私のテレパシー体験
前回、テレパシーには興味があるし否定するつもりもない、と書いた。
もうずいぶん昔の話になるが、イスラエル生まれの世界的に有名な「超能力者」を取材したことがある。
その超能力者が来日していたとき、彼の宿泊している都内のホテルを訪ねた。
ある雑誌の記者としてインタヴューすることになっていたのだが、あいさつの握手をしてすぐ、話をする前に試しになにかやってみようということになった。テレパシーなんかどう? そうしないと、これから自分が話すことをあなたに信じてはもらえないだろう、と。
最初に私が彼の見ていないところで、なんでもいいから何か紙に絵を描けという。とっさのことだったので、適当な絵が思いつかず円と三角形を組み合わせたシンプルな図形をボールペンで描いた。
その紙を裏返し絵を隠して、描いた絵を頭に描き、彼に向けて念(思い)として送れということである。彼は私をじっと見つめている。
その間、4,5分だったろうか。
彼は違うかもしれないけどといいながら、自分の手でやはり紙になにか描いて私に見せた。
ピタリ! 私が描いた図形と同じものがそこに描かれている。
違うかもしれないけどと言ったのは、自動車とか家とか帽子とかの具体的なものを描いてほしいと言ったつもりだったからだという。私が描いたのは円の右斜め上に三角形の一つの角が重なった図形だったのだけど、三角がヨットの帆のように「見えた」らしい。しかし、ヨットではないみたいだし、ということで、わずかに迷ったようだ。
この程度であれば奇術などでもよくある「いつもどおり」のパフォーマンスであるが、「被験者」になるのははじめての経験だったので、目の前でやられた私は内心あわてた。彼と私のまわりにいたカメラマンや通訳の女性なども、「オーッ!」と声をあげた。彼らにも私が何を描いたか見えなかったはずである。
しかし、もっと驚いたのは、このあとのことである。
次は、逆をやってみようと彼が言う。私は一瞬なんのことかわからなかったが、要するに立場をチェンジして、こんどは彼がまず何か絵を描くから、私にそれを当てろというわけだ。「まさか、そんなこと!?」と私は思った。
しかも、私に同行していた編集者を入れて3人でやってみようということになったのだ。
彼が後ろを向いて、こちらに見えないように絵を描く。このときは、具体的なモノの絵なのか、抽象的な図形なのかはわからない。
彼は数分(やはり、4,5分か)意識を集中して私とその編集者に想念を送る。私は躊躇する間もなく、彼の頭のなかを探るような思いで、彼を見つめる。
そして、私たち二人に対して、自分の頭に浮かんだイメージをいますぐ別々に紙に描くように彼は言う。
私たち二人は「えーっ!」と思わずたじろいでしまった。
考えている時間などなかったし、正直、私は何もはっきりとした形が思い浮かばず、自信が持てなかった。
しかしなのである。
うまく言えないが、何か「これかな?」といった感じで見えたものがある。見えたというよりは、なにか、「あ、そうだ」と思い出した感じとでも言えばよいだろうか。
これまたピタリ。それぞれが同じ絵(図形)である!
星(正確に言うと五芒星。陰陽五行説のあの星形)の符号が3つ、その場で会合した!
