列車は雫石を過ぎて岩手県と秋田県の県境にさしかかった。線路脇の積雪はみるみる高くなり、トンネルを重ねるごとに、車窓からの冬の眺めは深さをます。いつしか冬木立は樹氷に変わり、己が梢にまとった雪玉の重さに耐えている。谷底を流れる水面は凍てついた鈍い紺色だ。こうした自然の厳しさは、平素、都市生活に慣れきった人種には恐怖にさえ映る。「すごい…」と呟きながら、ごくりと生唾を飲み込んだ。ゆるやかなカーブが続く。新幹線「こまち」も田沢湖線では窮屈そうだ。厳しい自然の造形と英知の産物が不釣合いな感じがする。この冬景色には、断然、白い煙を吐きながら音を立てて進む、蒸気機関車の方が似合う。そんな勝手な思いをめぐらせているうちに列車は田沢湖駅に到着した。

▲ 険しい雪道
天気は快晴。風力は3くらい。晴れた日は暖かいと思うのは素人、キーンと澄み渡った日は、逆に気温が低いままだという。さすがに四国生まれのわたしには、この寒さは堪える。ホームから改札に向かう間に震えがきた。駅構内にある、レンタカー受付で手続きを済ませた。目指す、乳頭温泉郷までの道の按配と雪道運転の諸注意を訪ねる。「スピードを出し過ぎなければ大丈夫。お気をつけて」の声に「はい」と大きく返事をした。緊張している。地図に従い、県道を北上する。のろのろ運転のわたしを、地元ナンバーの車が雪煙をあげて、どんどん追い越してゆく。途中、乳頭温泉郷の標識を右折、まっすぐな長い上り坂が続く。両サイドはガードレールより雪が高く積もっている。山道をしばらく走ると眼下に田沢湖が一望できるポイントがあり、ホット一息。さらに近代的なホテル群を過ぎたあたりから、もう一段、カーブが急になり、雪道も険しくなる。そして運転すること数十分、ついに行き止まり、乳頭温泉郷「蟹場温泉」に到着である。温泉名を記した大きな提灯が目を引いた。さっそく玄関をくぐる。
「蟹場温泉」は、露天と内湯の場所が離れている。まず、本館で受付を済ませて奥へ進み、露天への扉を開けて外に出る。足元に注意しながら、川のほうへ雪の通路を20メートルほど進むと眼下に露天が見えてくる。湯船には既に数名の先客がいた。常連らしき老人が、近辺の温泉場の効能について東北なまりで講釈をしている。聞き手の若い旅人は、興味深そうに受け答えしている。わたしも会話に交じる。そうこうするうちに、中年女性の3人組がやってきて、やがて皆一緒に打ち解けてゆく。一面、雪に覆われた深山。人がこれ以上先に踏み入らない秘境に湧く温泉は、訪れる老若男女すべての者を自然の姿に回帰させてしまう、そんな不思議な力を持っている。こうした心の安息は、高層建築の近代的な温泉ホテルでは、なかなか味わえまい。
本館へ戻り、受付の反対側にある渡り廊下をしばらく下ると内湯がある。秋田杉と思われる浴槽に湯の花が一杯に咲いている。露天より熱めのお湯、湯船は湯気でかすみ、ぼんやりしている。男湯は他に客が無く、貸切り。窓を開けて雪景色を眺めたり、当館の由来となる、蟹の甲羅の格好をした石をさすってみたり、穏やかな湯浴みを堪能できた。

