東北の「小さな旅」極私的報告(2)
で、まずは友人のお店に寄って閉店後の店内を見せてもらった。ちょっと「通」好みで高級な部類の珈琲豆をその場で焙煎して売っているのだが、テーブル席も2、3あって、焙煎の終るまでそこでコーヒーを飲み「世間話」をしながら待つことができるらしい。顧客のほとんどは、そんなつきあいからできた常連客だという。
壁にはジャズのレコード・ジャケットが数枚飾られていて(たとえばビル・エヴァンスの名盤『ポートレイト・イン・ジャズ』。店の名前もこの名高い白人ジャズ・ピアニストからきているのだろう)少しジャズ喫茶風の雰囲気がある(じっさい、営業時はジャズを静かに流すらしい)。彼は今でも自分の趣味としてレコード観賞はつづけているようで、彼の家に行くとき「きみに見せたいものがあるんだよ」という。私は何の事か、まあ、最後に会ったのはいつだったか正確には覚えていないほど会うのは久しぶりだから(20年ぶりくらい?)、そりゃなんかあるだろう、貴重なコレクターズ・アイテムなレコードでも見せてくれるのかな、っていうくらいの「ふーん?」って感じだった。
店からすぐ近くの彼の住まいは2、3日前東京でグーグル・マップのストリートビューを見ていたので、ちょっとデジャ・ビュな感じで「そうそう、ここ、ここ」と胸の内でつぶやいていたら、玄関の扉の前で突然、言っておきたいんだけど、とその友人Tくんから注意事項を言い渡された。この家には奥さんひとり(当たり前)と猫が3匹いる。この3匹の猫と私は初対面となるが、この家の猫は知らない人間が家に入ると隠れてしまってけっして姿を見せない。とくに、3匹のうちの1匹が極度の「人見知り」で、他の2匹にもその気分が伝染する恐れがある。猫と対面してほしいし、あなたが猫に敵愾心をもたれるのはオレの本意ではない。だから、まだ部屋に猫がいるうちにぜひきみに対面させたいので、玄関を入ってからしばらくは何気ない素振りで静かに動いて、口をきくなというのである。
それで、まあ、私か猫かどっちに気をつかってくれているのかよくわかんないまま、「お邪魔します」と奥さんに挨拶も述べず、そっと音をたてずに靴を脱いで玄関をあがった。居間(と思われる)の扉のすき間から1匹のキジトラな猫の顔がのぞき、すぐに姿を隠してはしまったが、居間にいた他の2匹とも無事対面できたのでよかった、とほっとする間もなく、私が居間の床に荷物(リュックサック)を(そっと)置くやいなや、Tくんはまず見せたいものを見せるから、2階に行こうと私を誘った。
そして、彼のあとについて階段をあがり、あがったすぐの部屋のドアを開いて、なかに入ったところに、私の父親がいた。私は思わず「あっ」と声をあげた。
その部屋は天井が傾斜した屋根裏部屋っぽい感じの小さな部屋で、家具類はほとんどなく、オーディオ装置とレコードの収まったいくつかの木の棚、部屋の中央にゆったりとした椅子が一脚あるのみのリスニングルームだったのだが、この「棚」が親父だった。つまり、この小部屋にあった木の棚は私の父がつくったものだったのだ。
友人がニコニコしながら、もう30年になるけど、寸分のくるいもない、このあとさらに30年たっても変わらないだろうと言うのを聞きながら、私はいささか眩暈に似た感覚におそわれていた。すっかり忘れていたが、そうだったのだ、このレコード棚(ボックスといったほうがよいか?)は間違いなく、当時京浜蒲田で「木工所」をやっていた私の父が、レコード・コレクターであった彼の注文に応じて特別に誂えた「手作り」品なのである。そう、たしかに、そんなことがあったのだ。記憶が急激に甦ってきた。
私の父はいまから15年ほど前に亡くなったが、父が生きているあいだも、死んだあとも、そんなことがあったことを私は完璧に忘れていた。この木の棚ができたのは30年ほど前のことだから、親父が家具職人を引退する数年前のことになるだろう。このころは若い職人さんをつかう立場だったし、経営上の都合もあって、滅多にこういう私的な「小さな」注文には応じなかったと思うが、私の友人の頼みだから仕方ない特別だ、という感じだったのだろう。じっさい職人さんを煩らわせず、自分の「手」でつくったものだ。
見た目はまったくどうということのない、正方形に仕切った「ただの」棚である。しかし、なんといったらよいか、この飾り気のない外観とガチッとした質感は、まぎれもなく親父の手になるもの、親父以外の誰がつくったものでもないことが一目で感受できる。ちょっと手でその肌理に触れてみると、なおさらである。自分の親のことなので大袈裟に言いたくはないのだが、「もの」の発するオーラってこういうものかと、正直、感心し感激してしまった。まさに、そこに親父がいるようではないか!
