連休のうちに何か1本くらい映画を観たいと思い、スマホのアプリで情報を検索して、家から比較的近い越谷レイクタウン内にあるシネコンで上映中のスピルバーグの新作『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』を、家人と二人で見に出かけることにした。スピルバーグの久しぶりの監督作品だし、年のはじめから二人で見るのにあまりシリアスで「重たい」ものも何だし、シネコンはスクリーンが小さいけど大劇場のある都心に出るのもおっくうだし......、ということで。

で、映画を観た感想として、とてもおもしろく、スピルバーグならではの息もつかせぬ活劇をたのしめたのだが、これまでどんな映像にもなかったような「奇妙な感触」があり、ちょっと不思議な後味というか、本でいえば読後感がのこった。そして、おもしろくはあったが、見終わったあとに、無臭の味気なさというか、さびしさ・むなしさみたいな印象が残ったのも事実である。

そのことを少し考えてみたい。

そもそもスピルバーグに関しては書きたいことはいっぱいあるし、でも逆にいまさら改めて何をかいわん? と、そのあいだで思いも揺れる(?)が、ともかくはまず一言だけ簡単にいうとしたら、やはり彼は永遠の「映画青年」だな〜、ということになるだろうか。タランティーノにもこの称号を与えたいところだけど、スピルバーグが「青年」というなら、「タラちゃん」は映画「少年」というべきか(それだけ悪ガキで、アブナイといってよいかも)。この『タンタンの冒険』でも、スピルバーグの青年ぶりはいかんなく発揮されている。

しかし、その青年としての風貌が些かこれまでと違うのだ。

子どもの頃からの映画マニア(シネフィル)が大人になり、そのまま映画の作り手になって「自分で自分の見たい映画」を作りつづけているという意味では、スピルバーグとタランティ−ノは共通部分が多いし、それこそが私も二人の映画の好きなところで、新作が来るとなると、こちらも映画少年(あるいは青年)だったころを思い出し、いまだにわくわくしてしまう数少ない映画作家(監督、脚本家、制作者)である。新作の情報を知るたびに早く見たくて落ち着かない気分になるのは、アメリカの映画作家ではこの二人の他には、クリント・イーストウッドくらいなものだろう。その意味では、イーストウッドがいちばんの「大人」だが。

『タンタンの冒険』はご存知のように全編にCGが駆使されているらしいことがわかっていたので、下手すると「ダメ(駄作)」かなという不安もあったが(もともとCGを無自覚に多用する映画は好きでないし、私はスピルバーグの全部が好きというわけでもない)、ある意味でその心配は不用だった(「普通」ではありえないシーンでも、ちゃんと引力などの自然法則にしたがっているから、CGで作られているとしても実写同様の説得性があり、同じ嘘でも嘘を嘘として自覚してたのしめる)。CGだろうが実写だろうがスピルバーグは「つくりもの」がお得意だったわけで、むしろ新しいデジタル映像技術のおかげで、彼としてはスピード感全開ハラハラドキドキのストーリー展開を思うように「演出」できる道具を手にすることになったといえるだろう。

いうまでもなく、「奇妙な感触」はこの新しい技術に由来する(この手法は正確には「フルデジタル3Dパフォーマンス・キャプチャー」と呼ぶらしい)。この不思議な手触りのこれまでにない映像体験は、スピルバーグが新しい「道具」をつかって縦横に遊んだことでつくられたものである。新しい技術といっても、キャメロンのSF映画『アバター』のほうがその先駆となる作品であり、だから、たしかに『アバター』に近い風合はある。しかし、あのように架空の世界が舞台ではなく、地上の世界が舞台だし、片方が異星の種族(エイリアン)が主演であるのに比べて『タンタン』の主役は「普通の」人間である。

そのため、かえってその奇妙な感じは『タンタンの冒険』のほうに強まる。つまり、異星人はもともと「奇妙」なのはあたりまえだけど、人間が人間でありつつも人間でないような存在として動き回ることの変な感じ------。それは、描かれたCGアニメのキャラが生身の人間を「演じる」(模倣する)のではなく、いうなれば生身の人間がCGアニメの人間を演じる奇妙さなのである。人間が人形のように演じるいわゆる「人形ぶり」はこれまでにもあるとしても、ここまで全編に徹底して「人間がCGアニメの登場人物を演じる」映画ははじめてだろう。「彼ら」は映画にはじめて人間とCGアニメの造形物との中間として登場した、新種の生き物みたいなものである。

