松島沖のウミネコ
nous letter
2006年10月 6日 17:49

本城直季の写真と見ることの不思議

small planet
 ▲ 本城直季『small planet

 はじめに「えっ!?」と思ったのは、8月22,23,24日付けの朝日新聞に3回連載されていた「『好感』のありか」と題された記事を見たときだった。その記事内容とは直接的に関連してはいない、ひとつのイメージとして「small tokyo」とキャプション・タイトルの付いた写真が比較的大きく掲載されていたのだ。「撮影・本城直季」と、聞きなれない写真家の名前があった。

 おそらく誰でもそうであるように、最初に一見したところは、よくできた都市のミニチュア模型だなと、たいして気にとまらなかったが、でも、どこか“普通”とちがう感じがある。つまり、ミニチュアの風景ジオラマにしては、あまりに“できすぎ”なのだ。ピントが一部に合っているだけで、周囲はぼやけているのと、模型のように時間が止まっている感じがあるので、なおさら小さなものを“覗いている”感覚があった。だから、これが実際の風景を写し取った写真だと気づいたときの驚きといったら! 
 
 そう、これは模型の写真ではなく、現実を模型のように見せてしまう写真だったのだ。それがわかってから見ると、もうそうとしか見えないのが、また逆に不思議といえば不思議だが、あまりに細密なディテールや照明が自然っぽいと気づき、これは“本物の現実”(おかしな言い方だが、仕方ない)であることがわかるのに一拍遅れたわけだ。
 しかし、これも一拍のタイミングのズレが驚きのもとともいえるので、それがまたまた面白いのだけど。

 その後、日常の忙しさにまぎれ忘れかかっていたところ、銀座の本屋で写真集『small planet』を見つけ、購入。こういうものは、ただ見るだけでなく、手元に所有しておきたくなるものなのかもしれない。
 写真集を開き、あらためて本城氏の不思議な写真をながめてみる。錯覚が錯覚であったことの驚きが一休みすると、こんどはほっとするような落ち着いた心持ちになってくる。
 この心地よさはなんなのだろう。おそらく、“現実”であるとはいえ、ミニチュア化されたそれを見ること=所有することの快感なのだろうと思う。こどものときは誰もがミニチュアや模型が好きで、それは小さくすることでひとつの世界を自分のものにできることの悦びと同様であったような。

ザ・藤森照信—総勢100名による徹底探究-歴史・設計・人間
 そしてさらに最近、家の近くの本屋で、建築家・藤森照信の「仕事」を集めた『ザ・藤森照信』というムックを見つけ、「路上観察学」の人、そして「建築探偵」、また名エッセイストとして昔から彼のファンだった私は、サイフの中身と相談しながら、買おうかどうしようかと迷ってパラパラこの本をめくっていたら、一種の既視感のようなものに襲われ、あっと思って本扉を見ると、撮影=本城直季とあるではないか。この“出会い”は、もう、これを買うっきゃないわけで…。

 本城氏の写真は、カメラと目の構造は相似しているといわれるが、そうだとしても(そうだとしたら)、なおさら「見る・見える」ことの仕組みはいったいどうなっているのだと、目の不思議に思いを及ばせてしまうような不思議な写真である。目の外にある写真だけでなく、いやがおうでも目の内側にも“視線”が向いてしまう。「目はその同じ目を見ることができない」というが、あえて目が目をみることをうながすような写真であるともいえそうだ。

 じっさい、このような写真はどうやって撮るのだろう。私はアマチュアなのでよく知らないが、そうむずかしい手法ではなく、大判カメラの蛇腹を操作し、ピントと位置と幅を調整、被写界深度を浅くすることで、風景を模型のように撮ることができるらしい。そのように、カメラ=目に入る光線とピントの按配、結像の仕方を調整するようだ。しかし、要はカメラ=目の“うしろ”、撮る本城氏と見るわれわれの脳の処理、つまり知覚と認識の問題であろう。
 認識とむすびついた見ることが、模型と同様、世界を所有することの欲望とつながっているとしたら、本城氏の写真は現実と目との相互作用を入れ子にした、幼年期のノスタルジーとアイロニーの合体したもうひとつの目=もうひとつの世界である。

 しかし、これ以上の解説は不用であり、無益だ。興味のある方には、彼の写真をじっさいに見てもらうしかない。これまで数知れず見てきた写真とはちがう、でも、写真でしかないような写真がここにある。

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Profile

石井 泉/いしい いずみ
東京出身。明治学院大学文学部フランス文学科卒。長きにわたり、出版社、編集プロダクションに在籍、主に科学・芸術関係の雑誌、書籍編集およびデザイン、公共施設の展示プランニング等を手がける。2006年に独立し、「エディション・ヌース」として事務所を開設。科学・芸術・哲学の領域を、横断的な視点で編集・表現していく感性と技を模索しつづけている。最近は依頼に応じてエッセイの執筆なども行う。