こんな東北のはじめての地で、まさか父と出会うことになるとは!
「あなたの親父さんにつくってもらって、もう30年。この間引っ越しもしたし、地震があったり、いろいろあったけど、毀れたりゆがんだりしているところが皆無。1ミリのくるいも生じていない。こっちのCDの棚は(と別の壁面にある棚を指して)、買ってまだちょっとだけど、もう板がそってる......。こういうのを一生ものっていうんだね。いまの時代じゃ、ほとんどありえない話だよね。重ねても使えるようにいくつかつくってもらって、そのうちのひとつは、他の部屋にあるんだけど......」と、友人は時の経過を感じさせないその堅牢さを絶賛してくれた。
私は友人の話を聞きながら昔の記憶が甦り、その糸をたどろうとしていたが、思い出の細部はジグソーパズルのピースのように失われたままで全体がなかなか絵になってくれないもどかしさもあった。そんなことより、ふいのその「ものの現前」にいささか面食らったまま、しばらく気の利いた言葉が口から出ず「これは、たしかに親父だ...」とつぶやくしかなかったのである。そして、そのときなぜか手にしていた新しいデジカメで、なんとか1回シャッターをきるのがやっとだった(いくつかある棚のうちの2つが並んだもの。昔、ともによく聴いたジミー・スミスの『ザ・キャット』のジャケットが目にとまる。照明の反射でよく見えないが、ここにも猫がもう一匹いたのだ! 彼は持っていたレコードの半分ほどを少し前に「処分」したというが、これは残ったもののごくごく一部)。Tくんは毎日、寝る前にこの部屋で1時間くらいはレコードやCDを聴いて過ごすという。
外で食事をしたあと家に戻り、こんどはフツーに居間にはいって、いっしょにお店も手伝っているという奥さんの淹れてくれた馥郁たる香りのコーヒー(さすがプロ!)をいただきながら、昔の思い出や、3.11の震災のときのことと原発(事故)のこと、互いのからだのこと(母の死と震災後私を突然襲った高血圧症のこと)、音楽のことなどをとりとめもなく3人(と、人見知りしないほうの猫1匹)で話しているうちに、いつのまにか夜も深々と更けていくのでした。
外はおそらく氷点下、寒空にオリオンがキラキラと輝いていることでありましょう。
翌日の塩竈探索へと、お話はもう少しつづく(多分)。
東北の「小さな旅」極私的報告(1)
今度の小さな東北の旅でどんな「もの」と出会うことになるのだろう、と前回のブログの末尾に書いた。そしたら、ほんとにまったく思いもよらない意外な「もの」と出会うことになった。正確に言うと「再会」することになったのである。極私的、個人的なことなので、おもしろいかどうか分からないし、ちょっと長くなるけど、ここに記しておこうと思う。
それは亡き父とのひとつの出会い、より正確には形のない記憶との、そして父の遺した「もの」との出会いだったということができる。忘却の彼方から「それ」が不意に私の前に現れ出たのだ。
しかしそれには、私の今回の旅程と、ひとりの友人との「つきあい」について述べておかねばならない。
10日、旅の目的である福島での取材(インタビュー)の仕事を終えた後、福島駅で同行した2人のスタッフと別れ、私は仙台まで足をのばして昔の親しかった友人を訪ねた(写真は福島駅前で最初に撮ったもの。枝に鳥の巣が見える。しかしここでは「仕事」の話はしない。前回のブログで触れた「同時にデジカメを2台買った女子」が取材スタッフの一人だった、しかもちゃんと2台とも持ってきていた(エライ!)ことを述べるにとどめる)。
