past_archives

 小雪舞う京都にて

三村さんちの旅日記:No.06三村親子の共同報告
― 最初はグルメ(2月10日午後 晴れ) ―

 午後3:30、私は、娘と私の友人であるカメラメーカーK.O.氏と東京駅新幹線中央改札で待合わせた。私は途中で背広を私服に着替えたが、K.O.氏は役員会から直行のため背広にネクタイ姿のまま大きなボストンバッグを抱えての登場となった。

 JRびゅープラザで探しあてた「季節限定格安パック」(乗車時間帯限定のひかり号利用で宿泊費が無料)を利用し、一路京都へ。地下鉄に乗り換え、烏丸御池の「ハートンホテル京都」へチェックイン。すぐさま、徒歩にて中京区寺町通三条下ルにある、創業明治六年(1873年)、すき焼きの「三嶋亭」へ向かう。歴史と風格ある店構えに玄関で気後れする。わたしの知る限り、東は浅草「今半別館」、西は京都「三嶋亭」が、東西すき焼きの横綱か。

 午後7時、前日から入っていた中央大学のO教授と、地元、同志社大学のK.A.教授夫妻と合流。総勢6人で再会を祝しながら、創業130年を誇る伝統の味に舌鼓を打つ。2軒目は先斗町のおばんさいの店「たばこや」、〆はO教授の宿泊先、東区三条蹴上「ウエスティン都ホテル京都」のBar「Moonlight」。

* 三嶋亭
"三嶋亭のすき焼きは、創業以来変わらぬ独特の手順で調理される。まず、炭火に近い性質の熱が得られることから、昭和初期に採用された電熱器の上で、八角形の鍋を充分に温める。次に砂糖を薄く広げ、その上に客の数だけ霜降り肉を並べて焼き、割下をかけて焼いてから肉を一枚食べる。その後は、通常のすき焼きと同じように、葱や糸こんにゃく、豆腐などの具を入れ、肉とともに焼いて食べるという具合だ。肉は、丹波・但馬地方を中心に、全国から選りすぐりの和牛肉を仕入れており、まさに最上級の牛肉を賞味することができる。電話:075-221-0003 『DigiStyle京都 三嶋亭より引用(web site)』"

 
― 大文字山登頂(2月11日午前 晴れ時々曇り) ―

 午前8:00、3人はホテルをチェックアウトの後、四条河原町角でK.A.教授と待合わせ。路線バスに乗り込み銀閣寺へ向かう(運賃220円)。朝が早いため、銀閣寺の門は閉ざされている。銀閣寺の裏手へ回ると大文字山"東山如意ヶ嶽"登り口があらわれる。「大文字の送り火」は、毎年、お盆の8月16日、大勢の観光客で賑わう。一般常識では、見物するものであって、登るものでは無い。そこへ登ることが、今回のトラヴェローグのテーマである。

* 大文字の送り火
"8月16日午後8時から、京都盆地の周囲の山に「大」「妙法」の字や鳥居、船を形どった火が次々に点火される。精霊送りの意味を持つ盆行事の一形態で、京都三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)に大文字五山送り火を加え、京都四大行事と称する。東山如意ヶ嶽の「大文字」がもっともよく知られているので、送り火の代名詞になっている。
所在地:京都市左京区浄土寺七廻り町1。火床数:75基。点火資材:薪600束・松葉100束・麦藁100束。大きさ:一画80m、二画160m、三画120m。点火時間:午後8時。『京都新聞 五山送り火より引用(web site)』"

 8:30、登頂開始。地元の方とおぼしき年配の一団が、全員杖を手に先を進んでいる。関東の経験でいうところの第一印象は、小仏峠側から高尾山を目指すルートの登山口に似ている。朝の冷え込みに縮んでいた身体が、10分も歩かないうちにポカポカしはじめる。「東山鳥獣保護区(京都府)」の標札があり、その先には湧き水の飲み口がある。さらに、つづら折の山道を進むと、この山が民営地であるという表示板に出会った。このビッグイベントが、代々、地域の人たちの手によって、とり行われてきたことを知る証である。

 30~40分は登ったか、「大」の文字がもうすぐ見えますよ、と教えられたあたりになると、周辺の木々は綺麗に伐採され、刈られた下草が、送り火に使うためであろうか、あちらこちら、何箇所にも積み重ねられている。