▲ ベストショット!?
次に、少し戻った地点にある「大釜温泉」を訪ねる。ここも「蟹場温泉」に引けをとらない、素朴な造りの見事な内湯があり、その湯量の豊富さは、かけ流しのお手本のような温泉である。外扉を開けると露天風呂へ出られ、そこには大小二つの露天がきってある。幸運なことに、ここも貸切りである。これを良いことに、いったん脱衣所へ戻り、デジタルカメラをとり、セルフタイマーを用いて記念撮影を行った。雪が積もる露天ではカメラをセットする場所と位置に難儀し、露天風呂の庭先と湯船を何度も行き来するうちに、危うく風邪をひきそうになった。猿に見られたら大笑いされそうな所作であろうが、ともあれ、ベストショット? に成功した。女将さんに「お湯への感謝」を込めて挨拶をし「大釜温泉」を後にした。そして、さらに数十メートル戻った所にある「妙の湯(みょうのゆ)温泉」へ立ち寄った。
「妙の湯温泉」、ここは前の2軒とは全く趣が異なる宿である。まず、玄関を入ると日本昔話に出てくるような藁で作られた民芸調の蓑と長靴が目を引いた。さらに、カップルがやたら目に付く。そのわけはすぐに頷けた。見事に活けられた生花や山野草、落着いた風合いの調度品、淡く優しい感じの照明、お香の上品な芳香。一瞬、湯布院温泉か黒川温泉と錯覚するような計算しつくされた演出に、正直、驚かされた。あまり懲りすぎた演出にはマイナス点を付けたくなる偏屈な性分だが、なんせ、お湯がすばらしい。お湯は金湯(赤)、銀湯(透明)の2種、男女それぞれ内湯・露天風呂がある。
まず、薄暗い内湯に身体を沈めると、奥のへりに枕木がしつらえてあり、頭を横たえてリラックスできるようになっている。BGMに癒し系の旋律が流れ、湯気の向こうは格子窓の越しに何本ものツララが日光に反射して幻想的な雰囲気を醸し、静かな時間を過ごせるように気配りされている。一方の混浴の露天風呂は、雪に埋まった川原へ下り落ちる水の流れに面して広い湯船がせり出した作りで、雪の白と金湯の赤とのコントラストが「お見事」の一語に尽きる。また、屋根付きの銀湯にはランプが燈り、ここからの角度も眺め良しである。これで入湯料700円は、文句無い。「家内を連れてこよう」と心に決めて「妙の湯温泉」を後にした。
来た道を途中まで1キロほど引き返した地点に、「鶴の湯温泉」への入り口となる分岐点がある。ここからの道は「鶴の湯温泉」専用で、道端の雪はさらに険しく、何度もカーブで車がスリップした。車同士がすれ違うのにかなり神経を使う。走ること数十分、ついに箱根の関所のような黒塗りの大きな門が見えてきた。車を駐車位置に止め、ワイパーがフロントガラスに凍りつかないよう折り曲げた。「鶴の湯」と大きく書かれた正面の門から本館までは、左右両側に武家屋敷のような造りの長屋が続く。建物は全て黒一色で統一されており、雪景色に、堂々たるたたずまいをみせている。時おり、屋根の雪が大きな音をたてて落下する。軒下には、縄でつるした、かき餅、たかのツメ、干し柿が横一列に整然と並んでいる。本館へのあがり口には作りつけの水槽があり、中で缶ビールや瓶ジュースの類が冷えている、というより凍っている。
本館で立ち寄り湯である旨を告げ、入湯料400円を支払った。受付には湯治客用の雑貨品や土産物の類が、あまり商売っけ無く、適当に置かれている。また、食事を希望する客には、ここで申し込めば、前面の棟が食堂になっていて運んでくれる。この時点で、温泉のハシゴの自己記録を既に塗り替えていたが、同時に、なにより腹ペコであった。風呂にするか食事にするか迷った。そして、やはり「鶴の湯」めぐりを先にした。
本館を出て、さらにその先の橋を渡った棟が内湯であると教わった。入り口に白湯、黒湯と書かれている。木戸を開け、白湯から頂く。木で作られた湯口から湯船に乳白色のお湯がそそがれている。ここの湯船、浴槽もたぶん秋田杉であろうか、渋い木枠で囲われており素朴な風情を醸しだしている。お湯も肌に優しい、柔らかな感触。湯口にコップがあったので試しに飲泉した。温泉、特有の香りと味がした。胃腸に効き目がありそうな気もするが、多く飲めるものではない。黒湯は、白湯に比べ温度が低く、湯船も小さい。お湯は白湯に比べると心持ち少し濃いが、決して黒色をしているわけではない。

▲ 鶴の湯露天風呂
さて、内湯を済ませ、今回の旅のお楽しみ、メインディシュ? である、現在JR東日本のポスターになっている「鶴の湯」露天風呂を探す。目当ての露天風呂は、いまや秘湯ブームの中心的な存在となっていると聞いている。「あった」。内湯の建物の隣に申し訳程度の塀で隠れていた。脱衣所も申し訳程度のさりげない作りである。さっそく、ポスターと同じアングルからシャッターを数枚きった。乳白色のお湯をなみなみと湛える露天の全景が、内湯の建屋や借景となる裏の雪山と自然にひとつにとけている様に、湯治場の風情と歴史を感じた。確かに、お湯の質(肌触り)、量(かけ流し)、色(乳白色)、香り(温泉臭)、造作(素朴さ、広さ)、景観(周囲の自然との一体感)、入湯料(リーズナブル感)、たどり着くまでの大変さ(秘湯感)、どれをとっても文句の付けようの無い1級品、ピカイチの温泉であった。

▲ 山の定食
また、風呂上りに注文した、山の定食、1,700円も絶品だった。秋田名物「だまこ汁」と岩魚の塩焼きをメインに、わらびのおひたし、青菜と油揚げの炒め、うどと椎茸のあえもの、いぶりガッコ、それに丼飯である。食堂には薪ストーブが置かれ、立ち寄り湯のお客にも親切な配慮がなされていた。
最後に、老婆心ながら申し上げれば、あとは、宿泊した際の料金を含むサービスである。想像以上に、裏手に立ち並ぶ宿泊棟が目に付いた。わたしは、400円の立ち寄り湯であるため語る資格は無いが、湯治場の宿泊棟というより高級バンガロー(失言ならお許しください)に見えたのは気のせいか? ぜひ、最近、実際に宿泊された方のお話や感想をお伺いしたい。新潟の美味い日本酒が、有名になったとたんに味が落ちたという。乳頭温泉郷は、決して、そうはならないようにと願いつつ、一人旅の筆を擱きたい。お粗末。