友人とは高校時代からのつきあいで、社会に出てからも仕事上の関係もあって一時期よく顔を合わせていたが、何を思ってかある日突然、彼は務めていた大企業の管理職をやめ、ひとりで特別なワックスをつかったクルマ磨きの技術と職を身につけた、と思っていたら、それも2、3年でやめて、これまた突然、当時暮らしていた横浜から仙台に居を移し、珈琲豆を自家焙煎して販売する店をはじめた。
それが9年ほど前のことである。
私同様に東京出身のその友人は大学を出てから数年はジャズの専門誌(『スイング・ジャーナル』という老舗の権威ある雑誌だったが今はもうない)の編集を生業とし、そこをやめて他の職業についてからも「趣味」の一環で同誌にレコード評などを書いていた。私も「大学は出たけれど」(小津!)職のなかった若い頃(そもそも就活などという言葉さえなかった時代だし、ましてや仏文出の私は自分がどこかの会社に就職するなど考えてもいなかった。けど、生活のためお金は必要だったので)、彼の口利きでそのジャズ専門誌の編集を手伝っていたことがあるが(編集っていうかジャケ写の整理や原稿とりなどの「使いっぱしり」だけど、一年くらい)、要するに彼とは高校のころからモダン・ジャズを中心としたレコードをよくいっしょに聴いたり、コンサートに行ったりした音楽友達だったといっていい。
思い返せば、彼の住む八丁堀と私のいた京浜蒲田の家を相互に行き来して、二人でいっしょにそれぞれのもっているLPレコードをじつによく聴いたものだ。互いの「自分の部屋」に二人でこもり、照明をおとし部屋を暗くし(もちろん「音」に集中するため)、コーヒーを啜りながら。
当時リアルタイムで活躍していたミュージシャンでいうと、よく聴いた記憶があるのはマイルス・デイビス、ビル・エヴァンス、セロニアス・モンク、ウェス・モンゴメリー、ジミー・スミス、チック・コリア、ウェザー・リポート、ハービー・ハンコック、、、ジャズだけでなく、ストーンズやディランは別格として、ジミヘンやクリーム、ドアーズ、レッド・ツェッペリン、ジェファーソン・エアプレーン、ジャニス・ジョプリン、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、マザーズ・オブ・インベンション、ニール・ヤング、、、などのロック系もよく聴いた。レコードの貸し借りもよくやっていた。
学生時代は貧乏だったから(暇だけは飽きるほどあったが)レコードを買うにも一月にLP盤一枚買うのがやっとで、二人だったら二枚の新しいレコードを聴けるっていう経済性の問題もあったが、この時期に、同じ音(音楽)を共に聴くことで感動が倍になるということを身をもって知ったと思う(っていうか、感動というものは音楽に限らず同じ物や事を誰かと共有することの体験として生じるということを)。一枚のレコードを何度も何度も「すり切れるほど」(この感覚はアナログな「レコード盤」を知らない人には分からないだろう)聴いた。
ときに意見が合わずに喧嘩して口をきかなくなることもあったが、一人で何か聴いているときでも、「あいつならどう聴くだろうか? 聴かせてみたい」と相手の耳になって聴く(想像する)ことで、対象を相対化してみるという批評意識(客観性)が培われた面もあるだろう。そうでなくとも、自分の好きな音楽は自分の好きな人にも聴いてほしいという思いは誰にでもあるはずだ。後年、その相手は同性から異性へと移っていくものだが。そしてさらに、音楽から異性自体へと。
