松島沖のウミネコ
nous letter
2011年6月29日 16:48

記憶の森、森の記憶

やっと東京都庭園美術館への訪問がかなった。何年ぶりだろう。前に来たのは、まだ世田谷の等々力に住んでいたころのことだから有に20年はたっている。

いつも、また訪れたいとは思っていた。生来の出不精というだけでなく、なかなか時間的自由ときっかけがつかめず、この美術館は長い間、私にとっては記憶の中の美術館として、すりガラスの文様のようにぼんやりとその姿をとどめているだけだった。

いまその庭園美術館で「森と芸術」展が開かれている。

前回の本欄で書いたことだが、私は本展の図録=本というかたちで本展の内容を先に読み、ある程度のことは知っていた。この本自体が、読む者の想像力を森へとかきたてる知力と魅力に満ちた、これだけで十分に完結した美しい展示物=書物といえるが、でも、やはり、庭園美術館にじっさいに来てよかったと思う。

ここには、時空を超えて、いくつもの、さまざまな出会いが仕込まれている。出会いそのものが主題のひとつであるといってもよいくらいだろう。

木々の深い緑と涼やかな空気に包まれて建つ庭園美術館(旧・朝香宮邸)は敷地全体が樹木や草花の集合した場であり、森というものがもつ雰囲気、あるいは森の「痕跡」といったものを都会のなかに濃厚に留めるひとつの「場所」である。身体が受け止めるこの感覚は、本を読んで想像するのとは、またちょっと別のものだ。

来てよかったと思ったのは、そんな森の中の庭園美術館で「森と芸術」展を見るという、記憶(心)と身体(感覚)が、そして主題と方法が見事に一致したこのような「体験」はそう滅多にできることではないだろうからだ。

東京という大都市の中にぽっかりと開いた森、その森の中の美術館。建物の中に入ると、その内部は植物をモチーフに装飾されたアール・デコ様式のいくつもの部屋が隣り合ってつづき、ちょっとした迷路のようで、まるでもうひとつ別の森に入り込んだかのよう。

そして、いくつもの部屋を「章」ごとに別けた展示室で、さまざまな時代やいろんな表現方法で描かれ、あるいは作られた作品による多数の多様な森が展開する。一つひとつの作品が、それぞれの木をもち、森をもっている。私たちはその作品の奥へ奥へと次々に導かれ、木から木、森から森へとさまよい歩くことになる。

展示内容に関しては、いつものようにここでは触れないが、それもあまりに愛想のない話だから、個人的にはマックス・エルンストの「森」がとくによかったとだけ述べておこう。あの油彩の円環のある森にしても(同種の「森」のタブローは先の国立新美術館での「シュルレアリスム展」にも展示されていた)、フロタージュによる鳥にしても、彫像によるおかしな「妖精たち」にしても、超懐かしい、あるいは超可愛いとでもいうか、どうしても好きにならずにはいられない。しかし、ここではやはり、個々の木=作品と同時に、その集合である森の全体を見てほしいと思う。樹木が集まって森ができるのと同時に、森が木の形を規定する。

一通り「順路」をたどりながら2階へ上がり、2階から階段を下りていくと再び入口に戻り、外を右へ歩くと視界が開けた庭に出る。美術館の側面が接した芝生の広場がある。

広場のまわりは木々の茂る森のような庭園になっていて、芸術という架空の森をさまよって来た私たちはじつは「現実」の森の中の、さほど広くはない建物=箱の中の「森」を歩き回っていたことに気づくことになる。森の中の森の中の森。

したがって、架空の森とはいっても、その芸術の森はけっして非現実的な森ではなく、現実と記憶がそれを介してつながっているかのような、アナロジカルな想像の力がそれらをつなげるかのような森である。いうなれば「そこには現実しかない」のだ。人にとって記憶とはひとつの現実であるように、また、記憶がなければいまの現実がないように。

庭園から美術館の建物を振り返ると、それは森の中の小さな城、あるいはヘンゼルとグレーテルや、他のメルヘンの人物たちが森の中で見出す、こびとや鬼の住む「お家」のようにも見える。
私たちはもう一度、この家の中の「森」に戻りたい誘惑にかられるが......。

私たちの記憶の森をたどり、私たちの心の中に森の記憶を見出すのに、この庭園美術館という森で「森と芸術」展を見ることほどふさわしい豊かな体験はないだろう。私たち自身が1本の木として、この森に参入することができる。

あるいは、こう言えばよいか。私たちの生きるこの世界には、「野生の眼」にしか見えない大いなる森がある。その森にアクセスするためのアンテナのような1本の若木を、私たちはお伽話のように超可憐なこの展覧会からわけてもらうことができるだろう。

 ★

前回の宿題から。

前回の本ブログで書籍『森と芸術』(監修・著 巖谷國士)の後記から「人間の未来を信じる者は、心の中にひそかに1本の木を持っている」というフランスの作家ピエール・ガスカールの言葉を引いた。そして、伊勢英子の絵本にそっくりな言葉があったような気がするので調べてみようと書いた。