こんどは、まわりから拍手が起こった(いま思うと、拍手というのもなんだかおかしいけれど)。
AVATAR <夢をめぐる断想-5>
ジェームズ・キャメロンの映画『AVATAR(アバター)』は、意外に面白かった。
劇場の入口で3D用のメガネを渡される。私はもともとメガネを常用しているので、メガネのうえからもうひとつ二重にメガネをかけて映画を観ることになる。なんか、妙な気分。
荘子の有名な「胡蝶の夢」を思わせるファースト・シーン。筋書きなど、なんの予備知識もなかったので、なんとなくエリアーデの原作を映画化したコッポラの『胡蝶の夢』を想起したが、少しするとアバター(化身)の意味がわかってくるので、うまい始めかただなと思う。
胡蝶の夢というのは、私が蝶になった夢をみているのか、蝶が私を夢みているのか、どっちが本当かわからないというアレである。
この映画でいえば、人間である主人公(地球人)とその化身であるナヴィと呼ばれる異星の人間に似た生物が画面にでてくるが、どちらかが眠ると、もう片方が目を覚まし活動をはじめる。主人公が眠ると、その化身であるもうひとりの主人公が目覚めて、自分にとっての異世界でさまざまな試練を積んでいく。どっちがどっちの夢をみてるんだ? ってこと。
このあたりの「仕掛け」が、じつに映画的だなと思う。であると同時に、ハリウッドの娯楽映画も、なにを主題として映画を撮ったらよいかわからなくなっていて、映画というもの自体を主題にする傾向が強まってきているのかもしれないとも考える。
「春よ来い! コンサート」開かる
3月22日(月)、春分の日の振替休日に「春よ来い!コンサート」という無料の小演奏会を地元の公民館(埼玉・草加市)で開いた。自宅の近所に住む、ある友人夫妻が音頭をとる年に1回、全員素人の演奏会だが、今年で3回目にあたり、ぼくは前回からの参加である。
いくつかのグループがメンバー・チェンジを行いながらステージに立つ。
今回、ぼくはアコースティック・ギターとドラムで2つのグループに1曲づつ参加。
手作りの楽しいコンサートである。
最年少の卒業間近の中学生を含め、10代から50代後半までの音楽好きな人たちが家族(私も妻と高2の娘とともに参加)や友人たちと一緒になって、演奏はいうまでもないが、機材の運搬や会場の設営、飾り付け、各種セッティングや照明まで自分たちの手ですべて行う。
一体となって「みんな」でひとつのことを行うというこの作業が、何にもまして楽しさと充足感をもたらしてくれる。
夢をめぐる断想ー4
この『愛を読むひと』で主演のケイト・ウィンスレットがアカデミー賞の主演女優賞をとったことで話題になり、ご覧になった方も多いだろう(個人的には『リトル・チルドレン』の彼女を見て、女優として大いに見直したのだが。この映画もぶっ飛ぶほどおもしろい!)。ケイトの演じる主人公は「文盲」という設定で、歳の離れたひとりの少年と恋におちるのだが、文字の読めない彼女の楽しみは、この少年から『オデュセイア』やチェーホフなどの本を読み聞かせてもらうことである。ストーリーや時代背景などは抜きに、取りあえずここでは、そのことだけおさえておいていただきたい。
何が私の興味をひいたかというと、ほぼ同時期に読んだ村上春樹の『1Q84』とのある種の通底性を感じた点だ。聴くことと読むことの関係性を、かけ離れた2作品が暗示しているように思えたのだ。『1Q84』でいえば、天吾と少女・ふかえりとの、やはり一種の「禁じられた」愛の関係。ふかえりは文盲ではないが「難読症」(ディスレクシア、読字障害)である。この場合天吾は読み聞かせるのではなく、ふかえりの「語る」ことばを書く(リライトする)立場である。むろん『1Q84』も『愛を読むひと』(原作の邦題は『朗読者』!)も、そう単純ではなく、ともにきわめて複雑な筋と構成になっているのだが、ここでは省く。
言えるのは、ともに女の方が「聴く」あるいは「語る」側であり、男の方が「読む」あるいは「書く」役割であるということだ(このことも、もっと微妙な役割分担なのだが、ここではあえて単純化する)。つまり前者が聴覚(表音)、後者が視覚(表意)を受け持っている。さらに興味深いのは『1Q84』においてはこの両者を、ふかえり=パシヴァ(perceiver、知覚する者)と天吾=レシヴァ(receiver、受け入れる者)と位置づけていることである。
(そして、両カップルとも、片方は少年、片方は少女というちがいはあるが、年齢のかけ離れた「成就」することが困難な愛である)

![愛を読むひと (完全無修正版) 〔初回限定:美麗スリーブケース付〕 [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/41hmIayU5VL._SL160_.jpg)