当時は直径30cmのレコードを収めるジャケットのデザインも実験精神に富んだ素晴らしいものが多く、レコード店に行って(たとえば銀座ヤマハのレコード・ショップ)入荷したばかりの輸入盤のジャケットのアートワークに惹かれて予定していたものとは別のレコードを買ってしまうなどということもあった。いわゆる「ジャケ買い」というやつだ。しかし、なんせお金がないから、どの一枚を選ぶかは、その場で身悶えするほど悩みに悩んだすえの決断である。でも、結果として「ジャッケットがいいのは中身もいい」場合が多かったのは救いであったし、なんだかそんな視覚と聴覚の相関性が不思議で面白いなぁと思ったものだった(悩んだ末に必死の思いで買ったものはよくなけりゃ困るわけで、無理やり「いいんだ!」と思い込もうとした面もあるだろうが、しかし、その頃いいと感じたものは今でもいいのだから、やはりほんとによかったんだと思う)。今から思うと、このときの「経験」が現在のグラフィカルなデザインの仕事をするようになった「きっかけ」として遠くから作用している気がする(このころにデザイン・センスの傾向はかなりな程度方向づけられたのだと思う)。
福島から仙台に着いたときはまだ少し時間があったので、前から見たいと思っていた「せんだいメディアテーク」まで駅から20分ほど歩いた。ここは図書館やギャラリーなどがある、メディア/情報をあつかう新しいタイプの公共施設ということであるが、私はどんな旅でも旅したときはその地でしか見れない特徴的な建築物を見る、そしてその地の湯(できれば温泉)に浸かるという願望を習慣化しているので、ささやかながらその一つはこれで満たすことができたわけだ(急ぎ足ゆえ街中でみかけた銭湯はあきらめたが)。
これは伊東豊雄の建築で、彼の建物を実見するのは震災の半年ほど前に行った諏訪湖博物館以来だが、メディアテークはガラス張りの箱のような外観と「チューブ」と呼ばれるトラス構造の「柱」がやはりインパクトがあり、その安定した機能的デザインに少しねじれの要素が不意にまぎれこんでいるようで、わずかながらランダムにゆらいで定型的未来都市の予定調和と拮抗しようとしているところが、この仙台という町にも似合っているように思えた(ちょうど11か月前の地震発生時の建物内の映像がYouTubeで流れよく見られたようだが、見た目の透明性に配慮した美しい外観だけでなく、そのしっかりと考えられた構造における耐震性を実証する結果になった。館内にはいまでも「3がつ11にちをわすれないためにセンター」というのが仮設されている。上の写真は「チューブ」内を上昇していくエレベータから「天井」を見上げたところ)。
友人の店は仙台駅から地下鉄に乗って終点の泉中央というところまで行き、そこからさらにバスにのり10分ほど行ったところにあるのだが、住まいは別で、その店から目と鼻の先、歩いて2分ばかりの距離にある。辺りは瀟洒な作りの住宅が並ぶ(マンションなどの高い建物がほとんど見えない)、まるでスピルバーグが日本人だったら舞台にしそうな郊外のニュータウン(ベッドタウン)という感じの(つまり映画『未知との遭遇』や『E.T.』風の、UFOでも飛来してきそうな感じの)町である。
