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        <title>Past Archives</title>
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        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2008</copyright>
        <lastBuildDate>Thu, 03 Aug 2006 21:29:24 +0900</lastBuildDate>
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            <title>渋海川の昔の姿を蘇らせる瀬替えの里のランドアートプロジェクト</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">アートポート：1<span class="asset-name_c">武 眞理子</span></div>
<div style="text-align: center;" class="cap"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="take060803_01.gif" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/take060803_01.gif" width="460" height="234" class="mt-image-none" style="" /></span><br />▲ 磯辺さんが描いた室野農舞楽回廊のイメージスケッチ</div>
<div class="sub2">―　瀬替えによって作り替えられた渋海川の流路　―</div>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 3px; width:270px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="take060803_02-1.gif" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/take060803_02-1.gif" width="270" height="179" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="take060803_07.gif" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/take060803_07.gif" width="270" height="179" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="take060803_08-1.gif" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/take060803_08-1.gif" width="270" height="179" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2"> ▲ 室野の瀬替え田</span></div><p>　渋海川は、新潟県十日町市松之山の三方岳を源流とする一級河川だ。「此川屈（まが）り曲（くね）り、広狭（ひろせま）言ひ尽（つく）すべからず」と『北越雪譜』（天保六年　鈴木牧之著）にあるように、起伏に富んだ山間部を複雑に蛇行しながら北東に向かい、長岡市長生橋の上流2km付近で信濃川に合流する。</p>
<p>　清冽な雪解け水、朝夕の温度差など、良質の米が育つための自然条件が整った環境にありながら、渋海川流域には広い平坦地がほとんどない。そこで、昔から極限の土地利用ともいうべき農地開発の工夫がなされてきた。人工的に川の流路を変えて、元の河道に新田を造成する「瀬替え」もその一つだ。瀬替えは耕地不足を補うだけでなく、洪水被害を防ぐ手段としても有効だった。新潟大学大学院自然科学研究科による最近の調査によれば、延長約82kmの渋海川で、江戸初期から昭和中期にかけて行われた瀬替えは全部で47箇所に上る。</p>

<p>　十日町市室野の佐越（さごえ）橋の袂にも、そんな瀬替え田の一つがある。蛇行によって狭くなった丘陵脚部に間府（マブ）と呼ばれるトンネルを掘って水を引き込み、川を直流化する工事が行われたのは江戸後期のことだ。頻発する洪水と連年の飢饉から脱出するため、村人たちが挑んだ全て手作業の大土木工事は、想像を絶する苦難の連続だったろう。瀬替えによって生まれた馬蹄形の低地（氾濫原）から大きな石を取り除き、元の川底に礫を並べて土を盛り、水を溜めて水田にするにはさらに長い年月と膨大な労力が費やされた。</p>

<div class="sub2">―　室野農舞楽回廊の構想　―</div>
<p>　地元では中段（なかだん）と呼ばれるこの瀬替え田は、渋海川に接する還流丘陵を囲むようにして馬蹄形に広がっている。馬蹄形の外周のU字部分は段丘崖でその斜面が圃場を囲み、小さいながら盆地形を作っている。この地形をインカのミューレイやヨーロッパにみられるローマ期の円形劇場の遺跡に重ね合わせたのが、アーティスト磯辺行久さんだ。</p>
<p>　磯辺さんは東京藝術大学在学中の62年に読売アンデパンダンにワッペンを連ねたレリーフ作品を出品、日本ポップアートシーンの先駆として注目された。現代美術のエースとして活躍中の65年に渡米、ペンシルベニア大学大学院でエコロジカル・プランニング（環境資源適性評価に基づく計画作り）の研究を始めたが、アーティストから研究者へのこの転身は当時の美術界を驚かせた。その後、M・ポール・フリードバーグ地域計画事務所勤務を経て72年に一時帰国。（株）リジオナル・プランニング・チームを設立し、日本の地域環境管理システム作りをリードしてきた。</p>

<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 3px; width:270px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="take060803_09-1.gif" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/take060803_09-1.gif" width="270" height="207" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2"> ▲ 2000年の磯辺作品「川はどこへ行った」。昔の信濃川の川筋を3.5kmにわたり、約600本の黄色い杭によって再現した</span><br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="take060803_06.gif" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/take060803_06.gif" width="270" height="205" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">&nbsp;▲ 2003年の作品「川では、河川の浸食によってできた崖の幅100mの足場をかけ、各時代の水位をマーキングした</span></div><p>　そんな磯辺さんが、98年、妻有地域の「環境資源目録作成調査」を引き受けた。さらに2000年には十日町市役所から「十日町市環境基本計画策定調査」を受託。その知見を基に同年の「越後妻有アートトリエンナーレ　大地の芸術祭」で「川はどこにいった」という、信濃川をテーマにした期間限定のプロジェクトを行い、大地そのものをダイナミックにデザインして高い評価を得た。<br /><br />　また、2003年の同芸術祭では川の垂直方向の変化に着目し、「信濃川はかつて現在より25メートル高い位置を流れていた―天空に浮かぶ信濃の航跡」で妻有の大地創生のドラマを作品化し、人々をあっと言わせた。</p>
<p>　この「大地の芸術祭」とは、アートによる新しい地域再生モデルとして注目される屋外型の国際美術展で、760km<sup><small>2</small></sup>という広大な越後妻有（十日町市と津南町近辺の総称）の大自然を舞台に、三年に一度開催される。第三回目を迎えた今年は、2004年の中越大地震とそれに続く昨年夏の豪雨、この冬の豪雪を乗り越えての開催となり、アーティスト、地元住民はじめ参加する全ての人にとっていっそう意義深いものになるだろう。そこで磯辺さんは、いままでの二作品の集大成として、ここ室野の瀬替え田に渋海川のかつての流路を蘇らせ、会期中（7月23日～9月10日）巨大な円形回廊を現出するアートプロジェクトを構想したのだ。</p>

<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 3px; width:179px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="take060803_03.gif" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/take060803_03.gif" width="179" height="270" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2"> ▲ 室野の圃場を調べる磯辺行久さん</span></div><p>　「まだ雪の残る圃場の真ん中で試しに手を叩いてみたら、音が崖の斜面や木にぶつかって複雑に交錯するのです。あ、古代円形劇場の音響効果によく似ているなと感じました」と磯辺さん。</p>
<p>　何かこの特異な空間を最大限に生かす演出はできないか。円形回廊にさらに農楽の舞台のイメージを重ねてやぐらを設置し、そこで音を奏で舞うことで、農業の喜び、土地や水への執着、地域信仰への回帰といった土着の感情に帰するものを表現したい、そう思ったという。</p>

<div class="sub2">―　田の神に捧げる世界太鼓フェスティバル　―</div>
<p>　磯辺さんは、そのアイデアの実現を、世界的に活躍し、越後妻有とも関わり深い鬼太鼓座の代表、松田惺山（せいざん）さんの手に委ねた。太鼓は、原初のリズムを刻む楽器であり、どこの国でも宗教儀礼や祭りと結びついて民族の歴史や文化に深く根付いている。松田さんは、日本各地の和太鼓の祭衆と海外の太鼓仲間に室野農舞楽回廊での競演を呼びかけた。これに国内では八丈太鼓（八丈島）、大太（だいたい）（伊那）等が、海外からはACOUSTEEL GANG（アコースティール・ギャング）（フランス）、PURI（プリ）（韓国）、BAMI（バミ）（カメルーン）等が応え、地元の室野太鼓他も加わって2006年8月5日、一夜限りの農舞楽回廊ライブ「世界太鼓フェスティバル」の開催が決まった。</p>
<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 3px; width:179px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="take060803_04.gif" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/take060803_04.gif" width="179" height="270" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2"> ▲ 音の反響効果を確認するため圃場を訪れた松田惺山さん</span></div><p>　松田さんにとってこのイベントは、太鼓をそのルーツである田に戻すことであり、太鼓の響きを介して土地の記憶と農の喜びを今に蘇らせるための祈りの行為である。全国から訪れる観客は、圃場の内部から、また段丘崖の上を走る道路からそれを見下ろし、土着的でありながら幻想的な舞台背景と世界的ミュージシャンの演奏に酔いしれるだろう。</p>
<p>　しかし、会場の提供者である地権者・耕作者たちにとっては、開催予定日前後は稲の出穂（しゅっすい）期であり、圃場の管理に神経質になる時期である。地域活性化に期待する反面、田圃が荒れることへの警戒感も強い。</p>

<div class="sub2">―　人と人、人と土地をつなげるアートの力が地域を活性化する　―</div>
<p>　実は、他人を自分の田圃に入れることに農民がどれほど強い抵抗感を持っているか、磯辺さんは過去の経験からよく知っていた。2000年のプロジェクトは、信濃川の百年前の流路に5メートル置きに彩色された杭を打ち込み、かつての姿を蘇らせるというものだったが、田圃の中に杭を打つ許可が耕作者から得られないため、一時は暗礁に乗り上げたかに見えたのだ。そのとき、自分の田圃に自ら杭を打とうという人が現れた。測量士でもある南雲昇さんだ。</p>
<p>　南雲さんはその後、米作農家と作家双方の立場を理解し、つなぐという大事な役目を担った。さらに、測量技術を活かして図面を描いたり、木材にペンキを塗ったり、見学者に作品解説をするなど、制作スタッフの一人として積極的にプロジェクトを支えた。そのように関わったことで、南雲さんは作品の見方も自然の見方も大きく変わったという。また、「人と人のつながりは自分がその気になればどんどん大きくなっていくことに気づくことができました」という。南雲さんは、今では磯辺プロジェクトに欠かせないパートナーの一人だ。</p>
<p>　こうした経験を踏まえ、磯辺さん、松田さんはじめ制作者サイドは、今回も早くから地元行政や地域住民、瀬替え田の地権者・耕作者とのコミュニケーションを図ってきた。また、工作物の施工や材料の供給はほとんど地元の工務店、商店に依頼し、イベントの管理・運営についても十日町地域広域事務組合、十日町市松代支所、JCなどの参画を要請した。その結果、たとえば会場の照明にかがり火を使いたいとなれば、たちまちあちこちからかがり火台が集まるという具合に、プロジェクトは地域の祭りとしての活気を帯びていった。</p>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 3px; width:270px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="take060803_05.gif" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/take060803_05.gif" width="270" height="179" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2"> ▲ のどかな室野の5月</span></div><p>　中段の地権者・耕作者を束ねる室野地区の区長、佐藤定行さんは「問題は山積みだが、みんなでこれを実現すれば地域の団結力が強まり、必ず後々生きてくる、だからやるんです」と、地元住民が参加する意義を語ってくれた。</p>
<p>　しかし、このプロジェクトを成功させ、「瀬替え田」というものがこの地域にとってかけがえのない環境資源なのだという認識をみんなで共有するためには、もう一つ欠かせない要素がある。それが観客のマナーだ。</p>
<p>　磯辺さんが作成に関わった「新環境基本計画」には「国境を越え、あるいは地球規模にまで至る環境問題もその原因をたどれば、いずれも地域における人間活動に還元される」とある。美しい里山の成り立ちを考え、それを守るために何をすべきか、何をすべきでないかを考えることは、地域住民だけでなく、そこを訪れる全ての人にとってたいせつな課題といえよう。</p>

<div class="quo2">＊大地の芸術祭と世界太鼓フェスティバル<br />・大地の芸術祭実行委員会事務局　tel:025-757-2637<br />
・同東京事務局　tel:03-3476-4360<br />
・URL<a href="http://www.echigo-tsumari.jp/" target="_blank">http://www.echigo-tsumari.jp/</a><br />
＊本記事は PDF版もあります。PDF形式で読みたい方は、下記からダウンロードしてください。<br />
<a href="img/060803.pdf" target="_blank">・ PDF（344 KB）</a><br />
＊本記事は『FRONT』2006年8月号からの転載です。<br />
・リバーフロント整備センター<br />

<p>・URL<a href="http://www.rfc.or.jp/book/fro_f.html" target="_blank">http://www.rfc.or.jp/book/fro_f.html</a></div></p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2006/08/post.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">アートポート</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 03 Aug 2006 21:29:24 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ガラパゴス・ログ 3［フィンチ 篇］</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">三村さんちの旅日記：No.11<span class="asset-name_c">三村 伊予</span></div>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="mi11_01.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/16/mi11_01.jpg" width="460" height="300" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span>

<div class="emp1">自然は全てバランスしていて、<br />
意味の無いものなど何一つない。<br />
空飛ぶ鳥の流線形の体、翼の形、嘴のサイズにいたるや<br />
コンマ1ミリの差が生死を分かつのだから。</div>

