先日、同志社大学政策学部K教授の招きにより、学生相手に雑談をさせて頂く機会を得た。春の花見に続き、今年3度目の京都トラヴェローグである。講義の前にキャンパスを案内していただき、限られた時間ではあったが、本学創始者である新島襄の足跡を辿った。

▲ 新島襄
彼は『同志社大学設立の旨意』のなかで「回顧すればすでに二十余年前、幕政の末路、外交切迫して人心動揺するの時に際し、余不肖、海外遊学の志を抱き、脱藩して函館に赴き、遂に元治元年六月十四日の夜、竊(ひそ)かに国禁を犯し、米国商船に搭じ、水夫となりて労役に服するおよそ一年間、やうやく米国ボストン府に達したりき……」と記している。安中藩(群馬県)の武家に生まれた新島は、明治維新という革命的な社会変革の只中で青春時代を過ごした。封建社会の慣習に染まりきった周囲の人たちが“社会環境が激変するなかで、世の変化に戸惑いながらも、長いものにいやおうなしに巻かれてゆく様”にたまらず、自らの眼で真実を探し求めるため「国禁」を犯し、武士を捨て、水夫をしながら1年をかけ渡米した。
いつの世も、いやおう無しに時のうつろいに巻かれる民衆が多数であり、命を賭して時流に棹差す勇気ある人はごく少数である。いや、今日のわが国に、自らの真実を貫かんがため、命を賭して時流に棹差す「人物」と呼べる大人が何人いるか。「尊敬する人は」との問いかけに「政治家」、「教師」と答える青年がわが国から消えた。尊敬に値する「人物」不在が遠因し、好きでもない「父親」か「スポーツ選手」を回答することが、就職面接突破の常套句として定着した時代はいかにも哀しい。これは我われ「大人」の責任である。
関西私学の雄として官営(国立)教育を嫌った彼の理想は高く「吾人は教育の事業を挙げて、悉(ことごと)く皆政府の手に一任するのはなはだ得策なるを信ぜず、苟(いやしく)も国民たる者が、自家の子弟を教育するは、これ国民の義務にして、決して避くべきものにあらざるを信ず……」と述べている。

▲ 同志社学舎
明治維新以降受け継がれてきた官僚政治に代表される「日本システム」崩壊への警鐘が鳴り続く状況とは申せ、新島の描いた理想像が現在の同志社に息づいているか比較考慮することが、いかにナンセンス(愚考)であるかは十分に承知しつつ、“もしかすると現代に彼の建学の志が受け継がれているかも知れぬ”との淡き期待が、ふと脳裏をかすめた。それは、古都を彩る神社仏閣にあって、西洋建築が重要文化財となった堂々たる学舎群や瀟洒なキリスト教礼拝堂を擁するキャンパスの風景に圧倒されたためである。近代建造物の代表のごとく東京都心で高層ビル化する大学キャンパス。ランドマークとしての機能は果たせても、周囲の歴史や景観と不釣合いな学び舎から建学者達の志を感じ取ることはできまい。

▲ 同志社学舎
ともあれ、期待と不安が合い半ばするなか時刻となった。はじめに出席確認がなされたが20名程のクラスに欠席者はいない。まずそこに驚いた。われわれの学生時代では到底考えられないし、少子化が進むなか経営破たんする類の大学では決して見られぬ光景であろう。小生の愚話は略するとして、講義の結びに「いにしえより、京都は、政治、経済、宗教、文化、芸術、すべての中心であり、国内外から大勢の人たちが希望に胸膨らませこの地へ集った。皆さんが同志社へ集いて学ぶ志は如何に」とトラヴェローグな質問をさせていただいた。
しばらく沈黙が続いたが、少しおいて、一人ひとり順番に、自らの生き方や将来についてキチンと主張してくれた。誰かさんではないが心底「感動した」。新島が「精神的自由人の集団こそが誇れる社会を形成する」と説いた「独自一己の見識を備え、仰いで天に愧(は)ぢず、俯して地に愧ぢず、自から自個の手腕を労して、自個の運命を作為するが如き人物」に足る“わが国を担うであろう若き群像”を、歴史を超えて確かにそこに見た。

▲ 初夏のひと夜
時のうつろいを横目に「巻かれる側の一庶民」として厭世的な気分に沈みがちな小心に、すがすがしく爽やかな風が吹き抜けた。加茂川の若鮎達に「オジさんも、もうひと踏ん張り遡上してみせねば、悔い無き落ち鮎に成れぬ」と、勇気付けられた今回の京都トラヴェローグであった。
K教授ご夫妻達とご一緒した宴席は、京料理の味わいに、学生達の将来話が花を添えて大いに盛上がり、格別な初夏のひと夜となった。(参考:同志社大学HP他)