じっさい、泉中央駅に降りると、ちょうど夕方の帰宅時間ということもあってか、会社員や学生など大勢の人で混み合い、バス停の前は長蛇の列ができるほどだった。
つづく(多分)。
デジカメと「もの」
一月ほど前にカメラを買った。
これまで使っていたカメラはもうさすがに耐用年数に達している観があったし、些かかさ張るし、以前のアナログ・カメラのように手になじんだ愛着もさほど感じなかったこともあり(とてもよく働いてくれて大いに感謝はしているのだけど)、最近のデジカメの技術的進歩とデザインの先進性に、新製品を目にするたび「へえー!へえー!」とトリビア的に感心しながらしばらく前から「次の」カメラを物色していた。
とくに一眼レフで、小型のタイプのもの(ミラーレス一眼など)に惹かれていた。ときどきアマゾンなどネットを見て機能性と値段などを比べたりもしていた。仕事でも使うけど、あまり高価なものは手が出ないし(ぼくはプロの写真家じゃないし)、趣味と実用を兼ねたもので、いいのないかな〜と。
で結局は迷ったすえ、家電/カメラショップを何気にブラブラしていたときに、購入を想定していなかったあるカメラが目にとまり、衝動買いしてしまった。一眼レフではない。コンパクト・デジカメらしからぬシブい意匠と、ネットで見てただけでは伝わらないその材質感、そして一眼ではないけどファインダーが付いているところに、グッときてしまったのだ。要は「もの」としてのデザインが気に入ったわけ。
どんなものでも「もの」との出会いとはそんなものなのかもしれない。しかも、これ、コンデジにしては安価な一眼レフくらい高価(ややこしい言い方!)だったけど、ショップの人が表示価格よりさらに少し「勉強」してくれもしたので......。
そんでもって、最初に撮ったのがこれ。何でもない写真だけど、まあ記念すべきファースト・ショットということで。
手前はぼくのいま愛用しているエレキギター(フェンダーのストラトキャスター)で、買ったあとに貼ったシール『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』から主人公の名をとって「ジャック」と名付けた。
その後ろにあるのが、去年の初冬、やはり衝動買いしてしまったオベイションのアコースティック・ギター(中古)。もちろん(?)、「豆の木」とぼくは呼んでいる。買ったばかりのカメラを箱から出して、バッテリーの充電が終ってすぐに焦点の合わせ方も意識せずにシャッターをきったものだから、こっちのエレアコの方にピントがずれている(ジャックと豆の木の豆の木のほうに焦点がきている。家の近くに「豆の木」という不思議な名の旨いラーメン屋さんがあるけど、それはまた別の話)。
その一週間後、はじめて仕事の「お伴」に持っていって、霞が関ビル35階でのある行事の取材が終わり、外に出て入口そばにあったモニュメントを撮ったものが右。おお、これってまるでスピッツの『とげまる』じゃんと思って、うれしくなってこのステンレス(だと思う)のエッシャー風オブジェの前まで行ってシャッターをおした。隅っこにぼく自身が映り込んでいる。
『とげまる』はご存知日本の人気バンド、スピッツの13枚目のオリジナル・アルバム名であり、アルバムのシンボル・デザインにこれふうのトゲトゲの意匠がつかわれている(スピッツ・ファンならすぐピンとくるだろう)!