<div class="sub2">—　ラマルクとダーウインとグラント夫妻〜偉大な進化生物学者　—</div>
　進化論の先駆者は生物学者ラマルクであり、形質は必要から獲得するものだと説いた。これは「キリンの首」の話を用いて説明されており、キリンは高い所の木の葉を食べる為に首を伸ばし、その結果として長い首という形質を数世代かけて獲得したというものである。後のダーウインの進化論により、この考えは打ち消されることとなるが、19世紀初頭のDNAの存在も知られていなかった時代の生物学の先駆者として、彼の自然観は非常に優れている。

<p>　ダーウインの進化論とはいかなるものか、あまりに有名であるが簡単に説明したい。ダーウインの進化論のキーは、『自然淘汰』『適者生存』『生存競争』である。私の大学のA教授は、特に『生存競争』この日本語訳は不適切で、元の英語であるstruggle for existenceに競争などという意味あいは含まれていないとブツブツ呟いておられた（ただ日本語訳ではよくこのようなことがあるのではないかと思う）。自然界においては、環境変動により常に選択圧が動物にかかっており、その淘汰の力に耐えうる（適した）もののみが生存することを許される。選択圧とは、極端な例をあげると大干ばつや洪水などがそれにあたる。</p>

<p>　1995年科学ジャーナリストであるジョナサン・ワイヤーの著書『フィンチの嘴』がピュリッツァー賞に輝いた。サブタイトルは「ガラパゴスで起きている種の変貌」であり、グラント教授夫妻（プリンストン大学）のフィンチという鳥の研究について書かれている。この本を読んで、私はガパラゴスにより強く惹かれた。</p>

<p>　グラント夫妻は、ガラパゴス諸島の主にダフネ島マイナー（大小2つからなるダフネ島の小さい島）において、20年間すべてのフィンチの動向・体長・パーツの長さを詳細に記録し続けた。その結果、“進化は目の前で起きている”という結論を得た。それは、データを収集した結果、干ばつで餌が乏しくなった際に、嘴の長さでみた、あるフィンチの種における統計分布に2極化が起きたことによる。中間の大きさの嘴を持ったフィンチは干ばつを乗り切れずに死に絶えたのだ。そのことは何を意味するのだろうか。</p>

<div class="sub2">—　ガラパゴスでのフィンチ　—</div>
　エクアドルのキトから飛行機でガラパゴス島へ飛んだ。機体から窓を覗くと眼下には見たこともない広大で赤茶けた土地が広がり、驚きと感動に打ちのめされて実感が伴わなかった。空港で降りると、簡易な屋根張りの空港にサボテンが植えられていた。そこにスズメを黒くしたような鳥がとまっていた。フィンチは分類学的にスズメ目ホオジロ科の鳥で、ノジコやホオアカといった鳥もこの分類に含まれる。黒いスズメのように見えたのも、形態学的に類似しているからだと納得する。それがフィンチだと気づいた時には、すでにどこかへ飛び去っていた。感動的なことに、ガラパゴスで初めて出逢った動物はフィンチだった。

<p>　ガラパゴス諸島は大小22の島からなり、島への宿泊は許されていなため、観光は常にクルーズという形がとられる。島から島への移動は基本的に夜で、寝台からスーツケースや小物やペットボトルが荒波に揺られて床に放り出される。その勢いたるやとにかく凄かった。というのも、乗船したゴロンドリーナ（ゴロンといって沈みそうな名前だと思う）は岬を行き交う旅行客の船の中でもかなり小さかったからだ。そんな状況ではあったが、ダーウインの時代の航海も荒波をこんなふうに乗り越えたのではと物凄くワクワクした。</p>

<p>　サンタ・クルス島のチャールズダーウイン研究所の売店で、デザインが気に入りフィンチのポスターを購入した。ポスターには13種類のフィンチの絵が描かれ、中央の円グラフには食性による嘴のサイズの違いに基づく分類が記されている。13種類は、6種類が主に植物食、3種類が主に動物食、残る1種類のみが100％動物食に分類される。嘴の機能面についての性質は、破壊型と摘みあげ型と採集型があり、先の食性分類による3タイプの順番にほぼ対応している。</p>

<p>　植物食6種を取り上げ比較してみると、同じ植物食とはいえ、その形態・体調や嘴のサイズは非常に多様で、餌となる実のサイズに対応させることでそのニッチ（生態的地位）を確立していることが分かる。ニッチとは環境の中で上手く生きる自分のフィールド（生活に必要な空間的領域・食性など）を指す。例えば、オオガラパゴスフィンチは大きい実を割り食べることが出来るが、小さい実を食べるにはその嘴は大きすぎる。また、食べた所で殻を割った消費エネルギー量が獲得エネルギー量を上回り、コストパフォーマンスが非常に悪い。よって、オオガラパゴスフィンチは、この計算に見合ったサイズ以上の実を選択的に食べる。その結果、オオガラパゴスフィンチはコガラパゴスフィンチが小粒の実を獲得する領域を侵さない。両者の間には食における利害関係はなく、互いに円満に食事を取ることが出来る。もし、利害関係が発生すると、互いのニッチが重なり両者はその空間なりを競争しなければならない。ただ、主にその戦いの結果、同じ種において先に説明した2極化が起きる。</p>

<p>　干ばつで餌が乏しくなった際に残されるのは、食べやすい実が食べ尽くされた後の、嘴の形態に合わない、殻が非常に固い、コストパフォーマンスが悪い、などの理由で残された実である。よって、いかに残された食べ難い実を効率よく食べるかが問題となり、実を割る嘴のサイズが生存への鍵となる。</p>

<p>　ここで、干ばつにさらされるフィンチを嘴の長さで分け山形グラフになったと仮定する。そして嘴の長さが中間帯のフィンチが、残された実を上手く食べられず死に絶える。その結果、山形のグラフの中央部分が0となり、2極化が起こる。単純化しているが、このようなことが実際に起きている。嘴の長さがその環境下で生存に適したフィンチ達は、2極に分岐したことで別々の種となる道を辿る。（ちなみに、種というのは基本的に相手を交尾対象と認めない段階の仕切りを指す。）これが、まさに “進化”なのだ。</p>

<p>　船に揺られながら大小いろいろな島を点々と回遊したが、なかなかフィンチにゆっくりと間近で対面できる機会にめぐり会えぬまま時が過ぎた。ガラパゴスの動物たちは人を恐れないので、日常からは考えられぬほど間近では観察できる。それはダーウインが上陸した時代から変化はないようだ。ただ、フィンチはスズメのように餌を求め慌しく移動を繰り返すため、姿を発見してもだいぶ遠い木の上か、どこかへ羽ばたいてゆく姿が多かった。そんななかで、フロレアナ島のポストオフィス湾には多くの植物食のフィンチが木の上や茂みを飛び交っていた。ここで、ようやく夢にも見た状況が現実のものとなった。この旅の為に購入したキャノンのカメラを片手に、湾とラグーンをフィンチ追いかけ走り回った。</p>

<p>　少年少女の捜し求めた青い鳥が幸福なら、私が追った青い鳥は専攻する生きた生物学への期待だった。どうも中高の勉強は（大学に入りやや改善されたが）、机上の勉強ばかりで、本来“まず現象ありき”の筈が“まず理論ありき”ばかりであった。私にとって、学ぶことの喜びは、現実と学問が体感を持って一致した瞬間であり、飛び交うフィンチは強烈なインパクトを持って『フィンチの嘴』と頭の中でコネクトした。その込み上げる感動は、今までに経験したなかで格段のものであり、ある種の集中力を持って私を完全に虜にした。</p>

<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:360px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="mi11_02.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/16/mi11_02.jpg" width="360" height="240" /></span><br /><span class="cap2">▲ Thorn shrubの実をついばむフィンチ</span></div>　興奮しながら四方八方フィンチを追い続けること1時間余り、目の前の棘だらけのThorn shrub（棘を持った低木）という植物にフィンチがとまった。その距離1mたらず。カメラ初心者の私は、周囲の枝や棘にピントが合ってしまい手こずったが、ようやくそれなりに満足のゆく写真が撮れた。棘の間の実をついばみ、他の木の枝に移動しては（棘付き植物は食事をとる場所として不便であるからだと思われる。フィンチ捜索中に不意にThorn shrubの茂みに突っ込み足を切った。そのくらい棘は硬く鋭い。）中身をついばんで捨てる行動を繰り返した。時に、あまり器用でないのか、運んだ実を手もつけずそのまま落としていた。そうすると非常に諦めが早いようで、Thorn shrubに向かって再び羽ばたいた。落下させずに、きちんと実を食べた後は、枝に嘴の先端をこすり付けていた。家で飼育していた文鳥も同じように食後に止まり木で嘴をこすり付けていた光景を思い出した。

<div class="sub2">—　生物学の視点　—</div>
　今回のガラパゴスへの旅行で、グラント夫妻の研究対象であるフィンチを実際に自分の目で観察し、得体の知れぬ大きな感動を得ることが出来た。この旅で確信した。ダーウインは進化がいかに起こるのかを解き明かし世に知らしめた点で、グラント夫妻はダーウイン進化論の現実における検証を遂行した点で、非常に優れた進化生物学者であったということ。

<p>　一方、今現在の人為淘汰が進む世の中を「進化」の観点で見てみると、残念ながら驚くべき悲しい状態となっている。ただ、進化という事象を知ることは、なぜ我々がいまここに生きているのかを解き明かすことであり、地球という環境で生きてきた生命の歴史を考えることだと思う。</p>

<p>　もっと多く学び、生物学という観点で過去・現在・未来を見渡せるようになりたい。</p>

<div class="quo2">［父からの宿題〜ガラパゴスログを書くにあたって］
　当初、父の人生のトラヴェローグ仲間である中央大学O教授と同志社大学K教授の2人は、父をガラパゴスへ誘いました。そのガラパゴス行きの話を聞きつけた私は、勉強のために同行させてもらえるように父にお願いしました。私は理学部物質生物学科で生物学を学んでいる20歳の学生です。
　結果、都合のつかなかった父に代り、私が参加できるようになりました。ただし、ガラパゴス行きに察して父から2つの条件が出されました。ダーウィンの『進化論〜フィンチ（鳥）』に関する書物1冊を読み、それを検証してくることと、このサイトにヘタでもいいから紀行文を投稿することでした。
　その約束をして2005年3月中旬、2人の先生と高校生になるO教授の姪御さん、それに私の4人で約2週間の行程で南米エクアドルにあるガラパゴス諸島を巡ってきました。そのときの思いでを何篇かに分けて投稿します。　三村 伊予 </div>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2006/05/-3.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">三村さんちの旅日記</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 10 May 2006 17:25:36 +0900</pubDate>
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            <title>おとぎの国に舞い込んだような街Alberobello</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">Travelogue：No.03<span class="asset-name_c">  kiyama</span></div>

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_011.php" onclick="window.open('http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_011.php','popup','width=400,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_01-thumb-260x195.jpg" width="260" height="195" alt="kiyama063030_01.jpg" class="mt-image-none" style="" /></a></span><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_021.php" onclick="window.open('http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_021.php','popup','width=400,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_02-thumb-260x195.jpg" width="260" height="195" alt="kiyama063030_02.jpg" class="mt-image-none" style="" /></a></span><br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_03.php" onclick="window.open('http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_03.php','popup','width=400,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_03-thumb-260x195.jpg" width="260" height="195" alt="kiyama063030_03.jpg" class="mt-image-none" style="" /></a></span><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_04.php" onclick="window.open('http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_04.php','popup','width=400,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/05/09/kiyama063030_04-thumb-260x195.jpg" width="260" height="195" alt="kiyama063030_04.jpg" class="mt-image-none" style="" /></a></span><br />
<div class="sub2">—　おとぎの国に舞い込んだような街Alberobello　—</div>

<p>　「小人の世界に迷い込んでしまったよう」。まさにそんな言葉が似合う街アルベロベッロ。</p>

<p>　白い壁と石で作られたとんがりお屋根のトゥルッリは、まるで童話の世界の一場面のよう。1400ものトゥルッリにの集まったこの街を歩いていると、おばあちゃんの手作りの編み物や街独特のモチーフの織物にも出会えます。</p>

<p>　トゥルッリの構想はブロックを重ねただけの壁と、平らな石を積み上げた屋根で出来ている簡素な作り。家の面積で税金を決めていた悪政時代の時に考えられたもので、徴収人が来た時には屋根を壊して課税を逃れたとも言われているようです。</p>

<p>　3日間の滞在中2日間は雨でしたが最終日が晴天になりました。</p>

<p>　この白い家はやはり青い空が良く似合います。</p>

<p>　丘陵地に作られた町並みを丘の上から眺めた景色は最高でした。</p>

<p>　アルベロベッロへはBARI駅からSud-est線で1時間30分程。Ssd-west線の気風は11番ホームで購入します。ホームへの乗り換えがちょっと分かりにくいので注意です。</p>