大きな木のような人 (講談社の創作絵本)
ルリユールおじさん (講談社の創作絵本)
で、家にある本を探したり家人に訊いてみたりしているうちに、その言葉は彼女の『大きな木のような人』(理論社)という作品に出ていたのを思い出した。2年ほど前に出た、「いせひでこ」と平仮名で名前が表記されている絵本で、その本の7ページ目に「人はみな心の中に、一本の木をもっている」とある(帯にもその言葉が記されている)。

先の引用文とはビミョーに異なる意味合いの言葉だが、この絵本はパリの植物園を舞台としていて、その植物園(庭園といってもよいだろう)である植物学者と出会った少女の心に「小さな芽」が育ちはじめて......、といったお話なので、いせひでこはピエール・ガスカールの上の言葉を知っていたか、もしくは、この植物学者のモデルは実在していて、その「大きな木のような人」からこの言葉のことを聴いたことがあるのかもしれない。ピエール・ガスカールという人は、植物の研究者だったようでもあるし。

まあ、それはどうであってもいいのだが、この『大きな木のような人』、優良書だと思う。そしてもし読むのであれば、同じパリを舞台にした、『ルリユールおじさん』という、こちらは本(木と本は似ている。文字では木に一が付いて本になる。これは木の切断線、木を伐り倒すことを表しているのだろうか)の、装幀職人のお話だが、この絵本もぜひいっしょにどうぞ。この絵本においても木は重要な要素で、いせひでこはよほど木や花など植物が好きと見える。この『ルリユールおじさん』の最後では、私(主人公の少女ソフィー)は大人になって植物学の研究者になった、とある。そしてこのソフィーは、『大きな木のような人』に研究者の姿でちらっとだが登場することになる......。この2冊はまるで姉妹のように、あるいは2本の木のようによく似た本である。


2011年6月17日 18:04

さる週末の一日

20110620.jpg東日本大震災からちょうど3か月たった6月11日の土曜日、小雨の降る新宿で久しぶりに映画を見た。目黒へ出て庭園美術館に行くかどうかでちょっと迷ったが、この日は新宿にした。映画は、イタリアのマルコ・ベロッキオ監督『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』。数日前にはいじまさんから電話があり、なかなかいいからあなたもぜひ見るといい、と教わったという事情もあったし、近いうちに行きたいと思っていたカミさんの実家にも寄りたいし、、、ということで、そのカミさんと朝から出かけたわけだ。
家を出るのが遅れ、ぎりぎりだったけど、JR新宿駅から急ぎ足で「シネマート新宿」へ向かい、初回の開映11:00にかろうじて間に合った。

この監督の映画を見るのは初めてだったが、久々に堂々とした骨太の作品を見たような気がした。メリハリの効いた演出で、夜のシーンが多く、逆光をつかった人物のシルエット表現も美しく、なんというか日蝕のような、影がその後ろの光源の存在を強く感じさせるような効果を画面におよぼしていた。当時のニュースやいくつかの映画の上演シーンが、この映画に出てくるのも、こちらは月蝕を思わせ何か暗示的。そしてなにより、ムッソリーニの愛人を熱演する主役の女優がいい。どこかで見た覚えがあったが、あとでプログラムを見て、この女優ジョヴァンナ・メッゾジョルノはガルシア・マルケス原作の『コレラの時代の愛』(06年。マイク・ニューウェル監督)に出ていたのを思い出した。

映画が終ったとき時計の針は午後1時をまわっていて腹もすいたので、実家に行く前にともかく昼食をとることにしたが、さてどこにしようか。
三丁目の交差点でどっちの方角にある店にしようかと周りを見回しているとき、ふと思い出して、少しだけ四谷方向に歩いたところにある「隨園別館」という中華(北京料理)の店に向かうことにした。
3月の末、仕事関係の知人でこの日退職するある女性の送別会に呼ばれ、一度この店に来たことがある。そのときは食うよりも酒と話に夢中になっていて(それとこの頃は強い余震もまだちょくちょくあって気持ちがいまひとつ落ち着かず)店自体はあまり印象に残らないまま忘れかけていた、けど、思い出してよかった。もう一度来てみて、意外にいいな、と改めて思った。

水餃子、冷やし中華、焼飯、スープ、杏仁豆腐の飲茶ランチがなんとセットで750円。この本格中華の、この旨さとこの量でこれは安い! 安すぎる。メニューに記されている数字の読み違えじゃないかと、皿が運ばれてくるたびに見直したほど。1本ビールを飲んで2人で2000円ぴったし。些か派手な店の構えの割には、店内は高級料理店のような金ピカの「絢爛」さはなく、かえって気取ったところがなくて店のやや古びた雰囲気も、ぼくなんかにはこのほうが落ち着く。

安いだけではしょうがないわけだけど、ともかく昔からあるようなこの「普通」な感じがいいし、それでいて複雑で玄妙な味わいをさりげなく隠し持っているかのように、どれもが美味しい! ことに水餃子。この店を教えてくれた送別会の幹事さんに遅ればせの感謝である。また、来よう。