そういえば、3月の終わりに開くぼくらのコンサートでもスピッツを数曲演奏することになっている(アルバム『とげまる』からは「トラバント」。ぼくはジャックをかき鳴らす)。
そのあと、銀座に出て知り合いの(一年の半分以上はバリ島で暮らしている)ある画家(坂田純さん)の個展を見に行った。こういうことでもない限り、あんなに好きでよく来ていた銀座にも滅多に来ることがなくなったけど、面白いのは、新しいカメラをもっていると、銀座の町が新鮮に見えてくる。じっさい、ここ数年でずいぶん銀座も変わったけど。
しかし、新しくなったことと新鮮に見えることとは違う。カメラをもってシャッターチャンスをねらっていると、対象の新旧に拘らず、これまで目に入っていなかったものにも目がとまるようになる。風景の見え方が変わってくるから不思議だ。「眼の野生」がなせる技か。
個展をやっていた画廊はメチャクチャ古そうなアナログなビル(エレベーターは二重扉で、何と手動で蛇腹式に開閉する!)のなかにあり、作品と同時にこの建物を見るのがなんともたのしい(ここでは触れないが、個展のバリのバナナ紙をつかった「抽象画」も上空から撮影した古代都市のように見えてくる)。このビルに来るのは二度目だったが、ぼくはまだまだ他所から来た闖入者みたいな感じがして、遠慮がちに2,3回シャッターをきっただけで失礼したのだけど(これはその一枚)。許されるなら、この建物がなくなる前にまた来て探検したい(「ちゃんと」写真に撮りたい)ものだ。
ところで、文脈から少しはずれるけど、ちょっと前にNHKの「日曜美術館」で木村伊兵衛がパリで撮ったストリート・スナップの写真作品を取り上げていた。なんというか、じつにしみじみといいんだな〜、これが。このよさは、昨今の女性写真ブームと関連しているような気がしなくもない。もちろんいい意味でだけど。
ぼくの周りでも、女性だけではないが、じつは今ちょっとしたカメラ・ブームがおこっている。仕事の性格を考慮したとしても、専門でもないのに、写真やカメラの話題が最近とても多い(じっさい、最近デジカメを同時に2台買ったという女性もいる)。いっしょに仕事している人たちと、ひとつのコミュニケーション・ツール(二重の意味で)になっている観もある。
デジカメのすぐれた点は、センスさえあれば誰でも手軽によいスナップが撮れることにあるだろう(写真、とくにスナップはプロとアマチュアの技術的敷居が限りなく低いと思う。シャッターをおせば写ってしまう、そんなある種の無名性が写真の特長でもある。ことにデジカメが主流になってから、それはますます加速している。しかし、やはり、要はセンスの問題)。
これまでの既得した「現実」にすがりつき維持しようとあがいている男たちに比べると、「もうひとつの現実」に対する好奇心を持ちつづけている女子たちはきわめて健全な気がする。ぼくも多少はそれが(女子たちに煽られたことが)カメラを買う動機のひとつとして作用した点がなくもない、かも。
写真はいうまでもなく、撮るだけでなく見るものである。見る・見られることを前提としている。しかも、ほとんどの場合、複数の人が一枚の写真を見る。「もうひとつの現実」を共有したいという欲望が写真を撮る・見るという行為を駆動しているんじゃないかと考えたくもなる。共有することで「新しい現実」になると言った方がよいかもしれないが。
いま読んでいる内田樹と中沢新一の対談集『日本の文脈』のなかに「男の(男で)おばさん」を顕揚する話がでてくるけど、そうだとすると、「カメラ女子」みたいな「女のおじさん」化(つまり本来「もの好き」はおじさんの性分だから)もよきことなのじゃないか、なんて、書いているうちに思えてもくる。「日本の現実」はおしゃべり好きな「男のおばさん」ともの好きな「女のおじさん」たちが組み換えてくれる。そんなことを期待したくもなるのも新しいデジカメの効用だとしたら、これはほんとにお買得な話ではないか。
このカメラ、今週末、取材で行く福島と仙台にもっていく予定。遠いところじゃないけど、ぼくには久しぶり、このカメラにとっては初の「出張」である。小さな旅とはいえ、ともに震災後はじめての東北となる。
どんな「もの」と出会うことになるのだろう。
『タンタンの冒険』をめぐるスピルバーグの冒険