<p class="quo2">＊この記事は『道明寺さくらの美しい旅』Blogからの転載です。<br>［URL］<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/haiji_153" target="_blank">http://blogs.yahoo.co.jp/haiji_153</a></p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2006/04/alberobello.html</link>
            <guid>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2006/04/alberobello.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">Travelogue</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 03 Apr 2006 11:32:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>京都トラヴェローグ：同志社</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">三村さんちの旅日記：No.10<span class="asset-name_c">三村 聡</span></div>

<div class="sub2">―　時のうつろい　―</div>
<p>　先日、同志社大学政策学部K教授の招きにより、学生相手に雑談をさせて頂く機会を得た。春の花見に続き、今年3度目の京都トラヴェローグである。講義の前にキャンパスを案内していただき、限られた時間ではあったが、本学創始者である新島襄の足跡を辿った。</p>

<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:210px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="mi10_01.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi10_01.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 新島襄</span></div><p>　彼は『同志社大学設立の旨意』のなかで<span style="color: #996633;">「回顧すればすでに二十余年前、幕政の末路、外交切迫して人心動揺するの時に際し、余不肖、海外遊学の志を抱き、脱藩して函館に赴き、遂に元治元年六月十四日の夜、竊（ひそ）かに国禁を犯し、米国商船に搭じ、水夫となりて労役に服するおよそ一年間、やうやく米国ボストン府に達したりき……」</span>と記している。安中藩（群馬県）の武家に生まれた新島は、明治維新という革命的な社会変革の只中で青春時代を過ごした。封建社会の慣習に染まりきった周囲の人たちが“社会環境が激変するなかで、世の変化に戸惑いながらも、長いものにいやおうなしに巻かれてゆく様”にたまらず、自らの眼で真実を探し求めるため「国禁」を犯し、武士を捨て、水夫をしながら1年をかけ渡米した。</p>
<p>　いつの世も、いやおう無しに時のうつろいに巻かれる民衆が多数であり、命を賭して時流に棹差す勇気ある人はごく少数である。いや、今日のわが国に、自らの真実を貫かんがため、命を賭して時流に棹差す「人物」と呼べる大人が何人いるか。「尊敬する人は」との問いかけに「政治家」、「教師」と答える青年がわが国から消えた。尊敬に値する「人物」不在が遠因し、好きでもない「父親」か「スポーツ選手」を回答することが、就職面接突破の常套句として定着した時代はいかにも哀しい。これは我われ「大人」の責任である。</p>
<div class="sub2">―　私学の志　―</div>
<p>　関西私学の雄として官営（国立）教育を嫌った彼の理想は高く<span style="color: #996633;">「吾人は教育の事業を挙げて、悉（ことごと）く皆政府の手に一任するのはなはだ得策なるを信ぜず、苟（いやしく）も国民たる者が、自家の子弟を教育するは、これ国民の義務にして、決して避くべきものにあらざるを信ず……」</span>と述べている。</p>
<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 1px; width:210px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="mi10_02.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi10_02.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 同志社学舎</span></div><p>　明治維新以降受け継がれてきた官僚政治に代表される「日本システム」崩壊への警鐘が鳴り続く状況とは申せ、新島の描いた理想像が現在の同志社に息づいているか比較考慮することが、いかにナンセンス（愚考）であるかは十分に承知しつつ、“もしかすると現代に彼の建学の志が受け継がれているかも知れぬ”との淡き期待が、ふと脳裏をかすめた。それは、古都を彩る神社仏閣にあって、西洋建築が重要文化財となった堂々たる学舎群や瀟洒なキリスト教礼拝堂を擁するキャンパスの風景に圧倒されたためである。近代建造物の代表のごとく東京都心で高層ビル化する大学キャンパス。ランドマークとしての機能は果たせても、周囲の歴史や景観と不釣合いな学び舎から建学者達の志を感じ取ることはできまい。</p>

<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:210px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="mi10_04.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi10_04.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 同志社学舎</span></div><p>　ともあれ、期待と不安が合い半ばするなか時刻となった。はじめに出席確認がなされたが20名程のクラスに欠席者はいない。まずそこに驚いた。われわれの学生時代では到底考えられないし、少子化が進むなか経営破たんする類の大学では決して見られぬ光景であろう。小生の愚話は略するとして、講義の結びに「いにしえより、京都は、政治、経済、宗教、文化、芸術、すべての中心であり、国内外から大勢の人たちが希望に胸膨らませこの地へ集った。皆さんが同志社へ集いて学ぶ志は如何に」とトラヴェローグな質問をさせていただいた。</p>
<p>　しばらく沈黙が続いたが、少しおいて、一人ひとり順番に、自らの生き方や将来についてキチンと主張してくれた。誰かさんではないが心底「感動した」。新島が「精神的自由人の集団こそが誇れる社会を形成する」と説いた「独自一己の見識を備え、仰いで天に愧（は）ぢず、俯して地に愧ぢず、自から自個の手腕を労して、自個の運命を作為するが如き人物」に足る“わが国を担うであろう若き群像”を、歴史を超えて確かにそこに見た。</p>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:280px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="mi10_05.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi10_05.jpg" width="280" height="210" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 初夏のひと夜</span></div><p>　時のうつろいを横目に「巻かれる側の一庶民」として厭世的な気分に沈みがちな小心に、すがすがしく爽やかな風が吹き抜けた。加茂川の若鮎達に「オジさんも、もうひと踏ん張り遡上してみせねば、悔い無き落ち鮎に成れぬ」と、勇気付けられた今回の京都トラヴェローグであった。</p>
<p>　K教授ご夫妻達とご一緒した宴席は、京料理の味わいに、学生達の将来話が花を添えて大いに盛上がり、格別な初夏のひと夜となった。（参考：同志社大学HP他）</p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2005/09/post-1.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">三村さんちの旅日記</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 09 Sep 2005 21:50:04 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>I hear a Rhapsody.</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">Travelogue：No.02<span class="asset-name_c">庵頓亭</span></div>

<div class="sub2">—　I hear a Rhapsody.あるいは「君はラプソディー（狂詩曲）を聴いたか？」　—</div>
<div style="float: left; margin: 5px 10px 2px 0px;"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000AB155/cafeface-22/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://images.amazon.com/images/P/B0000AB155.01._SCMZZZZZZZ_.jpg" alt="Toot Sweet" border="0"></a></div><p>　ジャズのスタンダードナンバー、それもどちらかというとスローないわゆるバラードと言ってもいいような素敵な曲に『I hear a Rhapsody』というのがあります。</p>
<p>　私はこの曲がとても気に入っていて、それも演奏者、聴く場所・状況が極めて限定されていての話です。</p>

<p>　その極め付きの演奏とはLee Konitz（As）&amp; Michel Petrucciani（P）のDuoでCDのアルバムタイトルは『Toot Sweet』。レーベルはOwl（フクロウ）です。</p>

<p>　ジャズに関してはそれほどマニアックではない為、アルト奏者としてのLee Konitzの評価・位置付けに関しての薀蓄はありませんが、Leeは私がその生演奏に接した数少ないGig Playerの一人です。</p>

<p>　2000 年の秋に5年ぶりでベルギーBrusselsに2週間程の出張に出かけた折、以前、約3年間当地に駐在していた時のひそみに倣って、早速夜の音楽イベントをあたった訳ですが、生憎クラシック関係は目ぼしいのが見当たらず、たまたまLee KonitzのJazz演奏会がなんとコンセールヴァトワールのホールで予定されているのを見つけて出かけました。</p>

<p>　Brusselsのコンセールヴァトワール（王立音楽院）ホールは駐在当時何度となく訪れて、ピアノ・室内楽・小編成オーケストラの演奏会を楽しんだ想い出深い処で、誰の演奏会だったか忘れましたが、あの燃焼度１２０％、女流天才ピアニストのマルタ・アルゲリッチが、たしか　娘さんと客席に来ているのに出くわしたこともありました（彼女は当コンセールヴァトワールの至近、Av.Louiseの裏手にあるアパルトマンに居を構えている筈です）。</p>

<p>　その夜のLee Konitzの演奏については、今ではもう正確には覚えていませんが、比較的若手のメンバーを従えて年齢の割に（たしか　もう70歳近くで爺さんと言っても良いほどだったと記憶していますが）瑞々しい音色でもって、年輪を感じさせる悠然とした風格・味を出しつつ、また一方で結構若々しい演奏をしておりとても気に入りました。</p>

<p>　ということで、早速その週末、これも以前から行きつけだったBrusselsのFNAC（日本での丸善/新宿紀伊国屋書店のような店)に出かけて、Leeのアルバムをあれこれ物色した際、偶々ぶち当たったのがこのアルバムなのです。</p>

<div class="emp2">　Michel Petruccianiについても色々有りますが（残念なことに数年前に亡くなってしまいましたが）、本題に入るまでの前置きが長すぎるようなので割愛いたします。</div>

<p>　このアルバムは1982年のParisでの録音なので、多分二人とも円熟期(中年)にさしかかった時期で、大変に味のあるDuoを展開していますが、その冒頭に入っているのがMy favoriteの「I hear a Rhapsody」です。</p>

<p>　さて、翌2001年は、あるプロジェクトの関係で一夏を南フランス、プロヴァンス地方への通り道にあたるローヌ河沿い、高速道路A７に面したValenceに滞在しました。</p>

<p>　このValenceはLyonから南に車を飛ばして約1.5時間、人口数万人の典型的なフランスの地方都市ですが、将軍に成り上がる前のナポレオンが兵卒時代に駐屯していたとかで、またグルノーブルなどの山岳地帯への分岐点でもあり、以前から交通の要衝として栄えた今でもなかなか趣きのあるこじんまりとした、なんとも捨てがたい良い街です（因みにこのValence近郊には、パリからコートダジュール方面へ向かうTGVの停車駅もあります）。</p>
<p>　ヨーロッパの夏は、経験者は良くご承知とは思いますが日差しが強いものの空気は爽やかで、また日照時間が長く北欧の白夜とはいかないまでも、ベルギー・フランス辺りでも9時過ぎまで結構明るくて、屋外に出てのオープンテラス・カフェでのんびりと食事や会話を楽しむにはまさに最高の環境を用意してくれます。</p>

<p>　ここValenceの旧市街にも、Place de L'Universite、Place des Clercsなる広場が隣合ってあり、ご多分に漏れず夏の季節になると、その広場に面したカフェ・レトランが広場一杯に所狭しと椅子やテーブルを並べて観光客のみならず地元の人たちの家族連れ・グループ・カップルなどを得意客に盛大にビジネスに励んでいます（そして、当然のことながらこれらの広場は早朝から昼頃までは、曜日別に各種の市の場としてまた違った賑わいをみせるのです）。</p>

<p>　私はこの夏の滞在の間にその広場の2、3のレストラン・カフェへ「きつけ」として何度となく夕食を楽しみに通ったのですが、そこに出かける前には必ずそこからすこし離れた市庁舎の脇に有る少しうらぶれかかったオープンカフェのテーブルに陣取って、冷え切ったBeerを1、2杯引っ掛けたものです（その行きつけのレストランのなかには、なんと Rablais（ラブレー）なんて名前の美味しい地中海料理屋もありました、、、、）。</p>

<p>　滞在していた安ホテルからは、その日のFigaro紙を携えて（すらすらと読めないにしてもザーッとした世の中の動きは何とか捉えられるので）、そして私の外出・散歩・徘徊には絶対に欠かせないCDWalkman＋数枚のCDも、、、。</p>

<p>　そしてもうお解りかとは思いますが、その数枚のCDの中には必ずLee＋MichelのDuoが入っていたわけです。</p>

<p>　偶々、2001年9月11日（私の52回目の誕生日）は丁度Brusselsに居たのですが、翌日厳戒警備のAirportを発ってLyon空港に降り立ち、そのままなんとかValenceの街にたどり着いた時は、なにかもう馴染んでしまった雰囲気にホッとした安堵感なども感じたものでした。</p>

<p>　多くの人々のその世界での在りかた、見方を根源的に変えてしまったあの瞬間（９/11）を踏まえて今にして思うのですが、そのときのValenceの街で感じた安堵感は、なにものにも替えがたい貴重なものでありました。</p>

