松島沖のウミネコ
nous letter
2011年2月23日 17:17

『ヒア アフター』映画と夢、そして現実の連続性

相変わらずハイペースなクリント・イーストウッドの新作である。

hereafter0223.jpg新聞でこの映画の広告を目にしたとき、『ヒアアフター(HEREAFTER)』という題名に「ん、これは?」と興味を惹かれたが、そろそろかなと思っていたイーストウッドの新作とわかって、ますますうれしくなった。『チェンジリング』『グラン・トリノ』『インビクタス』と、このところ彼の作品は期待通りな部分と予想を裏切る部分が絶妙のバランスで同居するように作られてきたが、今度はどんな作品なのか......。毎回、見たときの「感動」の多寡は異なるけど、映画であることの「筋」とでもいえばよいか、どの作品も映画を見ること、その体験自体の楽しさが淡々と担保されていて、どうころんでも「損」をすることはない。いま、そんな期待を抱かせてくれる現代のアメリカ監督は、タランティーノとイーストウッドくらいなのではないか。

で、今回の『ヒア アフター』である(写真は上映プログラムの表紙)。映画がはじまって間もなくのイーストウッドらしからぬ津波のシーンには驚いたが、それだけにちょっと物足りなさの残る終り方に、どう反応していいか戸惑ってしまう、というのが大方の観客の感想だろう。私自身そうだったが、しかし、これはある意味、イーストウッドの近年の特徴ではないかとも思った。映画のなかで物語(映画のなかの時間)が完結しないのだ。つまり映画のなかで生じた問題が、徐々にクライマックスへと向かい、それを経て観客は大いなる解決のカタルシスに身を浸す、という娯楽大作映画にありがちなドラマ構成にあえて抗う、というかまったくそんなことを気にせず、あとは観客のみなさんの「人生」につながっていることですよと、「答え」を示すことなく未完のまま放置し、観客それぞれの複数の見方、多様な考えに委ねてしまう。ことに、この新作はそうだった。

では、たとえば、私の見方は。「ヒア アフター」つまり来世、死後を示すこのタイトルどおりにあっち(彼岸)とこっち(此岸)の連続性を経験的に信じる3人の人間の社会からの疎外感を(と、それゆえの不思議な連帯感を)ひとつの主題にしていると思えるこの映画は、同時に映画であるゆえの現実からの疎外に耐えながら、映画と現実とのつながりを見出そうとする作品のようにも見れた。つまり、あっち(映画、幼年期)とこっち(現実、大人の社会)の連続性を「愛」が立証しようとする物語。その愛を成就すべく機能するのは、双子の片割れである少年の「天使」なのである。あっちの世界の存在が、こっちの世界での生を豊かにするのである。

映画の終わりが、観客の「人生」につながっていると書いた。さらに言えば、その映画が人生とつながるのはその人間の見る夢を通じてである。個人の夢は集合的無意識とでも言っておくしかない闇を通じて夢として夢見られる。つまり、映画は集合的な意識を活性化することで個人の夢と、そしてその夢は現実とつながっていくのである。その夢と現実との往還こそが芸術表現上の重要な「経験」となるものであり、イーストウッドはそのことに極めて自覚的であるような気がする。私で言えば、この映画の津波と先日の東南アジアでの地震の夢(前回のブログの「夢見の箱」参照。そういえば、あの箱自体がひとつの「映画館」でもあった)、主人公の霊能者(マット・デイモン)とバリで出会った女性呪医(バリアン)との遠い記憶に、映画と夢の連続性を感じたりする。

ところで、この作品はスティーブン・スピルバーグが「制作総指揮」に名を連ねている。眩しい光が背後から人影を浮かび上がらせる「あっち」の世界が、スピルバーグが監督した『未知との遭遇』のマザーシップから行方不明になった人々が降りてくるシーンと二重写しに見えたのは私だけではないだろう。しかし、『未知との遭遇』のリチャード・ドレイファスが母船に乗り込んで「行きっぱなし」になった(いうまでもなく、死の世界への移行、母体への退行の暗示)のとは反対に、『ヒア アフター』の主人公3人は「こっち」の世界で新しい人生をはじめようとするのである。