この週末、正月の連休のうちに何か1本くらい映画を観たいと思い、スマホのアプリで情報を検索して、家から比較的近い越谷レイクタウン内にあるシネコンで上映中のスピルバーグの新作『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』を、家人と二人で見に出かけることにした。スピルバーグの久しぶりの監督作品だし、年のはじめから二人で見るのにあまりシリアスで「重たい」ものも何だし、シネコンはスクリーンが小さいけど大劇場のある都心に出るのもおっくうだし......、ということで。
で、映画を観た感想として、とてもおもしろく、スピルバーグならではの息もつかせぬ活劇をたのしめたのだが、これまでどんな映像にもなかったような「奇妙な感触」があり、ちょっと不思議な後味というか、本でいえば読後感がのこった。そして、おもしろくはあったが、見終わったあとに、無臭の味気なさというか、さびしさ・むなしさみたいな印象が残ったのも事実である。
そのことを少し考えてみたい。
そもそもスピルバーグに関しては書きたいことはいっぱいあるし、でも逆にいまさら改めて何をかいわん? と、そのあいだで思いも揺れる(?)が、ともかくはまず一言だけ簡単にいうとしたら、やはり彼は永遠の「映画青年」だな〜、ということになるだろうか。タランティーノにもこの称号を与えたいところだけど、スピルバーグが「青年」というなら、「タラちゃん」は映画「少年」というべきか(それだけ悪ガキで、アブナイといってよいかも)。この『タンタンの冒険』でも、スピルバーグの青年ぶりはいかんなく発揮されている。
しかし、その青年としての風貌が些かこれまでと違うのだ。
子どもの頃からの映画マニア(シネフィル)が大人になり、そのまま映画の作り手になって「自分で自分の見たい映画」を作りつづけているという意味では、スピルバーグとタランティ−ノは共通部分が多いし、それこそが私も二人の映画の好きなところで、新作が来るとなると、こちらも映画少年(あるいは青年)だったころを思い出し、いまだにわくわくしてしまう数少ない映画作家(監督、脚本家、制作者)である。新作の情報を知るたびに早く見たくて落ち着かない気分になるのは、アメリカの映画作家ではこの二人の他には、クリント・イーストウッドくらいなものだろう。その意味では、イーストウッドがいちばんの「大人」だが。
『タンタンの冒険』はご存知のように全編にCGが駆使されているらしいことがわかっていたので、下手すると「ダメ(駄作)」かなという不安もあったが(もともとCGを無自覚に多用する映画は好きでないし、私はスピルバーグの全部が好きというわけでもない)、ある意味でその心配は不用だった(「普通」ではありえないシーンでも、ちゃんと引力などの自然法則にしたがっているから、CGで作られているとしても実写同様の説得性があり、同じ嘘でも嘘を嘘として自覚してたのしめる)。CGだろうが実写だろうがスピルバーグは「つくりもの」がお得意だったわけで、むしろ新しいデジタル映像技術のおかげで、彼としてはスピード感全開ハラハラドキドキのストーリー展開を思うように「演出」できる道具を手にすることになったといえるだろう。
いうまでもなく、「奇妙な感触」はこの新しい技術に由来する(この手法は正確には「フルデジタル3Dパフォーマンス・キャプチャー」と呼ぶらしい)。この不思議な手触りのこれまでにない映像体験は、スピルバーグが新しい「道具」をつかって縦横に遊んだことでつくられたものである。新しい技術といっても、キャメロンのSF映画『アバター』のほうがその先駆となる作品であり、だから、たしかに『アバター』に近い風合はある。しかし、あのように架空の世界が舞台ではなく、地上の世界が舞台だし、片方が異星の種族(エイリアン)が主演であるのに比べて『タンタン』の主役は「普通の」人間である。
そのため、かえってその奇妙な感じは『タンタンの冒険』のほうに強まる。つまり、異星人はもともと「奇妙」なのはあたりまえだけど、人間が人間でありつつも人間でないような存在として動き回ることの変な感じ------。それは、描かれたCGアニメのキャラが生身の人間を「演じる」(模倣する)のではなく、いうなれば生身の人間がCGアニメの人間を演じる奇妙さなのである。人間が人形のように演じるいわゆる「人形ぶり」はこれまでにもあるとしても、ここまで全編に徹底して「人間がCGアニメの登場人物を演じる」映画ははじめてだろう。「彼ら」は映画にはじめて人間とCGアニメの造形物との中間として登場した、新種の生き物みたいなものである。