<p>　そして、世界全体がグローバリズムとかいうひたすら効率を求め、結果として成熟して行く時間をすり減らす狂想的な動きの中で、夏から秋にかけての夕暮れ時に、フランスの地方都市でBeerのほろ酔いとともに成熟しつつある（あった）2人の大人のRhapsodyの世界に浸ったことは、本当に忘れがたい宝物の経験でした。</p>
<p>　今も、そのCDはときたま鞄にしのばせて、会社帰りの夕暮れのBack Musicとして楽しんでいます。Valenceでの一夏を懐かしむ、縁として、、、、、、、、。</p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2005/07/i-hear-a-rhapsody.html</link>
            <guid>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2005/07/i-hear-a-rhapsody.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">Travelogue</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 04 Jul 2005 11:28:33 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>若葉の頃</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">Travelogue：No.01<span class="asset-name_c">庵頓亭</span></div>

<div style="float: left; margin: 5px 10px 2px 0px;"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005S76N/cafeface-22/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://images.amazon.com/images/P/B00005S76N.09._SCMZZZZZZZ_.jpg" alt="グレイテスト・ヒッツ" border="0" /></a></div><p>　新緑のこの季節になると、『若葉の頃』The First of May（？）という懐かしのポピュラー曲が耳に蘇ります。</p>
<p>　確かビージーズというアメリカのグループが60-70年代（？）に流行らせたのではないかと記憶しています。</p>

<p>　今を去ること２０数年前（1980年ころ？）、当時東京の九段にあったTOYOTAの宣伝部在籍中、初代カムリの新発売キャンペーンを担当していました。</p>

<p>　キャンペーンキャラクターに田中邦衛さんを起用することになり、そのイメージコンセプトは当時、邦衛さんが主演をして流行っていた倉本聰氏のTVドラマ「北の国から」をベースとした人間味溢れるオヤジの「大きなカムリ」でした。</p>

<p>　そのTVコマーシャル撮影立会いの為「北の国から」の舞台である北海道の富良野に出張したのですが、空路、旭川空港（今はどうか知りませんが、当時は本当に鄙びたローカルな飛行場でした）に降り立ち、スタッフの運転するワゴン車に1時間あまり揺られて、国鉄富良野駅（何線かは知りません）の何の変哲もない駅前旅館に投宿しました。</p>

<p>　撮影は、日の出前から準備があることから、スタッフ一同と午前3時ころ宿を出発して、これまた約1時間ほど車に揺られ、山間にある湿地帯の沼のほとりのような撮影場所に到着しました。そして、朝もやが立ち込める幻想的な湿地帯を背景にして新型車カムリをバックに、邦衛さんが登場するシーンを無事撮影したわけです。</p>

<p>　私の初めてのTVコマーシャルの撮影立会いが、こうして無事に終了しましたが、TVオンエアーでのバックミュージックとしても使用された「若葉の頃」が撮影現場でもスタッフの持ち込んだラジカセのフルボリュームで流されて耳に焼き付いてしまった次第です。</p>

<p>　時は流れて1996年、欧州駐在から帰国した翌年夏、今は亡き義母ともども、家族全員でレンタカーを走らせて北海道中央部を旅しましたが、やはりJR富良野駅の駅前旅館をもう一度この眼で確かめてみたくて、わざわざ道路地図を頼りに寄り道してみたのですが、私の記憶していた何の変哲も無い駅前旅館は、なぜか一向に見当たりませんでした。</p>

<p>　そして1980年当時、撮影スタッフに頼んで何とか手に入れた「若葉の頃」のドーナッツ盤（なんと懐かしいコトバ）も、その後の引越しなどの際に何かに紛れて今はもう手許にはありません。</p>

<p>　近頃、ほんとうにやくざで頼りなさげな私の記憶も同様に、、、<br>

<p>　でも不思議なことに、この季節になると例のメロディーがふっと耳に蘇ります。</p>

<p>　なにか、知らぬ間に失ってしまい、そしてもう二度と出会うことのできない人生で一番大切なモノ、「青春の心のざわめき」の残影をほのめかすかのように、、、、。</p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2005/05/post-7.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">Travelogue</category>
            
            
            <pubDate>Thu, 12 May 2005 11:26:03 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ガラパゴス・ログ 2［ウミイグアナ 篇］</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">三村さんちの旅日記：No.09<span class="asset-name_c">三村 伊予</span></div>

<div class="emp1">私はガラパゴス諸島の生き物の中で、ウミイグアナが一番好きだ！！！</div>

<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 1px; width:270px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="ウミイグアナ" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi09_01.jpg" width="270" height="360" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ ウミイグアナ</span></div><p>　1835年ダーウィンがガラパゴス諸島に上陸した際の、『船乗りがウミイグアナを縛って海に沈め、１時間後に引き上げたらイキイキしていた』というエピソードは有名である。その航海録が元になってか、ウミイグアナの水中潜伏時間は約６０分と文献に記載されている。</p>
<p>　「リクイグアナの方がまだウミイグアナよりハンサムだよ」旅行メンバーは、私がウミイグアナ（又は彼のポストカード）を目の前にデレデレしていると、何ともいえぬ表情をしてこう言った。非常に残念であるが、やはり大衆受けはしない。確かにその外形は、爬虫類の親玉のような風格でがっしりしている。真っ黒なボディはゴジラを彷彿とさせ、四方八方に投げ出された手足は無作法に伸び、その先には水掻き・頑丈そうな爪の付いた強そうな指がにょきりと生えている。頭部は棘状やイボ状のゴツゴツした鱗に覆われ、背中には脱皮した皮の残骸が剥けずに張り付いている。尾は長く垂れ下がり、背中には強そうな棘上突起が一列に並んでいる。そして、目は爬虫類と思えないほどにつぶらで可愛いらしい（私にだけそう見えるのだろうか・・・）。</p>
<p>　この生物への愛着は、パーツパーツから始まる。パーツフェチと思われるかも知れぬが、その一つ一つから魚類、両生類、鳥類の特徴を垣間見ることが出来る気がする。そこが好きだ。例えば、口周りや爪付近の皮膚は、乾燥した魚の鱗に見える。足元は鳥の足に似ている。主食は海中の岩に生える海草で、剥ぎ取る為に歯はギザギザに尖りピラニアのように噛み合わせがよさそうだった。背中の棘上突起は鶏のトサカを連想させた。じっくり見れば見るほど、想像や発見は絶えない。</p>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:360px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="リクイグアナ" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi09_04.jpg" width="360" height="270" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ リクイグアナ</span></div><p>　そして最大の魅力は、これほど大きな爬虫類が海中に潜り、海中の海草を主食とすることだろう。リクイグアナは陸でサボテンを食べて楽をしているように思える。そのことは、保護色の違いにも反映されているようだ。体色について、リクイグアナは黄土色と赤茶褐色をしており、ウミイグアナは基本的に真っ黒である（ただ、中には赤黒いウミイグアナもいる）。</p>
<p>　自分用の土産として、ガラパゴス空港周辺の売店でイグアナのゴム人形を購入した。なかなか可愛い姿をしているなぁと思ったのだが、「気色悪いからあっちにやってよ」と、帰宅後に妹からの厳しい一言が飛んだ。予想はしていたのだが・・・</p>

<div class="quo2">［父からの宿題～ガラパゴスログを書くにあたって］<br />　当初、父の人生のトラヴェローグ仲間である中央大学O教授と同志社大学K教授の2人は、父をガラパゴスへ誘いました。そのガラパゴス行きの話を聞きつけた私は、勉強のために同行させてもらえるように父にお願いしました。私は理学部物質生物学科で生物学を学んでいる20歳の学生です。<br />
　結果、都合のつかなかった父に代り、私が参加できるようになりました。ただし、ガラパゴス行きに察して父から2つの条件が出されました。ダーウィンの『進化論～フィンチ（鳥）』に関する書物1冊を読み、それを検証してくることと、このサイトにヘタでもいいから紀行文を投稿することでした。<br />

　その約束をして2005年3月中旬、2人の先生と高校生になるO教授の姪御さん、それに私の4人で約2週間の行程で南米エクアドルにあるガラパゴス諸島を巡ってきました。そのときの思いでを何篇かに分けて投稿します。　三村 伊予</div>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2005/05/-2.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">三村さんちの旅日記</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 02 May 2005 21:57:39 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ガラパゴス・ログ 1［マングローブコロニーと環境 篇］</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">三村さんちの旅日記：No.08<span class="asset-name_c">三村 伊予</span></div>
<div style="color: #BDB76B; padding:5px 0px 7px 0px;">　　　　　シャオシャオシャオシャオシャォ・・・</div>
<div style="color: #E9967A; padding:7px 0px 7px 0px;">　　　　　　　　　　　　　　　　　ピピピ・・チチチチチッ</div>
<div style="color: #009999;padding:7px 0px 14px 0px;">　　　　　　　　　　パシャン・・ピシャッ</div>
<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 1px; width:270px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="マングローブ" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi08_01.jpg" width="270" height="360" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ マングローブのコロニー</span></div><p>　ようやく日が昇ってきた早朝に、朝食も取らず10人乗りボートで海に繰り出した。向かうは、マングローブのコロニー。入り江や小島のような地形にマングローブが密林状態で茂り、その間の海をボートですり抜けてゆく。</p>
<p>　途中、ボートはエンジンを切り、オールに切り替えた。海亀がいるのだ。ボートはうっそうと茂るマングローブを横目に、奥深くへ進んだ。時折、海亀が呼吸をしに水面までやってくる。ただ、見つけたと思ったら次は数十メートル先から顔を出す。なかなかその姿を捉えることは難しい。諦めかけたその時、ふと気が付いた。亀を探すのに夢中で、意識していなかったのか。</p>

<div style="color: #BDB76B; padding:2px 0px 2px 0px;">　　　　　　シャオシャオシャオシャオシャォ・・・</div>
<br />
<p>　蝉が絶え間なく鳴いている。それも物凄い勢いで、どの方角のマングローブ林からも聞こえてくる。きっとおびただしい数の蝉がいるのだろう。</p>

<div style="color: #E9967A;padding:2px 0px 2px 0px;">　　　　　　ピピピ・・チチチチチッ</div><br />
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:270px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="グンカンドリ" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi08_02.jpg" width="270" height="360" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ グンカンドリ</span></div><p>　そこに、遠くのマングローブ林から小鳥の囀り。あっちから、こっちからも。時折、遠方で飛び立つその姿は黒い影のように見えた。一羽、二羽・・見ると大抵は２羽飛び立つ。つがいだろうか。</p>

<div style="color: #009999;padding:2px 0px 2px 0px;">パシャン・・ピシャッ</div>
<br />
<p>　そして、聞こえてくる小魚がダイブした水音。水面に目をやると、小さな植物の種子が沢山浮いている。魚の跳ねる音に加え、マングローブがたわわに付けた実が落ちる音がする。軽やかに水に着地するのだろう、その音は雨垂れのようにさり気無い。</p>
<p>　目を閉じると、自然の音が広がる。一心に聞き入ると、体がその場所の広がりを認知してゆく。日本では感じられない圧倒的な広さだ。マングローブの林は海の入り江をぐるりと取り囲み、向こうの方までずっと続いている。海面は驚くほど穏やかで、風も凪いでいた。</p>
<p>　辺りを見回し、息を深く吸い込んだ。蝉が合唱し、鳥が囀り、魚が跳ね、種子が落下し、音に集中すればするほど不思議と静けさを感じた。体の芯が少しずつ熱くなり、心躍った。</p>
<p>　子供の頃は、心に深くあったのは田舎の田圃の情景だった。真っ青な空に大きな入道雲が沸き立ち、緑輝く稲穂が風に靡く。水路は空の雲をたたえ、時折の風が肌に心地よい。そんな田舎の光景が心に焼き付いていた。しかし、中学高校と歳を重ねるにつれ、田舎の夏に見た感動はなくなった。心の景色になってしまったのか？ そう思うと悲しかった。</p>

<p>　そこに、感覚をフルに使った新しい景色が広がった。力強い光景は、生命の生死を時の流れとして組み込むような大地。目を閉じると静謐を湛えながら心中に大きく広がる。それは帰宅した後も脈々と生き、ふと顔を覗かせる嬉しい感覚となった。</p>
<p>　そして最近気が付いたが、田舎の光景が何故変化したのか。それは、もちろん自分の成長した事に加え、環境の変化もあったのだろう。コンクリートで固められた水路に魚のめっきり減った川。田舎の家の近く社を守る鎮守の森も、昔の威厳はどこへやら、木が手入れされすぎて向こう側が見える。
</p>
<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 1px; width:360px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="アシカ" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi08_03.jpg" width="360" height="270" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ アシカと細かいプラスチックのゴミ</span></div><p>　少し飛躍気味に思えるかもしれないが、ガラパゴスも例外ではない。一部の海岸には色取り取りのプラスチックが流れ着き、白い砂浜、真っ青に透き通った海に暗い影を差す。日中に砂浜で日向ぼっこするアシカのコロニーで、夢中にカメラを向けた。帰宅後、写真を整理していて初めて気が付いた、アシカの後ろに細かいプラスチック片が散乱していた。そして、観光客を乗せた船の汚水垂れ流し。船の周りにペリカンが集まり、海に洗剤の泡が浮く。それを考えると、第二の心のオアシスとなったマングローブ林もいつか窮地に追いやられる時が来るのではないかと不安になる。
</p>
<p>　ガラパゴスは、世界遺産第１号である事や、いま世界中が環境保護という目的に一斉に着手している事から保護の運動が盛んである。ただ、本土ではネコが青足カツオドリの雛を襲ったり、観光客などが持ち込んだ外来植物が固有種を優勢に駆逐している状態だ。</p>
<p>　海はどこまでも通じていて、私達の生活環境を考えることは、回りまわってガラパゴスの環境へと繋がるのではないかと思う。</p>