じつをいうと、この映画が終ったあと、一抹の「さびしさ」と「むなしさ」があったのだが、それはけっして嫌なものではなかった。このところゲームから少し離れているが、「むなしさ」のほうはRPGやアクション・ゲームに熱中して何時間もかけてクリアしたあとの開放感にともなう空虚感に似ているといったらよいだろうか。スピルバーグにはもともとゲーム性があって、『タンタンの冒険』に限らないわけだが、しかし、これまでの彼のゲーム感覚とはやっぱり何か違うのだ。うまく言えないが、アナログな遊戯性が、デジタル・ゲームに移行した感じ------。

では「さびしさ」のほうの原因は何だろう(と、しばし考える)......。
端的に言ってしまえば、ハリソン・フォードがスピルバーグの映画で活躍する時代は終ったということになろうか。
スピルバーグのここ何年かの作でいえば、あまり評判がよいとはいえないSFもの『マイノリティ・リポート』や『宇宙戦争』(ともに主演はトム・クルーズ)は私は結構好きで評価していたのだけど、インディアナ・ジョーンズの4作目『クリスタル・スカルの王国』は、ちょっとガッカリで、とくにハリソン・フォードがもうだめだと思った。歳なら歳で、魅力の出しようはあるはずなのに(たとえば、3作目『最後の聖戦』のインディアナの父役=ショーン・コネリーのように)、なんというか、その「存在感」よりも無理に人間的にがんばって「演技」している感じがどうも気になってしまって、映画のなかに入っていけない。もともとハリソン・フォードが優れた役者だなどと思ってもいないが、『スター・ウォーズ』のハン・ソロやこのインディアナ・ジョーンズは彼でなければならない「はまり役」で、そのキャラクターを愛していただけに、やはり「永遠に」その役を演じつつけることは無理なのだと自ら告白してしまった観があった。『タンタン』は「人間」インディアナ・ジョーンズへの別れの歌だったといえるんじゃなかろうか。

スピルバーグの作品カテゴリーとしてはインディアナ・ジョーンズ・シリーズのような「冒険活劇」映画に連なるだろうこの『タンタンの冒険』は、もしかすると、その「さびしさ」を超えようとする試みであったのかもしれないとも思うのだ。
映画というものがたえず新しい技術の導入とそれを使いこなす試みの歴史であるように、スピルバーグがその映画の技術革新に自らも名を連ねたいという意欲(夢)を、映画青年として実現したかったという面もあるのだろう。はっきり言って「人間」を描くことに関しては、タラちゃんやイーストウッドにはとても太刀打ちできないと思う(彼のもうひとつの路線である「人間感動ドラマ」は見ていて気恥ずかしくなるところがあって、あまり好きでない)。

たしかに、この技術をつかえばタンタンは永遠に青年のままで、いつまでも老いることもないだろう。何作だって続編がつくれるだろうし、スピルバーグがこの世を去った後も、誰かが彼にかわってタンタンをスクリーンに生かしつづけることができる(しかし、そこに、それはそれで孤独な哀しみがつきまとう。『A.I.』にも通じる哀しみである。スピルバーグも自覚しているだろうし、その「孤独」は彼のテーマでもあろう)。

社会から子どもと大人の中間的存在である「青年」が消滅した(内田樹氏の指摘。卓見である。くわしくは彼の本を読むべし)だけに、映画青年スピルバーグは、この世での「青年」に別れを告げ、もうひとつの世界=映画のなかだけでも「青年」を「生き生きと描くこと」で青年性を永遠化したかったのかもしれない。それは、むかし青年だったことのある人にとっては青年が永遠に失われてしまったことの諦めの証しでもある。しかし、その諦めは、それほど嫌なものではない。この場合の諦めとは明らめ、明らかにすることでもあるだろう。

それは、現実がゲーム化してしまった現在の社会のなかで、自分と世界を生きのびさせる術を探るひとつの方法なのかもしれない。

2011年12月21日 16:58

Happy Christmas!