世界と映画の「破局」のあと、そのデカダンスを私たちはどう生きればよいのか。新作の度に一種意外な展開を見せるイーストウッドの作品に共通するのは、老練な映画作家のそんな視点であり、視差(示唆)ではなかろうか。

2011年2月 3日 17:45

夢見の箱〜「野生の創造展」を見て〜

ここは東南アジアのどこかの島か
群青色の海面
その下に泡にくるまれた
心臓のように脈打つ赤いルビーの炎が見える
地下から噴き出るマグマの舌なのか
地震があったらしい見知らぬ地の海岸線を走るバスの窓から
私はその炎の宝石をデジカメに撮る

日本のマスコミにこの写真を送って報道してもらおう
掲載されたらお金ももらえるはずだし
誰かにパソコンで「朝日」に画像データを送信してもらうため
ある村のある家のある部屋に入るが
人も部屋も混乱していてなんだかわけがわからない
森のそばのこの地が地震とパニックで揺れている

----こんな夢から覚めても
眠りの渚で私は何かを探しつづけていた

失われた夢日記
最近、家の整理をしたとき古い机の引き出しの奥にみつけた
あの夢のノートはどこへいったのか
「溶ける宝石」の夢がそこに鉛筆で書き込まれているはずだ
学生のころスタージョンの『夢見る宝石』を読んだあとに見た夢だ

大学の恩師の最終講義が数日前に行われたが
パーティで当時の友人たちと飲んだ赤ワインのグラスに
死んだともだち、ここへ来なかった知人たちの影が映り込む
きみたちはどこへ行ったのか
「宝石は溶けて流れさる」と夢のなかで誰かが言っていたはずだ
笑い声だけが頭蓋のような部屋に悲しげに反響する

Tai Rei Tei Rio なんだか呪文のようなCDのタイトル
そういえば昨夜
枕元の小さなステレオでこの音楽を聴きながら寝入ったのだった
馬喰町ART+EATで「自然の産婆術 野生の創造展」っていうのを見て
そこで買って、巣に帰る鳥のように寝床まで運んできたのだ
音は流動する溶岩を思わせるときがあったし
アートワークの模様と色は家の絨毯のようで
硬膜下血腫の溜った血を思わせる
あるいは羊水の、そんな音の色

ブリコラージュとしての神話が出会い、生成する場なのか
じつは、この展覧会に私も参加していたかもしれないのだが
だからか、私の♪存在する不在感(ムーンライダーズ)のなかに
幽霊のようなもう一人の私を私は探していたのだ
この展覧会は私にとって
そんな失われた宝石の夢を再び見出すための通路であり
会場そのものが「夢見の箱」のようだった

maieutike2011_240.jpg

(注)文中の「Tai Rei Tei Rio 」(タイ・レイ・テイ・リオ)は高木正勝のアルバム・タイトル。「夢見の箱」は井藤昌志+高木正勝のコラボレーション作品「dreaming like singing」(上の写真)の「箱」の部分の題名で、井藤昌志の作。数年前、はじめて郡上八幡の井藤さんの工房(木工所)にお邪魔したとき、おいしいお酒をいただきながら、「箱」っていうテーマでなにかできるとおもしろいよね、などと歓談したことを思い出す。

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Profile

石井 泉/いしい いずみ
東京出身。明治学院大学文学部フランス文学科卒。長きにわたり、出版社、編集プロダクションに在籍、主に科学・芸術関係の雑誌、書籍編集およびデザイン、公共施設の展示プランニング等を手がける。2006年に独立し、「エディション・ヌース」として事務所を開設。科学・芸術・哲学の領域を、横断的な視点で編集・表現していく感性と技を模索しつづけている。最近は依頼に応じてエッセイの執筆なども行う。