<div class="quo2">［父からの宿題～ガラパゴスログを書くにあたって］<br />　当初、父の人生のトラヴェローグ仲間である中央大学O教授と同志社大学K教授の2人は、父をガラパゴスへ誘いました。そのガラパゴス行きの話を聞きつけた私は、勉強のために同行させてもらえるように父にお願いしました。私は理学部物質生物学科で生物学を学んでいる20歳の学生です。<br />
　結果、都合のつかなかった父に代り、私が参加できるようになりました。ただし、ガラパゴス行きに察して父から2つの条件が出されました。ダーウィンの『進化論～フィンチ（鳥）』に関する書物1冊を読み、それを検証してくることと、このサイトにヘタでもいいから紀行文を投稿することでした。<br />

　その約束をして2005年3月中旬、2人の先生と高校生になるO教授の姪御さん、それに私の4人で約2週間の行程で南米エクアドルにあるガラパゴス諸島を巡ってきました。そのときの思いでを何篇かに分けて投稿します。　三村 伊予</div>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2005/04/-1.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">三村さんちの旅日記</category>
            
            
            <pubDate>Wed, 27 Apr 2005 22:07:11 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>私の新たなトラヴェローグ</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">三村さんちの旅日記：No.07<span class="asset-name_c">三村 聡</span></div>

<div class="sub2">―　きっかけは桜花　―</div>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:180px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="mi07_01.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi07_01.jpg" width="180" height="240" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ トヨタ九段ビル</span></div><p>　新しい勤務地は千代田区九段の靖国神社前にあるトヨタ九段ビル。新天地に勤務してようやく1週間がたった（4月8日）。九段界隈の桜は、千鳥ケ淵、靖国神社、皇居北の丸と満開で、長引く不況もどこ吹く風、沿道は行列で押すな押すなの大盛況である。お花見の人達で職場近くの食べ物屋さんはどこも超満員、ランチにありつくまでに一苦労した。</p>

<p>　ようやく空いている蕎麦屋を見つけ、あわただしく食事を済ませて、人の波をかき分けるように職場へ戻った。事件はその時起こった。トヨタ九段ビル正面玄関の大きなガラス張りの自動扉が開いたとき、春風に舞った桜の花びらが、すっーとエントランスのなかまで運ばれ、総合受付前に立つ守衛さんの足元に落ちた。その瞬間である、突然「ハッ」と、なんとも表現しがたい不思議な感覚に包まれた。床に落ちた一枚の花びらに身体が吸い寄せられるような、それでいて妙に懐かしい感覚にうろたえた。どうしたことだ、何だ、どうしたんだ、感覚の所在を突き止めようと大脳を超えて全ての脳みそ群に問いかけ命令を発した。はたして、ようやくレスポンスがあった。ずいぶん長い間忘れていた遠い過去の記憶が蘇った。</p>

<div class="sub2">―　25年前の思い出　―</div>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:240px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="mi07_02.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi07_02.jpg" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 現在の北の丸の桜花</span></div><p>　人生の最初の転機である花の都を目指し上京したのが、1979年4月。中野区野方で1年間の浪人暮らしを経て、何とか大学へ入学。80年4月入学式、場所は日本武道館。両親も田舎から上京、とりわけ母にとっては生まれて初めての東京。はるか25年前、若かりし日に桜花の下で迎えた家族との光景が蘇る。海軍志願兵の生き残りである父や自分の父親（私の祖父）をミンダナオで亡くした母にとって、武道館へ通じる皇居北の丸の桜花や「九段の母」で詠われた靖国神社の“天を突くような大鳥居”は、息子の入学式とは別に、二人の心には特別な風景に映ったようだ。しかし、突然、いま私が包まれた不思議な感覚の源は、そのときの九段界隈を彩る桜花の思い出とは少し違う。さらに、記憶を辿った。</p>
<p>　入学式を終え、野方の下宿に引きあげた。当時の下宿は、トキワ荘よろしく、古い木造2階建てで、入り口の観音扉を開けると、下駄箱と階段があり、1階、2階とも真ん中が廊下になっていて人が歩くとギシギシと音を立てた。左右に真鍮製のドアノブが並びそれぞれの部屋が続いている。全ての部屋が、四畳半の和室に半間の押入れ、半間のキッチンという間取りである。トイレと洗面所は共用で、トイレは水洗だったが鎖を引くと頭上のタンクから水が落下する方式のもので、今は見かけることが少なくなった。水道は2、3日使わないだけで、赤い錆が出た。幸い私の部屋は2階の道路に面した角部屋で、日当たりと風通しだけは良かった。</p>

<div class="sub2">―　母の涙と桜　―</div>
<p>　入学式の人ごみと電車の乗り継ぎに疲れた両親を気遣い、下宿に着くとお茶を入れて一服した。部屋には、折りたたみ式の安物の小さなちゃぶ台と机しかない。式でもらった書類をながめているうちに、ふと気がつくと母が泣いている。東京に出した一人息子が大学に合格した安堵感も少しあったようだが、母の涙は、そのちゃぶ台で自炊して粗末な食事をしながら、一人暮らしをする私の姿を思い浮かべての涙であった。田舎者ゆえ、親戚はおろか知り合いも無い大都会で生きてゆく息子の身を案じ、門出を祝す気持ちより、心配の方が強くなって嗚咽する母を、馬鹿者と父がとがめた。父は立ち上がり、窓を開けた。めでたい門出に泣くやつがあるか、戦争に取られるわけじゃあるまいし。</p>
<p>　その時、下宿の庭先にあった桜の古木から散る花びらが風に運ばれて、畳とちゃぶ台に、はらはらと舞い落ちた。父は立ったきり、しばらく外を眺めたままだった。突然の予期せぬシーンに驚いたが、肩を丸めて俯いた母の姿に親のありがたみを感じ、私も涙が湧いてきた。そして、今日の日を大切にしようと誓った。その夜、狭い四畳半に家族3人で眠った。翌日、両親は愛媛へと帰っていった。母は新幹線ホームの別れ際まで、私の無事を気遣っていた。どちらが見送られているのか判らないありさまだった。</p>

<p>　早いもので、それから丁度、四半世紀が過ぎた。その時の桜花と母の涙が蘇った。今では、両親は東京に出てくることはおろか、大好きだった近所の道後温泉にさえ行くことが叶わぬほど老いてしまった。野方の下宿も取り壊され、桜の古木も今は跡形も無い。</p>
<div class="sub2">―　また旅を続けよう　―</div>
<p>　1959年愛媛県小松町（現在の西条市）生まれ、45歳。これまで人生に転機が3度巡ってきた。最初は、東京へ出る決断をした25年前。次は結婚と就職。そして3度目は、20年間勤務した職場に自ら別れを告げ、人生の新たなトラヴェローグを始めた今まさに2005年4月である。</p>
<p>　春風に飛ばされオフィスに舞い落ちた九段の桜が、私の新たなトラヴェローグの始まりに25年前の初心を思い起こしてくれた。桜の花びらの思い出により、自己満足に過ぎないが、これまでの足跡を振り返って、人生の棚卸しをしたい気分になった。たかが人生、されど人生、人生の折り返し地点を過ぎた自分をゆっくり振り返ってみたい。それにしても人の出会いや別れの季節に絢爛に咲き誇り、そしてたちまちにして儚く散りゆく桜花は、古より、日本人の深層にどれほど多くの思い出をつむぎ込んできたことであろうか。</p>
<p>　次女、理乃（あやの）の15歳の誕生日記念に添えて 2005年4月8日</p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2005/04/post-2.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">三村さんちの旅日記</category>
            
            
            <pubDate>Fri, 08 Apr 2005 22:14:21 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>小雪舞う京都にて</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">三村さんちの旅日記：No.06<span class="asset-name_c">三村親子の共同報告</span></div>

<div class="sub2">―　最初はグルメ（2月10日午後 晴れ）　―</div>
<p>　午後3：30、私は、娘と私の友人であるカメラメーカーK.O.氏と東京駅新幹線中央改札で待合わせた。私は途中で背広を私服に着替えたが、K.O.氏は役員会から直行のため背広にネクタイ姿のまま大きなボストンバッグを抱えての登場となった。</p>

<p>　JRびゅープラザで探しあてた「季節限定格安パック」（乗車時間帯限定のひかり号利用で宿泊費が無料）を利用し、一路京都へ。地下鉄に乗り換え、烏丸御池の「ハートンホテル京都」へチェックイン。すぐさま、徒歩にて中京区寺町通三条下ルにある、創業明治六年（1873年）、すき焼きの「三嶋亭」へ向かう。歴史と風格ある店構えに玄関で気後れする。わたしの知る限り、東は浅草「今半別館」、西は京都「三嶋亭」が、東西すき焼きの横綱か。</p>
<p>　午後7時、前日から入っていた中央大学のO教授と、地元、同志社大学のK.A.教授夫妻と合流。総勢6人で再会を祝しながら、創業130年を誇る伝統の味に舌鼓を打つ。2軒目は先斗町のおばんさいの店「たばこや」、〆はO教授の宿泊先、東区三条蹴上「ウエスティン都ホテル京都」のBar「Moonlight」。</p>
<div class="quo">＊ 三嶋亭<br />
“三嶋亭のすき焼きは、創業以来変わらぬ独特の手順で調理される。まず、炭火に近い性質の熱が得られることから、昭和初期に採用された電熱器の上で、八角形の鍋を充分に温める。次に砂糖を薄く広げ、その上に客の数だけ霜降り肉を並べて焼き、割下をかけて焼いてから肉を一枚食べる。その後は、通常のすき焼きと同じように、葱や糸こんにゃく、豆腐などの具を入れ、肉とともに焼いて食べるという具合だ。肉は、丹波・但馬地方を中心に、全国から選りすぐりの和牛肉を仕入れており、まさに最上級の牛肉を賞味することができる。電話：075-221-0003　『DigiStyle京都 三嶋亭より引用（web site）』”</div><br />　
<div class="sub2">―　大文字山登頂（2月11日午前 晴れ時々曇り）　―</div>
<p>　午前8：00、3人はホテルをチェックアウトの後、四条河原町角でK.A.教授と待合わせ。路線バスに乗り込み銀閣寺へ向かう（運賃220円）。朝が早いため、銀閣寺の門は閉ざされている。銀閣寺の裏手へ回ると大文字山“東山如意ヶ嶽”登り口があらわれる。「大文字の送り火」は、毎年、お盆の8月16日、大勢の観光客で賑わう。一般常識では、見物するものであって、登るものでは無い。そこへ登ることが、今回のトラヴェローグのテーマである。</p>
<div class="quo">＊ 大文字の送り火<br />
“8月16日午後8時から、京都盆地の周囲の山に「大」「妙法」の字や鳥居、船を形どった火が次々に点火される。精霊送りの意味を持つ盆行事の一形態で、京都三大祭（葵祭・祇園祭・時代祭）に大文字五山送り火を加え、京都四大行事と称する。東山如意ヶ嶽の「大文字」がもっともよく知られているので、送り火の代名詞になっている。<br />
所在地：京都市左京区浄土寺七廻り町1。火床数：75基。点火資材：薪600束・松葉100束・麦藁100束。大きさ：一画80m、二画160m、三画120m。点火時間：午後8時。『京都新聞 五山送り火より引用（web site）』”</div><br />