その後、新宿駅まで歩いて戻り、大江戸線で牛込柳町の家内の実家へ。義母と義妹とその子ども、飼い犬の吠え声と猫のオシッコの匂いと産んだばかりの鶏(なんと浴槽で飼っている! 四羽も!)の卵に迎えられた。また、原宿で国芳展を見てきたという姪っこが一足先に着いていた。手土産に新宿で買ってきたわらび餅を食べながら、国芳の猫や鯨や骸骨、若冲の鶏や象や虫の話で盛り上がったあと、別室のやせ細った義父を見舞い、1週間早い「父の日」のプレゼントを家内から。

そういえば、ここ、家内の実家へ来るのは、3.11の震災の日以来である。あの日、ぼくは地下鉄で移動中に地震に遭い、日比谷線・仲御徒町駅で6時間くらい足止めをくったあげく草加市の家には帰れず、この牛込柳町の実家にお世話になったのだった。ちょうど3か月前のことである。
もう3か月、まだ3か月。震災後何も変わっていない。津波と原発事故で「世界」が変わってしまった(現実と思っていた世界への信頼感を失った)後、変わったままでまだ何も変わらないように見える。己の姿を取り戻せるのはいつか。その後ろ姿を追いかけるのか、新しい自分と向き合うのか。この現実の世界が現実感を取り戻せるようになるのはいつのことだろう。

娘の一人が待つ家に夕飯前に帰宅。駅前のスーパーで買って帰った弁当を食す。種類は三人三様で、ぼくは天丼。プラスティック容器のまま電子レンジでチンして、少しあっためたのを缶ビールで流し込む。

森と芸術
就眠前に寝床で、読みかけだった『森と芸術』(平凡社)を読み終わる。この本は現在東京都庭園美術館で開かれている「森と芸術」展のカタログであり解説書でもある。監修・著は巖谷國士先生。先生と書いてみたのは、文字通り大学仏文科のときのぼくの恩師だった人だからである。じっさい、ぼくにとって一種の畏れとともに真に先生と呼びうる数少ない人、というかほとんど唯一の人である。図版や写真類はもちろん見るだけで楽しいが、やはり、いつもながらに、巖谷さんの主観と客観が一体となったような透明で鉱質な文章、さまざまな連想が繋がることによって不思議で懐かしい世界が喚起されてくる文章がすばらしい。

いつもながらといったが、しかし「後記」には少し別の意味で驚き感動した。いつもなら滅多に「現実的」で時事的な社会の話題には触れない人だけど、この「後記」で3.11の大震災のことに言及しているのだ。書き方はごく「普通」の淡々としたものだが。「展覧会の図録としてのこの本の仕上げにむかっていた3月11日に、未曾有の大震災がおこりました。これはやはり記しておかねばならないことです」という書き出し。それが、TVのニュースで瓦礫のなかで若木をのばす一本の木の映像を見た話になり、この本の森と再生いう主題に自然につながってくる......。

くわしくは本書を見てほしいが、最後にこの本の「後記」のおしまいの言葉を引用したい。この言葉自体がじつはピエール・ガスカールという小説家からの引用なのだが、まさに、誰が言った言葉なのかといった個人名やコピーライトを超えて、皆で共有すべき「公共財」となる言葉であると思うからだ。

「人間の未来を信じる者は、心の中にひそかに1本の木を持っている。」

たしか伊勢英子の絵本にもそっくりな言葉があったような気がするが、こんど調べてみよう。
庭園美術館の「森と芸術」展は7月3日まで。その後全国数ヶ所を巡回するが、会期中に庭園美術館を再訪したいと思いながら、眠りの森のなかへと迷い込んでいったのでした。

2011年6月10日 14:15

森田拾史郎+蓜島庸二2人展 「隈取り」へのご案内

はいじまさんの第二回目の2人展「隈取り」が、7月1日(金)よりギャラリー水・土・木(みず・と・き)で開かれます。

銀座でのジョナサン・シモニーさんとの「Distopia」展につづくもので、今回は舞台写真の巨匠・森田拾史郎さんとの2人展。7日には七夕の会として笛と舞のスペシャル・ライブが行われるようです。笛=松田弘之(能楽笛方・重要無形文化財保持者)、舞=前田和子(コンテンポラリー・ダンス)。私も行きたいと思っています。「隈取り」という題のもと、森田、はいじまの両氏の作品がぶつかり、重なって、どんなふうな現象をひきおこすか楽しみです。くわしくはギャラリー水・土・木まで。
下は案内用のDM(ハガキ)です(前回に引き続きお二人の写真は私が撮ったもの。合成ではなく1枚のカットです)。

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石井 泉/いしい いずみ
東京出身。明治学院大学文学部フランス文学科卒。長きにわたり、出版社、編集プロダクションに在籍、主に科学・芸術関係の雑誌、書籍編集およびデザイン、公共施設の展示プランニング等を手がける。2006年に独立し、「エディション・ヌース」として事務所を開設。科学・芸術・哲学の領域を、横断的な視点で編集・表現していく感性と技を模索しつづけている。最近は依頼に応じてエッセイの執筆なども行う。