じつをいうと、この映画が終ったあと、一抹の「さびしさ」と「むなしさ」があったのだが、それはけっして嫌なものではなかった。このところゲームから少し離れているが、「むなしさ」のほうはRPGやアクション・ゲームに熱中して何時間もかけてクリアしたあとの開放感にともなう空虚感に似ているといったらよいだろうか。スピルバーグにはもともとゲーム性があって、『タンタンの冒険』に限らないわけだが、しかし、これまでの彼のゲーム感覚とはやっぱり何か違うのだ。うまく言えないが、アナログな遊戯性が、デジタル・ゲームに移行した感じ------。
では「さびしさ」のほうの原因は何だろう(と、しばし考える)......。
端的に言ってしまえば、ハリソン・フォードがスピルバーグの映画で活躍する時代は終ったということになろうか。
スピルバーグのここ何年かの作でいえば、あまり評判がよいとはいえないSFもの『マイノリティ・リポート』や『宇宙戦争』(ともに主演はトム・クルーズ)は私は結構好きで評価していたのだけど、インディアナ・ジョーンズの4作目『クリスタル・スカルの王国』は、ちょっとガッカリで、とくにハリソン・フォードがもうだめだと思った。歳なら歳で、魅力の出しようはあるはずなのに(たとえば、3作目『最後の聖戦』のインディアナの父役=ショーン・コネリーのように)、なんというか、その「存在感」よりも無理に人間的にがんばって「演技」している感じがどうも気になってしまって、映画のなかに入っていけない。もともとハリソン・フォードが優れた役者だなどと思ってもいないが、『スター・ウォーズ』のハン・ソロやこのインディアナ・ジョーンズは彼でなければならない「はまり役」で、そのキャラクターを愛していただけに、やはり「永遠に」その役を演じつつけることは無理なのだと自ら告白してしまった観があった。『タンタン』は「人間」インディアナ・ジョーンズへの別れの歌だったといえるんじゃなかろうか。
スピルバーグの作品カテゴリーとしてはインディアナ・ジョーンズ・シリーズのような「冒険活劇」映画に連なるだろうこの『タンタンの冒険』は、もしかすると、その「さびしさ」を超えようとする試みであったのかもしれないとも思うのだ。
映画というものがたえず新しい技術の導入とそれを使いこなす試みの歴史であるように、スピルバーグがその映画の技術革新に自らも名を連ねたいという意欲(夢)を、映画青年として実現したかったという面もあるのだろう。はっきり言って「人間」を描くことに関しては、タラちゃんやイーストウッドにはとても太刀打ちできないと思う(彼のもうひとつの路線である「人間感動ドラマ」は見ていて気恥ずかしくなるところがあって、あまり好きでない)。
たしかに、この技術をつかえばタンタンは永遠に青年のままで、いつまでも老いることもないだろう。何作だって続編がつくれるだろうし、スピルバーグがこの世を去った後も、誰かが彼にかわってタンタンをスクリーンに生かしつづけることができる(しかし、そこに、それはそれで孤独な哀しみがつきまとう。『A.I.』にも通じる哀しみである。スピルバーグも自覚しているだろうし、その「孤独」は彼のテーマでもあろう)。
社会から子どもと大人の中間的存在である「青年」が消滅した(内田樹氏の指摘。卓見である。くわしくは彼の本を読むべし)だけに、映画青年スピルバーグは、この世での「青年」に別れを告げ、もうひとつの世界=映画のなかだけでも「青年」を「生き生きと描くこと」で青年性を永遠化したかったのかもしれない。それは、むかし青年だったことのある人にとっては青年が永遠に失われてしまったことの諦めの証しでもある。しかし、その諦めは、それほど嫌なものではない。この場合の諦めとは明らめ、明らかにすることでもあるだろう。
それは、現実がゲーム化してしまった現在の社会のなかで、自分と世界を生きのびさせる術を探るひとつの方法なのかもしれない。