<p>　8：30、登頂開始。地元の方とおぼしき年配の一団が、全員杖を手に先を進んでいる。関東の経験でいうところの第一印象は、小仏峠側から高尾山を目指すルートの登山口に似ている。朝の冷え込みに縮んでいた身体が、10分も歩かないうちにポカポカしはじめる。「東山鳥獣保護区（京都府）」の標札があり、その先には湧き水の飲み口がある。さらに、つづら折の山道を進むと、この山が民営地であるという表示板に出会った。このビッグイベントが、代々、地域の人たちの手によって、とり行われてきたことを知る証である。</p>
<p>　30～40分は登ったか、「大」の文字がもうすぐ見えますよ、と教えられたあたりになると、周辺の木々は綺麗に伐採され、刈られた下草が、送り火に使うためであろうか、あちらこちら、何箇所にも積み重ねられている。</p>
<p>　途中で一休みし、ようやく「大」の文字の2画目の「はね」の下先にあたる地点に到着した。そこからは一直線に「大」の文字の「要」の中心地点まで急斜面の石段を登らなければならない。さすがに休み休み行かねば、一気には登りきれない。K.A.教授と娘はすいすいと先を行き、見えなくなりそう。少し遅れてK.O.氏が続く。因みに、私より10歳年上のK.A.教授は、既に日本百名山を極めた山男。一方、K.O.氏は、現在、水泳50メートル自由形、シニア50歳代クラス“日本チャンピオン”である。日頃、鍛錬の足りないわたし一人が、かなり遅れた。</p>
<p>　ようやく、汗びっしょり、膝をかばいながら展望台を兼ねる「要」の広場に到着した。そして、振り返って思わず感動の声をあげた。眼下に京都が一望できる素晴らしい眺めに出会えたのである。京都市内は勿論のこと、比叡山、鞍馬山、嵯峨野、高雄の山々。そして加茂川、桂川から名水で名高い山崎の向こうには淀川が望め、その先には大阪の高層ビルや奈良の生駒山までがはっきりと遠望できた。太古より、京都が東西南北の陸上、河川、海上を結ぶ交通の要所であり、それ故、都が築かれたことが自ら理解できた。</p>
<p>　眼を凝らすと、新幹線はもとより、JR、近鉄、阪急、京阪の各電鉄、高速道路や国道1号線が、一旦、京都の碁盤の目に入り、また出て行く様が見て取れる。多分、四方が見渡せる国土地理院の△点にあたる山頂ポイントには、古くは情報伝達用の見張り小屋、もしくは陸の灯台にあたる機能を果たす施設が置かれていたに違いない。もしかすると、「送り火」の起源は「狼煙（のろし）」ではなかったのか、と思いたくなった。「一目千両（ひとめせんりょう）」に値するビューポイントを目指すこと、これが今回のトラヴェローグの目的であり、天候に恵まれ、その思いを果たすことが出来た。</p>
<p>　K.A.教授が、神社仏閣をはじめとする名所旧跡や、市役所、美術館、大学などの公共施設、京都五山やはるかに見える山並みなどを、順を追って丁寧に説明してくれた。氏は、京都大学の出身で、新入生歓迎会で真夜中に酒を背負ってここまで連れてこられ、朝まで飲み明かしたそうである。その時の夜景の素晴らしさに心奪われ、それから、度々訪れるようになったという。大学2年生の娘が目を輝かせながら、その一節に聞き入っていた。</p>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:270px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="mi06_01.jpg" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi06_01.jpg" width="270" height="360" class="mt-image-none" style="" /></span></div><p>　また、この「要」の地点にあたる広場には「弘法大師」がまつられている。地域の皆さんが交替で周辺の清掃をされているらしく、夏休みのラジオ体操の記入用紙のように、大学ノートの横軸に日付、縦に氏名が書かれ、マス目が日付ごとに○×で埋められていた。この山への信仰の篤さをうかがい知れた。寒暖計が吊るしてあり、気温は2度をさしていた。汗がひくと急に寒さを感じてきたはずである。気がつくと小雪が舞い始めた。ペットボトルのお茶を飲み干し、「要」地点にあたる「火床」の上で記念撮影を終え、さらに山頂を目指した。20分ほどで標高約460メートルの大文字山“東山如意ヶ嶽”に到着。山頂では大きな声で詩吟の練習をしている壮年の方に出会った。ここからの眺めもなかなかのもので、琵琶湖は見えなかったものの山科側から滋賀県側の町並みがはっきりと見渡せた。そして、山頂から反対側を峰伝いに蹴上（けあげ）方面へ降りることにした。かなり距離があったが、心地よいハイキングコースになっている。</p>
<p>　時刻も10時を過ぎて日差しも照りはじめる頃となり、途中で何人ものハイカーの方とであった。すれ違う際のマナーである「こんにちは」を連呼する。いつしかここが京都であることを忘れてしまい、平素の里山歩きになっていた。ようやく南禅寺の裏山にあるレンガ水道（水路）にたどり着き、広い境内の荘厳な本堂が視界に入った途端、意識は“いつもの京都”に戻された。</p>

<p>　南禅寺から金地院を抜けて地下鉄の蹴上駅から電車で京都市役所駅まで出た（200円）。京都文化博物館に入っている“有喜心流そば打ち”で名高い「有喜屋」で昼食をとった。鴨南蕎麦を彩る“九条ネギ”の鮮やかな青緑色、にしん蕎麦に堂々と横たわる“みがき鰊”の艶、さらに関東の濃い色と違う薄透明なおつゆ、どれをとっても京ならではの上品な仕立てであり、勿論、手打ち蕎麦の喉越しを含め満足のいく味であった。いつもは注文の多い麻布の住人で自称江戸っ子のK.O.氏も絶賛だったことから高得点の店といえよう。</p>

<p>　外へ出ると小雪がかなりの勢いで舞い始めていた。ここで、K.A.教授にお礼を申し上げて別れを告げた。一方、K.O.氏も歩き疲れと寒さのため、ホテルのロビーで休息をとるとのこと。午後は娘と二人、4月予定の「第3回トラヴェローグの会」で利用させていただく、下京区富小路通仏光寺下ル筋屋町の京町屋「庵」へ、梶浦社長を訪ねることにした。</p>
<div class="quo">＊ 送り火の知識<br />
<div style="font-size: 12px; padding: 10px 0px 0px 0px; font-weight: bold; ">&#8226; 「井桁」の炎、高さ数mに</div>
井桁は樹齢40年から50年の松（松割り）を使って組み上げ、すき間には丹念に松葉を埋め込む。配分される松割りの数は火床の位置、年度によって異なる。通常は3、4束、50本前後の松割りを用いる。護摩木は点火後に投入する。井桁の高さは約1.3mで、点火後の炎は数mに達する。遅くとも点火2時間前には組み上げて、最終検査に臨む。<br />
<div style="font-size: 12px; padding: 10px 0px 0px 0px; font-weight: bold;">&#8226; 「火床」は大谷石製</div>
大の字形は火床75基で構成される。字形の中心部を特に金尾（かなわ）と呼び、4基の火床からなる。字形の頂点も字頭（じがしら）と呼ばれ、2基の火床で構成される。火床はひし形に削った大谷石で、土中に埋め込まれている。地表部分は縦90cm・横15cm・高さ20cm程度で、対にして利用する。 <br />

<div style="font-size: 12px; padding: 10px 0px 0px 0px; font-weight: bold;">&#8226; 「消し炭」は魔除け・厄除け</div>
かつては燃え切った松割りの消炭を粉末状に砕き、病封じとして服用する習慣があった。現在は家庭の魔除け・厄除けとして利用されている。銀閣寺界隈の旧家の軒先には半紙で包んだ消炭が吊されているのをよく見かける。『京都新聞 五山送り火より引用（web site）』”</div><br />

<div class="sub2">―　京町屋にて“レポートは娘に交替”（2月11日午後 曇り時々雪）　―</div>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:320px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="京町屋" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi06_03.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-none" style="" /></span></div><p>　山登りで靴に付いた泥を落とし、京町屋“庵”へ向かう道を急いだ。出迎えてくれたのは、“庵”を経営している柔和な物腰の男性（梶浦社長）で、町屋を保存する苦労話をにこやかに語ってくれた。お茶と繊細な細工がほどこされた京菓子を頂きながらの軽い談笑の後に、昔は商家であったという屋敷内を案内していただくことにした。まず、入り口に、屋根まで吹き抜けた台所があり、てっぺんの明り取りの小窓からは流れる雲が見えた。その高さとしつらえに圧倒された。また、そこからの光が、漆喰の壁と剥き出しの梁によく馴染んでいる。</p>
<p>　靴を脱ぎ、土間から部屋へあがると、力強く組まれた柱が家を支えているのが良くわかった。奥の床の間は、おだやかなオレンジ色の電灯と障子越しに入る光が自然に溶け合って和んでいる。無垢の素材に囲まれた暖かさと、緻密な日本建築が持つ計算された美しさは、その昔、商談で訪れた客を、落着いた気持ちにさせたに違いない。お庭も素朴ながら手入れが行き届いている。</p>
<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 1px; width:240px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="京町屋" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi06_02.jpg" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span></div><p>　二階は、想像以上に広い（注釈：第3回「トラヴェローグの会」を大勢で開催できる広い座敷）。寝室は漆喰仕上げの虫籠窓から差し込む光に優しく包まれ、布団は特別な羽毛が用意されている。また、トイレはウォシュレットで現代生活に対する気配りが感じられた。その奥に、雰囲気をいっそう引き立てる岩風呂がしつらえてある。キシリ、キシリと急な階段を軋ませ屋根裏にあがった。そこには、こじんまりとした空間があり、訪れた外人客が「これこそ日本の町屋のイメージにピッタリだ、ここで眠りたい」と布団をあげて就寝したこともあるという。</p>
<p>　プロの建築家やデザイナーの手により改装が加えられ、一層、空間配置や美の追求にこだわって蘇った京町屋の印象は、現代に生れ育った私にとって、完成された美術品のように感じられた。</p>
<div class="sub2">―　むすび　―</div>

<p>　梶浦社長にお礼を申し上げて、「庵」を後にした。帰りの新幹線まで少し時間がある。再び、富小路通を引き返し、錦市場でお土産を買うことに。3連休の初日とあって、午後の錦市場通りは、観光客でごった返していた。京野菜、京菓子、生麩、魚、玉子焼きから刃物や西陣織の専門店などを見て歩き、琵琶湖産の小魚の佃煮と笹に包まれた麩饅頭を買い求めた。そして、鯖寿司を探したが、今ひとつ気に入る品が無かったため、錦市場から四条通りへ出て、大丸百貨店の地下に出店している「いづう」へ行き、奮発して大1本を買い求めた。それから京都駅まで烏丸通を歩いた。東本願寺が見える頃、娘も、足が痛いね、と弱音をあげた。2万歩はゆうに越えた今回の京都トラヴェローグ、これにておしまい。</p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2005/02/post-3.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">三村さんちの旅日記</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 14 Feb 2005 22:20:18 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>週末散歩：玉川上水を歩く2</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">三村さんちの旅日記：No.05<span class="asset-name_c">三村 聡</span></div>

<div class="sub2">―　JR羽村駅～西武線玉川上水駅（05年2月某日）　―</div>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:240px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="玉川上水" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi05_01.jpg" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span></div><p>　JR羽村駅を起点に、JR拝島駅経由で玉川上水沿いを西武線玉川上水駅まで歩いた。駅にして羽村、福生、牛浜、拝島、西武砂川、西武立川、西武玉川上水までの行程である。</p>