きょう、仕事で編集会議があったので、新宿の副都心に行ってきました。

高層ビルの37階にある会議室の窓からふと地上を見ると、他のビルの出入り口あたりの空間に巨大なイチゴケーキの立体模型のようなものが見えます。でも、なんか、ちょっと変。ピサの斜塔のように斜めに傾いでいるし、人がその上を歩いていたりするのです。

会議が終って、昼食を会議の出席メンバーといっしょにとった後、そのなかの好奇心駆動型女子2名とその変なブッタイのあるところに行って「現場検証」してみることにしました。

その証拠がこの2枚の写真。正反対のアングルから撮ったものです。

111221-1.jpg111221-2.jpg

そう! それは一種の「だまし絵」だったのです。

立体のオブジェではなくて、まったくの平面に描かれたイラストレーション。絵の輪郭にそって切り取られた少し柔らかめの「板(シート)」が石畳の上にベタっと置いてあるだけ。それが、見る角度によって、ググーッと立体状に起ち上がってくるのです。おーっ、パチパチパチ(拍手)。

私はこの手のだまし絵(アナモルフォーズ)とか認知科学的視覚の遊びが昔から大好きなので、うれしくなって、近くに寄ったり離れてみたり、見る位置をいろいろ変えてみたりで、みょーれいの女性2人といっしょにはしゃぎまわてしまったのでありました。
近くを歩いている人たちは、この「作品」のトリックに気がついているのかどうか。不審げにわれわれ3人を横目で見ながら、足早に通り過ぎていくのでありました。

まさにHappy Christmas を先取りしたかの愉快なひと時。

みなさまも、どうぞ、ハッピーなクリスマスをお迎えください!

2011年12月 5日 10:58

夢をめぐる断想ー9

この前のある日(11月10日)、目覚め際にこんな夢を見た。

都心の古い二階建てアパート。下宿風。
カメラマンのK氏(男性)といっしょに、そこに住むNさん(女性)に写真アルバムを返しにくる。K氏と二人で2階の彼女の部屋に行く。しかし、彼女は不在。畳敷きの狭い部屋、ずいぶんと散らかっている。部屋のなかをごそごそと見てまわる。

鞄(いつも仕事で使っているショルダーバッグ)から出したはずの本(写真アルバム)が見当たらない。雑然とした部屋のゴチャゴチャしたモノたちのなかに紛れてしまったのだろうか。返そうと思ってどこかに置いたはずだ。

この2階(うえ)の部屋にないので、階下(した)に降りて、他の住人たちの部屋を探す。しかし、どこにもない。人が数人いて、K氏と何か話している。「いったい、どうしたんだ?、、、」

そうこうするうちに、Nさんが帰ってくる。アルバムを返しに来たんだと言うと、ニコッと微笑み少し嬉しそうな顏をする。しかし、全体は不機嫌な感じ。ぼくはまた上や下の階を探す。階段がなんかおかしい。昇降のエスカレーターが並ぶように、二つの広めの木の階段がくっついて並んでいる。変な気がした(ひとつあれば上り降りができるのだから、二つある意味があるのか?)。

ぼくはもう帰らなければならない。K氏はそのまま泊っていくようだ。ぼくもNさんも、なんだかイライラしてくる。

2階の散らかった部屋の本の山のなかから、埃をかぶった一冊のアルバムを見つけて、パラパラとめくりながら、興味深げにアルバムのなかを見る。子どものころの家族の写真などがある。しかし、これは探している本ではない。そんなものをゆっくりと見ている時間はない。終電の時間が迫っている。

「じゃ、ぼくは帰ります」と言って帰ろうとするが、今度はその本(アルバム)を入れてきた鞄(2種類ある、いつものバッグ)がない。部屋のどこかに置いたのだが、どこにも見つからない。
なんだか、おかしいな、おかしいな、、、と頭が変になりそう、、、。

と、ふと気づく。でも、そういえば、バッグは現実である自分の家に置いてきたのだ。夢のなかには、本当のところ、持ってきていない、のかもしれない? どうりで見つからないはずだ、現実の方にあるのだから、、、と、少しほっとする。

そこで、「8時ですよ」という妻の声がする(出勤のため、毎朝、ぼくは8時までには起きなければならない)。目が覚め、現実に帰還した。

以上、忘れないうちにと思い、その日の朝、座れたので、通勤する電車のなかでノートにこの夢を書き留めた。いうまでもなく、そのとき、ノートの入っていた仕事用のそのバッグはぼくの膝の上にあった。

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Profile

石井 泉/いしい いずみ
東京出身。明治学院大学文学部フランス文学科卒。長きにわたり、出版社、編集プロダクションに在籍、主に科学・芸術関係の雑誌、書籍編集およびデザイン、公共施設の展示プランニング等を手がける。2006年に独立し、「エディション・ヌース」として事務所を開設。科学・芸術・哲学の領域を、横断的な視点で編集・表現していく感性と技を模索しつづけている。最近は依頼に応じてエッセイの執筆なども行う。