 途中で一休みし、ようやく「大」の文字の2画目の「はね」の下先にあたる地点に到着した。そこからは一直線に「大」の文字の「要」の中心地点まで急斜面の石段を登らなければならない。さすがに休み休み行かねば、一気には登りきれない。K.A.教授と娘はすいすいと先を行き、見えなくなりそう。少し遅れてK.O.氏が続く。因みに、私より10歳年上のK.A.教授は、既に日本百名山を極めた山男。一方、K.O.氏は、現在、水泳50メートル自由形、シニア50歳代クラス"日本チャンピオン"である。日頃、鍛錬の足りないわたし一人が、かなり遅れた。

 ようやく、汗びっしょり、膝をかばいながら展望台を兼ねる「要」の広場に到着した。そして、振り返って思わず感動の声をあげた。眼下に京都が一望できる素晴らしい眺めに出会えたのである。京都市内は勿論のこと、比叡山、鞍馬山、嵯峨野、高雄の山々。そして加茂川、桂川から名水で名高い山崎の向こうには淀川が望め、その先には大阪の高層ビルや奈良の生駒山までがはっきりと遠望できた。太古より、京都が東西南北の陸上、河川、海上を結ぶ交通の要所であり、それ故、都が築かれたことが自ら理解できた。

 眼を凝らすと、新幹線はもとより、JR、近鉄、阪急、京阪の各電鉄、高速道路や国道1号線が、一旦、京都の碁盤の目に入り、また出て行く様が見て取れる。多分、四方が見渡せる国土地理院の△点にあたる山頂ポイントには、古くは情報伝達用の見張り小屋、もしくは陸の灯台にあたる機能を果たす施設が置かれていたに違いない。もしかすると、「送り火」の起源は「狼煙(のろし)」ではなかったのか、と思いたくなった。「一目千両(ひとめせんりょう)」に値するビューポイントを目指すこと、これが今回のトラヴェローグの目的であり、天候に恵まれ、その思いを果たすことが出来た。

 K.A.教授が、神社仏閣をはじめとする名所旧跡や、市役所、美術館、大学などの公共施設、京都五山やはるかに見える山並みなどを、順を追って丁寧に説明してくれた。氏は、京都大学の出身で、新入生歓迎会で真夜中に酒を背負ってここまで連れてこられ、朝まで飲み明かしたそうである。その時の夜景の素晴らしさに心奪われ、それから、度々訪れるようになったという。大学2年生の娘が目を輝かせながら、その一節に聞き入っていた。

mi06_01.jpg

 また、この「要」の地点にあたる広場には「弘法大師」がまつられている。地域の皆さんが交替で周辺の清掃をされているらしく、夏休みのラジオ体操の記入用紙のように、大学ノートの横軸に日付、縦に氏名が書かれ、マス目が日付ごとに○×で埋められていた。この山への信仰の篤さをうかがい知れた。寒暖計が吊るしてあり、気温は2度をさしていた。汗がひくと急に寒さを感じてきたはずである。気がつくと小雪が舞い始めた。ペットボトルのお茶を飲み干し、「要」地点にあたる「火床」の上で記念撮影を終え、さらに山頂を目指した。20分ほどで標高約460メートルの大文字山"東山如意ヶ嶽"に到着。山頂では大きな声で詩吟の練習をしている壮年の方に出会った。ここからの眺めもなかなかのもので、琵琶湖は見えなかったものの山科側から滋賀県側の町並みがはっきりと見渡せた。そして、山頂から反対側を峰伝いに蹴上(けあげ)方面へ降りることにした。かなり距離があったが、心地よいハイキングコースになっている。

 時刻も10時を過ぎて日差しも照りはじめる頃となり、途中で何人ものハイカーの方とであった。すれ違う際のマナーである「こんにちは」を連呼する。いつしかここが京都であることを忘れてしまい、平素の里山歩きになっていた。ようやく南禅寺の裏山にあるレンガ水道(水路)にたどり着き、広い境内の荘厳な本堂が視界に入った途端、意識は"いつもの京都"に戻された。

 南禅寺から金地院を抜けて地下鉄の蹴上駅から電車で京都市役所駅まで出た(200円)。京都文化博物館に入っている"有喜心流そば打ち"で名高い「有喜屋」で昼食をとった。鴨南蕎麦を彩る"九条ネギ"の鮮やかな青緑色、にしん蕎麦に堂々と横たわる"みがき鰊"の艶、さらに関東の濃い色と違う薄透明なおつゆ、どれをとっても京ならではの上品な仕立てであり、勿論、手打ち蕎麦の喉越しを含め満足のいく味であった。いつもは注文の多い麻布の住人で自称江戸っ子のK.O.氏も絶賛だったことから高得点の店といえよう。