<p>　羽村駅で下車し、少しばかりある商店街を抜けて多摩川方面へ下る。途中、奇遇にも三鷹の「禅林寺」と同名の臨済宗建長寺派で、山門に「東谷山」としるされた寺があった。三鷹「禅林寺」が太宰治の菩提寺であるのに対し、羽村「禅林寺」は『大菩薩峠』の筆者、中里介山の菩提寺であることを初めて知った。境内には蝋梅が黄色い花をつけていた。</p>
<p>　この辺りから風景は田舎ののどかな景色へと変化する。昔からの百姓屋敷が軒を連ね、どの屋敷の庭にも梅ノ木があり、白い花がほころびはじめている。ほのかな香りを楽しむうちに、玉川上水の出発点、多摩川の水を取り入れる「羽村の堰」に出る。羽村市のホームページによると、『江戸幕府が開かれたことにより、人が増え、町が広がるにつれて、湧き水や溜池、周囲の小さな河川の水では足りなくなった。当時の技術では山の手の台地に井戸を掘ることは難しく、また海に近いところでは塩分が混じってしまうため、身近なところで良質の水を確保することが難しかった。そこで、水量の豊かな多摩川から水を引くことになり、武蔵野台地に堀を掘って人工の川をつくり、江戸まで水を流したわけである。地形をよく考え、谷などを横切ることなく江戸まで水を引いて来ることのできるルートが定められた。これが玉川上水であり、工事に尽力した玉川兄弟の像が、羽村堰公園に立てられている。</p>
<p>　取水地点の羽村から四谷大木戸（現在の新宿区四谷）までの約43キロメートルは堀で、さらに先の江戸城と江戸の町へは、石や木でつくった水道管（石樋・木樋）が地面に埋められて配水され、堀の工事はおよそ8ヶ月という短期間で完成したらしい。そのために、玉川上水沿いの村々はもとより、遠く檜原村からも人が集められたといわれている。また、伝承では、途中うまく水が流れずに堀を掘り替えたり、取水地点を変えるなどの苦労があったとも伝えられている。』</p>
<p>　先日のトラヴェローグの会で、国土交通省のM氏から道普請の大変さ、とりわけ、地域住民の皆さんとの話し合いの苦労話を聞かされたばかりである。M氏いわく「何百キロの道も、途中が1メートルつながらないだけで、道としての機能を果たさないんですよ！」。たしかに、途中で水路が1箇所途切れても、水は多摩川上流域から江戸城内へ届けられないわけである。当然といえば、当然の話しながら、先月に引き続き、この玉川上水という「建造物」を旅して（歩いて）みて、氏の真意を実感した。さらに、8ヶ月という工事期間は、新宿の木戸を抜ければ、あとは、武蔵野の台地が続いて、自然の障害物以外に人的な障害物などなかった時代であったにせよ、当時の幕府の権力の強さと治水・土木技術の高さを偲ばせる。</p>
<p>　このスタート地点である「羽村の堰」を眺め、さらに「玉川兄弟像」に挨拶して、玉川上水散歩を開始した。この取水口の下手すぐに浄化施設があり、多摩川の水を綺麗にしてから放水していることがわかって感激した。さらにしばらく歩くと見事な桜並木が続き「4月の花のシーズンにまた来たいね」と家内。そして、また驚くべき風景に出くわした。コンクリートの護岸を剥がして、緑の岸辺に作り変える工事が進められていたのだ。「見ててください」と言わんばかりに、「3年後」と書かれた岸辺の緑あふれる風景を描いた看板が掲げられていた。再び、M氏の笑顔が浮かんだ。いまでもこの玉川上水には鯉が無数に放流されているのだが、見かける生物は、この鯉と鴨くらいである。生態系の頂点に立つ生物しか生息していない風景は、どこか不自然である。ともあれ、川沿いの遊歩道をどんどん下流へと歩いた。両岸の風景は、先月のコースよりさらに武蔵野の面影を色濃く残している。コナラ、ケヤキ、ニレなど、どの木も大きさが小金井から三鷹周辺までとは圧倒的に違い立派である。勿論、水の勢いも水量の違いからか比較にならない程多いように感じた。</p>
<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 1px; width:260px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="杉玉" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi05_02.jpg" width="260" height="195" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 田村酒造の杉玉</span></div><p>　30分程歩くと、立派な黒塀と昔ながらのレンガ煙突が視界に入ってきた。田村酒造「嘉泉」の堂々たる蔵屋敷である。ともかく敷地が広い。正門に回り、中に入れていただいた。改めてその素朴ななかに威厳を放つ清潔感あふれる古い建造物と、手入れの行き届いた日本庭園の美しさに心をうたれた。酒蔵の定番である「杉玉」の前で記念撮影。また、脇の門は、玉川上水とつながっており、昔はここから酒を船で運び出したに違いないと想像した。「戦前までは、福生の駅からここまで全て田村酒造の敷地であった」と聞いた記憶がよみがえった。そのときは「いくらなんでも」と思ったが、まんざらあり得ない話しではないなと素直に感じた。</p>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:180px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="玉川上水" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi05_03.jpg" width="180" height="230" class="mt-image-none" style="" /></span></div><p>　田村酒造を後に、さらに歩みを進め、五日市線、青梅線、八高線の踏切を次々渡り（正確には、玉川上水を線路が越えている）拝島駅まで到着した。一休みして、すぐに出発。さらに横田基地への引込み線、西武線の踏み切りを渡り、どんどん歩みを進めた。いっときに五つの線路を歩いて横断するのは生まれて始めての体験である。不思議なゾーンである。そうこうするうちに、川沿いに最近出来たらしい「立ち寄り湯」を発見した。これはラッキー、今回の経路にお風呂は入ってなかったので、さっそく家内と玄関口へ回ることに。「湯楽（ゆら）の里」という看板があり、かなり大きな施設である。入湯料750円を払い、さっそく中へ。露天、サウナを含む色々な種類の湯船があり、まずは満足。ただ、温泉ではなく、最近流行りの“スーパー銭湯”に分類されることが判明。湯上りのビールを頂きたい衝動に駆られるも、二人辛抱。まだ、予定のルートだと二駅ある。美酒は最後のお楽しみにして、また、玉川上水沿いを散策開始。そして、ようやく玉川上水駅に到着。さすがに疲れて足が棒状態である。そこからバスでJR立川駅へ戻り、駅ビルの上にある、新宿「隋園別館」の支店で絶品「水餃子」をお願いして生ビールで乾杯? 至高の一杯に家内もご満悦。家にたどり着くとさすがに疲れて、かろうじて娘たちに夕飯の支度をして、まもなく就寝。</p>
<p>　次回の玉川上水歩きは、西武線玉川上水駅を起点に、残されたJR武蔵小金井駅までの区間を訪ねることで、源流を羽村市に持ち、昭島市、立川市、国分寺市、小平市、小金井市、武蔵野市、三鷹市と流れる都下の全区間を踏破する予定。</p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2005/02/2.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">三村さんちの旅日記</category>
            
            
            <pubDate>Mon, 07 Feb 2005 22:27:14 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>週末散歩：玉川上水を歩く1</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">三村さんちの旅日記：No.04<span class="asset-name_c">三村 聡</span></div>

<div class="sub2">―　JR武蔵小金井駅～JR吉祥寺駅（05年1月某日）　―</div>
<p>　JR武蔵小金井駅を起点に、玉川上水沿いを小金井公園、JR三鷹駅経由で井の頭公園、JR吉祥寺駅まで歩いた。中央線の駅にして武蔵小金井、東小金井、武蔵境、三鷹、吉祥寺までの行程である。</p>

<p>　小金井公園の園内は広く、三井八郎右衛門邸、高橋是清邸をはじめ万世橋交番など昔の建造物が移築された「江戸東京たてもの園」などのスポットも整備されている。玉川上水は、中央線の北側、小金井公園に沿って五日市街道と共に途中まで東に流れ、川沿いには歩道が整備され、JR三鷹駅の真下で中央線と交差している。小金井から三鷹まで、約1時間の道程である。三鷹といえば、太宰治（1909～1948）が山崎富栄と玉川上水に入水心中して果てたのが、昭和23年6月13日。毎年6月19日に太宰を偲ぶ会が、駅近くにある「禅林寺」で、死の直前の名作「桜桃」にちなんで「桜桃忌」として開かれている。</p>
<p>　今回は「禅林寺」を訪れる代わりに、駅前にある、即席麺の研究者なら必ず立ち寄ると言われるラーメンの名店「江口」へ立ち寄り昼食をとった（笑）。家内も私も「大盛りチャーシュー」をお願いした。そば粉を混ぜたと思われるような独特の黒っぽい地粉麺が特徴であるが、注文すると、店主の神業により、なんせ、あっという間に出てくる。丁度、お昼時で列が出来たため、われわれも店主に負けない早業で一気に腹におさめて店を出た。「おいしかったね」と言いながら汗をかいた私に家内がハンドタオルをくれた。「太宰も、彼自身か山崎富栄が麺フリークで、二人で入水前に蕎麦屋の暖簾をくぐっていれば、思い留まったかなあ？」と言うと、「あなたは、ラーメンの食べすぎで、体重を苦に入水しないように」と笑顔が返ってきた。</p>
<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 1px; width:360px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="山本有三記念館" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi04_01.jpg" width="360" height="270" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 山本有三記念館を背景に</span></div><p>　館内の一室そのあと、玉川上水に歩みを戻し、「路傍の石」「米・百俵」などの小説や戯曲で知られる作家山本有三（1887～1974）の記念館に立ち寄り、館内とお庭を拝観した（<a href="http://mitaka.jpn.org/yuzo/institution.shtml" target="_blank">三鷹市山本有三記念館</a> 入場無料）。中学の音楽教師である家内は、「心に太陽を持て」の著作をはじめ文庫活動や教育相談に尽力した功績に、私は国会議員として日本国憲法の口語化運動を展開した彼の活動に興味を惹かれた。また、この辺りは田園調布や成城学園に並び称される高級住宅街であり、家構えや庭の植栽を品評しながら散歩した。井の頭公園に到着したところで、今回の玉川上水散歩を終了とした。</p>
<p>　久しぶりに井の頭公園の池を一周したが、あいかわらず、池の周りは、大道芸や楽器の演奏、絵や工芸品など自作のアートグッズを販売する人などで賑わっていた。大勢の人垣が出来ていた玉乗りをする芸人を遠くから観劇？ した。歳は私と同じ四十半ばか少し上であろう。巧妙な語り口調に周囲は爆笑していたが、この人、昔はサラリーマンをしていたのだろうか、何のきっかけでこの途に入ったのだろうか、と余計な詮索をしはじめると少し悲しい気持ちになり、途中で立ち去った。</p>
<p>　旅の締めに、反省会と称して、焼き鳥の老舗「伊勢屋」で定番の焼き鳥盛合わせと煮込みを頼んだ。「ここで刺身類を注文する人は素人である」と、かつて社の先輩で、現在出版社社長のT氏から教わったことを思い出した。風通しの良い開けっぴろげの広い店内は、日が落ちて寒くなり客は閑散としていた。歩き続けて身体が上気していたせいもあり、最初は家内が生ビール、私は酎ハイでスタートしたが、落着くと寒くなり熱燗に切り替えた。暮れに日本酒の専門家I氏から教わった日本酒の「アル添（醸造用アルコールとはラム酒である…云々）」に関する講釈を家内にウケ売った。なるほど、当店の熱燗は正真正銘「アルコール添加」の代表選手で、舌が“ぴりっ”と少しシビレ、逆に、後に甘ったるい雑味が残る。焼き鳥も少し冷めると硬くて噛めない、砂肝とかしらが石と化した。それでも我々にはご機嫌な一日であった。</p>]]></description>
            <link>http://www.cafe-nous.com/past_archives/2005/02/1.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">三村さんちの旅日記</category>
            
            
            <pubDate>Sun, 06 Feb 2005 22:34:10 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>冬の秋田、乳頭温泉郷を一人旅する</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">三村さんちの旅日記：No.03<span class="asset-name_c">三村 聡</span></div>

<p>　列車は雫石を過ぎて岩手県と秋田県の県境にさしかかった。線路脇の積雪はみるみる高くなり、トンネルを重ねるごとに、車窓からの冬の眺めは深さをます。いつしか冬木立は樹氷に変わり、己が梢にまとった雪玉の重さに耐えている。谷底を流れる水面は凍てついた鈍い紺色だ。こうした自然の厳しさは、平素、都市生活に慣れきった人種には恐怖にさえ映る。「すごい…」と呟きながら、ごくりと生唾を飲み込んだ。ゆるやかなカーブが続く。新幹線「こまち」も田沢湖線では窮屈そうだ。厳しい自然の造形と英知の産物が不釣合いな感じがする。この冬景色には、断然、白い煙を吐きながら音を立てて進む、蒸気機関車の方が似合う。そんな勝手な思いをめぐらせているうちに列車は田沢湖駅に到着した。</p>

<div class="sub2">―　田沢湖駅到着　―</div>
<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 1px; width:240px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="険しい雪道" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi03_01.jpg" width="240" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 険しい雪道</span></div><p>　天気は快晴。風力は3くらい。晴れた日は暖かいと思うのは素人、キーンと澄み渡った日は、逆に気温が低いままだという。さすがに四国生まれのわたしには、この寒さは堪える。ホームから改札に向かう間に震えがきた。駅構内にある、レンタカー受付で手続きを済ませた。目指す、乳頭温泉郷までの道の按配と雪道運転の諸注意を訪ねる。「スピードを出し過ぎなければ大丈夫。お気をつけて」の声に「はい」と大きく返事をした。緊張している。地図に従い、県道を北上する。のろのろ運転のわたしを、地元ナンバーの車が雪煙をあげて、どんどん追い越してゆく。途中、乳頭温泉郷の標識を右折、まっすぐな長い上り坂が続く。両サイドはガードレールより雪が高く積もっている。山道をしばらく走ると眼下に田沢湖が一望できるポイントがあり、ホット一息。さらに近代的なホテル群を過ぎたあたりから、もう一段、カーブが急になり、雪道も険しくなる。そして運転すること数十分、ついに行き止まり、乳頭温泉郷「蟹場温泉」に到着である。温泉名を記した大きな提灯が目を引いた。さっそく玄関をくぐる。</p>
<div class="sub2">―　蟹場温泉　―</div>
<p>　「蟹場温泉」は、露天と内湯の場所が離れている。まず、本館で受付を済ませて奥へ進み、露天への扉を開けて外に出る。足元に注意しながら、川のほうへ雪の通路を20メートルほど進むと眼下に露天が見えてくる。湯船には既に数名の先客がいた。常連らしき老人が、近辺の温泉場の効能について東北なまりで講釈をしている。聞き手の若い旅人は、興味深そうに受け答えしている。わたしも会話に交じる。そうこうするうちに、中年女性の3人組がやってきて、やがて皆一緒に打ち解けてゆく。一面、雪に覆われた深山。人がこれ以上先に踏み入らない秘境に湧く温泉は、訪れる老若男女すべての者を自然の姿に回帰させてしまう、そんな不思議な力を持っている。こうした心の安息は、高層建築の近代的な温泉ホテルでは、なかなか味わえまい。</p>
<p>　本館へ戻り、受付の反対側にある渡り廊下をしばらく下ると内湯がある。秋田杉と思われる浴槽に湯の花が一杯に咲いている。露天より熱めのお湯、湯船は湯気でかすみ、ぼんやりしている。男湯は他に客が無く、貸切り。窓を開けて雪景色を眺めたり、当館の由来となる、蟹の甲羅の格好をした石をさすってみたり、穏やかな湯浴みを堪能できた。</p>
<div class="sub2">―　大釜温泉　―</div>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:320px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="温泉" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi03_02.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ ベストショット！？</span></div><p>　次に、少し戻った地点にある「大釜温泉」を訪ねる。ここも「蟹場温泉」に引けをとらない、素朴な造りの見事な内湯があり、その湯量の豊富さは、かけ流しのお手本のような温泉である。外扉を開けると露天風呂へ出られ、そこには大小二つの露天がきってある。幸運なことに、ここも貸切りである。これを良いことに、いったん脱衣所へ戻り、デジタルカメラをとり、セルフタイマーを用いて記念撮影を行った。雪が積もる露天ではカメラをセットする場所と位置に難儀し、露天風呂の庭先と湯船を何度も行き来するうちに、危うく風邪をひきそうになった。猿に見られたら大笑いされそうな所作であろうが、ともあれ、ベストショット？ に成功した。女将さんに「お湯への感謝」を込めて挨拶をし「大釜温泉」を後にした。そして、さらに数十メートル戻った所にある「妙の湯（みょうのゆ）温泉」へ立ち寄った。</p>
<div class="sub2">―　妙の湯温泉　―</div>

<p>　「妙の湯温泉」、ここは前の2軒とは全く趣が異なる宿である。まず、玄関を入ると日本昔話に出てくるような藁で作られた民芸調の蓑と長靴が目を引いた。さらに、カップルがやたら目に付く。そのわけはすぐに頷けた。見事に活けられた生花や山野草、落着いた風合いの調度品、淡く優しい感じの照明、お香の上品な芳香。一瞬、湯布院温泉か黒川温泉と錯覚するような計算しつくされた演出に、正直、驚かされた。あまり懲りすぎた演出にはマイナス点を付けたくなる偏屈な性分だが、なんせ、お湯がすばらしい。お湯は金湯（赤）、銀湯（透明）の2種、男女それぞれ内湯・露天風呂がある。</p>

<p>　まず、薄暗い内湯に身体を沈めると、奥のへりに枕木がしつらえてあり、頭を横たえてリラックスできるようになっている。BGMに癒し系の旋律が流れ、湯気の向こうは格子窓の越しに何本ものツララが日光に反射して幻想的な雰囲気を醸し、静かな時間を過ごせるように気配りされている。一方の混浴の露天風呂は、雪に埋まった川原へ下り落ちる水の流れに面して広い湯船がせり出した作りで、雪の白と金湯の赤とのコントラストが「お見事」の一語に尽きる。また、屋根付きの銀湯にはランプが燈り、ここからの角度も眺め良しである。これで入湯料700円は、文句無い。「家内を連れてこよう」と心に決めて「妙の湯温泉」を後にした。</p>
<div class="sub2">―　鶴の湯温泉　―</div>
<p>　来た道を途中まで1キロほど引き返した地点に、「鶴の湯温泉」への入り口となる分岐点がある。ここからの道は「鶴の湯温泉」専用で、道端の雪はさらに険しく、何度もカーブで車がスリップした。車同士がすれ違うのにかなり神経を使う。走ること数十分、ついに箱根の関所のような黒塗りの大きな門が見えてきた。車を駐車位置に止め、ワイパーがフロントガラスに凍りつかないよう折り曲げた。「鶴の湯」と大きく書かれた正面の門から本館までは、左右両側に武家屋敷のような造りの長屋が続く。建物は全て黒一色で統一されており、雪景色に、堂々たるたたずまいをみせている。時おり、屋根の雪が大きな音をたてて落下する。軒下には、縄でつるした、かき餅、たかのツメ、干し柿が横一列に整然と並んでいる。本館へのあがり口には作りつけの水槽があり、中で缶ビールや瓶ジュースの類が冷えている、というより凍っている。</p>
<p>　本館で立ち寄り湯である旨を告げ、入湯料400円を支払った。受付には湯治客用の雑貨品や土産物の類が、あまり商売っけ無く、適当に置かれている。また、食事を希望する客には、ここで申し込めば、前面の棟が食堂になっていて運んでくれる。この時点で、温泉のハシゴの自己記録を既に塗り替えていたが、同時に、なにより腹ペコであった。風呂にするか食事にするか迷った。そして、やはり「鶴の湯」めぐりを先にした。</p>
<p>　本館を出て、さらにその先の橋を渡った棟が内湯であると教わった。入り口に白湯、黒湯と書かれている。木戸を開け、白湯から頂く。木で作られた湯口から湯船に乳白色のお湯がそそがれている。ここの湯船、浴槽もたぶん秋田杉であろうか、渋い木枠で囲われており素朴な風情を醸しだしている。お湯も肌に優しい、柔らかな感触。湯口にコップがあったので試しに飲泉した。温泉、特有の香りと味がした。胃腸に効き目がありそうな気もするが、多く飲めるものではない。黒湯は、白湯に比べ温度が低く、湯船も小さい。お湯は白湯に比べると心持ち少し濃いが、決して黒色をしているわけではない。</p>
<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 1px; width:360px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="鶴の湯露天風呂" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi03_03.jpg" width="360" height="270" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 鶴の湯露天風呂</span></div><p>　さて、内湯を済ませ、今回の旅のお楽しみ、メインディシュ？ である、現在JR東日本のポスターになっている「鶴の湯」露天風呂を探す。目当ての露天風呂は、いまや秘湯ブームの中心的な存在となっていると聞いている。「あった」。内湯の建物の隣に申し訳程度の塀で隠れていた。脱衣所も申し訳程度のさりげない作りである。さっそく、ポスターと同じアングルからシャッターを数枚きった。乳白色のお湯をなみなみと湛える露天の全景が、内湯の建屋や借景となる裏の雪山と自然にひとつにとけている様に、湯治場の風情と歴史を感じた。確かに、お湯の質（肌触り）、量（かけ流し）、色（乳白色）、香り（温泉臭）、造作（素朴さ、広さ）、景観（周囲の自然との一体感）、入湯料（リーズナブル感）、たどり着くまでの大変さ（秘湯感）、どれをとっても文句の付けようの無い1級品、ピカイチの温泉であった。</p>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:240px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="山の定食" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi03_04.jpg" width="240" height="180" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 山の定食</span></div><p>　また、風呂上りに注文した、山の定食、1,700円も絶品だった。秋田名物「だまこ汁」と岩魚の塩焼きをメインに、わらびのおひたし、青菜と油揚げの炒め、うどと椎茸のあえもの、いぶりガッコ、それに丼飯である。食堂には薪ストーブが置かれ、立ち寄り湯のお客にも親切な配慮がなされていた。</p>

<p>　最後に、老婆心ながら申し上げれば、あとは、宿泊した際の料金を含むサービスである。想像以上に、裏手に立ち並ぶ宿泊棟が目に付いた。わたしは、400円の立ち寄り湯であるため語る資格は無いが、湯治場の宿泊棟というより高級バンガロー（失言ならお許しください）に見えたのは気のせいか？ ぜひ、最近、実際に宿泊された方のお話や感想をお伺いしたい。新潟の美味い日本酒が、有名になったとたんに味が落ちたという。乳頭温泉郷は、決して、そうはならないようにと願いつつ、一人旅の筆を擱きたい。お粗末。</p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">三村さんちの旅日記</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 01 Feb 2005 22:39:48 +0900</pubDate>
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            <title>熊本の八代、鹿児島への旅</title>
            <description><![CDATA[<div class="asset-name_b">三村さんちの旅日記：No.02<span class="asset-name_c">三村 聡</span></div>

<p>　先週末、会社の女性二人と三人で熊本の八代から鹿児島まで旅をしました。当会を定年退職され田舎へ帰られた女性（八代）と男性（鹿児島）のご自宅を訪ねました。夕方の便で羽田をたち、夜、八代に入り彼女の親戚の方が経営する割烹で地魚と球磨焼酎をいただきました。宿泊も球磨川沿いにある彼女のお宅へお邪魔し、深夜まで昔話に花をさかせました。</p>

<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:320px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="八代城跡" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi02_01.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 八代城跡</span></div><p>　翌日、美女三人？ が朝食を作る音で目覚めました。もちろん、初めての経験です。わざわざ、熊本市内の有名なパン屋さんまで行って買い求めてきていただいた食パンに、地元特産のトマトサラダ、玉子焼き、キャベツと豚肉のベーコン風、自家製漬物などなど、コーヒーを３杯もおかわりしました。10時過ぎに家を出て、球磨川沿いから商店街をぬけて八代城まで散歩いたしました。商店街はたぶんにもれずロードサイド化の波を受け寂れていましたが、途中の魚屋さんや八百屋さんで気軽に立ち止まり声を掛け合える雰囲気の良さが心に残りました。お城跡も熊本城には及びませんが、きれいな石組みが残っており、本丸跡は官幣中社として神社になっており、昔からの隆盛振りをうかがうことができました。</p>
<div style="float: left; margin: 8px 15px 5px 0px; padding: 1px; width:320px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="球磨川の河口" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi02_02.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 球磨川の河口</span></div><p>　八代市街は球磨川の河口に近く、遠景に天草がきれいに望めました。観光地ではないため、地元の方が散歩やジョギングをする姿が目に付きました。人専用の橋があり、「橋から釣りをするべからず」と標札が出てましたが、橋から川面までずいぶん高さがあり、とても釣りができる雰囲気ではありませんでした。おしゃべりをしながら12時過ぎにご自宅へ戻り、お昼はうどんを頂きました。一玉30円のうどんだそうで、山芋をスリおろしたものと海苔を入れた、四国出身の私にとっては初体験の味でした。不覚にも私だけ昨晩の焼酎が残っており、1時間ほど昼寝をしてしまいました。</p>
<p>　3時前に新八代駅から新幹線に乗り鹿児島中央駅へ向かいました。トンネルの多さが少し残念でしたが車両は2席・2席でゆったりしており快適でした。車掌さんが何回も何回も「御用は、御用は」と連呼しながら行ったり来たりするのがおかしくて皆で笑いました。鹿児島中央駅に到着して、駅の立派さに驚きました。市内観光はせず、トラ研の皆様は既にご承知のことと存じますが、タクシーで城山観光ホテルというナイスホテルにチェックインして、桜島を望める展望温泉露天風呂に茹だるほど長湯をしました。</p>
<div style="float: right; margin: 8px 0px 5px 10px; padding: 1px; width:320px; background-color:#333333;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="桜島" src="http://www.cafe-nous.com/past_archives/2008/04/27/mi02_03.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-none" style="" /></span><br /><span class="cap2">▲ 桜島</span></div><p>　ホテルでのんびり過ごし、6：30に天文館の三越で市内在住の男性（元上司）と待ち合わせ、徒歩でご自宅に押しかけました。港に隣接する高層マンションの9Fで、窓の外が丸ごと錦江湾と桜島というロケーションに感激しました。奥様が手料理で持てなしてくれたのですが、「これが一番うまいから」と勧められたのが、野沢菜でした。というのも奥様は長野は諏訪のご出身だそうで、「老後に薩摩まで来るとは思わなかった」と、何回もぼやかれました。近所に誰も友人がいないのが辛いそうです。八代の彼女はいろいろあって、悠々自適の一人暮らし。鹿児島の元上司