 外へ出ると小雪がかなりの勢いで舞い始めていた。ここで、K.A.教授にお礼を申し上げて別れを告げた。一方、K.O.氏も歩き疲れと寒さのため、ホテルのロビーで休息をとるとのこと。午後は娘と二人、4月予定の「第3回トラヴェローグの会」で利用させていただく、下京区富小路通仏光寺下ル筋屋町の京町屋「庵」へ、梶浦社長を訪ねることにした。

* 送り火の知識
• 「井桁」の炎、高さ数mに
井桁は樹齢40年から50年の松(松割り)を使って組み上げ、すき間には丹念に松葉を埋め込む。配分される松割りの数は火床の位置、年度によって異なる。通常は3、4束、50本前後の松割りを用いる。護摩木は点火後に投入する。井桁の高さは約1.3mで、点火後の炎は数mに達する。遅くとも点火2時間前には組み上げて、最終検査に臨む。
• 「火床」は大谷石製
大の字形は火床75基で構成される。字形の中心部を特に金尾(かなわ)と呼び、4基の火床からなる。字形の頂点も字頭(じがしら)と呼ばれ、2基の火床で構成される。火床はひし形に削った大谷石で、土中に埋め込まれている。地表部分は縦90cm・横15cm・高さ20cm程度で、対にして利用する。
• 「消し炭」は魔除け・厄除け
かつては燃え切った松割りの消炭を粉末状に砕き、病封じとして服用する習慣があった。現在は家庭の魔除け・厄除けとして利用されている。銀閣寺界隈の旧家の軒先には半紙で包んだ消炭が吊されているのをよく見かける。『京都新聞 五山送り火より引用(web site)』"

― 京町屋にて"レポートは娘に交替"(2月11日午後 曇り時々雪) ―
京町屋

 山登りで靴に付いた泥を落とし、京町屋"庵"へ向かう道を急いだ。出迎えてくれたのは、"庵"を経営している柔和な物腰の男性(梶浦社長)で、町屋を保存する苦労話をにこやかに語ってくれた。お茶と繊細な細工がほどこされた京菓子を頂きながらの軽い談笑の後に、昔は商家であったという屋敷内を案内していただくことにした。まず、入り口に、屋根まで吹き抜けた台所があり、てっぺんの明り取りの小窓からは流れる雲が見えた。その高さとしつらえに圧倒された。また、そこからの光が、漆喰の壁と剥き出しの梁によく馴染んでいる。

 靴を脱ぎ、土間から部屋へあがると、力強く組まれた柱が家を支えているのが良くわかった。奥の床の間は、おだやかなオレンジ色の電灯と障子越しに入る光が自然に溶け合って和んでいる。無垢の素材に囲まれた暖かさと、緻密な日本建築が持つ計算された美しさは、その昔、商談で訪れた客を、落着いた気持ちにさせたに違いない。お庭も素朴ながら手入れが行き届いている。

京町屋

 二階は、想像以上に広い(注釈:第3回「トラヴェローグの会」を大勢で開催できる広い座敷)。寝室は漆喰仕上げの虫籠窓から差し込む光に優しく包まれ、布団は特別な羽毛が用意されている。また、トイレはウォシュレットで現代生活に対する気配りが感じられた。その奥に、雰囲気をいっそう引き立てる岩風呂がしつらえてある。キシリ、キシリと急な階段を軋ませ屋根裏にあがった。そこには、こじんまりとした空間があり、訪れた外人客が「これこそ日本の町屋のイメージにピッタリだ、ここで眠りたい」と布団をあげて就寝したこともあるという。

 プロの建築家やデザイナーの手により改装が加えられ、一層、空間配置や美の追求にこだわって蘇った京町屋の印象は、現代に生れ育った私にとって、完成された美術品のように感じられた。

― むすび ―

 梶浦社長にお礼を申し上げて、「庵」を後にした。帰りの新幹線まで少し時間がある。再び、富小路通を引き返し、錦市場でお土産を買うことに。3連休の初日とあって、午後の錦市場通りは、観光客でごった返していた。京野菜、京菓子、生麩、魚、玉子焼きから刃物や西陣織の専門店などを見て歩き、琵琶湖産の小魚の佃煮と笹に包まれた麩饅頭を買い求めた。そして、鯖寿司を探したが、今ひとつ気に入る品が無かったため、錦市場から四条通りへ出て、大丸百貨店の地下に出店している「いづう」へ行き、奮発して大1本を買い求めた。それから京都駅まで烏丸通を歩いた。東本願寺が見える頃、娘も、足が痛いね、と弱音をあげた。2万歩はゆうに越えた今回の京都トラヴェローグ、これにておしまい。